201『絶賛暴走チワワ』
「棟区くーん♡」
教室に戻ってきた途端、可愛らしい少女の甘ったるい声で呼ばれた秋水が真っ先に抱いた感想は、はよ帰れよお前は、というあまりにも塩分濃度が高めなものであった。
長い黒髪を揺らしながら、たったかと走り寄ってきたその少女は、勢いそのままにタックルでも嗾けるかの如く、ぽふり、と秋水へと抱きつく。
遠慮なく、躊躇なく、シームレスに抱きついてきやがった。
大した衝撃はない。
少女が走ってきたのを確認した時点で、こうなることを予測していた秋水は片足を半歩分後ろに下げ、衝撃に備えていたため、軽く受け止めることができた。
本音を言えば避けてしまいたかったのだが、そうすると後が面倒臭いのが分かりきっていたので、渋々受け止めざるを得なかったのだ。
「おかえり、怒られたかな?」
「ええ、まあ。むしろ、色々と心配をされました」
抱きついてきた少女は、分厚い秋水の大胸筋から顔を上げて秋水を見上げる。
若干垂れ目のその瞳は、何故か知らないがキラキラしていた。
胃もたれがするというか、胸焼けがするというか。
「私もたっぷりどっぷり面舵取舵いっぱいいっぱいに心配したんだよ♪」
「……その節は、大変ご迷惑をおかけ致しました」
秋水の胸板に顎を押しつけながら、にこりと満面の笑顔を浮かべた少女の言葉には、しっかり毒が紛れ込んでいる。
精神的にしんどい。
思いきり微妙な表情を浮かべつつ、秋水は大して心の籠もっていない謝罪を口にする。
本日何度目だろうか。
笑顔の裏に、しっかりと怒りの炎が燻っている少女を見下ろしながら、秋水は心の中で溜息を漏らす。
「ていうわけで、明日のテスト範囲の勉強教えて♪」
「あー……申し訳ありません、今日は早めに帰ろうかなと……」
「昨日はどこかの誰かさんのせいで、お勉強が全然手につかなかったなー」
「……かしこまりました。1時間だけですよ?」
「わーい♡」
無敵の脅し文句を前に、秋水は即座に白旗を揚げることにした。
にこー、と少女は秋水に抱きついたまま、実に嬉しそうに笑う。
うぜぇ。
秋水は心の中で呟いた。
本日はこの少女、渡巻 紗綾音が、容赦なく絶好調に絡み続けるチワワの如く、ずっとウザいのである。
学年末試験初日、1科目目終了。
特に問題なく答案用紙を全て埋め、ケアレスミスがなければ満点かな、といういつも通りの手応えを感じた秋水は、次の科目のまとめプリントでもざっと目を通しておこうかと、ごそごそと鞄の中を漁っていた。
「棟区くん……」
そこに、そろりと近寄ってきたのは、チワワ、ではなく紗綾音であった。
この時点では、どこか遠慮がちな様子だった。
珍しい、と一瞬秋水は思ったが、朝はいきなり泣きわめき、ホームルームではむすりと拗ね散らかしていたのを思い出す。
機嫌は直ったのだろうか。
秋水は持っていた鞄を机の上に置き、座りながらも紗綾音の方へと体を向けて姿勢を正す。
なお、朝っぱらから情緒不安定かの如き様相を見せた紗綾音を、クラスメイトはどこか心配そうに見ていた。親友の沙夜に至っては、明らかにハラハラした様子で、いつでも駆け寄れるように半ば椅子から腰まで浮かせている。
「はい、どうかされましたか?」
「……むーん、まるで平常運転なんだよ」
声を掛ければ、ちょっとしゅんとした様子の紗綾音。
変なものでも拾い食いしたのだろうか。
紗綾音は少し申し訳なさそうな顔をしながら、胸の前で両手の指をもじもじとさせている。
「あの、朝は嫌な態度とっちゃったし、棟区くんのこと色々疑っちゃって、ごめんなさい!」
そして、がばりと頭を下げてきた。
旋毛がよく見える。
差し出される形になったその頭に、秋水は条件反射的にぽすりと右手を置いた。
「はい、謝罪を承りました」
ぐりぐり、といつものように紗綾音の頭を撫でながら、秋水は穏やかな声を意識しながら紗綾音の謝罪を受け取る。
ちなみに、内心では首を傾げていた。
なんで謝られているのだろうか。
身に覚えがない。
“イヤ” な態度をとられるのも、疑われるのも、秋水にとってはいつものことで、普通のことでしかない。
まあ、謝りたいのならば好きにさせればいいか。
かなり適当な謝罪の受け取り方をすれば、紗綾音はすぐに頭を上げた。
頭が離れてしまい、秋水は撫でてていた右手を上げる。
紗綾音は、何故かドヤ顔だった。
あれ、ついぞ先程まで、申し訳なさそうに萎れた感じだった気がするのだが。
「よし!」
そして、急に気合いを入れるように一声。
謝罪が終わったから気が済んだんだろう。
とりあえず、はよ帰ってくれ。
秋水はあくまでも塩っ気の多い感想を抱きながらも、右手をゆっくりと下ろす。
いや、下ろそうとした。
その秋水の目の前で、す、と紗綾音がしゃがみ込んだ。
スクワットでもするのか。
急に膝立ちのような格好で腰を落とした紗綾音は、その勢いのままに秋水の太ももに両腕を置いて、ぐいっと自身の顔を秋水の方へと寄せる。
なにその姿勢。
と言うか、なにこの格好。
「撫でろ」
ついでに、なんか変なことまで言い出した。
まあ、紗綾音はいつも変なことを言っているが、殊更おかしなことを口走っている。
椅子に座っている秋水の太ももに腕を置いて体重をかけ、ずいりと秋水へと体を寄せながらも紗綾音は真っ直ぐに秋水を見上げている。
何故だろうか、その目はなにかを凄く期待しているような目であった。
「……はい?」
「なーでーろー!」
思わず疑問符を口にした秋水に、紗綾音はまるで駄々でもこねるかのように要求してくる。
撫でろ。
おかしい。
いつもなら、むしろ「なーでーるーなー」と頭を撫でることを拒否してくるはずなのに、急に撫でろと要求してきた。
テストを受けて頭がぶっ壊れてしまったのだろうか。
どうしよう、残り8科目もあるのに。
早くしろと言わんばかりに秋水の膝を揺らしてくる紗綾音の頭が心配になってきた。
そんな一向に撫でようとしてこない秋水に痺れを切らしたのか、紗綾音がさらに秋水の太ももへともたれ掛かるように体重をかけて、体を更に近づけた。
そして、下ろしかけていた秋水の右手を、むんずと捕まえる。
その秋水の右手を、紗綾音は自分の頭にぽすりと置いた。
「撫でるのだ♡」
「えぇ……」
強要である。
秋水の前に座り込んで下から見上げてくる紗綾音は、確かに笑顔ではあるものの、どこか圧を感じてしまう。
どうしたものか、というよりも、どうしちゃったものか。
突然の奇行に秋水は困惑しながらも、とりあえず右手は慣れた手つきで、ぐりぐり、と紗綾音の頭をいつも通りに撫で繰り回す。
ご要望通りに撫でてみるが、これで良いのだろうか。
「……にひっ」
なんかちょっと気持ち悪い笑いが、紗綾音の口から零れた。
笑顔のまま目を細め、気持ちよさそうにご満悦、といった様子である。
いいのかこれ。
秋水は渋い表情になる。
紗綾音は頭を撫でられ、気持ちよさげに再び腰を落とし、秋水から体を離す。
しかし、秋水の太ももに両腕を添え、体を預けるような体勢は継続中だ。
ふにり、と膝に妙な感触がした。
胸だ。
紗綾音の胸が、秋水の膝に当てられている。
秋水は更に渋い表情になった。
「棟区くんは、ジムで頑張ってるんだねー」
「……ありがとうございます」
「なんだっけ、ベンジャミンプレスとかいうの、100㎏超えてるんだったよね」
「ベンチプレスですね」
常緑樹を圧縮してどうすんだ、というツッコミを心の中で入れながら、秋水は渋い表情のまま答える。
なんでこの体勢で、暢気に雑談が始まるのだ。
仕方がないので、ぐりぐり、と紗綾音の頭を撫で続ける。
プリントに目を通す暇もなく、休み時間が終わってしまいそうだ。
「でも、変な時間に出歩いちゃダメなんだよ?」
「う」
目を細めながら笑みを浮かべつつ、紗綾音が急にぶっ刺してきやがった。
思わず秋水は言葉に詰まり、紗綾音の頭を撫でていた右手がぴたりと止まる。
止まった右手に、ぐいぐいと紗綾音自ら頭を押しつけるようにして擦りつけた。
「撫でろ♪」
「……はい」
もしかして今、自分は処罰実行中なんじゃなかろうか。
可愛い笑顔ではっきりと要求を伝えてくる黒い毛並みのチワワを見下ろし、秋水は今更ながらに自身の状況を理解した。
深夜徘徊でお巡りさんに補導され、その情報を聞いた紗綾音は酷く秋水を心配した、らしい。
その他にも、今まで秋水の表現に色々と問題があったせいで、紗綾音に対して様々な誤解を与えてしまっていたらしく、それでずっと気を揉んでいた、らしい。
別に自分のことなんて気にしなくてもいいのにな、と思う反面、心配掛けさせてしまったのは純粋に申し訳ない。
申し訳ないので、その点をチクチク刺されると、ちょっと弱いのである。
なるほど、人の弱みにつけ込んだ新手の拷問か。
ぐりぐりと再び紗綾音の頭を撫でながら、秋水は無の表情。
「なにやってんのコラっ!」
「あいたっ」
そんな拷問官紗綾音の頭が、すぱーんっ、と白い何かで叩かれた。
駆けつけてきたのは紗綾音の親友、かつ秋水が紗綾音に絡まれると高確率で助けに来てくれる頼れる女、竜泉寺 沙夜である。
その手には何かのプリントを丁寧に折られた、即席のハリセンが握られている。
それで親友の頭目掛けてフルスイングしてくれたのか。
ありがとう、紗綾音の頭を撫でていたせいで、そのハリセンは秋水の指も巻き添えにして強かに打ち抜いたものの、元よりただのプリント用紙、威力はないに等しい。
というか、そのハリセンを準備していたから駆けつけるのが遅くなったのだろうか。
「ライン超え! べたべたしない! 律歌先輩に言いつけるぞ紗綾音!」
「やーだー! 今日は棟区くんとイチャつきデーなんだよー!」
「そんな日は一生来ない!」
目をつり上げながらも沙夜が紗綾音の首根っこをがしりと掴み、強引に秋水から引き剥がす。
流石。
頼れる。
ありがたい。
紗綾音を引っぺがしてくれたことに安堵の息を漏らしつつ、秋水は沙夜に対して感謝の念を送る。
その沙夜が、再びハリセンを振り上げた。
ぱんっ、ぱんっ、と流れるように秋水の膝が叩かれる。
え、理不尽。
プリント用紙のハリセンなので、痛みは全くないものの、突然の暴力に秋水は目を丸くして沙夜を見上げる。
きっ、と沙夜の鋭い眼光が秋水を貫いた。
「お前は今の感触忘れろ!」
「……ハリセンですか?」
「分かって言ってるだろ! やっぱり紗綾音の言う通りでボケキャラなのか棟区!?」
まあ怖い。
沙夜に怒られて秋水は軽く肩を竦めた。
まあ、沙夜の言いたいことは分かる。
思いきり紗綾音の胸が当たっていたからな、この膝。
秋水は苦笑いを浮かべつつ、ぽんぽん、と自分の膝を軽く叩いた。
「思い出してにやつくんじゃない、むっつりかお前は!」
酷い冤罪である。
秋水は無実をアピールするように両手を挙げた。
感触もなにも、ブラジャー越しだからなぁ、という感じである。
というより、顔を赤くしながら叱ってくる沙夜の想像力の方がどうなの、と思わなくもないのだが、それを指摘したら酷い目に遭いそうなのは火を見るよりも明らかだ。雄弁は銀ならば、沈黙は金。
「ほら行くよ紗綾音!」
「わーん! 連れ去られるー! へるぷみー!」
そして、ずりずりと紗綾音を引き摺りながら沙夜が離れてくれた。
ナイスパワー。
頭がおかしくなったチワワに絡まれ、短い休み時間の半分が吹き飛んでしまった。
はぁ、と秋水は軽く溜息を漏らし、わりと大人しく引き摺られていく紗綾音を見送ってから、さて、と気を取り直してプリントを鞄から取り出した。
そんな秋水の肩を、誰かがガシリと掴んできた。
「お、お、おい秋水、なんだ今の、何やってんだお前ら」
覚王山 未来であった。
どこか焦ったような表情で秋水の肩を掴み、なおかつガクガクと揺さぶりを掛けながら変な質問を投げかけてくる。
「お前ら変に仲良さげなのは前から知ってたけど、え、なに今の雰囲気? お前らそういう関係なの? 付き合ってんの?」
「事実無根な上に名誉毀損ですよ?」
休み時間が全て吹き飛ぶことを秋水は察した。
「棟区くん、さっきのテスト難しかったねー♡」
「…………竜泉寺さん、私は無罪です!」
学年末試験初日、2科目目終了。
別に大して難しくもなく、順当な問題を順当に片付けた秋水に待ち受けていたのは、紗綾音に絡まれる、という拷問であった。
なお、その紗綾音は秋水の太ももの上に座っている。
試験が終わった直後、すすすっ、と紗綾音が近寄ってきて、シームレスに秋水の脚の上に座ってきやがったのだ。
秋水と机の間に、しれっと身を割り込ませ、予告も許可も確認もなく我が物顔で人の太ももに腰を下ろした紗綾音は、何事もなかったかのように雑談を始めようとしていた。
やっぱりテストのせいで頭がぶっ壊れたんだな。
そんな感想を抱くよりも前に、秋水が真っ先に感じ取ったのは身の危険である。
秋水の体に背中を預けるようにして、ぐいーっと体を押しつけてくる紗綾音の後頭部を見下ろしながら、秋水は即座に駆けつけてくるであろう沙夜に対し、無罪を主張しながら両手を挙げた。
これは対面状態で座られていたら、たぶん弁明の余地もなく沙夜に刺し殺されていたかもしれない。
背面だからまだ良かった。
いや、背面だろうと良くない、主に絵面が。
「よいしょ」
そんな思いで上げた秋水の両手を、紗綾音は振り返って一度確認してから腕を伸ばしてガシリと掴み、ぐいっと自身の体へと引き寄せた。
秋水の腕が、肩を通して紗綾音の前に行く。
後ろ抱きの姿勢だ。
一部界隈では、あすなろ抱き、とか言うらしい。
紗綾音を膝に座らせた上に、後ろから抱きつくような格好に無理矢理させられた秋水は、その表情を盛大に引き攣らせた。
次の展開が予想できたからである。
「むふー、これは良きフィット感」
「なに2人揃って巫山戯てんだコラっ!!」
ふんすと鼻息を荒くしながら紗綾音がご満悦となった次の瞬間、すぱーんっ、と沙夜のハリセンが炸裂した。
秋水の後頭部に。
酷い、被害者はこちらなのに。
しかも、軽い衝撃とはいえども、後ろ抱きの姿勢にさせられたせいで紗綾音の後頭部ギリギリまで近づけさせられた秋水の顔面が、叩かれた勢いで、もふり、と紗綾音の髪に埋まってしまう。
「きゃんっ」
紗綾音の鳴き声があがる。
なにが悲しくてチワワの髪に顔を突っ込まなければならないのだろう。
今日は厄日だな、と思っていると、秋水の頭が両側からガシリと掴まれ、強引に紗綾音の後頭部から顔を引き剥がされる。
「ちょっと棟区、なに紗綾音の頭の匂い嗅いでんだお前」
「冤罪です竜泉寺さん」
踏んだり蹴ったりとはこのことか。
沙夜に頭を掴まれ、後ろに引っ張られながらも、秋水は無罪を主張する。
なお、怒るどころか無表情で見下ろしてくる沙夜が超怖い。
「ねえサヨチ、棟区くんって座り心地が抜群なんだよ!」
「こっちも正気に戻れ紗綾音! 恥じらいがないのかお前には! マジで律歌先輩に言いつけるからな!?」
まるで秋水も正気を失っているかのような言い草である。
ちなみに、沙夜には頭を後ろに引っ張られているものの、両腕は紗綾音に掴まれ前に引き伸ばされているので、首から肩にかけて結構なストレッチをかけられている。柔軟体操の時間だろうか。
「ちょっと棟区! お前だったら普通に力尽くで紗綾音を退かせるだろ!? なんでしないんだよ!? やっぱりむっつりなのかお前!?」
「あの、退かす場合は、脇なりお腹なり脚なりを触ることになるのですが……」
「―――彩良! 蜜柑! 海霧! 眩! 紗綾音を退かすからちょっと手伝って!」
「わーん! 棟区くんとイチャイチャしてるだけなのになんで邪魔するのー!?」
学年末試験初日、3科目目終了。
本日の試験を全て終え、秋水は身構えながら即座に紗綾音の方へと視線を向けると、すでに紗綾音は沙夜に羽交い締めにされていた。
竜泉寺 沙夜、なんて頼りになる女なんだ。
そして紗綾音がジタバタしている間に担任教師が到着し、帰りのホームルームが始まる。
命拾いをした、秋水が。
ホームルームがつつがなく終わり、秋水は予告されていた通り担任教師に呼び出されて職員室へと向かうことになった。
補導された件についてのお説教タイムだ。
学年末試験直前かつ、高校受験前という大事な時期に補導されるという問題を起こした以上、担任教師との話し合いも数分で終わることはないだろう。
終わった頃には、きっと紗綾音も帰っているだろうから、これで一安心である。
なお、秋水が補導されたという情報を拡散した罪により、御器所 蜜柑も生徒指導室へとドナドナされた。哀れ。
ともかく、担任教師に連れられながらも、秋水はほっと胸を撫で下ろす。
どんな風の吹き回しなのかは分からなかったが、これで今日は紗綾音に付きまとわれずに済みそうだ。
良かった良かった。
「この問題は、xの値を求めよ、というわけではありません。何センチ離れているか、というのを問われています」
「うへ、そこ間違えてた。サンキュー棟区」
「どういたしまして。三平方の定理というのは、使うより前に、どこが直角か、というのを探しましょう」
「塾の先生みたいだな……」
安心したその30分後、秋水は紗綾音を含めた複数のクラスメイトに囲まれ、勉強を見る羽目になっていた。
「よし、これで合ってるか!?」
「こちら、2乗しているのに符号が消えていますね。よくあるミスですが、気をつけないと全てが崩れてしまいますよ」
「え、マジ!? うわ、ほんとうだ!?」
「今のうちに直しておいた方が、明日の本番で泣かずに済みますね」
「プレッシャーがエグいぜ……」
自信満々に差し出されたプリントに目を通し、秋水はすぐに間違いを指摘する。
意外と勤勉家、覚王山 未来である。
やっぱ難しーなぁ、と呟きながら頭を掻く覚王山を見送ると、今度は別のクラスメイトが遠慮がちに秋水の裾を引っ張ってきた。
女子だ。
あまり喋ったことがない、というか、今まで一度も会話をしたことのないクラスメイトである。
「あの、ここ、√が出てくるのに、2乗で消してるのって、なんでですか?」
「はい。√の逆は2乗ですから、元の値に戻す操作なんです。ただ、マイナスになるパターンには注意しましょう」
「そ、そうなんですね……うぅ、優しいけど、距離感がコンビニの店員さんくらい遠い……」
ごめん、ちょっと心ここにあらずな感じで受け答えしてしまったかもしれない。
わざわざ自分なんかに質問してきたそのクラスメイトに改めて向き直り、秋水は努めて優しい声を絞り出す。
「ああ、ここまでの計算、とても綺麗にできていますね。たぶん、クラスの中でも上位ですよ」
「ほ、本当!?」
「はい。最後の答えが、『時間=-5分』となっている点を除けば、ですが」
「うぅ……上げてから落としてくる……」
なんか、ごめん。
しゅんとなるクラスメイトを見て、秋水もしゅんとなる。
何故だ。
おかしい。
担任教師との話し合いが終わって帰ってきた瞬間に、待ち構えていた紗綾音に捕まって、その紗綾音の勉強を見るという話だったはずである。
何故、自分は今、10名を超えるクラスメイトに質問攻めされているのだろうか。
秋水は遠い目をしながら考えた。
ちらり、と秋水は紗綾音の方へと視線を向ける。
「えーっと、こことここが消えて……あれ、答えが壁に3センチめり込む感じになっちゃう……」
勉強教えて、と秋水を脅してきた張本人は、頭を抱えながらもプリントと向き合っている最中であった。
ちなみに、勉強会の人数が10名を超える大規模なものになってしまった原因もまた、紗綾音である。
秋水が勉強を見るとなった瞬間、片っ端から残ったクラスメイトに声を掛けやがったのだ。
と言うか、どいつもこいつも、試験が終わったらさっさと帰れば良いのに。
「ここ、『x=0』のとき、yが最大値になっていると勘違いしやすいですが、そうではありません。頂点の位置はあくまでも軸で決まります」
「え、じゃあ0のところが1番上じゃないんだ」
「そうですね。なんとなく、で見てしまうと、このような落とし穴に引っ掛かってしまいますよ」
「なんとなくで生きてる私には耳が痛すぎる……」
次に提出されたプリントを捌きつつ、秋水は自分の鞄をチラ見する。
鞄の中には、ネックレスが数本入っている。
ダンジョンの地下に出没するコボルト。
そのコボルトを殺すと出てくる、白銀のネックレスである。
今日はそれを祈織の質屋に届けてから、ダンジョンに帰って楽しいダンジョンアタックをたっぷりやろうと思っていたのに。
はぁ、と秋水はこっそりと小さく溜息を吐いた。
そこで、がらりと教室の扉が開く。
「ひーん、めっちゃ怒られたー…………うわっ!? みんななんで残ってんの!?」
秋水と同じく呼び出しを喰らったクラスメイト、秋水が補導されたという情報を勝手に拡散させたとして生徒指導室にしょっ引かれていた、ミカちゃんさんこと御器所 蜜柑である。
無事に生徒指導室から生還できたようだ。
げっそりした様子で帰ってきたミカちゃんさんだが、すでに試験が終わって1時間は経とうかというのに教室に残っている多数のクラスメイトを見て、驚いたような顔をする。
なんでこんなに残っているか不思議なのだろう。
奇遇なことに、秋水も不思議で仕方がない。
そんなミカちゃんさんへと顔を向け、紗綾音がニッコリと笑顔を浮かべた。
「おかえりミカちゃん。棟区くんが勉強見てくれてるんだよ」
「うっそマジ!? やったね秋水大先生愛してるー! 私もまだ分かんないところいっぱいあるんだよねー!」
生徒が1名追加されてしまった。
どうしてこうなった。
今度は深い溜息とともに天井を見上げた秋水の前に、ぱさり、とプリントが差し出される。
「よし、今度こそこれで大丈夫なはず」
意気込みが素晴らしい、竜泉寺 沙夜である。
おかしいな。
キミならきっと、勉強会を大規模にしようとする紗綾音を止めてくれると思っていたのに。
天井から沙夜へと視線を戻した秋水は、静かに沙夜からプリントを受け取った。
「……拝見いたします」
遠い目をしながら、今日は厄日か、と秋水は再度そんな感想を抱いてしまった。
どこぞの恋愛モンスターも、この行動力を見習ってもろて。
本当は担任教師とのお話も書こうとしたんですが、ばっさりカット。ごめんねタケちゃん先生、次の2話が鎬さん側の話で硬くなる予定なのです(・ω・`)
あとね、仮にも美少女に分類される紗綾音に、激しいボディタッチありのコミュニケーションをされてなお、うぜぇ、という感想しか出てこない秋水くんの感性よ(^_^;)