学年末試験、2日目。
いまいち試験に集中できていない秋水であったが、そのペン先は淀みなく、すらすらと問題を解いて記述していく。
中学3年間の総決算である試験は、出題範囲が広すぎると嘆く者も多く居るが、秋水からしてみれば、理解できている範囲を出されているだけなので、通常の試験よりもむしろ優しいと感じてしまう。
勉強とは記憶ではない。理解だ。
答案用紙を全て埋め、秋水はちらりと顔を上げ、黒板の上にある時計を確認する。
どうしよう、半分以上時間が余った。
仕方がないので読み間違いや記入間違いがないかの見直しを丁寧に行う。
再び顔を上げる。
時間は半分過ぎたな、といったくらいであった。
長い。
正直、ダンベルが欲しい気分だ。ちょっと筋トレしたい。
腕立て伏せとかしちゃ駄目だろうか。駄目だろうな。頭の心配をされてしまう。
では、椅子に手を当て、座った姿勢のまま肩の筋力や腕力などで体を持ち上げる、なんちゃってディップスとかではどうだろうか。たぶん不審な行動として、カンニングなどを疑われるだろう。
暇だなと思いつつ、秋水は再び試験用紙に目を落とす。
2月5日。
全国的に火曜日。
曇天。
学年末試験は、粛々と進められた。
「棟区くーん♡」
「いません」
「よいしょ、よいしょ」
「ちょ、止めて下さい、紗綾音さん、わざわざ膝に座らないで下さい、止め―――竜泉寺さーん! 竜泉寺さーん!」
本日2科目目の試験が終わり、一息ついた途端、秋水は紗綾音に絡まれてしまった。勘弁して。
朝の登校直後も、そして1科目目の試験終了後も、同じく真っ先に秋水のところに駆け寄ってきて紗綾音はウザ絡みをしてきた。
なので、まあ今回も来るだろうとは予測こそしていたものの、まさかの膝によじ上るという暴挙に出たため、秋水は即座に沙夜に助けを求めることとなる。
昨日もそうだったが、今日も今日とて紗綾音はボディタッチが激しい。ウゼぇ。
他にも友達が沢山いるんだから、そちらの方に行けばいいのに、とは思うのだが、何故か周りのクラスメイトは「またやってるなぁ」と言うかのように生暖かい目でこちらを見るのだ。助けてくれ。
よいしょ、と紗綾音は秋水の膝の上に腰を下ろした。
秋水の胸に背中を預けるような座り方、ではない。
向かい合っている。
向かい合わせになるように、人の膝に座りやがった。
「…………」
「えへ♡ 棟区くん、お喋りをするんだよ♡」
間近に紗綾音の顔がある。
機嫌が良いのか、にへら、とした笑みを浮かべた。
違和感。
秋水の目が、すぅ、と細くなる。
昨日から随分とベタベタベタベタとボディタッチが過激な紗綾音だが、明らかに過剰である。
少しだけ紗綾音から目を逸らすように、周りを確認する。
微笑ましいのを見るかのような視線が半分、顔を赤くしたり驚いたりするような反応が半分、といったところだろうか。
いや、紗綾音の背後からは、呆れたような表情の方がいらっしゃるか。
「……あのな、棟区、正直に教えて欲しいんだけど」
「はい、なんでしょうか竜泉寺さん。私としては早く助けて頂きたいのですが」
「いやー……実はお前ら、こっそり付き合ってたり、しない?」
「まさか。恐ろしい冗談ですね。試験でお疲れのようですが、あと1科目頑張りましょう」
お手製のハリセンを構えながらも、呆れたようにこちらを見下ろしているのは、紗綾音の親友である竜泉寺 沙夜である。
そうだよな、と沙夜は疲れたように溜息をつき、眉間をぐりぐりとマッサージする。早く助けて。
そして秋水は、飼い主が来ましたよ、と紗綾音の脇の下へ手を添えてから、引き剥がそうと力を入れた。
「やーだー!」
がしり、と紗綾音がしがみついてくる。チワワからコアラにランクアップしやがったコイツ。ダウンかもしれない。
秋水にしがみついて拒否の姿勢を見せる紗綾音を、沙夜は呆れたというより、もはやダルそうに見下ろした。
「早く離れろー。秋水が毎度のように困ってるだろー。慎みもって男子との距離感を正しくしないと、律歌先輩が怒るぞー」
前の休み時間も引き剥がしをしてくれた沙夜が、まるで同じ台詞と口にしながら紗綾音の頭をハリセンで軽く叩く。木魚のようである。
確かに、紗綾音のこの抱きつきは、男子に対して気軽にしていい行為ではない。
距離感がバグっていらっしゃる、という範疇を超えている。
紗綾音の姉である律歌が、心配しつつやきもきするのが容易に想像できてしまう。
秋水はもう一度、ぐっと紗綾音を押し退けようとする。
がしっと紗綾音はしがみつきつつ、くるりと沙夜に顔を向けた。
何故かどや顔だった。
「大丈夫! 昨日もお姉ちゃんにすんごい怒られたから、誤差だよ誤差!」
「なんで律歌先輩怒らせてるんだよ!? 何したんだよ紗綾音!?」
「怒らせたのは8割くらいお母さんのせいだもーん」
なんで姉に怒られたのを誇らしげにするのだこのチワワ。狂ってるのか。
沙夜との会話の最中も、秋水はぐいぐいと紗綾音を持ち上げようとするものの、紗綾音はしがみついて離れない。
力尽くで退かすことはもちろん可能だが、これ以上力を入れると紗綾音が怪我をするかもしれない。
これ以上は無駄かな、と秋水は溜息交じりに紗綾音の脇から手を離し、軽く溜息をついた。
ぺしり、と秋水の頭にハリセンが落とされる。
「お前は諦めんな」
「いえ、これ以上力を入れるのは、ちょっと危ないかなと」
「……じつは棟区、役得だなー、とか思ってないか?」
「交代いたしましょうか?」
「流石にちょっと……」
拒否されてしまった。
力尽くで退かされないと悟った紗綾音が、どやー、と、してやったりな顔をしている。眉間を突いてやりたい。
まあ、確かに紗綾音は可愛い。
自分は可愛いというのを自覚して、ちゃんと可愛く振る舞っている、そんな女の子である。あざといと言える。
普通であれば、膝の上に、しかも向かい合って座ってくるとか、役得以外のなにものでもないだろう。やっていることは最早、いかがわしいお店での接客のレベルだ。
しかし、紗綾音である。
疚しい気持ちもなにも浮かばない。
ただただ、早く退いてくれないかなぁ、という気持ちである。
というか、嫌悪が先に立つ。
既視感と言うべきだろうか。
「んに……」
紗綾音の頭に手を置いて、ぐりぐりと秋水は撫でた。
それを特に嫌がることなく、むしろ完全受け入れ体勢で、紗綾音は気持ちよさそうに撫でられる。
今までであれば、やーめーろー、と一応は拒否の姿勢を見せていたハズだ。
既視感がある。
嫌な感じだ。
「ほれ力持ち、何とかしてくれ」
「いや待って、巻き込まないで。棟区さんで持ち上げられないなら、僕が3人いたって無理だと思うよ」
「おーっと日比野くん、それはどういう意味かな? 棟区くんでも持ち上げられないくらい私が重いとでも言うのかな?」
そんなことをしていると、沙夜が何故かクラスの男子、日比野を引っ張ってきた。
秋水と同じジムに通うことになった、筋トレ同志の日比野 道である。
なんで自分が巻き込まれてるのだろうと、日比野は少々げんなりした顔でツッコミを入れたのだが、その物言いが気に入らなかったのか、紗綾音が含みのある笑みを日比野へと向ける。
「ほら絡まれたー……棟区さん、君たち、本当は裏で付き合ってたりしない?」
「それは面白い世迷い言ですね。日比野さん、もしかして頭が筋肉痛なのですか?」
「なんか棟区さんの切り返しがキレッキレだぁ」
日比野は少し遠い目をしながら、秋水にしがみつくコアラ、ではなくチワワ、でもなく紗綾音の様子を眺める。
眺めてから、沙夜に向き合い、降参です、と言うかのように両手を挙げた。
匙を投げたようだ。
「ああ、そう言えば日比野さん、今日はジムに行くのですか?」
そんな日比野に対して、紗綾音の頭をぐりぐりと撫でながら秋水が尋ねた。
え、と日比野が秋水の方を向く。
「そうだね、今日も行くよ。ただ、今日は有酸素中心の予定だけど」
「そうでしたか。今日は私も帰りにジムに行く予定なのです。一緒に行きましょう」
「あ、そうなんだ。いいね。テスト終わったら一緒に行こうか」
日比野は特に疑うことなく肯いた。
同じジムに通う仲間である。一緒にジムに行くことは不自然ではないだろう。
むぎゅりと抱きついている紗綾音が顔を上げた。
「おー、偉いぞ棟区くん。ちゃんとお昼にジムに行く。感心だよー」
「そうだな。もう深夜に行くなよ棟区」
ついでに沙夜まで追従してくる。
深夜徘徊で補導された件をチクチク突かれ、秋水は苦笑いだけ返すことにした。
「そっかー。今日は日比野くんと帰るのかー……」
そして、紗綾音が残念そうにぽつりと呟く。
今日も一緒に帰ろうとか言う気が満々だったようだ。危ねぇ。
再びぐりぐりと紗綾音の頭を撫でると、ふと、日比野と目が合った。
もしかして僕、渡巻さん避けに使われた?
そんなことを言いたげな、困ったような笑っているような何とも言えない微妙な表情をしていた。
はは、まさかー。
秋水は乾いた笑みだけ浮かべておいた。
襲撃計画を企むテロ犯のような笑みであった。
そして学年末試験2日目の全科目が終了し、帰りのホームルームもつつがなく終わった。
明日は学年末試験の最終日だ。
秋水の通う中学校は、定期試験の次の日は何故か休みである。理由は不明だ。
まあ、試験後の休みが終われば、その翌日に答案を全部返されるという地獄があることを考えると、教師がその休み1日で全ての採点を終わらせているのであろう。地獄なのは、恐らく教師側なのかもしれない。
今までであれば、答案を返された後、普通に授業があった。採点内容の疑問があれば、各々自分で教師に聞きに行くスタイルである。
しかし、3年生の3学期、学年末試験の答案が返ってきても、授業らしい授業はもう存在しない。
あとは自習だ。
高校入試に向け、各々個別に自習である。
それに明後日は、志望校への出願だ。
中学生活が終わる、その足音がはっきりと聞こえてきた。
「さ、て……」
最近は変な感じになっているが、このまま何事もなく平穏無事に中学生活を終わらせたいと思いつつ、秋水は軽く伸びをする。
ちなみに、試験の方はたぶん完璧だった。ケアレスミスがなければ満点だろう。
大半の生徒を敵に回しそうな感想を抱きつつ、秋水は帰り支度を始める。
今日は鞄が2つ。
学校用の鞄と、ジム用のリュックサックだ。
今日は普通の筋トレというよりも、ちょっと確かめたいことがあるのだ。
身体強化の魔法についてだ。
昨日、身体強化で色々と気づきがあった。
その後のダンジョンアタックで確かめてみたが、どうにも手応えがなかった。
そして、ジムで少し実験をして確かめたいことができた。
早く実験がしたくて、朝から秋水はウズウズしているのである。
いまいち試験に集中できていなかったのは、そんな子どもっぽい理由であった。いや、秋水は子どもだが。
それに、ジムである。
筋トレ目的じゃなくても、秋水にとってはホームグラウンドと言っても良いジムである。
早く行きたくてソワソワしてしまう。
そんな秋水のところに、誰かが近づいてきた。
日比野だろうか。
一緒にジムに行こうと誘っていたのだ。
秋水は顔を上げる。
「棟区くん♡」
「竜泉寺さーん」
「なんで少しの躊躇なくサヨチを呼ぶのかな!?」
紗綾音だった。
秋水は即座に沙夜へ助けを求めたが、沙夜はすでに帰り支度を終えており、何故だか少し面倒臭そうな表情でこちらを見ている。
そろそろ自分で何とかしろよ、と沙夜の顔に書かれているように見えたのは、幻覚かなにかだろうか。
助けて、あなた飼い主でしょ。秋水は理不尽な感想を抱いてしまった。秋水の中では、沙夜はこのチワワの飼い主なのである。
「ふ、ちなみにサヨチは噂の彼氏くんと放課後デートらしいんだよ」
「そうなのですか……」
「ふっふっふっ、棟区くんは助けが来なくてお茶が美味しく万事急須なんだよ」
「休まないのですね」
なお、日比野は自身の席から動かず、早く終わらないかな、とこちらを見守っている。
厄介事には首を突っ込もうとしない、日比野のその距離の取り方はぜひ見習いたいものだ。
「ねえ棟区くん、今日って日比野くんとジム行くんだよね?」
「そうですね」
「一緒に行っていい?」
「イヤです」
「即答なんだよ」
連日放課後に紗綾音と付き合うとなれば、こちらが精神的にげんなりしてしまう。勘弁してくれ。
小首を傾げて可愛らしくおねだりしてくる紗綾音を、秋水はばっさりと切り捨てて却下した。ねだりは「強請り」と書いて「ゆする」とも読む。可愛いだけのゆすり行為に誰が屈するか。
それに、ジムの方まで一緒に来たとして、紗綾音はジムに入れない。会員じゃないからだ。
そうなると、ジムの前で別れ、紗綾音は独りとぼとぼ帰ってもらうことになる。
いや、別にそれは、構わないのだが。
一向に構いはしないのだが、ちょっとな。
秋水はぽりぽりと首の後ろを掻いた。
「えー、一緒に帰ろー。棟区くんとは今まで全然絡んでなかったんだからさー」
「イヤです」
「ちょっとは考えろー」
「いえ、考えたところで、ジムの方は会員じゃないとそもそも入れないですから」
「あ、ジムの中まではノーサンキューで」
「筋トレ、楽しいですよ?」
「おっと、誘う誘われるの立場が逆転しちゃったんだよ」
あまり運動は好きではない紗綾音は、筋トレに関しては拒否の姿勢である。悲しい。
きゅ、と紗綾音が秋水の制服の裾を掴んだ。
不満があると言いたげに、ぶー、と頬を膨らませる。
既視感が、ある。
「もーちょっと、一緒にいようよー……」
昨日から、随分と紗綾音に絡まれる。
かなり激しいボディタッチを繰り返される。
紗綾音なりのコミュニケーションなのかとも思ったが、他の男子に、いや他の女子にだってしないくらいのレベルで、ベタベタとくっついてくる。
それは、どこか懐かしく、思ってしまうのが、イヤだ。
紗綾音の姿が、一瞬だけ誰かさんに重なる。
いや、紗綾音だ。
紗綾音である。
そうだな。
こいつは、妹などでは、ない。
「紗綾音さん」
「ん?」
「大丈夫ですよ」
ぽすりと、紗綾音の頭に手を置いた。
いつものように、ぐりぐりと撫でる。
紗綾音は、紗綾音である。当然のことだ。
でも、紗綾音はムカつくことに、いらないことに、誰かさんと、良く似ている。
顔は全然似ていないし、声も全然似ていないし、背丈だって似ていない。
喜怒哀楽がくっきりしていた気性の荒い誰かさんとは、性格だってまるで似ていない。
だけれど、反応だけは、瓜二つ。
どこかの誰かと、瓜二つ。
だから、イヤだ。
「本当に、気にしていないので」
ぐりぐり紗綾音の頭を撫でながら、声が低くなりすぎないように注意を払って紗綾音に告げる。
優しい声色、なんてもの、秋水は上手く作れない。
なので、相手を怯えさせないような声を作る。
大丈夫だ。
気にしていない。
もしも紗綾音が誰かさんと似ているならば、これだけで伝わるであろう。
伝わらないでほしいところだ。
そんな部分まで、似ないでほしいと、思うところだ。
「…………本当?」
「はい」
しかし、紗綾音は目を丸くして、驚いた表情で聞き返す。
謝れきれなくてモヤモヤしている、見覚えのある、目だ。
本当に、いらないところまで、よく似ている。
イヤだな。
懐かしいと思ってしまうのが、イヤだな。
もう、妹のことを、写真に閉じ込めるみたいに、過去のことのように捉えている自分が、反吐が出るほど、イヤだ。
目の前の紗綾音が、しゅん、と肩を落とした。
落ち込んでいる。
よく似ている。
きっと、謝って、許されて、それでも自分の中でモヤモヤしている感情と折り合いが付かなくて、相手に過度に甘えてしまうのだろう。
妹が構って構ってとベタベタしてくるときは、ごめんなさい、の一言では解消できなかった罪悪感があるときだった。
紗綾音も、同じことをするタイプだったのか。
クソが。
だから紗綾音と一緒にいるのは、イヤなのだ。
「……でも、私、棟区くんのこと、疑っちゃった。悪いこと、いっぱい考えちゃった」
そんなことは、いつものことだ。
疑われるのは、いつものことだ。
怪しい奴がいるんですと通報されて、お巡りさんに職務質問を受けたことだってあるのだ。
他人に疑われることは慣れている。
怪しまれることには慣れている。
怯えられることには慣れている。
怖がられることには慣れている。
他人なんて、だいたいそんなものだ。
落ち込んだ様子の紗綾音の頭を、ぐりぐりと撫でる。
内心を一粒たりとも漏らさぬように、秋水はわずかに苦笑するだけにした。
「その程度を気にするほど、心は狭くないつもりです」
「……そっか」
秋水を見上げる紗綾音の顔が、ほっとしたような表情になった。
それから気持ちを切り替えるように、にぱっと花の咲いたような笑顔を浮かべる。
「やっぱり棟区くんは、お兄ちゃんだね」
その言葉にはなにも返さず、秋水はぐりぐりと紗綾音の頭を撫で続けた。
まさかのダンジョンアタックを全カット。
そして秋水くんのメンタルにダイレクトアタック。
もう止めてさしあげるんだチワワ……(;ω;)
【秋水⑤】自分が同年代から怖がられていない、と気がついたとき、彼が真っ先に抱いた感情が「気持ち悪い」だったことを忘れてはいけない。