「あの、お姉ちゃん」
ほわほわ名残惜しい暖かさとちくちく刺してくる冷たさの狭間で、行ってきますと挨拶を飛ばして玄関を閉めてから、ついに妹が口火を切った。切ってくれ、という願望は多少混じっている。
ああ、ようやくか。
朝におはようと言ってくれたその瞬間から、妹がいつ話し始めてくれるのか、今か今かと待ち構えていた甲斐があった。
「うん、どうしたの?」
じれったい気持ちはおくびにも出さず、渡巻 律歌は朗らかな笑みに努めて振り返る。
そこには、お気に入りのダッフルコートが可愛い律歌の妹、紗綾音が何やらもじもじとしている。
うん、朝から可愛い。
ダッフルコートも可愛いが、ウチの妹は倍可愛い。
シスコンの気を滲ませつつも、努めていた笑顔が普通の笑顔になってしまう。
「……ううん! 今日は途中まで一緒しよーね!」
そんな妹は、一瞬だけ言葉を選ぶように黙ってから、にぱっ、とすぐに何でもないような笑顔を取り繕ってから、子犬のように律歌へとじゃれついてきた。
子犬。
先日、小耳に挟んだ紗綾音がクラスで子犬のような扱いを受けている、という話を思い出し、ピッタリじゃないかと若干ツボにはまってしまった。
どうしよう、妹の頭に犬の耳が見える。
紗綾音の笑顔が、逆に笑いを堪えるようにピクついた。
そうじゃなく。
可愛い妹をわしゃわしゃ撫で回したい気持ちをぐっと堪えつつ、紗綾音が毎朝早起きさんだったら毎日一緒なのにねー、と律歌は軽く妹を言葉でつんつんとしてみた。
「今日は特別なんだよーん。なんだか分かんないけど、早起きしちゃう日ってあるよね」
「お願いだから、授業中に寝ないでね」
「大丈夫だよ。みんな目を瞑ってくれる、はず!」
「沙夜ちゃんに連絡しとこうかな……」
「わーん! なんでお姉ちゃんまでサヨチを保護者枠にしてくるのー!?」
残当。
お姉ちゃんまで、ということは、他からも彼女は妹の面倒をみる係だと思われているのだろう。迷惑を掛けて申し訳ない。
今の授業ってだいたい復習ばっかりだもーん、とぶーたれる妹の手を握りながら、学年末試験も来週なんだから大事なことだよ、と律歌は心を鬼にして唇を尖らせる。
そーだけどー、と口では不服そうにしながらも、握られた手を紗綾音はブンブンと大きく振ってくる。握られた律歌の手もつられて大きくブランコだ。
朝も早くからテンション高く、妹はいつものように元気そうに見える。
見えるだけ、だが。
いつもより明るめにメイクして、目元もしっかり仕上げているにも拘わらず、紗綾音の目元が少しだけしょんぼりしているのが律歌の目にはハッキリと映っている。
今でこそメイクで誤魔化してしまっているが、朝一番におはようと顔を合わせたときは、その目の周りには僅かに隈が浮かんでいた。
何か、あったな。
顔を合わせたその瞬間から、それだけは勘付けた。
いつもなら、律歌が食後の紅茶でも飲んでいるような時間に、大きな欠伸をしながらもそもそリビングに顔を出しつつ、おはよー、とふにゃふにゃした可愛い声で挨拶をしてくれるというのに、今日に限っては律歌が朝ご飯を食べるより前に起きてきて、おはよう、である。
今日は随分早起きじゃないか、と驚く父とは対照的に、驚きすぎた母が父に向かって 「あなた、遅刻……」 とか本気で焦っていた。
失礼すぎなんじゃないかな、と妹が朝から元気に吠えて、父も母も笑っていたものの、たぶん、2人とも妹の様子がおかしいことは察していた、と思う。
いや、両親とも確実に察していた。
ただ、どうしたのか、と直接的なことは両親とも尋ねなかった。律歌もそれに倣った。
もっとも、父だけは、察した以前の問題として、紗綾音の様子がおかしい原因を、なにか知っているようだった。
「昨日はごめんな」
一番最初に家を出る父が、仕事に行くその直前になって、そんなことを言って紗綾音の頭を撫でたときは、母と一緒に律歌の目尻が確かに吊り上がった。
母の顔には、知っていることを全部吐けこの野郎、という文字が書かれているようだった。怒らせれば怖い母である。
そんな律歌の顔にも、紗綾音を落ち込ませるとか何言ったんだこの親父、という文字が殴り書きで書かれていた。似た者親子である。
母と姉の表情に気がつくことなく、紗綾音はへにゃりと笑顔を浮かべ。
「ううん、大丈夫、お父さんのお仕事だったら言えないよね!」
と、両腕でガッツポーズをするようにして元気アピールだ。
それはつまり、今日は元気じゃない、という証言である。
昨日、父となにを喋ったのだろうか。なにか悩み事なのだろうか。お姉ちゃんには相談してくれないのだろうか。無理に聞き出すのはちょっと紗綾音を傷つけそうで怖いなぁ。
などなど、悶々としながら久々に紗綾音と一緒に朝食をとって、家を出た。
そして久々に、妹と一緒に登校である。
「うにゃー、今日もさんぶいねー。夜は雪降ってなかったんだけどなぁ」
「豆知識。夜が晴れてると、朝は寒くなるんだよ」
「え、そーなの? なんで?」
「湯気とか暖かい空気って上に昇るでしょ? 夜の間に雲があったら暖かい空気が逃げないように蓋されるけど、晴れてたら逆に暖かい空気が逃げ放題になっちゃって、結果として朝に寒くなっちゃいます。これを放射冷却と言います」
「ほえー、学校ついたら忘れそー」
「お姉ちゃんは泣きそー……」
わいわい喋って、妹と歩く。
妹はいつものように、明るく元気にお喋りをする。
ニコニコ笑顔で、楽しそうな表情だ。
でも、なんだか身振り手振りが少ない気もする。歩いているし、手を握っているし、反対の手はコートのポケットに入れているから、身振り手振りが少ないのかもしれないが。
こうして今のお喋りしている妹が、どことなく元気なさそうだな、と思えるのは、朝の様子を見ているからかだろうか。
もしかしたら、今の状態で朝会えば、なにか変だな、という違和感すら抱いていなかったのかもしれない。元気がなさそうなのも、寝不足で、なんて言われたら信じてしまうかもしれない。
もしかして、妹は今までも、こうやって悩みや不安を取り繕ってきたのだろうか。
自分はそれを、今までちゃんと、気がつけてきただろうか。
ちゃんと、お姉ちゃんを、できてきただろうか。
傍から見れば元気そうにしか見えない妹の様子を眺めて、段々と律歌の方が不安になってきた。
「そー言えば、ウチは来週テストだけど、お姉ちゃんのところもテストなんだっけ?」
「そうだね。紗綾音はちゃんと勉強できてる?」
「おおっと、これは藪からスティックな話題だったよー。そうじゃなくてお姉ちゃん、高校も今週は短縮授業だったりするのかなー、ってね」
「紗綾音、それは藪蛇って言うんだよ。薮をつついて蛇を出す。今日はバイトに行くまで国語の勉強しようか?」
「い、い、いらないでーす。今日は友達と午後からわいわいする予定がありまーす」
「ああ、テスト勉強?」
「どっちを選んでもお勉強だよねそれ!?」
オーバーリアクションで嘆く妹を見てから、律歌はクスリと小さく笑う。
笑ってから、はっとなる。
いけない。完全にいつもの調子だ。
やっぱり妹はなにも悩み事はなく、珍しい早起きとそれによる若干の寝不足だっただけなんじゃないか、という仮説が律歌の頭の中でプラカードを掲げながらスタンドアップをし始めている。
そんなわけあるか。
妹は確実になにかお悩みごとを抱えている。
そのはずだ。
お姉ちゃんを舐めるな。
心の中で律歌は気のせいなんじゃないか説の頭を押さえ付けて座らせようとするが、どうにも自信がない。
姉なのだから、妹の気持ちは察せられて当然なのかもしれない。
しかし正直、律歌は人付き合いがあまり得意ではない。
究極的には仕組みの通りに動くことが分かりきっている機械と違って、人の心は複雑怪奇。
他人の気持ちを察するというのは、律歌の苦手科目と言って良い。
機械弄りが好きなのは、人と接することに苦手意識を持っているその反動なのかもしれない。
そんな自分が、妹だからといって、その心中を察することができるだろうか。
もしかして、的外れなことを考えているんじゃなかろうか。
妹がなにかの悩み事を抱えているというのは、全部気のせいなんじゃなかろうか。
自分は妹のことを、実はなんにも分かってないんじゃなかろうか。
そんな不安が、顔を覗かせる。
いけない、ダブルで不安になってくる。
「わー、もう信号機だー」
はっと顔を上げる。
気がつけば、自分の行く高校と、妹が行く中学校の、分かれ道。
お喋りしながら、そしてモヤモヤしながら、そうやって歩いていたら、あっという間に辿り着いてしまった。
あー、お悩み相談的なお話はなしかー。
そんな残念な気持ちと共に、やはり妹は別に悩みはないんじゃないのか、という疑念がふつふつと湧いてくる。
だが、父の言葉的に、昨日妹に何かあったことは確定で。
だが、一晩で自己解決している可能性もあって。
だが、実は本当に悩んでいる可能性もあって。
だが。
どうするのが正解なのだろうと、うーん、と心の中で悩む。
こういう正解のでない分からなさがまた、律歌が人付き合いを苦手としている理由の1つである。
これを克服したいが故に、対人接客のアルバイトを短期だけとは言えどもはじめたというのに、なんとも不甲斐ない。
こういう場合、どうやって妹と接すれば良いのだろう。
世のお兄ちゃんお姉ちゃんは、どうやって妹と向き合っているのだろう。
秋水は、どのように妹と、接しているのだろう。
「…………」
「お姉ちゃん?」
横断歩道をだいぶ前にして、突然立ち止まってしまった律歌に手を引かれる形で紗綾音も立ち止まり、不思議そうに振り返る。
律歌の顔が、真っ赤になっていた。
いや。
いやいやいや。
いや、いや。
なんで今、彼のことを考えたのか。
唐突すぎやしないだろうか。
ああ、いや、いいや、そうか、落ち着け。
彼もまた、妹を持つ、お兄ちゃんだった。
思考の流れ的に、例えば、という感じで彼のことを思いだしたんだろう。きっとそうだ。
妹からは怒られてばかりだとか言っていたが、きっと兄妹仲は良いハズだ。そんな感じがする。なんとも優しそうなお兄ちゃんだろうし、彼は。
だから、ほら、きっと妹の悩み事とかの相談も、受けてたりとか、するんじゃないかなぁ、なんて、思っただけだ。
うん。
突然コンビニの常連客である、筋肉質で逞しい男性を思い浮かべてしまった律歌を、紗綾音はどうしたのかと数秒程まじまじと眺める。
「あー……」
そして紗綾音が、なにかに勘付いたように小さく声を上げた。
あ、不味い。
律歌は妹の呟くようなその声に、ひくり、と口端を引き攣らせる。
人付き合いを得意としない律歌とは正反対に、妹は人付き合いがめちゃくちゃ上手だ。
コミュニケーション能力が、ずば抜けて高い。
そして、他者の心情を察するのが、とても上手い。
これはたぶん、からかわれる。
結構ウザめなからかい方をされる。
どうにも妹は、姉と秋水をくっつけようとするのだ。
ばか。
ばかばか。
違うから。
そういう関係じゃないから。
何回そう言っても、好きなんでしょー、とか妹は言うのである。おばか。
彼にそういう感情は持っていないのだ。ただのバイト先の常連さんと言うだけだ。失礼でしょおばか。
「いや、ちが―――」
からかわれる前に先んじて否定してやろうと律歌は声を上げ、ついで妹から手を離して両手を挙げて無罪のポーズでも取ろうかとした。
しようとして、妹の手から自分の手を離そうとした。
その手を、妹が、ぎゅっと握り締める。
手が離れず、思わず言葉も詰まった。
「お姉ちゃんは、棟区くんのこと、好きなの?」
まじまじと見定めてくるような視線を向けたまま、妹がそんな質問を口走る。
にやぁ、と笑うことなく。
からかうような色もなく。
妹にしては珍しく、平坦な感じで、真面目な感じ。
「ち―――」
違います。
反射的に、真っ向否定の言葉が喉元まで出かかった。
出かかって、妹の顔を見た。
まじり、と律歌を見ている。
その表情は、どこか読み辛く、いつもの戯けた様子がない。
なんだろう。
これは、真面目な質問なのだろうか。
ちゃんと考えて、真面目に答えた方がいい感じなのだろうか。
いや、とは言えど。
質問の内容自体は、昨日も一昨日も散々受けた内容とほぼ同じだ。
好きかどうかとか、なんでこんなに恋愛一色色惚けた話が好きなのだこの妹は。
やはり、ここはびしっと、違います、と答えるべきなんだろう。
あ。
いや待て。
違います、という返答も、それはそれで変じゃないか。
好きなのか、という質問に対して、NOと突っぱねるのは、意味が違うというか。
だってそれ、つまりは彼のことが嫌い、という意味になってしまう。
嫌い。
あの人のことが嫌い。
それは、ない。
ないだろ。
だって、良い人だし。
優しい人だし。
怖そうな見た目なのに、全然違ったし。
困っていたところを助けてくれたし、率先して守ってくれたし、オタクな面にも引かないでくれたし、お話も聞いてくれたし。
そんな人を、嫌いとか。
ないない。
じゃあ、妹が言うように、好きなのか。
いや、それもまた、そうじゃなくて。
好きと言っても、別に疚しい意味なんかじゃなくて、こう、人間的な意味というか、尊敬的な意味というか。
なんというか。
その。
ねぇ?
「……き、嫌いじゃ、ない、です」
そして、返せた言葉は、こんな残念な感じである。
真っ直ぐ見つめてくる妹の目から逃れるように、油の切れた蝶番のようにゆっくりと顔ごと視線を逸らしながら、律歌は絞り出すような声でなんとも中途半端な答えしか返せなかった。
顔が熱い。
耳が熱い。
なんか、無性に恥ずかしい。
「そ、そりゃ、良い人だなって思うけど、だからってそんな、好きとかそんなんじゃなくてね……」
若干早口になりながら、そして顔を背けてしまったままに、律歌は言い訳のような言葉を並べる。
そう、好きとかそんなのじゃないのだ。
恋愛的な意味なんて一切ないのだ。
彼のことは尊敬している。
それで良いじゃないか。
全く、ウチの妹はすっかりませちゃって。
男女の関係は惚れた腫れただけじゃないんだぞ。
そんなことを考えつつ、顔を真っ赤にしたまま律歌は妹に説明を口にしようとして。
ぐっと、握った手を引っ張られた。
「うん、そうだよっ! 棟区くんはね、良い人なんだよっ!」
いきなり握った手を引っ張られ、そして体を引っ張られ、律歌は妹の方へと引き寄せられた。
妹と比べても悲しいことにかなり小柄である律歌は、いきなりということもあって抵抗する間もなく、妹の胸に跳び込む形となって、しかもその上から妹にがばっと抱き締められた。
突然のハグ。
なんだどうした。
今日は情緒不安定さんか。
「ひょぇ!?」
「棟区くん優しくて、いっつも周りに気をつかえる、良い奴なんだよ! ちょっとイジワルさんなところもあるけど、それでも本気で嫌がることはしない、ちゃんとした善人野郎なんだよ!」
律歌を抱き締めたまま、妹がぐっとガッツポーズをする。
急にテンションが高いじゃないか。一体全体今日はどうした。とりあえず耳元で大きい声は出さないで欲しい。
「そうだよ、私が信じなきゃっ!」
なにをだろうか。
秋水の話をしているっぽいが、彼がなにか疑われているのだろうか。
妹の胸からぷはっと顔を上げ、その顔を見上げる。
何故だろうか、妹の目が、急に元気そうだ。
「ありがとうお姉ちゃん! わたし頑張るんるんだよ!」
「え、あ、うん、同じくらい勉強も頑張ってね」
「……それだ! お勉強だ! ちゃんと知るんだよ!」
「へ? ほんとに頑張ってくれるの?」
よく分からないので、とりあえず勉強しろと刺してみれば、まさかのやる気発言だ。
テストの前日じゃなくて1週間も前から頑張る発言とは、お姉ちゃんとしてはちょっと嬉しい。いや、日々日頃頑張れという正当なるツッコミはあるかもしれないが、今からでもやる気を出してくれるだけでも嬉しいじゃないか。
「わたしが棟区くんのこと、ちゃんと知っちゃえばいいんだよ! 知らないことより怖いことはないんだぞー!」
違うんかい。
え、秋水のことを知る?
妹はさっきから、なんの話をしているのだ。
「えっと、お勉強は?」
「そう、棟区くんをお勉強だ!」
「学校のお勉強は?」
「それはみんなと頑張る!」
「1人でも頑張って?」
何故か知らないが急に復調して元気になった妹の腕の中から脱出しようと、律歌はもがもがと足掻いてみるが抜け出せず。
そして、くすくす笑い声が聞こえて慌てて周りを見てみれば、近くにいた何人かの通行人が、こちらを見て笑っているのだった。
朝っぱらからなんという辱め。
「わたしが疑っちゃ駄目だよね! うん、もっと棟区くんとお喋りしてみるよ!」
「はーなーしーてー」
なにやら決意と共に宣言する妹の腕の中から、しばらく律歌はじたばたするのだった。
この辱めは、5分くらい続いた。
「自分が信じなければ」=「心のどこかで疑ってます」
そうだね。知らないことより怖いことはないね。45話と同じサブタイトル。
でも、知られたくないことの方が、この世には多いんだよ(ニッコリ)