一花が授業に参加しなくなった家庭教師の日の翌日、風太郎は約束の場所へと向かっていた。
上杉家と中野家の中間辺りにある、敷地の中心に巨大な池がある公園。
先日、零奈との再会も果たした場所である。
道路沿いの歩道から、敷地一周ぐるりと囲むように設けられている鉄の柵の切れ目にある公園の入り口へと入る。
入り口を境界線に、石畳だった歩道は土へと地面が変わる。しかし、公園として整備されているおかげもあり道に見えるように草は刈られ、地面の土は踏み固められていた。
道なりに進むと下り坂となり、下った先の窪地には池が見えてくる。今度は池を囲むように木製の手すりが設けられており、歩道はその池を沿うように続いている。
風太郎は池沿いの歩道を暫く進むと、別の出口へ続くのであろう組んだ丸太と隙間を埋めるように土が敷き詰められた階段に差し掛かったところで人影を見つけた。
零奈である。
先日会った時と同じ、首元にファーが付いた淡い桃色の高級そうなコートを身に纏い、頭には巻の部分にリボンが付いているつばの広い帽子をかぶっている。
土と木の階段に腰を落としているが、よく見れば地面との間にハンカチを挟んでいた。
近くまで寄ると、向こうも気が付いたようで立ち上がり、腰回りを一度はたいてからハンカチを拾い上げた。
「よかった、来てくれたんだ」
「来ないかもしれないって自覚はあったんだな」
「約束とも言えない約束だったしね。風太郎が来なかったらすぐに帰るつもりだったよ」
「まあ、ここで会えなくたっていつだって会えるしな」
「え……」
風太郎の言葉に、固まる零奈。
その返事を待たずに風太郎は続ける。
「何故母親の名前を……いや、それ以前にそんな姿で俺の前に現れた。四葉」
「……いくらなんでも、こんなに早くバレるとは思いませんでした」
言いながら帽子と、続けて長髪のウィッグを取る零奈、もとい四葉。
ウィッグを丸め、帽子と体の間に挟むように体の前に持ってくると風太郎に対して首を傾げた。
「どうして私だって分かったんですか?」
「そんな事聞いてどうする?」
「質問に質問で返すのはよくありませんよ?」
「なら俺の方が質問するのが早かった」
ハァッ、と一つ溜息をつく四葉。
「本当に上杉さんは頑固さんですね……昔を思い出してほしかった。それだけです」
「本当か?」
「嘘つく理由の方がありませんよ……私の答えはこれでいいですか? 今度は上杉さんが答える番です」
「そんなにお前だってバレたのがショックなのか?」
「私達五つ子にとって、変装を見破られるのはちょっとした沽券にかかわる問題なんですよ」
「そういえば……林間学校で二乃の変装をした五月を当てた時も手のひらを反すように態度を変えたな……」
「そういうことです。五月もさぞかし驚いたのではないですかね。さ、続けてください上杉さん」
「……お前らの母親の名前を知ったのは単なる偶然だ。あの子が、零奈が五つ子の誰かかもしれないと思った後、誰が正体かなんてのは単なる消去法だった」
「少し素を出しすぎましたかね」
困り笑いをしながら、四葉は帽子などを持ったまま後ろ手に組んだ。
その姿は、風太郎の目をもってしても四葉であったし、同時に先ほどまでの零奈の姿は、五年前のあの子の姿であった。
五年前の零奈の姿は、先日の再会後に帰宅してすぐに生徒手帳に入れてる写真で確認したから間違いない。
だからこそ、風太郎はどうしても聞かざるを得なかった。
「一つ確認させろ、本当にお前が……五年前のあの子なのか?」
風太郎の問いに一拍、四葉は間を開けた。
その姿は単なるイエスノーを答えるだけとは思えないほど、覚悟に満ちた目で──
「そうだよ。改めて久しぶりだね、
「昨日だって会ってるお前にそう言われるのは、変な感じだな」
「私もです」
四葉はクスッ、と笑みを零す。笑みと共に、一瞬細めた目を戻すと池の方へと顔を向け、指を指した。
先日も乗ったボート乗り場が指された先にはあった。
「正体はバレてしまいましたが、このまま解散というのも寂しいです。また乗りましょうよ」
今度のボートは、風太郎が前の席に座りオールを漕いでいた。
ボートに乗る直前、当然のように前へと座ろうとした四葉とのやり取りだった。
『待て、俺が今度は前に座る』
『遠慮しないでください。この前だって私が漕いだんですし』
『だからだ。たかがボートかもしれないが、こういう面倒ごとは持ちつ持たれつだろ』
『──! ……わかりました』
最後はこちらに顔を見せないようにしながら、大人しく後ろの席に座ると、風太郎が前に座りボートを漕ぎだしたのであった。
ボートを漕ぎながら、風太郎は四葉を見る。四葉は自分が仕事をしなくてよくなった分、湖面へ目を向けていた。
風太郎はこの日、零奈の正体が四葉であった場合には二つのことを聞くつもりであった。
一つ目は先ほど確認した、五年前のあの子と同一人物なのか、ということ。
そして二つ目は先日、まだ零奈だと思っていた四葉から言われた言葉。
『好きだから。今度は、本当だよ』
あれが四葉としての言葉なのかどうかであった。
だが、それを四葉に直接聞くには些か勇気が必要であった。
一応、風太郎なりの予想はある。零奈という五年前の約束の子の姿で現れた真意までは分からないが、四葉が変装してまで自分に告白をしてきたのは、二乃が原因だろう。
現在風太郎と二乃は、正式な恋人関係でこそないにせよ、事実上交際してると他人から見られても否定はできない。
そんな微妙な関係だ。
二乃と四葉の二人ともが風太郎に好意を向けてしまっているならば気まずいし、言い出せないだろう。
だから、少なくとも五つ子以外の姿で風太郎と向き合おうとしたのだろうと思われる。
そんな、姉妹を出し抜くかのような非倫理的な行動を取ってしまう気持ちも、今の自分ならば分からないでもない。
恋愛感情というものが、理屈や合理性だけで完全に制御できないということを実体験でも、歴史の勉強でも学んだからだ。
だからここで四葉に、四葉として気持ちを再度吐露させるのは酷だろう。
我ながら、他人の感情を想ってやれている気がした。今ならば他の姉妹達に付けられたノンデリカシーの汚名も返上できるかもしれない。
そして、その代わりに言わなければならないことがあった。
「あー、四葉……この前のことの返事なんだけどな。お前だって知っているだろうが、俺は二乃のことが──」
「そういえば上杉さん、せっかくだからお悩み相談に私乗りますよ!」
風太郎の言葉を明らかに意図的に遮った。
発言の意図の中核をなす部分までほぼ言っている。風太郎が
明確な誤魔化しに、話を逸らすなとも言えたのだが、四葉からの申し出も関心のある話題ではあった。
「一花のことか」
「上杉さん、本当にこのまま一花の家庭教師を辞めてしまうんですか?」
「昨日二乃ともした話だな。お前も横で聞いていただろ」
「今も気持ちは変わらずですか?」
「……あの後少しあってな、今は迷っている」
昨日のことであった。
家庭教師としての授業を終わらせた後、風太郎は一花の部屋へと赴き本人にも休学を強く望んでいるのか確認した。
答えはイエス。女優という夢を真剣に目指しているし、そのためにもともと勉学が絶望的な学校に執着して足を引っ張られたくないとのことだった。
未練の無い場所にいつまでも居座るつもりはないという一花の姿が、風太郎にとって羨ましかった。
勉強しか選択肢のない自分とは異なり、失敗するかもしれないが自分の夢を見つけた一花が眩しく見えた。
それを止めることなど、できるわけもない。
だから話を切り上げ、授業も終えたし帰ろうと玄関へ移動したところで二乃に呼び止められた。
姉妹達は自室へ戻っている中、二乃だけは一花と話をしに行った風太郎をリビングで待っていたのだった。
『一花、やっぱりダメそうなのね』
『ああ、あいつ自身の口からハッキリ、学校に未練はないって聞いたよ』
『そう……』
『やけにへこむな、お前だって一花の夢は応援したいって言ってただろ』
『そうだけど、一花と一緒の学校に通えるのはこれで最後なんだもの……理屈じゃないわ』
『……』
『ねえフー君、何とかならないかな』
その後、風太郎も"何とか"と言われたところで解決策が思いつくこともなく、二乃とは解散となった。
(いや、やり方はある……だがそれをやる理由がない……)
昨日と今日が土日であるため、学校に確認は取れていないが一花が休学という手段を取るなら、卒業だけさせてやることができる。
まだ二年の後半に差し掛かった今だから一花も休学としているのだろうが、本人の口ぶり的にも本当はこのまま退学となってもいいと考えているのだろう。
そこを食い止めることだけはできる。
大前提として、一花を説得し考えを変えさせる必要はある。その上で家庭教師を継続し、復学する時に授業に遅れないようにすればよいのだ。
家庭教師継続にもやり方は三通りほど考えついている。
最善は家庭教師の契約だけは継続してもらうことだ。これには一花だけでなく、金を払う一花の父親の承諾も必要となる。
二つ目は風太郎の完全なボランティアで勉強を教えることだ。女優をしている一花なら、個人的な収入もあるかもしれないが期待しない方がいいだろう。
そして最後は、こちらが金を払う、だ。事務所に乗り込み、自主製作映画を撮影するという名目で一花の時間を買う。
最後の作戦などは、実現させるためにいくつも課題があるのも問題だった。
その課題の解決方法までは、今の風太郎では本当に思いついていなかった。
目線を上げる。昨日の二乃とのやり取りの事から現状の再確認まで、思案している間を四葉はこちらを見ながらじっと待ってくれていた。
風太郎と目が合うと、そこで四葉は初めて口を開く。
「考え事はもう大丈夫ですか? では答え合わせと行きましょう」
後日、風太郎は
あの日、四葉と話をした後で一花へ風太郎のボランティアによる個人授業の話まではもちかけたが、拒絶されてしまった。
そのため、風太郎は最後の作戦を決行することにしたのであった。
応接間の扉が開き、一花と織田が入室してくる。
「どうも」
「フータロー君……一花ちゃんのオーディションの日以来だね。もしかして、君もプロダクションに入る決意を固めてくれたのかな?」
「いや、そういう話ではなく──」
目線を一花へとずらす。
「分かってるでしょ。一花のことだ。本人から聞いている、退学をほぼ前提とした休学らしいな。それを考えなおしてほしい」
風太郎の申し出に対し、織田は拒絶の意思を示すように手を出し、首を横へ振った。
「それは無理な相談だ。保護者の方からならともかく、部外者の君の願いで聞ける話じゃない。何より彼女が決めたことだ。僕はそれを尊重する」
「そうだ、これは一花の意思を確認するための話だ」
風太郎からの申し出の拒否であるはずなのに、同調してくる風太郎に固まる織田と一花。
「え……?」
「俺はここへ休学をやめさせに来たんじゃない。ただ、退学前提なんていう後ろ向きな休学じゃなく、どうせなら卒業は諦めるなと言いに来たんだ……そのためにビジネスの話も持ってきた」
「!」
一花が気付いたように目を大きく開く。
一花には既に話している二つ目の作戦、『個人的な家庭教師の契約』のことを風太郎が言っているのだと思ったのだろう。
「それなら前に──」
だが、今持ってきている話はそれとは違う。
「俺は自主製作映画を撮ることにした」
「???」
「出演は家庭教師と生徒の二人のみ。撮影は週二回。三時間カメラの前でぶっ続けで勉強を教えるという素晴らしい脚本もある。監督権家庭教師役はもちろん俺、生徒役をお宅の中野一花さんにお願いしたい」
「お金もあります」
風太郎の説明に続いて、包みを差し出す三玖。
対して、冷や汗を垂らす織田。
ビジネスの話などと言っているが、風太郎が言わんとしていることが何か理解したらしい。
「君たち……まさか……」
「フータロー君……なんでそこまでして……」
「……ほんと、なんでだろうな。本音で言えば俺は、お前が自分で選んだ選択肢を邪魔するつもりなんてさらさら無い」
だが、と続ける風太郎。
「お前が休学するって知った時、二乃に言われちまったんだ。何とかしてほしいって」
「……つまり、これは二乃のため?」
「きっかけはそうかもしれない。だが、何とかしようと俺が動き始めたら二乃だけじゃない。姉妹全員が俺に協力してくれるって言ってきた」
「一花」
「三玖……」
風太郎の話の区切りで、続きは自分がとでも言うように三玖が言う。
「林間学校の日まで、ずっと一花は私の味方をしてくれてたよね」
「……!」
一花が黙ったまま驚き、慌てて視線を風太郎へと向けた。
だが、風太郎は三玖の話が何であるかはわかっていなかった。
ビジネスの話を持ち掛けた後の会話の展開は、流れでということになっていたからだ。
「凄く助かったし、嬉しかった。あの頃の私の心の支えは一花だった」
「……」
「だから恩返しがしたい。もしも一花が、できるなら学校にも残っていたいって思う気持ちがあるなら、協力したい」
数秒の沈黙。
一花はわずかに逡巡する素振りを見せると、顔を伏せた。
風太郎と三玖に見せた表情は、気まずい感情がある時に見せるものだ。
続けて、三玖ではなく風太郎へと向く一花。
「フータロー君。勉強ができない私が学校に残って適当に過ごすより、お仕事に専念した方がいいって思ってるんだ。中途半端が一番いけないって思うから、私はこの選択肢を選んだんだけど……私が勉強する意味って何かな?」
「お前の言う、女優と学業が両立できないなら、中途半端な方はやめた方がいいって話が正しいなら、俺は五つ子全員の家庭教師を辞めた方がいいんだろうな」
「え……?」
まったく予想していなかった答えだったのだろう。一花が固まった。
けれど、風太郎にとっては絶望的なスタートを切った家庭教師の初日からふんわりと考えていたことだった。
「俺にとっては勉強こそ専念したいことだ。借金なんてものがなければ家庭教師なんて始めることはなかっただろう」
「……!」
「だが、始めたからには責任ができる。俺がお前の父親から受けた依頼は『五人揃って卒業』だ。だというのにお前らときたら馬鹿ばかり、中間テストでも結果を出せなかった俺は仕事なんて向いてないと何度も考えたさ」
それでも続けられたのはきっと、
一花を指さす風太郎。
「それに加えて、お前がここで抜ける様なことが俺は本当に、お前の言う通り"中途半端な野郎"ってことになっちまう」
「別に私はフータロー君のことを言ってるわけじゃ──」
自分に向けての卑下だったはずなのに、予想外の受け取られ方をしたと慌てる一花。
けれど、対して風太郎は一花の静止を意に返さずに続ける。
「仕事と勉強の両立、そんなもん俺がやってみせてやる」
偉そうなことを言った手前、自分は
それよりも、今は一花だ。
正直、バイトのような家庭教師と一花の女優業では全く別物だろう。
だけど今はこうやって体現してみせることしかできない。
言葉一つで人の心が変わるかはわからない。
五年前、約束一つで自分を変えた四葉のように、人生を大きく変化させるほどのことを自分が言えるとは思えない。
「だから不器用な俺ができるんだったら、ドジなお前にだってやっていけると俺は思った。だからお前は、俺の後ろ姿を見てろ」
「──!」
言いたいことは全て言った。後は一花の答え次第だろう。
ここまで行ったところで、屁理屈を言っている気がしてならないと自分でも思った。
それでも少しでも一花の気持ちに届いてくれたのなら、そう願い三玖が持っていた封筒を差し出した。
「とはいえ全てはお前次第。生半可な覚悟ではできないだろう。しかし、もしまだ学校に未練があるなら、この金で俺に雇われてくれ」
「失礼」
直後、割って入ってきた織田が封筒をかすめ取ると封筒の封を開け、中身を確認した。
中に入っている万札の枚数を確認し終えると、再び封を閉じ、一息。
「まぁ、駆け出しの一花ちゃんなら妥当な額だろう」
「多めに入れてきたからな」
「それにしたって結構な金額だよ。学生が用意するとなると大変だっただろう」
「バイトを一つ増やしたからな」
「え」
「え」
その一言に、一花と織田が二人そろって真顔で見返してきた。
意図はわかる。この男は偉そうに『仕事と勉強を両立してやる』と、さもこれから苦難に挑戦すると言ってのけた矢先に、仕事を増やした? という目だ。
「フ、フータロー君……一応確認なんだけど、家庭教師、大丈夫なんだよね?」
打って変わって、心配するような、狼狽するような何とも言えない目で見てくる一花。
風太郎自身、いずれ話すことだが今ではない。口を滑らしたと後悔しながら、聞かれてしまった以上は答えるしかないと答える。
「か、家庭教師は二乃にも協力してもらうことになった……」
再び沈黙。
沈黙を最初に破ったのは、一花だった。
「ぷっ……あははは、かっこ悪っ! 全然やり切れてないじゃん! 途中まではよかったのに、締まらないなー」
なおも腹をかかえてヒーヒー言いながら笑い続ける一花に、いたたまれない気持ちが風太郎の全身を襲った。
三玖も風太郎の事情は心得ていたが、それでも微妙な顔でいる。
それからしばらくして、ようやく一花の笑いが収まった頃、一花がこちらを向いて言う。
「ふふふ、うん。これで私とフータロー君は同じ条件だね」
「!」
「私はフータロー君に、フータロー君は二乃に助けてもらう。これで本当に私は、負い目を感じずに君の背中を追えるよ」
それに、と一花はチラリと三玖を見て、けれどそれも一瞬でまたフータローへと目を戻すと──
「未練も少し、できちゃったしね」
話はあの日、四葉と一花をどう引き留めるかを話していた日の続きまで遡る。
「答え合わせって、俺が何考えてたかも知らないだろ」
「まあまあ、細かいことは置いておきましょう。私だって本音を言えば一花にこのまま学校を辞めてほしくはないんです。だから上杉さんが少しでも前向きになってくれただけでも嬉しいんですから、お手伝いできることがあれば聞きますよ」
「まあ、馬鹿のお前にあまり期待はしてないが正直考えに詰まってたところだ。聞き役にだけなってくれ」
「はい!」
そういって風太郎は、先ほどまで自分の考えを改めて四葉に説明した。
他者に話すことで、新たに自分が見つけられることもあるかもしれないからだ。
風太郎が知っていてやっていることではないが、一般的にラバーダッキング法と呼ばれる方法である。頭脳労働をする者が壁にぶち当たり、自身の思考だけで問題の解決が図れない時に取られる手法の一つである。
簡単に言えば、考えを話すのである。対象は人間はおろか、反応が返ってくるようなものである必要さえない。
問題の解決策を突き詰めるのではなく、言語化し誰かに話すというロジックで思考することで、混とんとしている脳内を整理し見落としているポイントや新たな発想が期待できるのだ。
それゆえ、話す対象にアヒルの人形を用いることなどもあり、ラバーダッキング法というふざけた名前が付けられているのである。
そして、何故こんな話を今したのかと言えば、風太郎は四葉に特に期待はしていなかった。
ただ、考えを整理しようとしただけなのである。
現状を説明し終えた後、風太郎は第一の課題を口にする。
「もしも一花を俺が雇うとなった場合、金が足りん」
元々一人分の教師代が減るのだ。手痛い収入の削減だ。
それに加えてこちらが金を出す意味がまるでないし、出そうと思っても出せなかった。無い袖は振れない。
「でしたら、新しくバイトを始めてみるのはどうでしょう! 私、良い募集知ってますよ。それに私も一緒に働きます!」
続けて四葉がバイトの内容を概況レベルで説明してくれた。確かに、それならば風太郎がこれまで経験したバイトよりも稼ぎが良いかもしれない。
しかし、バイトをするという案は風太郎だって考えた。その場合に出てくる次の問題は、時間だ。
「だが、俺がバイトを始めたら家庭教師はどうなる。高校生と家庭教師、それに加えてバイトの掛け持ちなんてやったら何もかも中途半端になっちまうぞ」
「上杉さんには、いえ、私達には頼りになる彼女とお姉ちゃんがいるじゃないですか」
「……! 二乃か」
二乃に家庭教師の手伝いをさせる。というのが四葉の言わんとしていることだろう。
確かに、前の中間テストの時にも少しだけ手伝って貰ったことがあった。実際、姉妹だからか風太郎が説明するよりも他の姉妹に解説が通じることだってあった。
何より驚いたのは、二乃の学力の高さだった。
風太郎が初めて家庭教師として授業をしに来た日の実力テストで二乃は高得点を取っていた。
これもまた昨日の家庭教師での話になるのだが、今までだって聞かれれば答えるぐらいはしていたが、風太郎は昨日"初めて"二乃に家庭教師として真面に授業をした。
そこで知ったのは二乃の学力は初めて会った時よりも更に上がっていたのだった。
風太郎の知らぬ余談だが、二乃は知っての通り放課後の時間を風太郎と共に過ごすために自習をし続けている。
そしてその勉強というのは全て復習なのだが、あくまでも二乃にとっての復習なのだ。
前世で高校の教育カリキュラムを最後まで修業している二乃は今の時系列で考えると、いわば風太郎以上に予習ができている。
初めての知識に触れる予習と、思い出しや失念をしないようにする復習ならどちらが効率がよいかは考えるまでもない。
よって二乃は、構ってくれない風太郎を横目に今の世界ではまだ授業でも習っていないような個所をどんどん勉強し、風太郎への質問は人生を周回していることを疑われないであろう範囲に留めているのだった。
風太郎の考えへと戻る。
四葉の提案通り、二乃に自分が不在となる日や、家庭教師として至らぬ日が出てきた時に手伝って貰えればカバーできるだろう。
四葉が補足するように言う。
「私や二乃だけじゃありません、本当は三玖や五月だって気持ちは一緒です。だからこの提案をすればきっと受け入れてくれるはずですよ」
「家庭教師としては今まで以上に給料泥棒にはなりかねんがな……」
「あはは……お父さんには内緒にしないといけませんね」
しかし、今の話だけでもかなり課題は解決されたな、と積みあがっている問題を振り返った。
残る課題は一つ。
メンタルの話になってくるため、前の課題よりは明確な回答も出づらいだろう。
「お前のおかげで一花の家庭教師は続けられるかもしれん」
「よかったです! では早速一花の元へ──」
「だが、ここまでの話は全て一花が心変わりしてくれることが前提となっている」
「!」
「今お前と話して決めたのは、あくまで一花に勉強を続けさせる手段に過ぎない。一花が、勉強を続ける理由を俺はまだ見いだせていない」
仕事と勉強の両立。
突き詰めた話、この件の本質はそこだろう。
一花は今、風太郎と同じ状況に身を置いており、その状況に区切りを付けようとしている。
だから風太郎ならば共感できるようなことを言えるかもしれないが、それだけだ。
まだ足りない。
それでは一花が自分の意思で女優の道を決めたように、風太郎の独りよがりな感傷の域を出ないのだ。
姉妹である四葉ならば、そのことに関する答えも何かあるのではないかと、これまでの明確な答えを出してくれたおかげもあり期待を持てた。
対して、四葉の回答はといえば──
「わかりません」
「なっ……!」
「私は正直、一花と同じ学校に通えたらいいなって思っているぐらいです。その想いをまっすぐ伝えることくらいはできますけど、きっと一花には物足りないんじゃないかなと思います」
その言い分には同意見だった。
正しい正しくないではない。人の心を動かすには足りないと感じるのだ。
だからもう一つ、何か理由があればいいと風太郎は思った。
すると、何かを思いついたように四葉が言う。
「でしたら、話の当日には三玖を連れて行くのはどうでしょう?」
「三玖? 姉妹全員とかじゃなくて、あいつ一人か?」
「はい。きっと三玖なら、何か言ってくれるんじゃないかなって思うんです」
「何でだよ」
「勘です!」
「堪かよ!?」
結局、期待外れだった。
三玖という個人名まで出してきたのだから、何かあるのかと思ったのだが。
「大丈夫ですよ」
「今度はなんだ……」
四葉への期待を二転三転させ、やはり自分で何とかしなければならないかと思った風太郎。
対して四葉は、薄い笑みを浮かべ風太郎へ言った。
「きっとその時になれば、
「神頼みか……お守りに願掛けしたお前らしいな」
五年前のことを思い出し、少しだけ心がほぐれた風太郎。
だがその時一瞬、風太郎本人さえ気づかないほど刹那の一瞬、風太郎は四葉に対して、肌が粟立つような冷たいものを感じた。