世界とは、こんなにも綺麗だったのか。
教室の窓際、教科書を広げて授業用のタブレットこそ手に取っているものの、制服に身を包んだ彼女は、ぼんやりと窓から空を眺めていた。
良く晴れている。
空が青い。
浮かんでいる雲が綺麗だ。
鳥が飛んでる。
世界って、こんな色に溢れてたのか。
完全に心ここにあらず、といった様子である。
ちなみに、授業の真っ最中である。
雫金高校1年生、運動も勉強も平均以上に軽くこなせる才色兼備のスーパーガール、錦地 美寧は朝からこんな調子であった。
いつもであれば、授業中は真面目に講義を聞いて、休み時間には復習まで行う、そんな向上心前のめりみたいな美寧なのだが、今日は様子がまるで違った。
朝から、ぼやぁ、としているのだ。
眠たそう、というわけでもなく、ただただ授業に集中できず、美寧はぼんやりとしていた。
なにか様子が変だ。
明らかにいつもと違う。
完璧超人の見本みたいで若干近寄りがたくとも、それでもクラスでは高嶺の花として注目されている美寧の異変に、クラスメイトは各々なにかを疑うような、そして心配するような目でちらちらと美寧を見ていた。
しかしながら、そんな目線に気がつくことなく、美寧はどこかアンニュイな雰囲気で窓から外を眺めている。
たまに、溜息。
なんと言うか、少し気の強そうな美人系である美寧の溜息は、本日は随分と色っぽい吐息であった。
近くの男子がドギマギしていた。
再度言うが、授業の真っ最中である。
高校1年、3学期、学年末試験が目前と迫った最後の追い込み授業だ。
もはやテストのための授業と言って良いレベルの授業だ。
それなのに、美寧はその授業を完全に聞いてない。
そんなクラスのアイドルの様子が気になって気になって、大半の生徒が美寧の様子を窺っていて授業に身が入っていない。
誰も彼もが上の空、といった教室の雰囲気に、数学教師は泣きそうになっていた。
「……えー、錦地」
タブレットの画面共有ではなく、黒板へチョークで例題を書きながら、教師はどこか疲れたように美寧を呼んだ。
が、ガン無視。
美寧、ガン無視。
教師に呼ばれたことに全く気がつかず、美寧はぼんやりと流れる雲を目で追っていた。
「錦地 美寧さん?」
再度美寧が呼ばれる。
んー、と美寧は軽く喉を鳴らすような声を漏らすだけで気がつく様子がなく、結果として再び教師をガン無視した形となった。
なんだ、んー、って。猫か。
随分とふにゃっとした、高めのキーで、艶めかしい感じの、んー、だった。
隣の男子の顔が赤い。
「ちょ……錦地さん、錦地さんっ」
「へ?」
流石に見かねた美寧の後ろにいた女子が、つんつん、と美寧の背中をノートでつついて呼びかける。
そこでようやく美寧が気がつき、黒板の方、というか教師の方へと顔を向けた。
俺の授業ってそんなつまんねぇかな、と教師は若干煤けた様子。
「錦地、全然聞いてなかっただろ?」
「あ、はい、聞いてませんでした。ごめんなさい」
「まあ素直」
素直に聞いてなかったと告白する美寧に、がく、と教師の肩が落ちる。
やっとこ授業の方へと意識を向けてくれただけ良しとするべきか、ぽりぽりと頭を掻いてから教師は黒板に手書きで書いた物を指でさした。
黒板に書いてあるのは、ただの数字の羅列のようだった。
『① 1、4、9、16、25……』
『② 1、-2、3、-4、5、-6……』
そして、その下に続けて③とだけ書かれていることから、3番目の問題も今から書こうとしていたところだったようである。
はあ、と今度は教師が呆れたように溜息を1つ。
「それじゃあ聞いてなかった錦地、この①の数列問題、50番目の数を求めてもらおうか」
「2500です」
「はやーい」
ちらりと黒板を一瞥しただけで、美寧はさらっと答えを叩き返した。
流石は文武両道を地で行く秀才。自慢の変化球を打ち返されたピッチャーのような気分である。
「じゃあ、解説できるか?」
「平方数の列ですね。項の2乗が答えになるので、50項なら50の50倍で2500になります」
「おー、正解……」
「②は交互変化のパターンです。奇数が正数、偶数が負数、値は自然数の列です」
「そこまで聞いてなーい」
さらには質問してない問題まで解かれてしまった。
いや、数列の基礎みたいなところだから、別に凝った問題じゃないのだけれど。
むむむ、と教師は頭を捻る。
この天才少女、授業なんて受けなくても大丈夫なんじゃないか状態だ。流石にそれはちょっと学校としては不味い。
少し考えてから、教師はにっこり笑って美寧に問いかけることにした。
「んじゃあ錦地、口頭で問題だ。1から連続する奇数を足していったとき、合計が121になるのは何項目になる?」
「初項1、公差2の等差数列で、n項までの和はnの2乗。121は11の2乗なので、11項目までの和です」
化け物ではないだろうか。
目で数字を確認することなく、耳で聞いただけで解きやがった。
しかも、ほぼノータイム。
「……ある等差数列で、第3項が14、第7項が26のとき、その初項と項差は?」
「第3項と第7項の差が4項分で12。なので項差は3です。そこから初項は8になります」
「こりゃ不味い。普通に逆から考えてくれてる。なら、そうだな……」
ふーむ、と教師は考える。
なんと言うか、美寧はしっかりと秀才だ。
流石は、あの姉と同じ血を引いているだけはある。
前に受け持ったことがある、雫金高校始まって以来の天才であった美寧の姉のことを少しだけ思い出して、教師は少しだけ笑った。
そして黒板の方へと顔を向け、①、②、と書いたその下の、③、の続きをチョークでカツカツと書き始める。
『③ 1、2、4、8、16……』
教師は5つ目までの数を書いてから、再び美寧の方を見る。
「こいつの第12項は?」
「…………」
ざわり、と教室がざわめいた。
なんだあれ。
2倍だから。
えっと。
他の生徒が戸惑ったように声を上げている。
逆に問われた側の美寧は、少し黙ってしまった。
まあ、ちょっと難しくしてしまった自覚は、教師にはあった。
単純な数列ではあるが、先程までの等差数列とは違って指数表現というのを混ぜている。
流石にちょっと意地悪だったか。
ヒントで6番目に、32、という数字を書こうかと、教師はちらっと黒板を見る。
見るのと、その声が静かに響いたのは、同時だった。
「2の11乗で、2048です」
これは参った。
黒板に追加を書き込もうと伸ばしかけていた右手を、教師は諦めたように左手と共にゆっくりと上げる。
「……お手上げだー。降参降参。ちなみに項差は分かるか?」
「1から始まって、それが2倍されていくので、n項のときは2のn-1乗です」
「正解」
ぐうの音も出ないとはこのことか。
確かこの問題、キミのお姉さんにも出したんだよ。
そう言おうかとも思ったが、亡くなった姉の話を妹に切り出すのは、いくらなんでもデリカシーがなさ過ぎるだろう。
姉妹揃って、まあ、扱いに困るな、と教師は再び溜息である。
「いや凄ぇけど、頼むから授業はちゃんと受けてくれよ。皆の気が散って困るんだ」
「ごめんなさい」
こんな授業なんて聞かなくても、今度の学年末試験は問題なさそうだ。
なさそうではあるが、それはそれとして教師が釘を刺せば、しれっとした表情のまま美寧は素直に謝った。まあ、ぼんやりしていたのも、悪気はなかったんだろう、と思いたい。
美寧はすんとした表情でタブレットの方へと目を落としたのを確認してから、教師は苦笑しながら再び黒板に向き合う。
「えー、錦地が全部やっちまったけど、とりあえず数列の復習なー。とにかく規則性を見抜く必要があってだな――」
そのまま授業に戻ったことにより、ざわついていた教室は静かになり、どことなくほっとしたような雰囲気が流れる。
なんだ今の。
すげぇ。
全然分からんかった。
所々でそんな小声が漏れていた。
時間をかければともかくとして、普通ならば即答で答えられるような問題ではなかったはずだ。
それを美寧は、最後だけ数秒置いたが、ほとんどを即レスで答えていた。流石すぎる。
今日は朝からぼんやりしていた美寧であったが、単純に今日は調子が悪いだけなのかもしれない。
どこか気怠げな雰囲気を醸し出している美寧を、心配そうに何人かのクラスメイトがチラ見しつつ、授業は続いた。
流石に注意を受けた美寧も、外の様子へ気を散らすことなくタブレットと教科書を交互に見つつ、真剣に授業に取り組んでいる様子である。
ちなみに、そんな美寧の内心は。
(はぁぁぁ、先生って今頃なにしてるのかなぁぁ。やっぱお仕事だよねぇぇ。どんなお仕事してるのかなぁぁ。気になるぅぅ)
全く真剣に授業へ取り組んでおらず、調子が悪いどころか頭の中身が絶好調のご様子であった。
今日はもう、いや、昨日の時点でもう、美寧はすっかり色ボケてしまっていた。
好きな人ができた。
好きな人だ。
顔が思い浮かぶ。
照れる。
思わず、にへ、と表情筋がだらしなくなりそうなのを引き締める。
好きな人。
棟区 秋水。
逞しくて大きな体に、厳つく渋く怖い顔。子供が泣いて逃げ出しそうな威圧感。
だが、そこが良い。
そこが善い。
そんな彼は、とてもとても優しくて、美寧のことをよく見てくれて、凄く褒めてくれて、とてもかっこいい。
だが、美寧は秋水のことを、なにも知らない。
年齢はいくつなんだろう。
誕生日はいつなんだろう。
どんな仕事をしているのだろう。
職場でもあの丁寧な喋り方なんだろうか。
好きな食べ物はなんだろう。
今日の朝ご飯はなんだったのだろう。
スマホはどこのを使っているのだろう。
車は乗るのだろうか。
どんな趣味があるんだろう。
ジムでしか出会わない、筋肉モンスターみたいな秋水のことを、美寧はなにも知らない。
知らない、からこそ、妄想が止まらない。
仕事着はどんなのだろうか。
作業服を主に取り扱っている 『働く男』 で服を買うとのことだから、やはり建築とか工場とかの現場の人なんだろうか。作業着とかめっちゃ似合う。ツナギ服とかもいけるかもしれない。
いや、あれで案外ホワイトカラーなお仕事な可能性だってある。彼のスーツ姿。膨れ上がった筋肉でぴっちぴちのワイシャツに、窮屈そうなジャケットを。想像しただけで鼻血が出そうなほどに色気がある。
もしくは見た目通り、ヤのつくご職業だったらそれこそどうしよう。やばい。めっちゃ痺れる。和服とか着せたい。
朝から、いや昨日から、そんな妄想が美寧の頭にてんこ盛りである。
ああ、楽しい。
なんか分からないけど、めっちゃ楽しい。
クールな表情で授業を受けつつ、美寧の頭は全力で浮かれていた。
何故だろう。
教室がとても明るく感じられる。
空がとても綺麗に見える。
風がとても心地よく感じられる。
世界が輝いている。
何で今まで気がつかなかったのだろう。
今までずっと、世界は暗くて、息苦しくて、全部が嫌だったのに。
ずっとずっと、押し潰してくる重苦しくて汚いものが、美寧の知る世界というものだったのに。
彼が好きだと、秋水のことが好きなのだと、そう思い知ったその瞬間から、目に写るもの、耳に聞こえるもの、肌で感じられるもの、全てが全て綺麗でキラキラと輝きだした。
心が弾んでる。
心が軽い。
楽しい。
人を好きになるって、こんな感じなのか。
心が躍るって、こんな気分なのか。
世界は、こんなにも綺麗だったのか。
授業が終わるチャイムが鳴った。
今、何限目だっただろうか。
そもそも何の授業だったっけ。
いけないいけない。ちゃんと勉強に身を入れなくては。
今度の学年末試験だって、ちゃんと結果を出さなくては。
(……先生って、勉強できる女、可愛くないとか思わないよね!?)
美寧は頭を抱えた。
その内心を知ったら教師も同じく頭を抱えただろう。
ああ、駄目だ。
やることなすこと、全部思考が秋水の方へと向かってしまう。
浮かれてる。
めちゃくちゃ浮かれている。
だが、そんな浮ついた感じもまた、楽しい。
「あ、あの、錦地さん? 大丈夫?」
「え、ああ、うん。大丈夫だよ。あ、さっきの授業はありがとね」
授業が終わったと思ったら急に頭を抱え始めた美寧を心配するように、後ろの席の子が声を掛けてきた。
そう言えば、先程授業中に美寧をつついて呼んでくれたのもこの子だ。
抱えた頭を上げながら、にぱっ、と笑顔を浮かべながら美寧は振り向いて答えるついでにお礼を言った。
何故か、ぽ、と顔を赤くされてしまった。
「な、なんか今日の錦地さん、可愛いね……」
「え、そう? ありがと。鈴山さんはいつも可愛いよ」
「う……ぅひゃぁぁ……」
今度はお礼ついでに褒めて返せば、さらに顔を赤くして逆に向こうが恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。どうしたのだろう。
しかし、可愛いか。
気分は浮かれているが、表情には出していないつもりだ。
それに、メイクはいつもと変わりがないはず。
となると、あれだろうか。
肌の調子が良い。
メイクのノリは肌の調子で8割決まる。
昨日も今日も、よく寝れた。
いつもの悪夢なんて全く見ることなく、よく寝れた。
姉も母も父も夢に出てこず、魘されて呼吸困難に陥りながら起きることなく、ゲロを吐きそうになって飛び起きることもなく、ぐっすり朝まで快眠だった。
なんなら、夢に秋水が登場した
良い夢だった。
内容は恥ずかしいから言えないが、とにもかくにも良い夢だった。また見たい。
昔からずっと睡眠障害気味だったのに、そんな最高の熟睡状態が2日連続である。
朝に起きたら絶好調。
ついでにお肌も絶好調。
だから、メイクのノリがいつも以上に良かったんだろう。
うん、私って可愛い。そして美人さん。
秋水はどちらの方がタイプなんだろうか。
また思考が秋水の方に逸れてしまった。
ふふ、と思わず美寧が小さく笑いを零すと、恥ずかしさで顔を伏せていたクラスメイトが笑われたと思ったのかさらに縮こまった。おっと失礼。
「や、やっぱり錦地さん、いつもと違う……」
「そう? そうかも?」
軽く笑いながらボカしつつ、美寧は上体を戻して机に向かい、出していた教科書を鞄にしまい、代わりにスマホを取り出した。
わざとらしくないように美寧はゆっくりと片手で口元を隠す。
そして、スマホの画面をつけた。
ロック画面は、秋水の写真。
手で隠した口元が、にへ、と緩んでしまう。
駄目だ駄目だ、これを見ると、どうしても笑ってしまう。
ついでに幸せな気持ちになってしまう。
麻薬みたいだ。
ジムで撮影した秋水の写真を壁紙にしてしまった。これは秋水自身にバレたら、きっと気持ち悪いとか思われるかもしれない。でも、ちょっと我慢できなかったのだ。
よーし。
今度、今度ジムで秋水に逢ったらな、連絡先とか、交換しちゃおうかな。
緩んだ頬が、熱を持つのを感じてしまう。
いけないいけない、顔が赤くなる。
美寧はプルプルと頭を振る。
いや別に、疚しい理由なんてない。トレーニング内容の相談とか、自宅でできる種目の相談とか、フォームの確認とか、そういう連絡が取れたら楽だなぁ、と思っただけである。
筋トレの話題しかない。
連絡先を交換するのは、もうちょっと秋水のことを知ってからの方がいいだろうか。
いやでも、我慢できるだろうか。
知りたい。
連絡先を、めちゃくちゃ知りたい。
むーん、と美寧は天井を見上げるようにして思い悩む。
後ろの席から、と言うか教室のあちらこちらから、今度はなにしてるんだろ、という視線を向けられているのだが、今の美寧にはそれに気がつく余裕などなかった。
と、そこでスマホが震えた。
「おっと」
画面を見れば、メッセージの通知。
母からだ。
なんとなく用件が予想できてしまいながらも、美寧は反射的に画面をタップしてトークアプリを開く。
『今日は仕事で帰れないから、戸締まりはよろしく』
母からのメッセージは、そんな簡潔なものであった。
本当に仕事だろうか。
いや、仕事かもしれないけれど、そうじゃない可能性も高い。
どうせ浮気相手の男と、家庭を顧みずにいちゃこらしてくるのだろう。
まあ、父も今日は同じく浮気相手の所に行くらしいから、ある意味お似合い夫婦なのかもしれない。
母も父も、自分が結婚した相手より、浮気相手との恋愛の方が楽しいんだろう。
ふーん。
母のメッセージを見下ろしてから、美寧はたぷたぷと慣れた指捌きで返事を書いて、迷うことなく送信した。
『今の浮気相手の男、どうやって堕としたのか教えて下さい』
即座に既読がついた。
鬼のように通話着信のバイブが鳴った。
美寧ちゃん、色ボケちゃった(´゚ω゚`)