シー・ラヴズ・ユー   作:ずゆ

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第五章

 シャーレに届いた郵便物の中でも、ノアの手紙は一際異質さを放っていた。白い封筒に入れられていて、シールで簡単に封がされている。それは約二年振りの彼女からのコンタクトに他ならなくて、私は他のどの手紙よりも優先して彼女からの手紙の封を切った。短い手紙だった。

 

「連絡を取るのが遅くなってしまってごめんなさい。色々と事情があったのですが、それにしてももう少し早く連絡すべきだったと反省しています。

 貴方がいない二年の間に、私は大学生になり、病に罹り、大学を休学して入院生活を始めました。水平線が見える病室で、この手紙を書いています。

 単刀直入に言うと、会って話がしたいのです。色々と話さなければいけないことがあって、きっとそれは、貴方が聞かなければいけないことでもあります。

 勿論私のことなんてきっぱり忘れて、この手紙も燃やしてしまっても構いません。でも優しい貴方なら、近い内に私を訪ねてくれると信じています。

 それからこのことを、他の誰にも口にしないで下さい。私の極めて個人的なことに、他の誰かを巻き込みたくはないのです。

 

 生塩ノア」

 

 私はその手紙を何度も繰り返し読んだ。穴が空いてしまっても暗唱出来る気もした。二十回を超えるくらいは読み込んでも、文字は私の混乱した頭をすっと通り抜けていってしまった。それらが文章としてまとまって頭の中に入ってくる為には、私はもう少し落ち着く必要がある。

 コーヒーを淹れて、たっぷり時間をかけてそれを飲み干した。その間は手紙も手に取らないで、他に何もしなかった。そうすることでやっと私の心臓は落ち着き始め、絡まり合った頭の回線が整理されていった。

 

 つまり彼女は病に罹ってしまった。そのせいで大学は休学せざるを得なくなってしまって、彼女は私と話したがっている。

理解するとすぐにでも、私は彼女の下へ駆けつけたいと思った。思うというよりも、もっと直感的な衝動に近いものだった。手紙に書かれていない全てを知らなければ、そして彼女と話をしなければいけない。

しかし仕事を投げ出す訳にもいかなかった。その頃キヴォトスの学園は新しい行政命令や条約の締結でどこも緊迫していたし、実際にシャーレの案件もここ数週間は増え続けている。今無責任に席を外すわけにもいけないのは確かだった。

 彼女の手紙をもう一度綺麗に折りたたみ、二番目の引き出しに入れて鍵をした。それは他の誰かに開けられない為でもあったし、私が仕事中に手に取って読んでしまわない為でもあった。

 

 様々なことが片付いてノアのことに目を向けられるようになったのは、十一月の終わりかけの頃だった。仕事は一度休みを貰い、その時間を使って私は彼女の手紙にあった病院を訪れることにした。

 

 彼女が入院している病院はD.U.から遠く離れた海沿いの場所に位置していて、電車を三本乗り継いで、それから数十分バスに乗る必要があった。日帰りは出来なそうだったから着替えをトランクに詰めてきたのだが、宿泊出来そうな場所があるような土地ではなく、お陰で駅から少し離れた所にカプセルホテルを見つけるまで三十分くらい歩く羽目になってしまった。

 とりあえず今晩泊まれる場所を確保してから、私は彼女がいるという病院に向かって歩き始めた。そのとき時間は丁度十二時で、途中で見かけた個人営業のご飯屋さんに入って昼食をとった。

 

 海沿いの道を歩いている間、私の脳裏には何度もユウカと歩いたあの卒業旅行の映像がフラッシュバックした。潮の匂いや、風の温度が、彼女と歩いた光景によく似ていた。

もしあのとき告白されていたら、私はどうしただろうな、と考えた。当時気づけていなかっただけで私は彼女のことを好いていたし、それは二年経った今でも変わっていない。彼女の告白を断るべき理由は見当たらなかった。

 でも多分断っただろうな、と思う。彼女を受け入れるには、ノアへの感情にケリをつける必要があって、二年経った今でもその整理はついていない。

 まるであの道の先へ歩いているようだ、と私は思った。ノアのいる病院まで続くこの道が、ユウカと歩いた薄暗い街灯の照らすあの道の続きのように思えた。そこで私はようやく物事を俯瞰的に捉えられるようになった。これは二年前に一度閉じられた本のページが、再び繰り始められているのだ。私はノアの下へ少し足早に歩いた。彼女への想いを確かめないことには、私はユウカともノアとも、まともに顔を合わせることは出来ない。

 

 病院の敷地の中には小さな花壇があって、その中には何種類かの花が咲いていた。小さな個人病院といった佇まいの白い壁の建物だったが、新しいのか手入れが行き届いているのかで、古臭さは感じなかった。

 

 私が受付で彼女の名前と面会したいという旨を伝えると、話が通っていたようで待ち時間もなく二階へ案内された。

「彼女は何の病気なんですか?」

 階段の途中で私が聞くと、看護婦は難しい顔をした。

 私の口から言うことも出来るがどうするべきか判断に迷う、と言っていたから、私はやっぱり言わなくていいです、と言った。

 彼女の病室の前に案内されて、看護婦がノックをした。

「どうぞ」と小さく声が聞こえた。

 それは紛れもなくノアの声で、私は少しびくりとした。

「お客様です」

「中へどうぞ」

 私は扉の前に立たされて、看護婦は鍵を開けた後、私に会釈するとそのまま廊下を戻ってしまった。どうぞ、とは言われたが、中々扉を開ける気にはなれなかった。まるで重力が強くなったように足は重く、体は自分のものではなくなったと思うくらい制御がきかなかった。それでも私は何とか扉を開けた。

「ノア」

 扉を開けたとき、彼女は部屋の奥の椅子に、私に背を向ける形で座っていた。声を掛けると振り返って私を見た。

「先生、来てくださったんですね」

「勿論。遅くなってごめんね」

「いえ、お忙しいのは存じていますから」

 

 彼女は二年前よりも少し痩せていた。しかしそれは不健康さや不自然さを感じさせる痩せ方ではなく、あくまで生活の中でそうなったのだという説得力のある痩せ方だった。髪はヘアゴムでまとめてもまだ長いくらいに伸びていて、毛先は不揃いなのが彼女らしくないという印象を受けた。

 そして一番印象的なのが、彼女の纏う雰囲気だった。二年の間に彼女はより美しくなり、白い薔薇そのもののような儚さを持つようになっていた。

「何からお話しましょうか」

 彼女は部屋中をぐるりと見渡して言った。大きな窓からは海が見える。彼女の病室はホテルのワンルームといった感じで、ベッドや机の置かれたこの部屋の他に二つの部屋に続く扉があった。恐らくトイレと洗面所だろう。そして不気味だったのが、彼女の部屋はほとんどが白で構成されていることだった。普通の部屋を脱色したような人間味のなさがある病室の中で、私は彼女と向き合うように座っていた。

 

「若年性アルツハイマー病、という病気をご存知ですか?」と彼女は話し始めた。

「脳の萎縮によって記憶が失われていく、とかだった気がする。定かではないけど」

「概ね間違いありません。私が罹ったのはその若年性アルツハイマー病です」

「それはどれくらいの進行なの?」

「薬で抑えてはいますが、少しずつ昔のことを思い出せなくなってきています。幸いまだ、先生やユウカちゃんのことは覚えていますが」

 私は言葉を見失った。何を言えばいいのか全く分からなくなってしまって、ただ彼女の表情の動きをつぶさに観察していた。

「先生を呼んだのは、忘れる前に話しておきたかったことがいくつかあるからです」

「治すことは出来ない病気なの?」

彼女にそう聞いた。概ね答えは分かっていたが、縋らない訳にはいかなかった。

 彼女は首を横に振った。

「現在のキヴォトスには治療法は存在しません」

「そんな……」

 彼女はとても悲しそうな表情をしていた。いつかユウカにしたときのように、その細い手を握ってあげたくなったが、手を伸ばすことは出来なかった。私にはどうすることも出来ない。

「いいんです。そこについては、もう諦めました。それより少し、散歩しませんか? この辺りは景色が綺麗なんですよ」

 彼女は立ち上がって、入院着の上にベージュのカーディガンを羽織った。

「先生、今日はお時間あるんですか?」

「明後日まで仕事が休みで、近くに宿を取っている」

「そうでしたか。言ってくだされば、空いている病室の一つくらい使えたのに」

 彼女は廊下に出てそのまま病院の外に行こうと言った。看護婦もいつものことのように振舞っていたから、私は特に引き留めず彼女に着いていった。背丈は二年前とさほど変わっていないが、彼女は随分と大人びて見えた。

 

 金属製の少し錆びたジョウロに水を入れてきて、花壇の花に水をやっていた。彼女は視線を花に向けたまま話しの続きを始めた。

「いずれ私は全てを忘れてしまいます。貴方のことも、ユウカちゃんのことも、大切なことの全てを。それでも私は死ぬわけではないんです。記憶が失われるだけで、新しくまた生きていく事が出来ます。勿論同じように忘れてしまうのかもしれませんが」

 彼女が悲しそうに語るのを見て、私も同じように希望を捨てることにした。病気の治療や記憶について足掻くなんてことは、私がいない間に何度もしたことだろう、その上で話しているのだから、そこについてあれこれと話しても物事は進まない気がした。

「ノアは私にどうして欲しい?」

「……それは」と彼女は一度言い淀んでから言った。「私とは関わらないで欲しいんです。面倒事を残していくのは、望むところではありません。だからどうか、私と二度と会わないで欲しいんです」

「そんなこと」と私は言った。

 そんなこと出来ない。見捨てて離れていくなんてことは出来ない、と言おうとしたが、声が出なかった。それは彼女が一番望んでいないことだからだ。

「分かってます。貴方がとても優しいこと。だからこそ、貴方の生きる邪魔をしたくないんです。心配せずとも、記憶を失っても生きていくことは出来るでしょう」

「それはノアが本当に望んでいること?」と私は聞いた。

 彼女は水やりを終えると、ジョウロを花壇の縁に置いた。

「私は貴方に生きて欲しいんです。きっと私の連絡が途絶えたら、貴方は私を探してくれるでしょう。でも辿り着いた先で記憶のない私と出会って欲しくなかった。だからこうして、しっかりお別れをしたかったんです」

「記憶のないノアでも、ノアはノアだ」と私は言った。

 言葉にしてみるとその通りな気がした。記憶を失っても、彼女の根底にある何かは揺らがない気がした。

「だからこそ、貴方とは会いたくないんです。どれだけ記憶を失っても、私は貴方に恋をしてしまうでしょうから」

 彼女は水をやった花の蕾に撫でるように触れた。私は告白されたことにもしばらく気づかずに、その光景に見惚れていた。

「私もノアのことが好きだよ」

 私はそれ程頭で考えずにそう言った。それは間違いなく正しいことだったし、それ以上に何か言うべきこともなかった。

「ありがとうございます」と彼女は言った。「でも、ごめんなさい」

 

 それから我々は病院の近くをぐるりと一周した。小さな街で、潮の匂いがする風がしきりに吹き続けていた。

「ユウカちゃんは元気ですか?」

 横断歩道が緑になるのを待つ間に彼女が言った。

「うん。ノアのことを心配していたよ」

「そうですか……それは、申し訳ないことをしていますね。でもどうか、ユウカちゃんには秘密にして欲しいんです。いえ、ユウカちゃんだけでなく、他の全員に。私は自然に消えてしまいたい」

 横断歩道の向こう側に目を向ける彼女の横顔を見ていた。その瞳は真っすぐにどこか遠くを見つめていて、私が何か言う前に信号は緑になり歩き始めた。

 

「さっきの告白の話」と私は言った。「ノアのことが好きだった。ずっと、二年前にはもう好きだったと思う」

「ありがとうございます。でも、さっきも言いましたが応えられないんです。応えた所で一年も経たずに忘れてしまうような女と一緒になるべきではないんです」

「ノア、私は」

「ユウカちゃんのこと、どう思っていますか?」彼女は私の言葉を遮るようにそう聞いた。

「……好きだよ」

 口に出してから、私はユウカについて考えを巡らせた。私は間違いなくユウカのことが好きだし大切だった。しかしそれと同じくらい、ノアのことが大切なのも事実だった。

「なら」と彼女は言った。「先生はユウカちゃんと一緒になるべきです」

 やはり私は何も言えなかった。その間に病院の前まで戻ってきて、我々は彼女の病室の中へ戻っていった。

 

「貴方にはユウカちゃんと結ばれて、幸せになって欲しい。それだけが私の願いです」

「ノアはどうするの」

「これからのことは私にも分かりません」

 彼女が座ると、その木製の古びた椅子は軋んだ音を立てた。

「覚えていて下さい、私のこと」彼女は私と真っ直ぐに向かい合ってそう言った。「貴方も忘れてしまったら、私は何処にもいなくなってしまう。我儘だとは分かっています。でも、貴方の記憶に住まわせて下さい」

「忘れないよ」と私は言った。「忘れられる訳がない」

 そう聞くと彼女はにこりと笑ってみせた。

 

「でもやっぱり、ノアの言うように器用に生きる決心はつかない」

 西向きの窓に斜陽が沈んでいくまで話していても、彼女との関わり方に明確な答えを出すことは出来なかった。諦めるには私は彼女を愛しすぎていたし、愛するには彼女は私を諦めすぎていた。

「仕方のないことなんですよ」と彼女は私に言い聞かせるように言った。「皆平等に訪れる死が、私にもやってくるだけのことです」

 彼女は繰り返し、私にはユウカと結ばれて欲しい、と言った。そしてその幸せを感じる頭の片隅で自分のことを覚えていてくれればそれでいいとも言った。

「まだ、分からないんだ。何も。考えさせて欲しい」

 私には時間が必要だった。元々あまり瞬時に脳が働くタイプではないけれど、この件に関しては他の何よりもずっと長い時間をかけて考えていく必要があった。

「タイムリミットは、冬が終わるまでです」と彼女は言った。「私が全て忘れてしまう前に、決断して下さい」

 それから遅くなってしまうからと、彼女は私を病院の入り口まで見送ってくれた。私はその後丁度通りかかったタクシーを拾って予約していたホテルに戻った。夕食の味もシャワーの音も何もかも、非現実の出来事のように思えた。

 

 結局その休みの間にもう一度ノアの所へ行く気にはなれなかった。ノアとどれだけ話していても、私の中に答えが生まれる気はしなかった。代わりに残り二日の休みを使って彼女の詩集を読み切った。彼女の詩のいくつかは私の心に深く突き刺さり、ずたずたの心臓をさらに引き裂いていった。

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