ノアの喪失は私の心の壁に大きな穴を空けた。例えるなら鯨の開いた口のように、何もかも飲み込んでしまう深く暗い穴だった。何をやっても意識がまとまらず、こんな調子では仕事も出来なかったから、シャーレは一ヶ月もの間休みを取ることにした。これに関しては私から申し出たことではなく私の体調を心配した連邦生徒会が計らってくれたものなのだけど、その時期の私はどうやら他人から見てもあからさまに意気消沈していたようだった。
その一ヶ月を使って私は旅に出た。目的も行く宛ても決めず、ただ通りかかった電車やバスに乗って、そしてたまにヒッチハイクもして、そして行く先々で泊まれる場所を日ごとに見繕った。
一ヶ月経ってD.U.に戻ってきたが、私は出発する前とほとんど何も変わらない状態だった。それどころか、旅の先々の曲がり角の先にはノアがいる幻想が離れなかったせいで、いくらか不健康に痩せて髭も伸びていた。
このままではいけないと思い、髪を整えて髭を剃り、適度な食事と運動を心掛けて一週間くらい生活したが、それでも私の中にある漠然とした不安はずっと沈殿したままだった。
旅に出ていた一ヶ月の間にユウカから連絡があった。私はその間スマホをほとんど見ていなかったから、ユウカ以外にも沢山の生徒の連絡を一ヶ月も無視してしまっていた。その全てに目を通して返事をするだけでも半日くらいかかって、他の全てを返信し終えてからユウカの連絡を見た。
「シャーレをお休みされているそうですが、お元気ですか? お話したいことがあるので、お時間のある日を教えて頂きたいです」
その後も数度、同じような連絡が何度か届いていた。
「色々あって見てなかったんだ。本当に申し訳ないと思ってる。私も話したいことがあるから、ユウカの都合が付く日に会いたい」
彼女とおよそ二ヶ月ぶりに会うことになったのは、彼女の誕生日の前日だった。彼女の大学は春休みの最中で、ほとんどいつでも問題ないということだったから、私達は誕生日を祝うのも兼ねてその日に会うことになった。
それほど高級なお店じゃない方が気兼ねなく話せるということで、私の家の近くにあるレストランで食事をとった。
「ノアから手紙が届いたんです」
「……私にも届いていたよ」
私は嘘をついた。純粋な彼女を騙すのは気が引けたが、ノアとの約束を破るわけにもいかなかった。
「先生、ノアのこと好きだったんですよね?」
「ノアのことも、好きだった」
これは約束に含まれていなかったから正直に答えた。
「それで一ヶ月旅に?」
「それもある。でも休みが欲しいとはずっと思ってたんだ。仕事を忘れて悩む時間が必要だった」
「辛いなら言って下さい。先生が一人で抱え込んで傷ついてしまうのは嫌なんです」
彼女の瞳は潤っていて、何かの拍子に泣き出してしまいそうだった。今度は彼女が私の手を握った。そしてその温かい指の温度を感じていると、私はノアとの全てを彼女に打ち明けたくなった。言葉が喉元まで出て、それを必死にせき止めた。
「ありがとう。ユウカは大丈夫?」
「ええ……はい」
私はバッグから腕時計を入れた箱を取り出して彼女の前に置いた。
「ハッピーバスデー、ユウカ」
「……ありがとうございます」
「ずっと答えを待たせてごめんね。ユウカ、付き合って欲しい」
女性にプレゼントを渡すという行為は何度やっても慣れなかったが、彼女は嬉しそうな顔をしてくれたから、私はそれだけで少し救われた気分になった。
その後私の家に二人で上がって、日付が回ってから彼女はお酒を飲んだ。最初は彼女を介抱するために私は飲まないつもりでいたけど、酔いしれていく彼女を見ている内に結局彼女と同じお酒を飲んでしまって、最後の方は二人して訳も分からず泣いていた。ずっと体の中に溜まっていた後悔や自責の念を叫びきってしまうと、体力が枯れて眠ってしまった。幸いマンションの防音設備がしっかりしているお陰で苦情が届くことはなかったが、起きたときに部屋中が強盗が入った後みたいになっていたから、彼女と片付けながら反省会をした。
彼女が二十歳になった一ヶ月後に、私はその家を引っ越すことにした。そして少し部屋が多いマンションを借りて、ユウカと二人暮らしを始めた。
彼女と暮らす日々は、何もない日常であっても私に深い幸せをもたらした。愛する彼女が家で料理を作って待っていてくれる風景が、それだけであらゆる宝石よりも美しく価値のあるものだった。勿論深夜まで映画を見たり、休日に自堕落な生活を送ったりするような自由はなくなってしまったが、それらはなくなってしまうと、それでもいいかな、というくらいの位置づけに追いやられてしまった。
彼女との生活は大きないざこざもなく進んでいく。全くの不満も不安もなく、そして私は彼女を愛しているといつまでも断言できる。
時々、ふとしたときにノアの顔が暗闇の中に浮かんで消える。彼女のことを思い出すと、私はあの時期感じていた心の穴をもう一度目の当たりにせざるを得ない。
「忘れないよ」とあのとき私は言った。「忘れられる訳がない」
私はこの温かい幸せの中で、いつまでも彼女のことを覚えていた。