なんのために生まれて、なにをして生きるのか。
答えよう。
愛だ。
なにがキミの幸せ、なにをして喜ぶ。
答えよう。
愛だ。
『今日も仕事で遅くなるから、母さんにはそう伝えておいてくれ』
『今の浮気相手って父さんから誘ったの? それとも、向こうが誘ってきたの?』
さて、さてさてさて。
決戦の時間だ。
父から送られてきたメッセージに対して特大ホームランを叩き返した後、スマホに表示されている時間を確認してから錦地 美寧はすくりと立ち上がる。
自宅。
美寧しかいない錦地邸。
両親はどちらもおらず、がらんとして寒々しているはずの家なのだが、そんなことは一切気にもならなかった。
ふ、ふ、ふ。
確かに母さんも父さんも浮気相手といちゃいちゃしてるのに忙しくて家にあんまり帰ってこないけど、それは逆に言えば家に自分しかいないという意味だから最高の空間と捉えることもできるじゃないか。もしも仮に先生を連れ込めるとした場合はあれだよ、伝説の「今日は両親いないの……」とかいうヤツができるということじゃないか。最高じゃないか。結構結構、母さんも父さんもどっちも帰ってこなくていいよ邪魔だから。いやでもたまには恋愛相談したいから母さんはたまに帰ってきて欲しいか。父さんはどうでもいいけど浮気相手のお姉さんの話は聞きたい。
最低限の明かりしか灯していないせいで薄暗くなってしまっている廊下を、不気味な笑いを零しながら美寧は歩く。
まずはシャワーだ。
シャワーを浴びよう。
汗はちゃんと流さねば。
えっちな意味ではない。ただの恋する乙女の清潔習慣である。ジムに行く前にまずは心と体の浄化をちゃんとしなければ。好きな人に会うのにフケとかあったら死ねる。いや死ぬ。リアルに。
マナーモードのスマホが、通知を知らせるように震えた。
父だろうか。
後でいいや。
通知を無視して風呂場の前でぱぱっと服を脱ぎ、美寧はシャワーを浴びる。
髪を洗う。丁寧に洗う。シャンプーでまちゃまちゃまちゃ。
そしてトリートメントはたっぷり使った。
もはや説明書通りなんて生ぬるい。真夏に放置した麦茶の如く生ぬるい。心の中では「この髪は恋の勝負髪」とか意味不明な呪文を唱えながら丁寧にぬりぬりこみこみ、しっかりと時間を置いてから洗い流す。
つやつやになあれ。さらさらになあれ。先生が見て「綺麗ですね」なーんて言ってくれたらその瞬間に昇天して魂が成仏する未来が見えるじゃんね。ていうか、そう言われたら困るからやめて欲しい。いやでも言われたい。え、どうしよう? 無理。好き。
身体も念入りに洗う。もちろん洗う。背中までぬかりなく。
胸?
念入りですけど。以上。
別に見せるわけじゃないけど、いや、むしろ見せないからこそ油断してはいけない。恋とは準備だ。備えあれば失恋なし、ときっと母さんは言いたかったんだよ、コンドームを娘に買わせてまで。
「にゅふっ」
思わず美寧は風呂場で笑い声を漏らしてしまった。不気味である。
なお、この内心を美寧の母親が知ったら、「そんなことは一言も言ってないでしょ、馬鹿なのあんた!?」とブチ切れていたであろう。
笑いつつ、美寧は体を磨いていく。
ボディーソープは、ちょっといつもと違う香りにしてみた。
さり気ない柑橘系の香り。男子ウケがいいってネットで見た。
先生は柑橘系好きかな? 好きだったらいいな。ていうか、なんの香りが好きなんだろう。気になる。質問しようかなってメッセージ送ってみたけど、取り消しちゃった。取り消さなきゃ良かったかもしれない。でもいきなり好きな香りはなんですかって聞くのは距離詰めすぎって感じじゃんね。うーん、どれくらいのタイミングで相手の好みって探れば良いんだろう。ムズすぎる。いっそのこと先生にボディーソープ選んでほしい。むしろ一緒に選びたい。お買い物デートとか考えただけでも最高じゃんねうふふふふ。
そしてシャワーで丁寧に流していって、綺麗さっぱりになる。
美寧は鏡に映る自分の姿を見た。
「……にやけすぎぃ」
顔をぐにぐにとマッサージするが、どうもニヤニヤ顔がやめられないアンドとまらない。
ああダメだ。トークアプリで好きな人からメッセージもらってから笑っちゃうのがどうにもならない。
『結婚してますか?』
最初にこれを送った。
すぐ取り消した。
緊張と冷や汗と動悸がヤバすぎて胃も死んだ。
『恋人いますか?』
送った。
取り消した。
なにそれ重い!? あれ!? でも送らないと何も始まらなくない!?
『このみな女のタイプってどんな感じですか?』
送った。
取り消した。
え、ちょっとまって詰めすぎ!? うざくない!? え!? ブロックされたら死ぬんだけど!?
『彼女さんいますか?』
送った。
取り消さなかった。
そして返信は。
『彼女はいません』
彼女、いないんだって!
フリーなんだって!
私の心もフリーダムだよ先生!!
破壊力ヤバかった。マジでヤバかった。語彙力死ぬ程度にはヤバかった。返事を読んだ瞬間、意識が消えかかった。死んだのかもしれない。死んだけど生き返った。残機が5くらい回復した。
なんか、あの一言だけでこの先10年生きていける気がした。いや10年は盛ったけど、少なくとも今日くらいは余裕で頑張れる。まあ、彼女がいたところで浮気の沼に沈めてやるつもりでいたけれど余計な手を下さなくて済んだから滅茶苦茶ほっとしてしまった自分は覚悟が足りなかったんじゃないかとその後に自問自答で30分くらい唸ってたんだけど彼女がいなかったんだし仮定の話はどうでもいっかと割り切ったのはついさっきなんだけどね!
ふう。
シャワーを終えて、丹念に体を拭く。
そしてドライヤーで髪を乾かす。タオルドライも手を抜かない。風は根元から。毛先は優しく。
途中で、髪型どうしようかな、なんて考え始めて沼る。ポニーテール、いやでも今日はそこまでアクティブ系のテンションじゃない。ハーフアップ、はジムで邪魔。
やはりストレートがいいだろう。シンプルはベストだ。邪魔にならなくて、ナチュラルに可愛いやつ。
あくまで自然体だけど美人、っていう計算されつくした事故を狙う作戦、それが本日のテーマである。
となると、メイク。
メイクもナチュラル。
ジムだし汗かくし、だから薄めのメイクして、でも薄いだけじゃなくて、崩れても可愛い、が大事。
眉毛はふんわり。まつ毛はちゃんと上げる。リップは薄いピンク。ティント。落ちてもほんのり残るやつ。アイシャドウはブラウン系。盛りすぎ注意。でも目は大きく見せたいからナチュ盛りだ。
うん、私史上最高に完璧なんじゃなかろうか。
メイクを終わらせて、いよいよジムに行く準備に取り掛かる。
ちなみに父から長文メッセージが届いているっぽい。
通知欄だけ見てスルーした。
さぁて。
今までのは下拵え。
今からが決戦準備。
リュックには秋水とお揃いのトレーニングウエア。これをジムで着たならば、秋水とは合法的にペアルックである。完全なお揃いじゃないだろとか言ったやつはぶっ殺す。
それからタオルに、お水を入れた水筒に、実は持ってるトレーニンググローブ。つーめーこーんーでー。
で、問題の私服。
ジャージじゃなくなったから、ジムでトレーニングウエアに着替えなきゃいけない。
となると、ジムに行くまでは私服である。
さてどうしよう。
ジムに行くだけだし、着替えるし、汗かくからどうでもいいと言えばいいけれど、秋水が先に来てたなら、その “どうでもいい私服” で最初に挨拶をすることになるわけで。
それって、めちゃくちゃ大事じゃん!?!?!?!?
え、ちょっと待って、今、私服のセレクトが恋の行方を左右する可能性が出てきた。怖。
どんなのがいい? カジュアル? フェミニン? 大人っぽいの? ジムに向かう感じを演出? いやでも色気とか出したら、ジムに気合入りすぎで怖い人、みたいになるよね!? ジムで色気出してどうするの!? 汗でくっついて透けたりしたら死ぬよ!? でも、可愛いって思ってもらいたいじゃんね! え、なにそれ、無理ゲーすぎない!?
とかとか考えた挙句、シンプルな白のTシャツとデニムスカートにした。
あざとすぎない。爽やか。運動する感もある。だけど地味すぎない。これまた私史上最高に完璧かもしれない。先生こういうの好きそう、って思ってるけど好み知らないから全部勘。女の勘。ていうか好み知りたい。どんな服装が好きですか、なんて聞きたい。まあ無理かもだけど。絶対噛むだろうけど。ていうか噛むとかの前に息止まる。息の音が止まる。死んじゃう死んじゃう。
着替え終わってから、美寧は鏡の前でポーズなんて取ってみた。
イケてる気がする! たぶん!
そして最終チェック。
メイク、よし。
髪、よし。
服も、まあまあ、悪くない。
バランスも崩れてないし、ナチュラルだけどちゃんと整ってる。
頑張ってない風に頑張ってる私、って感じに見える。
はず。
たぶん。
ていうか、そうであってほしい。
鏡の前に立って、まっすぐ自分を見る。
顔は、いつもの自分。
でも、今日はちょっと違う。ほんの少しだけ、ほんのちょっとだけ、自分のことを「悪くないかも」って思えた。
「……可愛いかな?」
口に出してみると、なんだか急に恥ずかしくなって笑ってしまう。
「可愛いよね?」
もう一度、言ってみた。
今度は、ちょっと真顔で。
「私って、美人か……?」
そこでふと、言葉が途切れた。
何故だろう、急に、心が静かになる。
記憶の底から、誰かの声が耳に降る。
―――天才の姉。
―――可愛い姉。
―――姉の妹。
―――あの子に比べたら。
―――あの子がいれば、美寧ちゃんはいらないよね。
「……うーん」
美人、ね。
分かんないな、それ。
どう頑張っても昔の美寧には、そうじゃなかった、という記憶しかなかった。
どんなに頑張っても、勝てなかった。
勉強も、運動も、人望も、センスも、スタイルも、顔も、全部が全部、姉の方が上だった。
周りがどれだけ、美寧も凄いよ、なんて言ってくれたところで、「“も” ってなに?」と思っていた。
いつも、お姉ちゃんに似てる、と言われて、お姉ちゃんと違って真面目だね、と言われて、お姉ちゃんは、という言葉の後に、なにかが続くのを聞くたびに、なにかを失っているような気がしていた。
だから、可愛いかも、と思っても、「でも姉さんほどじゃないよね」と、無意識に考えてしまう。
でも、秋水に、似合っていると言われた。
それだけで、泣きそうになるくらい嬉しかった。
嬉しかったけど、それってお世辞かもしれないし、気を使ってくれただけかもしれないし、独りで浮かれているだけかもしれない。
だって、秋水はかっこいい。
かっこよすぎる。
優しすぎる。
どうして、そんな人が、私みたいなのを見てくれるのだろうと、怖いくらいに、思ってしまう。
でも。
それでも。
『自分をちゃんと認めてください』
『頑張っている美寧さんが、頑張り続けている美寧さん自身を褒め続けるべきことなんです』
記憶の底から、あの人の声が耳を包む。
そうだよね。
自分で自分を誉めなくちゃ。
ちょっとだけでも、今の自分が、いいかも、と思えたんだから。
だから、もう一回だけ、言ってみる。
「……私史上最高に、完璧で可愛いぞ、“かわいい美寧ちゃん”」
それは最初に、秋水から名前を呼ばれた時のこと。
そっと笑って、美寧は鏡から目を逸らす。
最後にリップをもう一度塗り直して、鏡で一瞬だけウィンクしてみる。
ウィンク? いや無理。自爆。今のは見なかったことにしよう。
それでも、顔は自然に笑ってた。
お気に入りのコートを着て、リュックを担いで、スマホとイヤホンをチェックして、忘れ物がないかを三度確認して、靴箱の前に立つ。
スニーカーか、スリッポンか、でもちょっと可愛いスニーカー履きたいなって思って。
履いた瞬間、自然と口元が緩んだ。
「……よし」
ドアに手をかける。
開けた瞬間、夜の空気が肌に触れる。寒い寒い。
でも、心はそれ以上に熱くなってる。
「では、いざ――戦場へ!!」
小さく、でも気合いを込めて言ってみる。
なんかの主人公みたいでバカみたいだけど、でも気分は完全にそれだった。
今日も好きになる準備は、できている。
錦地 美寧、棟区 秋水さんに会いに、出撃だ。
なお、父からの未読メッセージが20件ほど溜まっていた。
脳が焼かれて恋愛モンスターになっちゃったけど、美寧ちゃんの根本は変わらずです。
でもちょっと前向きになった、かな?(*'ω'*)
使用楽曲コード:00325490