『今日は休日だから断る』
二乃が手にするスマホにはその短い一文が表示されていた。
「やっぱり駄目かぁ」
ベッドで仰向けに寝ていた二乃は、持っていたスマホを枕の横へ放り投げる。
同じ姿勢でスマホを持ち続けていたせいで若干だが腕が痺れていた。
二乃が買っているメーカーのスマホは最近大型化してきている。それに加えてうさみみモチーフの突起がある分厚いラバー素材のカバーを付けていることもあって、結構な重さだった。
スマホを手放した後、痺れを取るように二、三度宙で振った。
明日のことを考える。
「せっかくの休みだってのに、なんで断るのよ。ばか」
明日は勤労感謝の日、学校は休みだ。
風太郎をデートに誘ってみたのだが、その返事が先ほどのメッセージだった。
「そりゃ確かにまだ付き合ってないし、あの子たちの面倒を見るために時間を使わないのもわかるけど」
同学年である風太郎が家庭教師をする大変さは、今の二乃なら分かる。
通常の教職を生業をしている人物ならば、知識を忘れないように復習くらいはするだろうが、基本的には仕事のノウハウを元に勉強を教えるだけで良い。
しかし、風太郎の場合はノウハウもなければそもそも、姉妹達に教えることを先行して自らも学ばなければいけないのだ。
つまり普通の家庭教師より仕事の工程がワンステップ多い。
だから家庭教師以外の日も、自身の勉強に時間を割かなければいけないのは分かる。
わかるのだが、残念なものは残念なのだ。
「明日どうしよ」
明日は風太郎の攻略作戦が終わってから初めての休日だった。
今の世界に来てから今日に至るまでの今までだって、休日に遊びに出かけたことはもちろんある。
けれどその時は常に転生の事や風太郎が頭の片隅に居座り続けていた。
全てが片付いたわけではないが、風太郎から返事を貰えた今となってはそんな頭の中の同居人ともおさらばできるだろう。
そして、それは同時に二乃にとって久しぶりの自由とも呼べる気持ちであるのだが、問題もあった。
やることがないのである。
「昔の私って何してたっけ」
記憶を掘り返せば、友達や姉妹と服を買いに行ったり、カラオケに行ったりしていた気がする。
同じことをしてもいいが、自分からやろうという気も起きなかった。
実を言えば、日常生活の中でも転生してから困っていることがあった。
それは流行をいちいち古く感じることであった。
服も、歌も、ドラマも、芸能人のスキャンダルすら興味があるトピックの新しい情報は二乃にとって既出であった。
服などは持ってなかった服を買ったりできる分マシではあるが、そもそもデザインの方向性自体を古く感じてしまうせいで購買意欲がいまいちそそられなかった。
かといって自分がかつていた世界のトレンドに合わせたファッションをするのも、周囲から浮きそうで勇気が出ない。
いっそのこと、競馬など趣味ではないが、多少なり経験していれば大儲けできていたのではないかとすら夢想したこともある。
そんな絶対にやらなさそうなことにすら、思考が向いてしまうほど現在の二乃は娯楽に飢えているのであった。
『二乃―、いるー?』
ふと、あーでもないこーでもないと考えていたところで、部屋の扉がノックされた。
向こう側から聞こえたのは一花の声だ。
「いるわよー、入ってー」
二乃の返事を聞いてから、扉を開けて入ってくる一花。
「明日ってフータロー君とおでかけだったりする?」
「今断られたところよ」
「なんとっ、フータロー君甲斐性ないなぁ」
「それで? それを聞いてきたってことは私を誘ってくれるのかしら?」
「そゆこと、三玖とおでかけすることになったんだけど二乃もどうかなって」
「行く」
「やった。じゃあ四葉と五月にも声かけてくるから、そのつもりでよろしくー」
「んー」
部屋を出て行く一花。
早速、何をしに行くのか知らないが悩みが解消された。
先ほどは、さんざっぱら文句を言っていたが、せっかく誘ってくれたのだから楽しもうと思う二乃であった。
「で、誘ってくれた張本人が寝坊と」
「平常運転」
翌朝、リビングで二乃と三玖は二人だけで朝食を済ませた後、一花の目覚めを待っていた。
二人ともソファでくつろいでおり、各々がスマホを見たり、テレビを見たりで思い思いの時間を過ごしている。
いつも食事を取っているダイニングテーブルの上では、一名分のコーヒーだけが残されたステンレスのポッドが置かれていた。
寝坊している一花の分だ。
「五月も四葉もさっさと自分達の用事ででかけちゃうし」
「きっと一花がこうなるのを予想してたんだと思う」
ぼやく二乃にいつもの無表情のまま相槌をする三玖。
一花は朝食を食べないので、起きてさえくればすぐにでも家を出れるというのに一向にその時が来ない状況に二乃は焦れていた。
「あーもー我慢の限界、起こしてくる」
ソファから立ち上がる二乃。
三玖も止めようとはしなかった。
どうやら気の長さの問題だけで、同じように焦れていたらしい。
ずかずかと足音を鳴らして階段を上ると、そのまま一花の部屋の前に立つ。
一発びっくりさせてでもやらないと腹の虫が収まりそうになかった二乃は、部屋に入るなり怒鳴ってやろうと一息吸ってから扉に手をかけた。
「いち──」
「ごめん寝坊し──うわ!?」
手をかけた扉を手前に開こうとした時、扉の向こうで押し開けようとした一花とタイミングが重なってしまった。
想像していた扉の重さと合わない手応えの軽さと、突然目の前に現れた一花の顔に肩をびくりと跳ね上がらせた。
「び、っくりしたぁ……起きたのね。下にコーヒー用意してるから、飲んで早く目を覚ましてきなさい」
「ほんとごめんねぇ、すぐ出かける準備済ますからさ」
「早くねー」
「一花、死ぬの早い」
「あれでも何回か撮り直して大変だったんだよー?」
街へ出てきた一行が最初に向かった先は映画館だった。
一花が出演しているということで、関係者用の無料視聴チケットを貰っていたおかげでタダで見ることができたのであった。
だが、問題が一つあった。
(面白かったかどうか以前に、中身知ってる……!)
たいして面白くないというのが二乃の映画に対する感想だった。
だというのに、一花が出演している映画を前世で視聴していないわけがなく、二乃にとっては二度目の視聴であった。
既に中身も知ってる微妙な内容の映画を二時間もの間鑑賞しているうちに、二乃は無心でポップコーンを頬張る機械と化していた。
そしてその様子は隣に座っていた三玖にも気づかれていたらしく、
「二乃、ポップコーン食べ過ぎ。うるさかった」
「あんなゾンビがぎゃーぎゃー騒いでる映画でうるさいも何もないでしょ」
「でもずっと手も動いてたし気になった……太るよ?」
「あんたそれ、五月限定の禁句だと勘違いしてないかしら?」
二乃の低い沸点を楽々飛び越えて、怒髪天を衝いた三玖の発言。
いつぞやのクレジットカードを止められて夕食が貧相にならざるを得なくなった時の五月よろしく、二乃は怒りが一周回って反転した笑顔を浮かべる。
「わー! 二乃ストップ!」
普段であれば四葉が止めに入る展開だが、自分が出演し、今回見てもらった映画が起爆剤になってしまった後ろめたさからか一花が割って入った。
「きっと映画が良くなかったんだよ! ごめんね! 外れだったみたい!」
「……別に、悪くはなかったわよ」
実際は一花の言う通り映画自体はつまらなかったのだが、馬鹿正直に肯定するほど二乃も鬼ではない。
本当は一花だって褒めてもらいたくて、自分の演技で楽しんでもらいたくてここへ連れてきたのだろうに。
一花に免じてここは一つ、怒りの矛を収めることにした。
「少なくとも、あんたは良かったと思うわよ。演技とかそういうの、あんまり詳しくはないけど」
そう二乃が言うと、一瞬真顔になったかと思いきや、薄く笑みを浮かべる一花。
「良かった。二乃にそう言ってもらえるなら今日は連れてきた甲斐があったよ」
「何よそれ」
「実は今日ね、みんなに話しがあったんだ。本当は四葉と五月ちゃんもいてほしかったんだけど実は──」
「あ、ごめんちょっとタンマ」
薄い笑みを張り付かせたまま、しかし意を決した雰囲気で話そうとした一花の前に手のひらを向けて遮る二乃。
もう片方の手にはいつの間にかスマホが握られている。
「フー君から電話来てたわ。折り返すからちょっと待ってて」
「お姉ちゃん、結構覚悟を決めた話をしようと思ったのに、もうすっかりフータロー君の物になっちゃったんだね……」
意気込みをへし折られ、半分涙目で頬を膨らませながらその場にしゃがみ込むと地面にのの字を書き始める一花。
「大丈夫、私はちゃんと聞く」
一花の脇に並び頭を撫でてあげる三玖。
そんな様子をしり目に、二乃は着信履歴から折り返しの電話をかけた。
呼び出しのコールが鳴りはするものの、しばらく続いた後録音サービスへと切り替わる。
「何よ、そっちが用があってかけてきたんじゃないのかしら。折り返しくらい出なさいよ」
もしかしたら、気が変わってのお誘いかもと期待したというのに。
期待から一転しての落胆に、気を取り直すと一花へと向き直す。
「それで、話って?」
「別にいいよー、お姉ちゃんは三玖と仲良くしてますから。二乃はフータロー君とどっか行っちゃえばいいんだ」
「ならこのままフー君のところに行ってやろうかしら」
「そこは普通残る流れじゃないかなぁ!?」
「あんたがわざとらしくイジけたフリするからでしょう!? ノッてあげてんのよこっちは!?」
「大丈夫、私は一花の味方」
「三玖! あんたはこういうノリ苦手なんだったらムリしないの!」
溜息を一度だけついてから、一旦話に区切りをつける。
「それで、話って何よ。こんなあんたらしくない茶番までやって、よっぽど話しづらい内容だったのかしら?」
「あはは、流石二乃。バレてましたか……実はね──」
時刻は二乃が映画を鑑賞中の頃まで遡る。
中野家のマンションでのことだ。
ご存じの通り彼女達が住むこの建物は、30階という高層ビルに相当する高さを誇る。
マンションの名前は『PENTAGON』。
直訳すれば『五角形』なのだが、当然そんな奇抜な外見をビルの形状がしているわけはない。
別の意味で連想するとすれば、アメリカの国防総省が同様の名前である。まあ、その国防総省自体の名前の由来が、建物が五角形だからという点は今は無視する。
マンション側はそれにあやかってセキュリティの高さをウリにしているだろうと、風太郎は初めてビルの名前を見た時に想像した。
そして、そんな名前のマンションの最も高価である最上階に中野姉妹は住んでいる。
これは風太郎が知る由も無い事だが、それほどまでの物件は中野姉妹の父、マルオが元々所有していたわけではない。
五つ子の実母である零奈が逝去した後、五つ子を養子に引き取った時に購入した物件なのである。
マルオがどれほど娘の安全を第一に物件選びをしたのか、ということがマンションの情報から伺い知れよう。
さて、初めから余談となったがそんなマンションの一階は当然、いきなり居住スペースなどになっているわけもなく、エントランスとなっている。
建物の入り口にもカードキーの所持者しか入れないようオートロックの自動扉が備えられており、来客はここで中の住人にインターホンで連絡し、開錠してもらう必要がある。
そして今日、勤労感謝の日であり、本来は家庭教師ではないこの日にアポなしでマンションへ訪れていた風太郎は、自動ドアの前で佇んでいた。
何度インターホンを押しても、スピーカーの向こうからウンともスンとも反応が無いのだ。
「あいつら、五人揃って出かけてるのか……?」
今日の風太郎は二乃に用があった。
というより、用を作らされたというのが正確であった。
最早習慣と化している、休日を全て使っての自習を今日もする予定であったのだが、その様子を見られたらいはによって家を叩きだされてしまったのだ。
曰く、
『二乃さんを放置して家に籠るなんてあり得ない! 付き合ってなくても好きだったらデートくらい誘ってあげなよ! 嫌われちゃうよ!?』
とのことだった。
インターホンの呼び出しボタンから手を離すと、ズボンのポケットからその場で携帯を取り出す。
操作し、発信履歴を表示させた。
画面には既に一度、二乃当てにコールした履歴が表示されている。
マークは繋がらなかったことを意味するものを示していた。
発信履歴からもう一度、二乃宛にリダイアルをかける。
コールは鳴るものの繋がらない。
単純に気が付いていないか、寝ている可能性も考えて家まで来たのだが、まさか本人がいないどころか五つ子全員が不在なのか、インターホンに無反応というのは少々意外だった。
一瞬、他の姉妹に電話をかけてみることも考えたが、考えただけで行動には移さなかった。
デートのために家まで来たという事を、姉妹達に悟られれば弄られるであろうことは知れているからだ。
正直に言えば、らいはに発破をかけられたとはいえ二乃と合えることにわずかばかり期待している自分もいた。
その結果がこれであるのだから、一つ嘆息して、帰路へ着く。
らいはも出かけるとのことだったが、帰ってきた時に家の中に兄の姿が既にあったとしても、ここまで来たのだから文句は言うまい。
道中、公園に差し掛かった辺りで一息つこうと、池沿いの遊歩道に立てられている手すりへともたれた。
眼前には水面が広がっており、貸しボートを漕ぐこともできるようであるが、今は影一つなく穏やかな池であった。
ぼんやりと、二乃のことを風太郎は考えていた。
(俺はこのまま本当に付き合っていいのか)
ネガティブな思考になってしまっている自覚はあった。
自分から会おうとして来たのに会えなかったという現状が、センチメンタルを呼び寄せているのだろう。
だが、その考え自体は元々風太郎の中にあるものだった。
林間学校の日、二乃に言った言葉は嘘ではない。
自分は器用な人間ではないから、自身の勉強と家庭教師で手いっぱいだというのに、それに加えて二乃の恋人という自分にとってもプライオリティの高い事柄をこなす自信がなかったのだ。
中途半端にやって二乃に愛想を尽かされるくらいなら、一つずつこなしていくのが自分であろうという考えであった。
不安なのは、その先だ。
(そもそも俺は二乃にふさわしい男なのか?)
二乃の評判というのは学校でよく耳にする。
むしろ、気にしないようにしても二乃の名前が耳に入れば自然と意識が向いてしまうのだった。
二乃は男女問わず人気な存在であった。そもそも違うクラスの自分のところにまで噂が広がってくるのだ。相当なのであろう。
そしてその評判が誇張などでないことは、風太郎自身の二乃に対する評価が如実に表していた。
だからこそ、自己評価と比較した時にその落差に絶望的なものを感じる。
(いったいあいつは、俺のどこが好きなんだ?)
考えても答えは出なかった。
自分の性格が社交的でないことは理解している。むしろ、勉強以外を意識的に捨てているのだから当然だ。
それに加えて我が家は貧乏だ。中野家と上杉家では家庭教師における甲と乙という関係であることなど、貧富の差をまざまざと体現してると言えるだろう。
他にもいくつか候補をあげるが、全て自己否定できる。
血統が良いわけでも、運動ができるわけでも、顔がいいわけでもない。
(いや、顔は……親父をやけに見てたし意外と俺にも──)
直後、ダンッ、と木の手すりを叩いて思考を打ち切った。
先日、お見舞いに来た時に目撃した親父を見る二乃の顔に腹が立ったからだ。
思考が乱れたが、元に戻す。
一番可能性があるとすれば、頭の良さだろうか。
(将来有望だとでも思われてるのか?)
けれど、それこそ二乃にとってはどうでもいい問題だろう。
いくら頭が良くても前述の家庭環境が大きな減点ポイントだ。
二乃、というより中野家であればいくらでも上流階級のコネクションで家柄も頭もよい男など見つかるだろう。
やはり改めて考えたところで、結果は同じでわからなかった。
そうなると自然と、この先でもしも本当に自分が二乃と付き合い始めた時自分がふさわしい男なのかと自問すると、ノーという結論が出る。
家に帰る前に気持ちを切り替えなければ勉強に支障が出ると風太郎は頭を振った。
幸い目の前には穏やかな湖面が広がっている。自然を楽しむ趣味などないが心を落ち着ける一助にはなるだろうと、顔を上げた。
その時であった、
「今度は悩み事かな? また助けてあげようか」
風太郎の横から、声がした。
声の方へと振り向く風太郎。
その視線の先には、円形状の広いつばが付いている帽子を目深にかぶった、長髪の女性。
「久しぶり、風太郎」
誰だったか、そう考えている間に女性は続けて言った。
見覚えがあるような気もするが、名前も思い出せないような知らない女性。
こんな時、風太郎がする行動は決まっている。
「あー、はいはい。久し……ぶり……だなっ、ああ! 俺今から用事あるからじゃあな」
「全然思い出せてないじゃん。結構頑張って寄せてるんだよ?」
「そう顔を隠されてたら思い出せるもんも思い出せん」
「それはごめん。事情があるんだよね。その代わり、これならどうかな」
そう言って女性が取り出したのは小さな巻物だった。
巻物の端と端を親指と人差し指で挟める程度に小さなそれは、円柱状の側面には紋様のような柄と共に『清水寺』と書かれていた。
その巻物には風太郎も見覚えがあった。否、正しくは持っていた。
日本人なら大多数は知ってるであろう京都の清水寺で売っているお守りだ。
「もしかして、京都の……」
この日、風太郎は私服であったため学生手帳を携帯していなかった。
学生手帳の中には、五年前に清水寺で会った思い出の子との写真が挟んであるのだが、今の風太郎はそれが確認できなかった。
そのため、記憶を頼りに目の前の女性と写真の子を比較してみるしかないが、元々写真も定期的に見ていたおかげで比較はできた。
その結果は、合致した。
「え、えっと。元気そうで何より……」
直後、脱兎の如く風太郎は逃げ出した。
そして悲しいことに、秒で捕まった。
「逃げないで!」
「俺はまだお前には会えない!」
言いながら振りほどこうとするが、悲しいかなびくともしなかった。
体重的には軽いのか、若干引きずることはできるものの、風太郎側の筋力が信じられないほど足りず数センチしか引きずった跡ができない。
それに加えて、腕力では完全に負けているらしく手を引き剥がすこともできなかった。
(女子相手でここまでの差で負けんのかよ!)
思わず心の中でツッコんでしまう。
数秒、抵抗するも虚しく逃げ切れないと判断した風太郎は諦めて走ろうとするのをやめた。
「やっと諦めたね」
「降参だ。それで何の用だ」
「話は色々あるけど、立ち話もなんだよね。私、一度あれに乗ってみたかったの」
女性は池の方を指さした。
遊歩道沿いに手すりが設けられている中、一か所だけ手すりがなく、代わりに池の中まで食い込むように桟橋が立てられている。
女性の指の先は、桟橋の脇に備えられていたボートを示していた。
女性は風太郎が逃げないようにするためか、風太郎の後ろを歩いてボートの元まで向かった。
前を歩く以上、先を歩く風太郎は当然のように手漕ぎボートの前側は座ろうとする。
「風太郎は反対に座っていいよ」
「いや、だがそれだとボートを漕ぐのはお前に──」
「さっき力勝負で負けたのは誰だっけ?」
「ぐっ……!」
ぐうの音も出ないほど反論ができなかった。
女性の服装は首元にはファーなども付いている非常におしとやかなものだというのに、どこにあんな力が蓄えられているというのか。
男性としてやや屈辱的な心境になりながらも言われた通りの位置に座ると、続けて女性も乗り込んでくる。
慣れた手つきで女性は船を漕ぎ始めた。
女性が漕いでいる姿を改めて見る。
オールを漕ぐ瞬間、一瞬だけ帽子のつばの下にある顔が見えそうになるが、向こうも気を付けているのかギリギリのところで見えない。
だからどうしても風太郎は、本当にこの子が記憶の子であるかという確証が持てなかったし、何より今こうして目の前にいることが信じられなかった。
それと同時に、当時の京都での思い出も反芻しているうちに風太郎は気づいたことがあった。
「そうだ、名前」
「ん?」
「名前、知らない……」
「ああ、そうだね……私は零奈。久しぶりだね」
「零奈……」
知らない名だった。
もしかしたら忘れているだけかもしれないという心配はあったが、名前を聞いてなお、蘇る記憶はなかった。
何より文句の一つもなく名乗ってくるあたり、零奈側も伝えてなかったという自覚があるのだろう。
そんなやり取りを皮切りに、世間話から始めようとする零奈。
「風太郎は京都で初めて会った時と比べるとずいぶんと変わったね。逆高校デビュー?」
けれど、風太郎にはそれに付き合ってあげられるほどの余裕はなかった。
「なんでここに……」
「君に会うためだよ」
帽子に隠れてハッキリとは見えないが、零奈はまっすぐこちらを見て言った。
「言ったよね、事情があるって。それが何なのかは言えないけど、私は今君に会うべきだと思ったから来たんだよ」
「……」
「良かったら最近の君のことを聞かせてよ。今はここで、どんなことをしてるのか」
「お前とは関係のないことだ」
事情があって会いに来た理由は話せない。そんなことを言ってくるのだから、逆に風太郎から零奈の近況を聞こうとしたところで答えてはくれないだろう。
だというのに一方的にこちらだけ話すのはフェアではないし、何より言葉通り零奈と五つ子達は無関係なのだ。
話す理由がないというのが、風太郎の考えだった。
けれど、風太郎の考えはあっさりと覆される。
「昔は乱暴だったけど素直だったのになー……なら、当ててあげようか? 風太郎は今、学年一位を取って家庭教師をしてるんじゃないかな」
「なぜそれを……!」
「こう見えて色々詳しいんだ。私」
いたずらっ子のように舌をチロりと出してくる零奈。
その様にはイラっとくるものがあるが、零奈の読みは当たっている。
風太郎本人は知らないということは五つ子側か、はたまた上杉家か中野家の親の関係者なのだろうかとも考える。
しかし、おそらく聞いても答えてくれないであろう零奈を前に、これ以上の詮索は無意味と判断して思考を切り捨てた。
「どんな生徒さんなのかな。よかったら教えてよ」
「む……」
既に会話の流れも向こうに掴まれている。
今は池のど真ん中だし、仮に陸についたとしても逃走は難しいだろう。
大人しく話すことにする。
「信じてもらえるかわからないんだが、教えてるのは同級生の五つ子で……」
「へぇ、五つ子! 世の中にはそんなのがいるんだね!」
「……」
意図的に言葉を区切ってからの零奈の反応に、風太郎は期待外れかと、目を細めた。
話を続ける。
「そいつらが困ったことに、馬鹿ばかりなんだ。
長女は夢追い馬鹿。どうせ叶いっこないないだろうが、本人はやる気はあるらしい。だが馬鹿だ。
次女は恋愛馬鹿。一度火が付いたらどこまでも突っ走りやがる……だが、それだけかと思えば器用に色々こなしやがる。まぁ、こいつだけは勉強に関しては馬鹿じゃないらしい。
三女は卑屈馬鹿。暗くて覇気のない顔をしてたんだが、時々生き生きとした顔を見せる時もある。何がきっかけなのかはよく分からない。だが馬鹿だ。
四女は脳筋馬鹿。やる気もあって頼りになるが一番の悩みの種だ。それに……いや、俺の思い過ごしか……だが馬鹿だ。
五女は真面目馬鹿。こいつとはまず相性が悪い。それにやたらと俺に噛みついてくる。だが本当はやれる奴のはずだ。だが馬鹿だ。
とまあ、こんなところなんだが、どうだ? 退屈しなさそうな奴らだろ?」
長々と話したと、我ながら思いながら零奈を見る。
零奈は毛ほども長いと感じていなかったのか、にこにことしながら聞いていたようだった。
「そっか、風太郎はそんなに真剣にその子たちと向き合ってるんだね。ならきっと君はもう必要とされてる人になれてるよ」
「はは、そう、かな」
真正面に捉えて言われた零奈の言葉は、存外嬉しかった。
かつて、京都でも同じようなことを言われたなということも思い出した。
しかし、対する自分の反応はと言えば、自分自身も驚くことに乾いた笑いだった。
そんな、自分ですら気づく異変を対面している零奈が見逃すわけもなく──
「やっぱり悩み事だ。よかったら私に話してみなよ」
「お前に話したところで、どうしようもないことだ」
「どうして?」
「俺のこの悩みは、俺自身が解決しないといけないことだからだ」
この時、風太郎の脳裏に浮かんでいる悩みというのは家庭教師のことを押しのけて、先ほどまで考えていた二乃とのことであった。
無論、家庭教師も問題ではある。
前回の中間テストでは、結局ノルマの赤点回避ができずに雇用主であるマルオに嘘を吐くことになった。
しかし、この件については解決方法が明確なのだ。あの馬鹿共の学力を上げてやればいい。
こういう時、二乃という成功例のおかげで希望はあると思えてくる。
しかし、二乃に対する考えは零奈と再開する直前まで考えていた通りであった。
自分のどこを好きになってもらえたのかという疑問もあるが、この話の問題の原因は何よりも風太郎自身の自己肯定感の低さが原因なのだ。
楽観的に考えれば、単なる杞憂かもしれないこの問題を他人に話すことは憚られた。
その相手が零奈ともなれば、なおさらであった。何故か、零奈に対して二乃との恋愛模様を語る気が起きなかった。
「わかった。じゃあ今は聞かないでおいてあげる。そろそろ着くよ」
まるで図ったかのようなタイミングで、池を一周したボートは元の桟橋の近くまで戻ってきていた。
大分広い池だというのにあっという間だった。自分であればもっとかかっていただろうと風太郎は思った。
遠巻きには噴水が高く水しぶきも上がっているのが見えた。
もしも自分がチンタラと漕いでいたら巻き込まれていたかもしれない。
ボートから降りた二人は、再び遊歩道へと戻った。
「久しぶりだったからね、いきなり沢山話しても風太郎をびっくりさせちゃうだろうし、今日はこの辺にしておくよ」
「今日は?」
「良かったらたまに会わない?」
「……!」
「日曜日のお昼。私はここで待ってるから、風太郎が話したい時に来てくれればいいよ。また別の困りごとができたら、私に話してみてよ」
そう言って、風太郎に背を向けて数歩、離れていく零奈。
たったそれだけの約束で次のアポを取ろうとする素振りは、やはり名前以外は教えないというかのようであった。
けれど、零奈は数歩先を行ったところで足を止めた。
背を向けたまま、こちらに言葉を投げかけてくる。
「教えてあげられないことばかりでごめんね。でも一つだけ教えてあげられる。どうして私が風太郎にこんなに会おうとして、困っていたら助けてあげようとするか分かる?」
「……お前が言ったんだろ。お前なりの事情ってやつが──」
「それもあるけど、それだけじゃない。違うよ」
くるりと周り、こちらを向く零奈。
少しだけ、帽子から顔を覗かせて言う。
「好きだから」
「……え……は?」
「今度は、本当だよ」
「私ね、学校辞めることにしたの」
「……は?」
電話に出ない風太郎を諦めた後、二乃が一花から聞いた話は初めて聞く話ではなかった。
「休学っていう形だけどね。他の子たちに置いて行かれないように、私も仕事に全力で向き合いたいの。今日、私が出てる映画を見てもらったのは、本気だってことをわかってもらいたくて」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……!」
それは前世でもあった出来事。そして同時に、二乃も渋々承諾したことだ。
だからこの世界でも、もしそうなった時には受け入れようと思っていた話だった。
けれど、早すぎる。
何故、今この時期にそんな話が出てくるのかと思いと、今受け入れてしまってよいのかという考えが交錯する。
その動揺を、急な話を振られたせいだけだと思っているらしい一花は、自身の発言を裏付けるかのように、決意に満ちた面持ちをした。