Advanced New World(仮) 作:ばいどるげん
太陽が地平を越えて街を覗き込み始めるとき、世界は朝と言う存在を認識する。暗闇の幕切れと共に宿屋の窓から見える景色は情緒溢れる街並みだった。
包丁がまな板を叩く音――。セムは太陽の目覚めと共に瞼を開けた。
体が少々硬さを覚えている。おかしいと思いながら部屋を見渡すとそこは自分の部屋ではない。見慣れない景色に呆然としていたが、目に続き脳が目覚め始める頃には自分の置かれている状況を思い出せた。
「ああそうか、ここはANWの世界だったんだ……」
そう理解すると安心して欠伸が漏れるが、客人が二度寝するのは頂けないとかったるい体を無理やり起こした。何より今日は件の森へと向かう。自分がこの世界にやってきた本来の目的を果たさねばならない。
下へ降りると台所に立っていたのは女主人だった。彼女はセムの姿に気付くと微笑みながら挨拶する。
「お早うございます。昨夜はゆっくり寝られましたか?」
「おはようございます。はい、おかげ様で」
「今洗顔の用意をするわ。少し待っててね」
女主人は作業の手を止め手水場へと向かう。少女はまだ寝ているのだろう。亭主の姿が見当たらない事にセムは疑問を抱く。
「主人は食料の買出しに出かけているのよ。はい、新しいお水」
「あ……ありがとうございます。こんな朝早くから出かけているんですか」
「新鮮な食材は直ぐに売れてしまうの。魚などは保存が利かないし。それに、あの人は料理に拘りがあるみたいなの」
くすくすと笑いながら再び朝餉の支度に戻る。水の入った洗面器を受け取ったセムも部屋へ戻ろうとする……が、ふと足を止めた。
(か、顔って何処で洗えば良いんだろう。まさか部屋の中で……な訳無いよね?)
やはり聞くべきだろうかと女主人へと振り向く。彼女は鼻歌を口ずさみながら自分の世界に浸っていた。邪魔をするのも気が引けとりあえず部屋へと戻る事にした。
丁度その時、廊下へ出ると起きたばかりであろう少女が目を擦りながらやってきた。
「ふぁ……おはよぉ~」
「やぁ、おはよう。昨日は良く眠れた?」
「う、うーんと……えへへ。それが、お兄ちゃんのお話を聴いたせいかコーフンしちゃって……」
「あはは……それはごめんよ」
挨拶を交わし互いに別れようとする。その時何気なくふと少女の姿を見ていたセムは何かを考え付いたかのように「ちょっと待って!」と少女を呼び止めた。少女は眠気まなこのままセムを見上げた。
「あ、あの……洗顔ってどこですれば良いの?」
昨夜とは逆に、女主人には聞こえないよう小声で問いかけるセムを少女はきょとんとした顔で見つめる。「ああ」と納得した様に手を叩いた少女はさぞ可笑しそうに大笑いした。
彼らの様子に女主人も何事かと顔を出す。朝から響く愉快な声は未だ寝ていた二人の宿泊客の目を覚まさせた。
「何だ、一体どうかしたのか」
「あはははは! お兄ちゃんったら、顔の洗い方を教えてくれって恥ずかしそうに聞くんだもん!」
「ファルセンでは顔を洗う習慣が無いのか?」
「そ、そんな事は無いんですが……」
「それじゃ、私がお兄ちゃんにレクチャーしてあげるね! もう、世話のかかる旦那様なんだから♪」
少女の発言にヘイムたちも揃って大笑いした。結局こうなるならば素直に聞けば良かったと、セムは顔を赤くしながら下を向いた。
「ヘイムさんの言う森ってあれの事かな」
南西門を出たセムは目元に日陰を作りながら遠くを見据える。障害物の無いそこからは朝靄が覆う森も良く判別できた。
視界に収まる森の全貌はニューバよりかなりの距離がある事を知らしめている。普通に歩いて向かえば数時間は優にかかるだろう。ヘイムが乗り物を使えと言った理由も良く理解できた。
(本当ならこんなに人目を気にする事も無いんだけどな)
セムは辺りを見回して誰もいない事を確認する。本来NPCはプレイヤーキャラクターの存在など歯牙にもかけない。しかし実際は冒険者の姿は随分と目立つらしく、セムの姿を目にした者たちは何かと小声で噂を立てている。
街中で目立つような行動を取れば騒ぎになるのは間違いない。少なくともニューバの街ではそのようだった。
「《ハックツール》!」
《Start-up Hacking system tools. Please input the commands.》
右手を広げコマンドを起動。手の先の虚空より浮き出す紋章と英文字がコマンドが正常に処理されている事を意味している。
「《クイック ムーブ》!」
続けて唱えられた『呪文』によりセムの体を桃色の霧が覆う。走り始めたセムの姿はまるでミサイルのよう。空を遊泳する鳥たちすら優に追い越してしまった。
《クイック ムーブ》は速度向上呪文であり、対象のあらゆる速度を向上させる。あらゆる速度とは文字通りであり一挙手一投足が全て対象となる。システム的に言うのであれば対象者の周囲のみターン経過速度が増すと言う事だ。
そのため有益・不利益に関わらず補助魔法が解けるのが早くなる。聞くだけならば非常に優れた呪文なのだが、使いどころを誤ると途端に追い込まれる可能性も秘めている。
ここで一つの謎が浮上する。《クイック ムーブ》は補助呪文の中でも中級者の魔法職が扱える呪文である。Lv1のセムがその呪文を唱える事は出来ないのだ。
ましてやセムの職業は『
そんな
それらの矛盾を解消したのが、先ほどセムの使用した特殊コマンドである《ハックツール》。これはANWの管理者である『GM(ゲームマスター)』だけが使用できるコマンドであり、ANWで取り決められているあらゆる制約を無効化する事の出来る、言わばチートに当たる物である。
それに加えセムが有しているそれは本任務の為に特別に強化されている。真に恐ろしきはゲームのシステムを根本から改竄する事すら可能と言う事だろう。セムはそんな事など知る由も無かったが、息子の手助けを出来ないと悟った父が自分の持てる全てを息子に託していたのだ。
森へと近付くにつれその場所の広大さがあらわになってきた。成長の妨げとなるものが存在しない木々たちは太陽を渇望し上へ上へと枝葉を伸ばしている。際限なく伸びる様子は人の姿など置き去りにするほどで、普段街路樹程度しか見慣れていないセムは生命の強さに恐怖を覚えた。
「やっぱり見張りが居るみたいだな。それも一人二人じゃない」
《クイック ムーブ》を解除したセムは近くにあったむき出しの大岩に身を潜める。ワールドマップを開いてみると森の周囲には灰色のアイコンたちが出現していた。
情報の通り、森はニューバ防衛隊に閉鎖されているらしい。
「ならば姿を消して侵入する。《インビジブル シングル》、《サイレントノイズ》」
呪文《インビジブル》の発動によりセムの姿が不可視化する。《インビジブル》はその名の通り姿を不可視化させ、続く《シングル》が対象の選択を表す。この呪文はあくまで姿を消すのみであるため動作に寄る音を消す事はできない。そこで体から発するあらゆる音を除去する《サイレントノイズ》の呪文を併用する。
《サイレントノイズ》は対象の周囲から発せられた音を無音化する。そのため足音や声と言った身体を通して発せられる様々な音は周りに聞こえなくなる。
いずれも高度な呪文ゆえに覚える事ができるのは上級魔法職を極めた者たちのみである。
セムはなるべき気配を殺しながら見張りたちを素通りしようと試みる。姿も見えず音も立たないが、何も居ない場所で叢が動けば不審に思われるのは間違いない。慎重な行動を心がける。
(……なんとか森に入る事は成功したな。第一関門突破って所かな)
森の入り口から少し進むんだ場所で呪文の効果が切れた。有能な呪文も有限だ。ANWでは二重掛けは出来ないため切れるたびに呪文を唱えなくてはならない。しかし見張りを目を抜けた今はわざわざかけなおす必要も無いだろう。
「さて、マップを開いてと…………うわっ、やっぱりここは『ダンジョン化』してるのか」
セムが左手を掲げ素早くかつ小さく左右に揺らす。すると虚空から突然ワールドマップが出現した。これはANWにおけるアクセシブル機能――言わばショートカットの一つであり、コマンドを唱えずとも登録してある機能を使用する事ができる。
アクセシブル機能は本来身体障害を抱えるプレイヤーに対するバリアフリーを意識した物だが、コマンドに限らず特殊能力、呪文、アイテムを登録しておく事も可能である事から健常者にとっても利便性に富む有用な機能となっている。
マップにはセムの居場所を示す青色のアイコンを中心に、各所で赤いアイコン――モンスターが蠢いていた。すぐ近くにも何匹か潜んでいるらしく、マップを見ずに奥へと進もう物ならば奇襲を受けていた事だろう。
(完全にこちらに気付かれてるな。ここはやるしかないけど……ANWでの初戦闘、俺に出来るか?)
マップ上では相手の姿は見えない。しかし物語序盤となるこの地にそれほど驚異的なモンスターは存在しない。《ハックツール》を起動させ戦闘の用意をする。武器を構える必要は無い。全てはその『右手』が担ってくれる。
気配を殺しアイコンの場所へと飛び込もうとしたその時だった。
セムより速く飛び出す三体の影。速度は犬並だが大きさにいたっては猫程度だ。それぞれがセムを翻弄するかのようにフェイントをかけながら迫る。
目を凝らして相手の動きを読む。
一体目の体当たりを体を反らして回避。左から来る二体目の噛み付きには闘牛士の要領で去なし、最後に飛び掛ってきた個体にはバックステップで大きく後方へと退けた。
すぐさま追撃に備えるも、三体は奇襲の失敗により警戒したのか互いに体を寄せ合いセムの様子を伺っていた。
「こいつらがANWのモンスター……! 成る程、初心者にはお誂えの姿だ!」
丸い体躯に震える表皮。空の色を目一杯に吸い込んだかの様な透き通る青色。人目すれば首を傾げたくなる奇妙奇天烈な姿は「モンスター」と呼ぶには相応しい。
セムに襲い掛かってきた正体は『ゼリーズ』。水泡状の身体を形成する皮は半透明であり急所である核が露見している。『スライム種』と呼ばれる彼らには様々な種類が存在するが、出現する地域によっては一匹ですら脅威となる個体も存在する。
中でもゼリーズはスライム種の中でも最も弱い個体であり、初心者が戦いのコツを掴むに当たり最も与し易い相手だ。
セムは両手の平を三体のゼリーズへと差し向け親指と人差し指でひし形を
《スキャン》は対象のステイタスを表示する補助呪文である。表示できるのはLv、体力(HP)、攻撃力(OP)、防御力(DP)、そして名称。得られる情報はわずかながら魔法職でなくとも比較的初期に使用可能な事もあり、ANWにおいては重宝されるであろう呪文の一つである。
「Lv1の『ゼリーズ』……練習台には打って付けだ」
意を決し再びゼリーズが森の侵入者へと迫る。対してセムは左手を突き出し右手を引く、その振る舞いが連想させるのは弓引きの構え。
「《ファイアアロー》!」セムの離した右手から一直線にゼリーズたちへと赤光の矢が奔った。射手の制御を離れた矢は対象に近付くと同時に姿を変える。矢頭は猛禽類の如き嘴となり
展開された光の翼は一瞬にして敵全てを包み込む。
「すごい……力をセーブしているのにこんなに威力があるなんて! この力さえあれば怖いもの知らずだ!」
自分もアニメやゲームの主人公のように格好良くて強い力を行使できる。少年なら一度は誰しもが夢見るであろう事が
念のためにマップを再確認する。他のモンスターはこちらへは向かっておらず今の騒ぎに見張りたちも気付いた様子は無い。「油断は禁物だよな」と気を引き締めるセムであったが、その綻ばせた顔には緊張感は感じられなかった。
――いつからであったか。はたまた彼がこの森へと足を踏み入れたその時からか。木々の上で羽を休める小鳥たちに混じり、一つの人影はセムの姿を見つめていた。
セムは自身を木の上から見下ろしている存在に気付かぬまま森の奥へと足を運んで行く。彼の背を追う様に、その人物は音も立てず木々の間を跳んで行った。