シー・ラヴズ・ユー   作:ずゆ

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第二章

 喫茶店の中には仄かにコーヒーの匂いが漂っていて、ジャズテイストにアレンジされたシー・ラヴズ・ユーがかかっていた。それなりに長くやっている個人営業の店で、シラトリ区近郊に住む学生はよく利用しているのを知っていたけど、実際に来たのは初めてだった。予想通りユウカはまだ来ていないようで、私はホットコーヒーを一つ注文して二人客用のテーブルに案内して貰った。

 彼女はいつも約束の十分前までには待ち合わせ場所にいる性格だったから、それを見越してさらに二十分早く来たのは正解だったな、と私は思った。二年振りに会うだけでも緊張しているから、せめて早めに着いて場所に慣れておこうと思ったのだ。お陰で朝食をとり逃してしまったけれど、そんなことは些細な問題だと言えた。

 店内の壁と床は暗い色調の木目で統一されていて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ウエイトレスも落ち着き払っていて、昼前ということもあって客は少ない。

 メニュー表を捲っていると、美味しそうなモーニングの写真が目についた。お腹が減っているせいで頼みたくなったが、待ち合わせ場所で先に来て朝食を取っているというのはなんだか変な感じがしたからやめた。代わりにコーヒーのおかわりを頼んで彼女を待っていた。

 

 私が店に入った二十分くらい後で、ドアベルを優しく鳴らしながら彼女が店内に入ってきた。

 私が視線をやりながら軽く手を挙げると、彼女は気づいて向かってきて、真正面の椅子に腰を下ろした。

「お待たせしました、待ちましたか?」

「数分前に着いたんだ、コーヒーも冷めてないよ」

 久々に会った彼女の印象は、がらりとは言わずともそれなりに変わっていた。あまり見ない私服姿だったせいもあるだろうが、二年という月日の間に大人びて、そして女性的な魅力が増したように見えた。聡明さや溌剌さは損なわれないまま、あの頃感じていたあどけなさはどこかへ消えてしまったようだった。嬉しさと悲しさが同居した複雑でノスタルジックな気分にさせられる。卒業した生徒に久々に会うと毎回思うことだ。

 私はそのことを彼女に何らかの言葉で伝えようとしたが、彼女の魅力を表す言葉が見つからなくて言い淀んでいる内に、彼女が話し始めてしまった。

「最近はいかがですか、ちゃんと無駄遣いしていませんよね?」

「勿論」

 実を言えば無駄遣いにあたるものがないでもない気がしたけれど、黙っておくことにした。長い説教が始まってしまいそうだし、それは彼女の相談の妨げになってしまう気がした。

「ユウカの方はどう? 大学は順調?」

「ええ、まあ」

 私の答えとは対照的に、彼女はどこか煮え切らない言い方をした。

「何か心配事でも?」私は一度コーヒーを飲んでから聞いた。

「それが相談したいことの一つなんです。大学自体は順調なんですが、その先自分がどうしたいのか悩んでいて」

「なるほど」と私は頷いた。

 そういう相談を受けたことはこれまでにも何度かあったけれど、上手く返せたと思ったことは一度もなかった。色々と考えることはあるけれど、私の意見をまとめると、結局は自分で選ぶしかない、ということだった。進んでみた先に何があるかなんて、分かれ道の前から見えるものではない。でもそれを単刀直入に言うのは突き放しているような気がするから、まずはもう少し彼女の置かれている状況を聞くことにした。

「会計士になりたくて今の大学に入ったんです。でも、他に興味があることがあって、ずっと悩んでいて……」

 彼女はマグカップの中を覗き込みながら言い淀んだ。

「他のこと?」

「はい。教職にも興味があって、必要な講義は全部履修しているんですが、そろそろどちらかに絞らないといけなくて」

「教職」と私は繰り返した。

「誰かに何かを教えるのも、素敵に思えて」

「なるほど」

 彼女が教師になっている姿はすんなりとイメージ出来た。大概のことをそつなくこなせる器用さを持ち合わせているというのもあるだろうが、向いていると思う。

「そんなことは分かりきっているとおもうけど」と私は言った。「ユウカが選びたい方を選ぶべきだと思う。どっちも素敵だと思うよ」

「先生はどうして先生になったんですか?」

 彼女に言われて、私は自分がキヴォトスに来たときのことを思い返した。どうしてと言われても、何かきっかけがあった訳ではないから、答えには少し困ってしまった。

「どうしてって……成り行きだったね」

「そう、ですか」

「あんまり参考にならなくてごめんね」

「いえ」

 

 久し振りの再開だというのに堅苦しい空気になってしまったから、私は最近引っ越した話をした。まだダンボールがいくつか残っているけれど、中々住み心地は良いのだと彼女に言った。

「へえ、ちゃんと掃除はしてるんですか?」

「ゴミが溜まる程住んでないよ、まだ」

「そんなこと言ってるうちに溜まるんですよ。はあ、ちゃんと整理整頓はして下さいね」

 彼女に小言を挟まれると、懐かしい気分になった。二年という時間の間でかさぶたになりかけていた恋が、少しずつその傷跡を広げていく痛みがあった。

「良ければ少し歩きませんか?」

「今日は一日暇だから、どこへでも」

 マグカップは二つとも空になっていて、これから混む時間帯の喫茶店にそんなに長居するのも良くないから、私たちは店を後にして宛てもなく歩き始めた。

 

「そういえば、進路は相談したいことの一つと言っていたよね」

「はい。もう一つあるんです」

「それは今聞いても?」

 私たちは駅前の通りから外れた、閑静な場所まで歩いてきていた。表通りには何らかの事務所のような建物が並んでいるが、私達が歩いていたのは住宅街と表現するのが適切な入り組んだ十字路だった。

「ノアのことです。一年くらい、会ってないんですが」

「ノア?」

 その名前が出てくるとは思っていなかったから、私は少しどぎまぎとした。彼女の名前を聞くと、私はもう一つのかさぶたについて考えを巡らせずにはいられなかった。彼女のあの嫋やかで儚げな雰囲気は、まるで目の前にいるかのようにありありと思い出すことが出来る。

「一ヶ月くらい前に、久し振りに会おうと思って連絡を取ったんです。でも既読すら付かなくて」

「変だね」

「会いに行こうとしてみたら、ノア、大学を中退していたんです」

 聞いてかなり驚いた。彼女には確かに突拍子もないことをする傾向はあったけれど、何の前触れもなく、少なくとも親友に一報も入れずに消えてしまうような人ではなかった。

「私の方でも連絡を入れてみるよ。返ってこないようであれば、個人的に調べてもみる」

「ありがとうございます」

 家に帰ったら彼女に連絡を送ろう、と心に決めた。しかし何となく連絡は返ってこないような気がしたし、後になって分かることだけど、結果的にそれは的中したことになる。

「少し歩き過ぎましたね。駅の方に戻りましょうか」

「うん」

 私達はぐるりと逆向きに歩き始めた。昼前になってお腹は空いているはずだったけれど、私の頭はノアのことで一杯だった。一体彼女に何があって、今どこにいるのだろう。出来ることならシャーレの権限を使ってでも今すぐに彼女を探したかった。

 

 私達はイタリアンのレストランに入って、もう一度進路についての相談をすることにした。ノアの件は二人で話し合ったからといって何かが進展することはないだろうから、合理的な選択と言えた。私も一度ノアのことは片隅に置いて、目の前のユウカの進路のことを頭の真ん中に置いた。

「会計士は何となく分かるけど、教職はどうして?」

「教員免許が取れる過程があると知ってから、興味があったんです。こんなこと言うのは恥ずかしいですけど、先生に憧れた部分も大きいと思います」

「私に?」

「はい。分かりませんか?」

 彼女は私を見つめた。綺麗な海みたいに透き通った彼女の瞳に真っ直ぐに見つめられると、私はなんだか目を逸らしたくなってしまった。

「嬉しいね」

「先生みたいになれるのなら、迷うことも少ないのでしょうけど」

「私みたいに?」

 そう聞くと、彼女は押し黙ってしまった。丁度そこで二人分の注文が届いて、会話は一度中断された。私の前には美味しそうなカルボナーラが置かれて、まろやかな匂いがすぐに届いてきた。

「まずは食べましょうか」

「そうだね」

 朝食を食べていなかったせいで、今まで食べたカルボナーラの中で一番美味しいとまで感じた。麺の一本一本に濃厚なクリームソースが絡んでいて、絶妙な焼き加減のベーコンが良いアクセントとして機能していた。

「お腹空いてたんですか?」

 私は他人に比べると食べるのが早い方だったからなるべく彼女に合わせて食べる速度を落としていたつもりだったけれど、彼女には色々とお見通しだったらしい。

「いいや、美味しかっただけ」

「朝食はちゃんと食べた方が良いですよ」と彼女は言った。

 

 食事を下げに来たウエイトレスに、紅茶を二杯頼んだ。混雑時にあまり長居し過ぎるのも良くないが、彼女とはまだ話すべきことがある。

「私みたいに、というのは?」

「自信がないんです。教師になっても、上手く出来るかどうか」

 彼女は目を逸らして、窓の外に目線をやった。悩むよりは行動を起こす性質の彼女が印象に強かったから、少し意外な気がした。

「自信」と私は自分に言い聞かせるように繰り返してみた。

 そんなものがあるのだろうか? 私は自分の選択について自信を持てているのかどうか、振り返ってみた。結果的に上手くまとまっているものが多いけれど、それらは所詮結果的なことで、そのとき自信があったかと言われればノーと言わざるを得ない。確かに迷いながら、進んだ先に何かがあると信じているのでしかないのだ。

「私も自信はないよ」

「……そうなんですか?」

「先生になって三年目になるのかな、それでも自信はつかない。ユウカには私が自信満々に見えた?」

「少し意外です。それなりに自信があると思っていたので」

「大人も子供とそう変わらないよ」

 私は少しだけ冷めた紅茶を飲み干した。伝えたことが彼女の助けになればいいのだが、と私は思っていたが、やはりそこにも自信はなかった。

「ありがとうございます。少しだけ気が楽になりました」

「それは良かった」

「また近いうちに相談してもいいですか? ノアのことについて何か進展があれば、それについても話したいですし」

「うん」

 

 その日から、私達は月に一度くらいのペースで顔を合わせるようになる。二年の間動きを止めていた歯車が、再びけたたましい音と共に動き始めた。腕時計の中のように複雑に、そして連鎖的にいくつかの歯車も伴って動き出す。私には進むしかなかった。確かに迷いながら。

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