シー・ラヴズ・ユー   作:ずゆ

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第一章

 その年の十月から翌年の初めにかけて、私はシャーレから二駅離れた立地の良いマンションの一室に住んでいた。駅からの途中に総菜が充実したスーパーがあり、朝になると電線にとまったスズメの鳴き声が聴こえてきた。私がそこに住んでいたほとんどの期間が冬だったということもあるだろうが、備え付けの床暖房があるというのが一番の魅力だった。

 どうして私がそこに引っ越したのか、つまりシャーレの居住区というこの上なく便利な場所からそこに移らなければいけない理由があったかと言うと、そこには連邦生徒会に寄せられた数多くの苦情があった。連邦生徒会宛てに、先生(つまり私)が(居住区とはいえ)仕事場に泊まりきりになっている待遇への不満について書かれたものが数多く届き、そこには各学園の主要人物の名前もあったことで無視できなくなった、ということらしい。

 そういう訳で私はあの瀟洒なタワーマンションの二階に引っ越すことになった。私としてはそれなりの生活が出来ればどこでも良かったし、気分転換に引っ越してみるのも悪くないかなと思っていたから流れに身を任せることにした。お陰でほとんど労することなく引っ越しは完了し、家賃も全て連邦生徒会が出してくれることになった。ありがたいことだ、と私は思った。

 

 その家に移り住んですぐの、十月の半ばに、私はかつての生徒だった早瀬ユウカから久し振りのコンタクトを受けた。相談したいことがあるから時間があるときに会って話がしたい、というのが彼女から送られてきたメッセージを要約したことだ。一体何の相談をするのかも聞いていなかったけれど、とりあえず次の週の日曜日に喫茶店で会う約束を取り付けてモモトークを閉じた。そうして私達は二年振りに会うことになった。

 

 彼女と最後に話したのは、ミレニアムの卒業旅行に着いていった日の夜だった。夕食を終えた後で、私は彼女に呼び出されて海沿いの道を歩いていた。黒い夜空に魔法みたいな星が瞬いている、綺麗な空だった。

 そのとき彼女は十八歳になっていて、書面上はミレニアムの学生ではなくなっていた。

これは私の想像ではあるのだけど、彼女はきっと告白するつもりで私を呼びだしたのだと思う。誰もいないその道は告白するにはもってこいの場所だった。ロマンチックだし、聞き耳を立てられる心配もない。でも結局の所、その日彼女から告白されることはなかった。

 

 七年という歳月が経った今からでも、私はそのときのことをはっきりと思い出すことができる。水面に反射した月光が揺らめきながら長く伸びていて、波が寄り返す音がやけに立体的に聴こえた。彼女は俯き気味に私の隣を歩いていて、その表情は暗がりではよく見えなかった。

 

 歩いている間、私達はほとんど何も話さなかった。歩調を揃えながらゆっくりと宛てもなく歩いて、行きついた先にあったベンチに腰掛けた。

 

「先生は、これからも先生を続けるんですよね」とユウカが言った。

「うん」

 彼女はベンチの真正面を見て話していた。流し目に見たときに映った、アメシストみたいな澄んだ目が印象的だった。

「私は先生の生徒じゃなくなってしまいますか?」

「そんなことはないよ、いつまでも大切な生徒だ」

 そう答える傍らで、私は彼女のことをどう思っているのだろう、と考えていた。言ったことに嘘も偽りもないが、それが全てでないことも確かだった。もっと何か言うべきことがあるのに、丁度いい言葉を見つけられなかった。

「困ったら相談しに行ってもいいですか?」

「勿論」

「私がいなくなったからって、浪費しちゃ駄目ですよ?」

「なるべく気を付けるよ」と私は少し冗談っぽく言った。

 

「実は、少し怖いんです」

 彼女が再び口を開くまでに、私達の間には十分くらいの沈黙があった。多分十分くらいだと思う。時計を見ていた訳ではないから、それが本当に十分だったのかは分からない。本当はもっと短かったのかもしれないけれど、私にはそれくらいに感じられた。

「怖い?」

「はい。今までは先生に守られている気がしていて」

「それがなくなるから?」

「はい」

 私はやはり丁度いい言葉を見つけることは出来なかった。一応生徒としての定義を外れてしまうから庇護下に置けなくなる、というのは本当のことであって、それを否定することは出来なかった。

「困ったら、いつでも頼ってくれていんだよ」

「……ありがとうございます」

 

 しかし彼女の卒業で心に穴が空いたのは私の方だった。あるいは彼女にも穴が空いたのかもしれないから、私もと言うべきかもしれない。いずれにせよ彼女が遠ざかってしまった日々は私に微妙な居心地の悪さを抱かせたし、見える景色は失恋したときのように殺風景になってしまった。

 思うに人が恋をしていることに気が付くのにはそれなりのきっかけが必要であって、私にとってはその穴こそがそれだったのだ。私は彼女の声を思い出そうとした。凛としていて優しさを孕んだあの声を脳内で鮮明にイメージしようとした。しかし上手く再現することは出来なかった。

 勿論彼女と連絡を取る手段が絶たれた訳ではない。遠い所へ行ってしまった訳でもなければ、縁が切れてしまった訳でもない。電話を掛ければすぐにでも声を聞けたはずだ。

 しかしそれは出来なかった。そこには彼女と同じ日に卒業して、同じだけの穴を私に残していった、生塩ノアという女性が関係してくる。ユウカと私だけ、あるいはノアと私だけであればどれだけ簡単な話だっただろう、と思う。しかし残念ながら私は二人の女性に同時に恋をして、同時に失恋に気付き、そしてその二年後のほとんど同時期に再会することになった。それはある種運命的なものであり、どのような道を辿っても避けられない出来事だったように思えた。

 

 これは好意を伝えてそれに応えるという一連の動作を踏めなかった私達が、二年という年月をかけてそれをやり直そうとした物語と言えた。しかし全ては上手くいかない。生と死が共存しないように、私はどちらかを選び、そしてどちらかを失わなければいけなかった。

 私はこの話をしばしば日記に書きつける。こうして定期的に覚えていることを確認しなければ、記憶はヘリウムの入った風船みたいに、あるいは砂浜に書いた文字みたいに、どこかへ消えてしまうような気がしてならない。そして忘れるというのは私にとって限りない喪失であり、許されないことだった。

 

「覚えていて下さい、私のこと」

 そう言った彼女の悲しげな表情を思い返すたび、私はひどく胸が締め付けられる。

 なぜなら彼女はもう、私のことすらも覚えていないからだ。

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