数学のできない彼女、国語のできない俺。   作:たんがん

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数学のできない彼女、国語のできない俺。

 俺は今、幸せだと思う。

 

「はいはーい、ぼくとの楽しい楽しいおやつタイムはおしまーい!! 教科書開くよー!!」

 

 俺の彼女、理香子(りかこ)はカフェの机の上に広がる二人分の食器を隅によけると、キーホルダーがじゃらじゃら着いた学生鞄の中から教科書を取り出した。

 

 教科書の科目は、数学と理科。彼女の苦手科目だ。

 

「へめて、ほみこませてくへ……(せめて、飲み込ませてくれ……)」

 

 俺はと言えば、お気に入りのデニッシュパンがまだ口の中だったものだから、まだ気持ちがデニッシュを堪能したさでいっぱいだ。

 

 とはいえ、機嫌を損ねては勉強を教えてもらう前に彼女が帰ってしまうかもしれない。仕方なく口内のデニッシュを飲み込んで、無理やり気持ちを勉強に切り替える。

 

「もぐ、ごくっ……ふぅ。んで、分からないのはどっからだ?」

「んーとね、ぜんぶ!!」

「せめてページ数を指定してくれ……」

 

 明るい笑顔でこうも堂々と言われてしまうと、逆に怒る気持ちは湧いてこなかった。

 彼女の理数系の苦手っぷりに呆れながら、俺は教科書を覗き込む。

 ……エックスとワイが山のように印刷されたそのページは成程、どこから手をつければいいのか分からないというのもうなづけた。

 

「じゃあ、始めるか。まずはこの式の展開からだけど……」

「はーい、よろしくお願いしまーす!!」

 

 何がそんなに楽しいのか、ニコニコ笑顔で元気だけはいい返事をする理香子。

 そうして今日も、俺と理香子の勉強会は始まった。

 

 俺の得意科目と彼女の得意科目が正反対だと気づいたのは、彼女と知り合ってから一ヶ月は経った頃だろうか。お互いにお互いの得意科目を教えてもらうことを条件に、定期的にカフェやファミレスに寄って勉強会をするようになるまでに、さほど時間はかからなかった。

 

 そこから、俺がどうにか告白をしようと思っている間に彼女から告白される、というイベントを挟んで今の関係になったりはしたのだが……この事を思い出すのはやめよう。

 

 あまりにも男としてカッコがつかない話だった。

 

「それで、ここは結局前のページの応用だから……」

「ほへー、なるほどなるほど……めっちゃメンドくさいだけで、やることは一緒なんだね!! めっちゃメンドくさいけど!!」

「そうだ、良く分かったな。あと、面倒なのは頭で思うだけにしような」

 

 過去の思い出から現在に思考を切り替えると、ちょうど今日学校でやったところまで理香子に教え終わったところだった。 

 

 彼女は我慢強いというかなんというか、つまづいているところに気づくまでは時間がかかるのだが、時間がかかるからと言って後回しにはしない。解けるまでは他の問題にあたらないし、俺がいる時はバンバン質問を飛ばしてくる。時間が限られているテスト中にはあまり褒められたものではない根性だが、俺は彼女のそういうところが嫌いじゃなかった。

 

「ふへー、今日はこれで終わり、でいいよね……いいよね?」

「まぁ、そうだな。予習までしたら時間がかかりすぎるし……」

「おっけー。よーし、つっぎはー……現国の教科書を開きやがれー!!」

「楽しそうだな……」

 

 そして、彼女の勉強範囲が終わったということは、生徒と教師を入れ替える時が来たということだ。

 楽しそうに笑う彼女の前に、俺は自分の持っている現代文の教科書を大人しく開く。

 

「はーい、今日は虎になる? それとも蛾の標本を壊して友人に白い目で見られる?」

「……後者は中学生でとっくに終わらせた範囲だろ。それぐらいは分かるぞ」

「えー、そのへんからして割と怪しいと思うけどふみ君……」

 

 じとーっとした疑いの目線で見つめられて、直視できずに目を逸らす。

 ……い、一瞬詰まったが、答えられたんだからいいじゃないか。

 

 ちなみにふみ君とは、文人(ふみと)という名前から取った俺のあだ名だ。

 

 彼女にあだ名で呼ばれるというのは未だにくすぐったいような照れ臭さがあるのだが、その感情も含めて呼ばれるのは嫌ではない。

 

「まぁいいや、今日は虎になるやつね!! ここはねー、まず虎さんが口を開いた時に真っ先に口にしたものが何か、っていうのが心情を推し量るのに重要でー……」

 

 気を取り直して、彼女の授業が始まる。

 解説してくれるのは現代文で重要な、登場人物の心情についてだ。

 暗記すればいい漢字や古文の読み方と違って、心情についてだけはあらかじめ勉強して法則を理解しておかないと答えようがない。

 だからこそこうして勉強会という機会を設けてもらってまで、勉強に時間を割いている、訳なのだが。

 

「わからん……」

「あははー、そろそろ言うと思った」

 

 10分もすれば頭がパンクして、開かれた教科書の上に俺は額を打ちつける羽目になった。

 

「何故だ……何故教科書に答えが載っていない……」

「いや、載ってるじゃんよ……ほら、説明見て?」

 

 視線を向けなくても分かる苦笑いを浮かべながら、理香子は俺に教科書を開いて見せてくる。

 だが、俺にはその文字の羅列を見ても、そこに答えが載っているようにはどうしても思えなかった。

 

「なんだ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心って……まだ諦めたくないなら詩人を目指せばいいし、諦めたならスッパリ切ればいいだろう……虎になってもウダウダ言ってるのが意味分からん……」

「わー、ふみ君めっちゃ合理的だねぇ……」

 

 理香子は微笑ましい物を見るような、温かい目で見てくるが、俺にとっては真剣な問題だ。

 

 現代文が俺にとって複雑怪奇なのは、ひとえに『感情』というものを取り扱うからである。

 数学は答えを見れば丁寧に解説が載っているし、理科も現象を覚えれば後は同じことを繰り返すだけだ。

 ただ、感情というやつは、ていねいな解説をされても理解できないし、再現性もさっぱり無い。

 それを周囲に言った時、決まって言われるのが彼女と同じ、『合理的だね』、だ。

 

 ……その言葉にどこか馬鹿にされているような響きを感じるようになったのは、いつからだっただろうか。

 

「そういうのを割り切れないのが人間、なんだと思うな……うーん、そうだねぇ……」

 

 ただ、幸いなことに理香子は馬鹿にするのではなく、俺が真剣なことを汲んだ上で言葉を選んでくれたようだった。

 

 それを理香子の「分からない」に付き合った分と考えたら、努力が報われたみたいで、胸の中に温かいものが広がっていく。

 

「詩人になれなかったならキッパリ諦めろって、ふみ君言ってたけどさ。キッパリもスッパリも簡単にできる人はそうそういないと思うんだよね……例えば、さ」

 

 コホン、とそこで理香子は深呼吸でもするかのように、息を一つ付く。ただ勉強を教えるだけだと言うのに、何かに緊張しているかのようだった。

 

「……か、可愛い彼女のぼくが、死んだとして。ふみ君、すぐに新しい人をさがそーって、できる?」

「………………」

 

 ――――彼女に指摘されたそれは、今まで考えたこともない可能性だった。

 しかし現代において、完璧な0になど出来る訳もない可能性だ。

 医療がいくら目ざましい発達を遂げている現代だろうと病気、怪我、事故……思いつく原因なんて、いくらでもある。

 だから、そんな事になったら……理香子の言う通り、いつまでも終わった恋を引きずるような真似に、意味はないだろう。すぐに新しい彼女を探す方が、よほど理に適って……

 

「…………………………たしかに嫌だな、それは」

 

 思考とは全く逆の言葉が口をついてきて、一番驚いたのは俺自身だった。

 それでも、一度口にしてしまうと、もうそれ以外の選択肢は考えられない。

 俺は、もし最悪の可能性が実現したとしても理香子を忘れたくはないし、すぐに切り替えようなんて思わない。思いたく、なかった。

 

 じゃあ、一年経ったら? 二年経ったら? 五年、十年後は……?

 

 そんな意地の悪い質問が頭の中に浮かんでくるも、俺は答えられない。

 彼女が、理香子が、いなくなる? そんな事は……いつかは起こるかはしれない事だけれど、今は……

 

「…………あー、もう!! ふみ君、いつまでも彼女を放置しないでよー!!」

 

 思考を中断したのは、理香子の大きな声(もちろん、カフェなので周囲に迷惑はかけない程度の声量だが)だった。

 ハッとなって目の前に視線を向けると、彼女の顔は真っ赤になってしまっている。

 

 ……しまった、怒らせてしまっただろうか。

 

「ぼくがせっかく渾身のボケをかましたんだから、ちゃんと突っ込んでよね!! か、可愛いって、自分で言うの結構ハズいんだからさぁ……」

 

 顔の赤みをより強めながら、理香子はそう言ってむくれる。

 ……ボケのつもりだったのか。だが、ツッコミを入れるというのは、俺には無理だな。

 

「ツッコミというのは、間違っていることにするものだろう。理香子が可愛いのは事実なんだから、ツッコミを入れても仕方ないじゃないか」

「え!? い、いや、その……ふへへ……」

 

 そんなに驚くことを言ったつもりはないのだが……顔は赤いままだが、なんだか妙にニヤけた顔になってくれたので、とりあえずは機嫌が直ったとみていいのだろうか。

 

 ……でも、そうだな。彼女が気づかせてくれた通りだ。

 

 できない事にもできないなりに取り組む彼女が魅力的なように。キッパリもスッパリも諦めるのは簡単にはできないし……きっとそこに、人間の魅力があるのだろう。

 

 俺は今、幸せだと思う。

 

 俺とは考え方がまるっきり違う彼女と、こうして言葉を交わすことができている。自分が気づかないことに気づかせてくれる彼女と、また明日もこうして話すことができるのだから。

 

「はい、理屈が分かったなら次は教科書開く!! 虎さんがウダウダしてる理由は分かったでしょ!? なら次は、ウダウダした結果何をしたか、だよ!!」

「……ひとつ分かったから、明日にしないか?」

「だめー!!」

 

 ……まあそんな感情は結局、目の前の教科書から逃れるための現実逃避なのかもしれなかったけれど。

 

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