髪が身体強化で硬くなる。
その大部分が死んだ細胞の集合体でしかない髪が、身体強化の魔法にて強化される対象範囲に入っている。
普通と呼ばれるような感性では、髪は自身の一部だと思うだろう。
故に、髪の毛が身体強化の影響下にあっても、そこまで不思議には思わないかもしれない。
だがそれは、秋水にとって非常に不思議なことで、とても納得ができない現象であった。
髪や、そして爪までもが身体強化で硬度を強化することができるのならば、手の平にぶっ刺した剣鉈だって同じく強化できるはずだ。理論的には。
体に繋がれた一部として、魔力を流せるはずだ、原理的には。
だが、それは上手くいかなかった。
手の平に突き立てた剣鉈には、魔力を流すことができなかった。
では何故、髪には魔力を流すことができるのだろうか。
何故、身体強化の魔法により、髪を強化することができたのだろうか。
体から生えた髪の毛と、体から生やした剣鉈。その違いはなんなのだろうか。
そもそも、身体強化による強化範囲は、どのように決まっているのだろうか。
不思議だ。
納得ができない。
腑に落ちない。
だから確かめたい。
ダンジョンの入口を見つけたとき、躊躇うことなく開け放ったことからすでに明らかではあるが、秋水は基本的に好奇心で動くタイプである。
「この時間はお姉さん達が多いね」
日比野と共にジムに辿り着くと、ジムの中はいつもとは男女比が逆転していた。
人数としては、10人ちょっとくらい。
昨日の夕方前くらいに来たときより、少し人が少ない感じである。
ただ、女性の方が多い。
おばさま方、という言い方を避け、お姉さん達、という各方面に気を遣った角の立たないマイルドな表現を自然と口にできる日比野は、きっとモテるであろう、年上から。
定期試験など半日授業の後にジムに寄って、軽く筋トレをしたことが何度かある秋水は、この昼過ぎくらいの雰囲気を知っているが、どうにも慣れない。
筋トレとは孤独なもので、周りを見てもしかたがない、というのは分かってはいるのだが、体型維持や運動機能維持のために運動している奥様方ばかりな環境では、どうしても気を遣ってしまうのだ。
なんと言うか、自分みたいなゴリゴリのマッチョが来てごめんなさい、という気分になる。マッチョは存在するだけで威圧感があるのだ。申し訳ない。
やはり、周りにいるならば、同じ筋トレ仲間の方が色々と気兼ねしなくていいので、楽なのだ。
日比野は気にならないのだろうか。
クラスの筋トレ仲間である日比野の方を、秋水はちらりと確認した。
「あ、棟区さんは着替える?」
全く気にしてなさそうである。
元より心が強いのか、女性比率高いと言っていた以前のジムでメンタルを鍛えられているのか、どちらだろう。
「そうですね。流石に制服では筋トレしづらいですからね」
「だよね-。制服とかジャージとかだと、筋トレで肌が擦れるし安定しないよね」
そう言いながら日比野は男の更衣室へと向かった。秋水はそれについていく。
確かに、制服やジャージは、筋トレに適した服装ではない。
秋水はその筋トレに適していないジャージで、1ヶ月以上も筋トレを続けていた錦地 美寧とかいう、恐らく日比野以上のメンタルお化けの存在を思い出して苦笑する。
いや、美寧は日中のジムで他の人の筋トレ姿を見て、ぽきりと心を折られているので、メンタルお化けと言うべきではないか。
そもそも、女性に向かってメンタルお化けは失礼か。
美寧は心が折られても復活する、ど根性レディである。
どうしよう、美寧に対しての褒め言葉が、基本的に失礼な文言になってしまう。
秋水は更衣室で制服を脱ぎ、リュックサックから筋トレ用のトレーニングウェアを取り出した。
「……いやぁ、分かってたつもりだけど、棟区さん、脱ぐと凄いよね」
タンクトップ姿になった秋水の姿を見て、日比野がそんなことを言ってきた。
性別違ったら、ただのセクハラ発言である。
「日比野さんも引き締まった、良い体じゃないですか」
「ありがとう。でも、やっぱり男としては、ムキッとした筋肉に憧れるんだよねぇ」
「ムキッ」
「うわっ、前から察してたけど、棟区さんってノリいいよね。そんで凄い上腕二頭筋だこれ」
ノリで力コブを見せるように肘を曲げて上腕二頭筋に力を入れてみれば、日比野の目が輝いた。
筋肉を褒められるのは嬉しい。
それが同じ筋トレ民の同士からならば、値千金というものである。
制服を脱いで長袖の肌着になっている日比野は、袖を捲って同じく肘を曲げ、同じく力コブを作る。
しっかりと上腕二頭筋が隆起している。
「棟区さんのを見た後だと、悲しくなるね」
「いえいえ、ナイスマッスルです。全体的にバランスが取れていて、フィジーク向けの美を感じます」
「そうかなぁ?」
「そうですよ。鍛えた筋肉に貴賤はありません」
「凄いこと言うね」
「速筋と遅筋に上下関係はありません」
「専門的な方に話が転がるね」
そんな下らない会話をしながら、揃ってトレーニングウェアに着替える。
日比野のトレーニングウェアは、随分と鮮やかなデザインだった。スポーツ業界においては割と有名ブランドの衣類である。
一方で、秋水は 『働く男』 で買っている衣類だ。元はトレーニングではなくワークウェアであるが、トレーニングウェアとしても最適なので愛用している。
「ナイスウェアだね」
「ナイスウェアですね」
互いにサムズアップで褒める。頭の悪い会話である。
ジムには一緒に来たものの、筋トレは孤独だ。
クロストレーナーで体を温めてからエアロバイクで追い込む予定の日比野とは別れ、秋水は軽くウォーミングアップを黙々と行う。
ジャンプスクワット。
プッシュアップ。
ランジ。
バーピー。
ハイニー。
スケーター。
マウンテンクライマー。
ジャンピングジャック。
それぞれ連続で行って、ちょっと休憩。それを3セット行う。
そう、HIITトレーニングである。
短時間で全身の筋肉をバリバリのゴリゴリに動かして、体を暖め叩き起こすお手軽運動だ。目覚めよ筋肉。
なお、一般的な感覚で、HIITトレーニングをお手軽な運動と思う方が少数派である。
筋肉が温まったことを実感しながら、秋水はストレッチコーナーを後にする。隣で柔軟体操をしていた奥様が、ドン引いたような目をしていた。
そして棚に置いていたリュックサックから、愛用のトレーニンググローブを取り出す。
本来はダンベルなどを使った筋トレのときに、手の平が肉刺だらけにならないためのクッションと、手首を捻らないためのサポーターとして使われるトレーニングギアだ。
ただ、秋水は全然関係のない脚の筋トレをする場合でもトレーニンググローブを着用する。
気合いが入るからだ。
トレーニンググローブを装着すると、なんとなく気分的に、今から筋トレ頑張るぞ、という気分になるのだ。
「こっちは空いてるな……」
準備を終えた秋水は、タオルとポーションを入れたペットボトルを持って、目的のマシンへと向かう。
本日やりたい筋トレは、マシントレーニングだ。
いや、筋トレというか、やりたいのは実験だ。
身体強化の実験だ。
その実験をするのに、最適だと思ったのが、鉄の棒がぶら下がっている筋トレマシンだった。
ラットプルダウン。
椅子に座り、体が浮かないように大腿四頭筋にロックを掛け、頭上にぶら下がった鉄の棒を握って、胸を張って肩を下ろし、そして脇を締めつつ肘を下ろすようにして鉄の棒を引っ張り下ろす、ジムでは定番の筋トレマシンである。
主に背中の広がりを作る広背筋が鍛えられる。
他にも大円筋、僧帽筋、菱形筋、上腕二頭筋などが鍛えられ、背中を鍛えるマシンと言ったらまずはコレ、とご指名が入るくらいの人気種目だ。
そんな人気種目のラットプルダウンだが、この時間は有酸素運動側の機械をメインに運動する奥様方が多いので、筋トレマシンやフリーウエイトの方は空いている。
これはラッキーだ、と秋水は早速ラットプルダウンのマシンに座らせてもらう。
「えーっと、重量は……いや今日は違う違う」
座って太ももに当てるパッドの位置を調整してから、秋水は流れるようにラットプルダウンの重量をいつもの重さに設定しようとして、独りでツッコミを入れた。
今日はトレーニング目的ではない、実験目的だ。
雑念の全てを置き去りに、無我の境地で追い込みをかけるような重量設定にしてはいけない。
秋水はいつもの筋トレ重量から、もう2段下げた。
それから腰を浮かせ、頭の上でぶら下がる棒を握り、改めて椅子に座る。
軽い。
フォーム確認を行う重量だ。
まあ、今日はフォーム確認に近い実験をしたいので、丁度いいと言えば丁度いい。
秋水は座ってから、太ももにパッドがしっかり当たる位置まで座り位置を前にずらす。
太ももと膝が固定できてから、足の裏を床にしっかりつけて力を入れる。
横に広がる棒を握る手幅の広さは、だいたい肩幅の5割増し。サムレスと呼ばれる親指を掛けない握り方だ。
肩を下げ、肩甲骨を寄せ、胸を天井に向けるようにしてしっかりと張る。
「よし」
準備を終え、秋水はゆっくりと握った棒を胸に向かって引き下ろす。
手で引くのではなく、肘で引くイメージ。
肘を尻の方へと寄せていくイメージ。
背中の筋肉、特に広背筋を収縮させて引っ張っているのを意識しながら、しっかりと引く。
そう、イメージだ。
1回、2回、と秋水は反動もつけずに数回程ラットプルダウンを行う。
そして引き下ろした棒をゆっくりと戻し、まるで鉄棒にぶら下がるような格好で一息つく。
そう言えば、美寧に筋トレマシンを一番最初に紹介したのは、ラットプルダウンだった。
このスタートポジションの姿勢が、背中の筋肉が引っ張られる感じがして気持ちが良いと言っていたな、というのを思い出す。
秋水は小さく苦笑のような思い出し笑いを浮かべてから、ふ、と小さく、そして鋭く息を吐く。
腹圧を入れる。
腹筋を固めてから、再び肩を下げて肩甲骨を寄せ、天井に向けて胸を張る。
実験の本番はここからだ。
「身体強化……」
秋水は小さく呟いた。
体の中には、すでに魔力が駆け巡らされている。
その魔力に色をつければ、いつでも身体強化の魔法を発動できる状態だ。
腹圧を入れながら、秋水は集中するようにゆっくりと息を吸う。
強引に話を脱線させる。
ラットプルダウンは分類的にマシントレーニングに属しているが、性質としてはケーブルマシンに近い。
ケーブルマシンは、フリーウエイトに近いマシントレーニングだ。
マシントレーニングの器具というのは、ほとんど線路の上を走る電車のようである。
動きの軌道は最初から決められていて、そこには迷いも揺らぎも許されない。
座席に身を沈め、グリップを握れば、あとは押すか引くか、それだけで筋肉が刺激される。
不器用な初心者でも、まるで導かれるように正しいフォームへと収束していく。
一方でケーブルマシンは、海に張られた1本の紐である。
同じ動作でも、引く角度を変えれば効く部位を変えられ、筋肉は無数の可能性に晒される。
ケーブルを引く軌道は自由だが、その自由は自分自身で制御しろという試練を伴う。
自由を制せば様々な筋肉が恩恵を受ける一方、制せなければ海に転落して体を壊す。
ラットプルダウンは、頭上の棒を引っ張り下ろす筋トレだ。
その棒は、ケーブルに繋がっている。
ケーブルマシンなのである。
そしてケーブルマシンは、ケーブルを引く軌道が重要だ。
どのような角度にするか、どのようにテンションをかけるか、ケーブルの延長線上に関節を乗せるかどうか。
それによってフォームが変わる。
そして、ラットプルダウンを行うとき、秋水は意識しているイメージが1つある。
頭上の滑車から、ケーブルを通り、握った棒から手を経由して、肘の先まで、一直線。
滑車から肘まで。
いや、肘から滑車まで。
一直線に力が通るイメージだ。
そう、肘から滑車までが、“まるごと自分の腕” というイメージである。
「……100%」
体の魔力に色をつける。
もしくは、自分のコントロールできる魔力に、色をつける。
そして頭上で握ったその棒を、ゆっくりと腰に向かって引き下ろす。
軽い。
3倍くらいに強化された身体能力では、この設定重量は軽すぎる。
しかし、今大事なのは、筋肉に刺激がしっかりと入る重量かどうかではない。
「ふぅ……」
ゆっくりと息を吐く。
同じくゆっくりと、棒を上へと戻していく。
そしてまた広背筋を収縮させながら引く。
戻す。
引く。
戻す。
“腕” を引く。
“腕” を戻す。
全力で身体強化をかけたせいで、設定した重量があまりにも軽く感じてしまうので、ひたすら繰り返す。
30回。
いや、40回。
持久力などを司る遅筋を鍛える、低重量高回転の筋トレだ。
秋水自身はゆっくり丁寧に行っているつもりであるが、身体強化で高速化されている思考能力を基準とした、ゆっくり、である。他から見れば、素早く大量の回数をゴリゴリにクリアしていく筋肉の鬼にしか見えない。
軽いと感じていた重量ではあったが、流石に40回も行えば、筋肉にはしっかりと疲労を感じる。
秋水は最後に胸まで握った棒を引っ張り下ろしたまま、身体強化をOFFにした。
そして、広背筋が伸びていくのをしっかりと感じつつ、雑にならないように丁寧に戻していく。
「いや、ヤバいねぇ……」
カチャン、とラットプルダウンの重りのプレートが戻されて接触する音が小さく鳴るのとほぼ同時に、そんな声が横から掛けられた。
日比野であった。
クロストレーナーでじっくり全身運動をするのは終わったようだ。筋肉がしっかりと温まったのだろう、少し顔が火照っている。
「おや、ウォーミングアップは終わられましたか」
「うん、終わったところなんだけど……棟区さん、この重さで何回やってたの?」
「ちょうど40回ですね」
「これを40回……しかも棟区さん、あんまり息切れしてないね」
「そうですね。最初から飛ばさないように気をつけています」
「僕には十分ぶっ飛んでるように見えるよ」
日比野が唖然とした表情でラットプルダウンの設定した重量を見てくる。
まあ、身体強化という反則をしたので、なんの自慢にもならないのだが。
「棟区さんくらいに筋肉作るには、これくらいの筋トレが必要なんだねぇ……」
しみじみと日比野が呟いた。
筋肉を肥大化させるには、栄養や睡眠といった様々な要因が必要である。筋トレはそんな要因の1つでしかないので、何とも言えない。
それじゃあ僕は自転車入るから、と日比野はエアロバイクの方を指さした。
わざわざ声を掛けにきてくれた感じか。義理堅い。
頑張って、とお互いに声を掛け、日比野は再び秋水から離れた。
ふぅ、と一息。
筋トレは孤独だ。
他人が筋トレしていても、それは自分の筋肉には何の関係もない。
自分の筋肉は、自分でトレーニングするしかないのだ。
だが、それはそれとして、筋トレの同士というのは、良いものだ。
筋トレ同士は、仲間である。
互いに声を掛け、褒めて、慰めて、讃えて、助け合う。
筋トレは孤独でも、筋トレ同志は大事なものだ。
良いものだ。
友達とかいう、訳の分からない薄っぺらいクソみたいな関係よりも、良いものだ。
秋水は再び腰を浮かせ、頭上の棒を握った。
握った瞬間に、イメージする。
この棒は、腕の延長線。
腰を下ろし、太ももにパッドをしっかりと当てる。
背筋が伸びる。
広背筋にストレッチがかかる。
肘から手へ、そして握った棒を経由してケーブルを伝わり、頭上の滑車まで力の向きは一直線。
その一直線は、延長線。
自分の腕の、延長線。
足の裏を床にしっかりつけ、力を入れる。
肩を下げ、肩甲骨を寄せ、胸は天井に向けるように張る。
そして魔力を循環させる。
“自分の腕に” 循環させる。
にぃ、と秋水は思わず笑みを零してしまった。
魔力を循環させたたけで、身体強化の魔法は発動させず、秋水はゆっくりと握った棒を引き下ろしてラットプルダウンを始めた。
なるほど。
なるほどな。
イメージか。
魔法というのは、筋トレと同じで、イメージが大切なんだな。
魔法は筋トレと同類。
理解した。
秋水は凶悪な笑みを浮かべたまま、ラットプルダウンを続けた。
その腕には、魔力が循環している。
ケーブルの途中まで、魔力が循環している。
どうやら、身体強化の魔法は、まだまだ成長できるのかもしれない。
秋水くんの身体強化の魔法、進化しそう。
やったぜ(*'ω'*)
【秋水⑥】実は友達だと公言したその瞬間に、竜泉寺 沙夜への好感度はかなり下がっている。何故だろう。