リフレッシュついでの筋トレを終えた秋水は、クールダウンでしっかりと柔軟をする。
ストレッチだけ行っていた美寧は、秋水より先にジムを後にしていた。
「それじゃあ先生、また明日!」
別れ際に美寧は笑顔でそんな挨拶をしてくれた。
今日は木曜日。
明日は金曜日。
その日付が変わる前くらいから、もはや恒例、美寧の筋トレタイムである。
深夜も深夜、ド深夜である。
そう言えば、前回美寧に筋トレを教えた日、帰りにお巡りさんにゲットされた挙げ句にドナドナされて、交番で説教を喰らったんだったなぁ、というのを秋水は思い出す。
「はい、それでは、また明日」
思い出しただけで、秋水は特に気にせず、しれっと返した。
深夜徘徊、上等である。
だって深夜のジム、快適だしな。
色々な人に迷惑を掛けたなとは思ってこそいるものの、実は特に反省していない秋水は、バリバリの非行少年であった。
大丈夫、今度はお巡りさんに見つからないようにするさ。
美寧に手を振りながら秋水は決意を新たにする。
違う、そうじゃない。
男には、失ってはならないものが3つある。
筋肉。
努力。
そして清潔感だ。
ジムでの筋トレを終え、帰りにスーパーで食料品を買い込み、家へと帰り着いた秋水は、すんすんと自分の匂いを嗅いでみた。
よく分からない。
自分の体臭というのは、それが判断の基準値であるせいで、自分では臭いかどうかが分からないという。
冷蔵庫に買った食品を入れてから、うーん、と秋水は考える。
今から牛乳にプロテインやらイヌリンやらシナモンやら青汁やらその他諸々を入れた特製栄養ドリンクを作って飲む。
そして、いざダンジョンアタック、という気分である。
いや、でも清潔感は重要だ。
特に、無駄にデカくて無駄に怖いという外見の秋水にとって、清潔感という要素を失おうものならば、それこそ取り返しがつかない。
しかし、今からダンジョンアタックに勤しんだとすれば、次に人と会うのは明日の学校である。
シャワーでいいかな。
秋水の頭の片隅で妥協案がプラカードを掲げた。
その一瞬後、このおバカ、と理性がプラカードを粉砕する。
別に知り合いと遭遇なんてしないだろ、とか何も考えずにジムに行って、美寧と遭遇してしまった教訓を思い出せ。
ここからなにかの用事でダンジョンを出て、なにかの拍子に知り合いに会うかもしれないじゃないか。
そのときに、うわ汚ぇ、汗臭ぇ、とか思われてみろ。自分は死んでしまうぞ、社会的に。
「風呂入ろ」
風呂のスイッチを入れてしばらく待てば、お風呂が沸きました、というアナウンスが流れる。
ごろん、ごろん、とアブローラーを転がしていた秋水は、その音声に顔を上げた。
アブローラー。
筋トレ器具の1つである。
グリップのついたローラー、という非常にシンプルかつコンパクトな器具であり、自宅で使える筋トレ器具としてもそこそこの人気がある。
アブローラーのグリップを両手でしっかり握り、前屈の姿勢でアブローラーを床につき、腹筋に力を入れながらゆっくりとローラーを前へと転がす。
そして限界まで前に体を倒しきる寸前で動きを止め、腹筋の力で元の体勢に戻していく。
腹直筋を中心にして、腹斜筋、腹横筋、広背筋、脊柱起立筋などの体幹全体に負荷をかける筋トレだ。
風呂にお湯が貯まるまでの間に、追加で筋トレをおかわりしていたのである。
体を起こしてから、秋水はアブローラーをタオルで軽く拭く。
久しぶりに使ってみたが、なかなかに悪くない。
複数の筋肉を連動させて動く多関節運動としては、かなり良い、という感じだ。
負荷を自重以上に増やすのが難しい、という点は少し考えものだが、フォームさえ覚えれば初心者には最適なんじゃなかろうか。
美寧にオススメする筋トレの1つとして評価しながらも、秋水はアブローラーを仕舞っていた元の箱へと戻した。
このアブローラーは、プレゼントされた筋トレ器具だ。
そして、死蔵していた筋トレ器具だ。
先月の正月明け、紗綾音とホームセンターで遭遇したとき、なんとなく思い出してしまったものである。
「うん、使える。ありがとうな」
それはきっと、貰ったその時に言うべき台詞であって、今更言ったところで意味などない台詞だ。
呟いた直後に、痛感した。
先に立たない代表格の感情が、じわりと胸に広がった気がした。
服を脱ぎ、風呂場に入る。
これで風呂の栓を閉め忘れていたら絶望的な光景が広がっていただろうが、ちゃんと浴槽にはお湯が貯まっている。
「あ、入浴剤の方忘れてら」
風呂の栓は忘れなかったが、入浴剤を入れておくのを忘れていたことを思い出す。
まあ、先に入れようと後から入れようと、効果は同じだ。気にしない気にしない。
秋水は再び風呂場を出て、棚に置いてある瓶を手に取る。
瓶にはラベルが貼られており、そこには手書きの文字で 『炭酸水素ナトリウム』 と書かれていた。
重曹である。
これが秋水にとっての入浴剤だ。
他にも 『硫酸アルミニウムカリウム』というラベルの貼られた瓶が置かれてあるが、こちらは主に夏用だ。
冬場は重曹風呂に限る。秋水の偏見だ。
弱アルカリ性の重曹が皮脂や汚れを落として肌をすべすべにする。毛穴の汚れを落とすことによってニキビ予防にもつながる。体内の酸性物質を中和して、新陳代謝を活発にして疲労回復を促進する。保温効果も高いので湯冷めしにくく、長い間からだがほこほこする。
そしてなにより、体臭予防の効果が高い。
男は清潔感を失ってはならない。
やはり重曹風呂は良い。秋水の偏見である。
「市販の入浴剤って、なんであんなに高いんだろ」
瓶を手に取った秋水は、ちらりと棚を確認する。
入浴剤は自作すればいいじゃないか、という考えの秋水ではあるが、一応は市販の入浴剤というのも置かれている。
生前に使われなかった置き土産として、ではあるが。
薔薇の香り、調合できる。
ゆずの香り、調合できる。
色は着色できるし、市販の入浴剤を買う理由がますます分からん、と秋水は身も蓋もないことを考えながら風呂場に戻る。
まあ、いつかは消費しなくてはならない。
頭の片隅で考えながら、秋水は瓶のフタを開け、中に入れっぱなしにしている計量スプーンで重曹をすくい、それをお湯へパサッと振り掛ける。
大さじ2杯。
これが秋水好みの濃さである。
そして瓶のフタを閉め、棚に戻してから再度風呂場に戻り、お湯をかき混ぜる。
重曹は粉だと白いが、お湯に入れてしまえば無色透明だ。
ちゃんと混ざっているかどうかは見て分からない。
「ぱわー」
ざぶざぶざぶ、とかき混ぜる。
お湯の抵抗がなんだというのか、この筋肉を舐めるでないぞ。
しっかり混ぜてから、秋水は手桶でお湯をすくってかけ湯をする。
「ふぅ……」
一息。
お湯に入る前から気が早いだろうか。
手桶を置いて、秋水はゆっくりとお湯に入って体を沈めていく。
「はぁ」
改めて、一息。
温かい。
体がじんわり温まる。
やはり極楽。
入る度に感じることだが、風呂に入るというのはやはり気持ちの良いものだ。誰だシャワーでいいかななんて妥協案出した馬鹿野郎は。自分だった。
浴槽で秋水はリラックスする。
デカい体の秋水だと、その浴槽では随分と窮屈そうに見えるのだが、秋水本人はそうは思わない。
他人の体と他人の感覚は、比較しようのないものだ。
秋水にとってこの窮屈さは、普通のことである。
これが秋水にとっての、自分のウチの風呂、なのだ。
「セーフエリアには風呂ないしなぁ……」
ぱしゃりとお湯を手ですくって顔を洗いつつ、秋水は独り言ちる。
ダンジョンの環境は、人間にとってめちゃくちゃ快適だ。
明かりはある。
とても静か。
温度と湿度は一定で、居心地が良い。
ポーションという飲み水がある。
暗くならないのはアイマスクで対応できるし、岩肌の地面も草をばら蒔き畳を敷けば解決できた。
特にモンスターも出現しないセーフエリアは、生活するにはもってこい空間なのは間違いない。
ただし、欠点もある。
電気がない。
つまり、文明の利器がほとんど使用不可能、という欠点だ。
わりと致命的である。
明かりは原理不明な天井の明かりがあるので解決しているが、例えばスマホの充電に関しては家の電力に頼るしかないのだ。
「そういや、クソ長い延長コード買うの、ずっと後回しにしてたなぁ」
お湯に浸かって天井を見上げつつ、ふと思い出す。
今のところスマホの充電など細々したことは、家の方でモバイルバッテリーを充電しておいて、それを使って解決している。モバイルバッテリーが2つあれば、使用するのと充電するのを交互に使えるので全く問題はない。
そして、明かりとスマホという2大問題を解決してしまうと、秋水からすればセーフエリアに電源を引き込む必要は特になくなってしまっていたのである。
他に電気を使用するものと言えば、冷蔵庫に炊飯器に電子レンジ、それに洗濯機くらいだろう。
テレビはスマホで事足りるし、湿度が一定であるダンジョンの環境では加湿器も除湿器も必要ない。
食事系統に関しては、家に戻れば良い。
洗濯に関しても、家に戻れば良い。
風呂に関しても、家に戻れば良い。
つまり、セーフエリアまで電源を引き込む必要は、今のところなし。以上、解決。
「んー……ギリギリ洗濯機くらいは……」
秋水は天井を見上げながら考える。
洗濯機をセーフエリアに持ってくるのは、ありかもしれない。
なにせ、セーフエリアの中は雨が降らない。
洗濯物を干すには最適とも言える。
ただ、ダンジョンの入口である縦穴から、どうやって洗濯機を下ろすか、という問題はある。
まさか放り込むわけにもいかない。滑車を使って下ろすとなると、そもそも滑車を組む必要がある。シンプル・イズ・面倒。
それに、セーフエリアはだいたい6畳ほどの広さしかない。しかもポーションが垂れ流しになっている関係上、6畳中の1畳分はポーションという水分が跳ねてくる危険エリアだ。
そこに洗濯機を置いて、排水ホースをどこかに通し、給水の問題もなんとかして。
「給水できねぇ……」
そもそも洗濯するための水が確保できないという問題が発生した。
なるほど、洗濯機をセーフエリアに持ち込むアイディア、却下だ。
まさかポーションで洗濯するわけにもいかないだろう。できるかもしれないけれど。
食事・洗濯・風呂というのは、どれも水を使う内容だ。
ポーションこそ垂れ流しになっているが、セーフエリアには普通の上下水が完備されているわけではないので、この3点については広さとか電源がどうのこうのという以前の問題として、やはり家で行った方が良いだろう。
「あと、トイレな」
諦めたように秋水は呟きつつ、手で風呂のお湯をざぶざぶと再びかき回す。
特に意味のない行動だ。
そう言えば、前も同じようなこと考えたよなー、とぼんやり思う。
セーフエリアを完全に生活の拠点にしたい、という考えは度々浮かぶ。
その度に、現実的な問題で却下する。
このループ。
自分にとっての 『ウチ』 は、どちらなのだろうか。
快適な環境のあるダンジョンだろうか。
電気・ガス・水道が完備されている家なのだろうか。
もしくは、新しい遊び場でずっと引き籠もっていられるダンジョン、という考え方もありだろうか。
あるいは、思い入れのある――
ざぶり、ざぶり、と秋水は湯船に入ったまま、手でお湯をかき混ぜる。
特に意味はない。
意味は、ないのだろうか?
「…………」
一瞬だけ頭に浮かんだ思考が、急に切り替わるのを感じた。
腕の動きを止め、湯をかき混ぜるのを中断する。
秋水が動きを止めても、慣性の法則でお湯はしばらくゆらゆら揺れて動く。
「……おん?」
秋水は眉を顰めた。
ゆっくり、右腕を動かす。
お湯をかき混ぜる。
お湯が動く。
混ざる。
動く。
手を止める。
しばらくお湯は動く。
このお湯の動きは、なんと表現するべきだろうか。
浴槽に貯められたお湯。
かき混ぜる。
お湯が動いて流れる。
かき混ぜた秋水の腕の動きに従うように、ぐるりぐるりと。
お湯が、循環する。
「ああっ!?」
急に大きな声を上げ、弾かれるように秋水はざぶりと立ち上がった。
湯船に入ったお湯を混ぜる。
お湯がぐるりと循環して混ざる。
ただ、それだけである。
つまり、馬鹿か俺は、という案件だ。
ぱんっ、と秋水は思いきり手で額を叩き、うぼあー、と地鳴りがするような恐ろしく低い声で唸って天井を仰ぎ見る。
当たり前すぎることに気がついた。
むしろ、なんで今まで見落としていたかが不思議なくらいである。
なんという馬鹿。
なんという失態。
時間を無駄にしてしまった。
こうしちゃいられない、と秋水は浴槽から慌てて足を出し、風呂から上がろうとした。
「…………」
男には、失ってはならないものが3つある。
筋肉。
努力。
そして清潔感だ。
「……体、洗うか」
美寧に汗臭いと思われているらしい、という事態は、秋水にとって地味にショックな出来事であったようである。
逸る気持ちを抑えつつ、秋水は渋々体を洗うのだった。
なお、美寧が汗臭いと思っている、というのは完全なる被害妄想である。
「さてっ!」
体は綺麗さっぱり。
湯上がりほっかほか。
そこに全身フル装備。
作業服などという舐めプではない。ライディング仕様のガチモードだ。
そう、再びダンジョンアタックだ。
風呂場でとある事実に今更ながら気がついた秋水は、風呂から上がってから急いでセーフエリアに戻り、さくっと装備品に身を固めたのだった。
ジェットヘルメットを被って、作業ベルトを締めて、バールやら剣鉈やらを固定して、リュックサックを背負って、そして巨大バールも手にして、すでに準備万端である。
「いざ尋常に、いきますかっ!」
巨大バールの感触を確かめるように、ぱんっ、と右手で叩いて握り締める。
その巨大バールは、魔法で強化されていた。
思考転換に至るブレイクスルーって、不思議と散歩とか風呂とかのリラックス中に湧いてくるんですよね。
なお、この物語の重要ポイントは、だいたい筋トレ中に思い浮かびました(*'ω'*)
次回は答え合わせ編ですよ!
(ヒント)
「身体強化」の「身体」ばかりに注目し過ぎていた。