「さて、高校への出願、終わったぞ」
授業と呼ばれるようなものはなく、自習で午前中を終え、帰りのホームルームになって担任教師が開口一番に放った台詞がこれである。
教室の雰囲気が、一瞬だけピリついた感じがする。
今日は学年末試験の答案用紙返却日。
そして、高校への出願日、でもある。
高校受験の準備が、スタートが、というのは3年生に上がってから常々言われていたことだが、この高校を受験しますという出願を終えた今日こそが、本当の意味での高校受験のスタートだ。
どこの高校にしよう、などと迷うことはもうできない。
「分かってると思うが、特別な事情がない限り、出願変更は受け付けない。お前らの受ける高校は、今日、この日を以て決定した。いいな?」
いつもの間延びした声ではなく、はっきりとした口調で担任教師は教室全体を見渡しながら喋る。
特別な事情、と言ったところで、ちらり、と秋水に目を向けていたが、秋水はそれをあえてスルーする。
希望校に変更はない。
そもそも高校に行く必要あるのだろうか、という根本的なところに対しての迷いはまだあるが、希望校そのものを変えるつもりはない。
担任教師もスルーした秋水の内心を汲んだのか、そのまま言葉を続けた。
「ここから学力試験や面接まで、もう1ヶ月もない。この期間を頑張れたかどうかで、人生の半分は決まるぞ」
再度教室を見渡してから、担任教師は言う。
人生の半分とは、大きく出るじゃないか。
しかし、誰も茶化さなかった。
「受かるか落ちるかの問題じゃない。最後の追い込みを頑張れたかどうか、それはきっと、これから先の人生に大きく響く。俺は少なくとも、自分は最後の1ヶ月も頑張れない奴なんだと、お前らに思って欲しくない」
分かる。
担任教師の言葉を聞いて、秋水は思わず1人で小さく肯いていた。
最後の追い込みを頑張れるかどうか。
それが人生に大きく影響を及ぼす。
完全に同意である。
最後の追い込みというのは、ぶっちゃけ根性論や精神論が大きく支配する領域だ。
追い込み、大事。
サボろうぜ、楽しようぜ、逃げようぜ、という誘惑を横に置き、目標に向かって最後まで突き進めるかどうかは、追い込みができるかどうかで決まるのだ。
もう持ち上がらない、もう引っ張れない、そんな泣き言を訴える筋肉を黙らせて、最後のもう1回、というのができるかは、根性がものを言う。
とてもよく分かる。
良いことを言うじゃないか。
小さく肯く秋水は、ナチュラルに筋トレの話と混同していた。担任教師は高校受験の追い込みの話をしているのであって、別に筋トレのワンモアセット的な意味での追い込みの話はしていない。
そこでふと、秋水は思い出した。
そうだ、筋トレ。
「ま、それを胸にしつつ、体を壊さん程度に頑張れよー。てことで、来週からの授業についてなんだがー」
真面目な話を一区切りつけて、担任教師はいつもの間延びした声に戻って連絡事項を伝達し始める。
ここから3年生は卒業式まで午前中だけの半日授業になること。しかし1年生と2年生は通常通りに授業があるので迷惑は掛けないこと。寄り道しないこと。受験生の自覚をすること。成績処理が始まるから、テストの点数で泣きつくのは来週の水曜日までにすること。などなど。
担任教師の話を聞きながら、秋水は頭の片隅で別のことを考える。
本日は金曜日。
当然ながら明日は土曜日。
つまり、美寧に対しての筋トレ授業が待っている。ついでに秋水自身の筋トレだ。やったぜ。
ではなく。
問題は、その時間だ。
深夜である。
日付変更を跨ぐド深夜だ。
先週はその帰り道、未成年の深夜徘徊ということで、お巡りさんに捕まってしまった。
鎬に連絡が行くし、学校に連絡が行くし、ミカちゃんさんが情報を拡散したことによりクラスメイトには普通に心配掛けたし、ついでに祈織には怒られた。
多方面に迷惑を掛けた出来事である。
午前4時以降ならギリギリセーフとなったであろうが、日付変更を跨ぐという言い訳のしようがないド深夜にジムに行くのは普通にアウトだ。
これは中学生の秋水に限ったことではなく、高校生の美寧にも当てはまる話だ。
深夜の筋トレ、ちょっと考えた方が良いかもしれない。
ふむ、と秋水は顎を撫でつつ思案する。
さて、どうしたらお巡りさんにバレずに出歩けるだろうか。
学校が終わり、秋水はそのまま家とは違う方向へと足を進めた。
寄り道しないこと、という担任教師の言葉はガン無視である。ひどい。
今日は、というよりも、これからずっと、学校での授業は半日しかない。
午前中で授業が終わるということは、昼飯の問題が出てくる。
秋水は独り暮らしだ。
食事は自分で用意する他にない。
適当に買うというのも手であろう。自炊もありだ。しかし今日は。
「食べ放題は、色々楽だなぁ」
店を出た秋水は、満足した、というように腹を撫でる。ちょっと食べ過ぎたかもしれない。
用事ついでに近くにあった食べ放題の店に寄った秋水は、そこでアホ程に食べてきた。
健全な男子中学生の食欲を舐めてはいけない。
しかも秋水は身体がデカい。縦にも横にも色々な意味でよく育っている。
さらにはポーションが強制的に脂肪のエネルギーを消耗するという、世間一般ではメリットであろうが秋水にとっては特大のデメリットがあるせいで、意識してカロリーをたくさん摂取しなくてはいけない秋水にとって、食べ放題の店というのは非常に助かる存在だ。
秋水が入ったのはしゃぶしゃぶ食べ放題の店。
ただし、注文したのは肉食べ放題ではなく、ランチ限定の豚肉2皿だけのコースだ。
肉は2皿だけであるが、そのコースでも野菜などは食べ放題だし、ごはんも食べ放題だし、ラーメンも食べ放題だし、うどんも食べ放題だし、カレーも食べ放題だし、スープも飲み放題だ。神システムかよ。
糖質と脂質はカレーライスを馬鹿食いし、スライスされた豚肉2皿という物足りないタンパク質は豆腐で補えばなんの問題もない。
野菜はサラダをスルーして、ネギ類をたっぷりしゃぶしゃぶ鍋に投入して食べる。ネギ系統の野菜は栄養価が高く、意識してたくさん食べたい。
冬だし温かい食事は最高である。
しっかり食べて腹を満たした秋水は、店を出てからぐいっと背伸びをする。
紗綾音は本日、他の友達数名とわいわい喋りながら帰っていったのを見るに、そのまま遊びに行くのだろう。
また来週のお楽しみー♪ などとデカい声と共に手を振ってきたので、とりあえず秋水は小さく手を振り返しつつ、今日はあんまり絡まれなくて良かった、と胸を撫で下ろしたものだ。
まあ、交友関係の広い紗綾音であるから、秋水ばかりに絡んではいられないだろう。
それに、きっと最初の物珍しさだけで最近は絡み続けてきただけで、そろそろ飽きてきたんじゃないだろうか。きっとそうだ。そう思いたい。頼むからそうだと言ってくれ。
学校での様子を思い出しつつ、来週は平穏無事で過ごせますように、と心の中で秋水は祈りを捧げる。
「さて」
気を取り直し。
腹は満足、心は軽やか。
それではちょっくら、用事をぱぱっと済ませて家に帰るとするか。
用事と言っても、大層な用事ではない。
ちょっと服を買おう、という程度の話である。
なるべく見栄えが良い、渋くて大人っぽい、格好いい上着と帽子をお探しだ。
やはり黒がいいだろうか。
闇夜に溶けるような、イカした黒が欲しい。
なんと男子中学生らしい用事であろうか。お洒落に気を配っているかのようだ。
しかも、安くて丈夫な作業服系統を取り扱っている 『働く男』 で服を選べばいいか、という安直なことはせず、古着専門でこそあるものの、ちゃんとした服屋に来店して秋水は服を選んでいた。
今の秋水が求めているのは、見た目はモサくても良いから機能的な服、ではない。
機能性はともかく見た目が大人っぽい服、である。
まさに色気づいた中学生の感覚だ。
「こっちの方が暗闇で目立たないか……いや、でも奇抜だな……もっとこう、地味でシンプルな感じに……」
小声で呟きながら、秋水は飾られている服を1着ずつ丁寧に見ていく。
黒は鉄板。
サイズは秋水視点でゆったり。
できれば丈が長く、体を隠せる方が好ましい。
そしてシンプルで目立ちにくいのが最重要。
このコートはどうだろう、こちらのジャケットは良いんじゃなかろうか、と秋水は何着か目星をつけながら候補を絞っていく。
「お、これ良い感じじゃないか?」
そして秋水は、1着のコートを手に取った。
黒が美しい、革のコートだ。
サイズは秋水が着ても大きめな感じ。
丈は長く、秋水の太ももが隠れるくらいある。
変な飾りは一切なく、まさにシンプル・イズ・ベスト。
革製品であるため少し重たいが、ダンジョンでライディングジャケットを着て走り回っている秋水からすればまるで問題のない重量である。
むしろ、革のコートにしては軽いくらいだ。
人工の合成革とかだろうか。
タグをチェックする。
「羊か」
天然だった。
羊の革ということは、湿気ったら腐る可能性がある。お手入れがちょっと面倒だ。
しかし、デザインが良い。
主張は少ないが、上品な感じ。暗闇に紛れそうな黒なのがポイント高い。
うーん、と秋水は悩みつつ、キープ目的で羊革のコートを分かり易くハンガーラックの隅に掛ける。
そして秋水は続けて目的に合う上着を探していく。
黒いやつ。
シンプルなやつ。
体を隠せそうなオーバサイズのやつ。
夜間巡回中のお巡りさんから見つかりにくそうな、服。
別に秋水は、格好つけるために服を選んでなどいなかった。
色気づいてもいなければ、お洒落に気をつけてすらいない。
秋水の目的は、お巡りさんに見つかりにくい服、である。
黒は深夜の闇色に溶け込むために。
シンプルなのは目立たないために。
オーバーサイズなのは秋水の体を隠すために。
深夜徘徊で補導された秋水が得た学びは、次はお巡りさんに見つからないようにしよう、であった。
懲りてなかった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とは言うかもしれないが、そもそも秋水は熱さを感じていない馬鹿野郎であった。
深夜のジムで、美寧に筋トレを教える。
それを止めるつもりは、秋水にはなかった。
それこそ、美寧から止める、と言い出さない限りは、秋水は美寧に筋トレを教えることを中止するつもりは一切ない。
なので、今日の深夜も普通にジムに行くつもりだ。
そして今買おうとしている服は、お巡りさんに補導されないための迷彩装備を選定しているようなものだった。
そもそも、秋水は見た目がまず、中学生ではない。
まず、見た目がデカい。
190近い高身長に、特技はダイナマイトタックルですと言わんばかりに自己主張の激しい肩幅と、その肩幅に全く引けを取らぬ鎧の如きフルプレート筋肉たち。
顔はこの世の憎悪を煮詰めたようなヤクザ面である。少なくとも将来に希望が満ちている少年の顔ではなく、まるで世の中に疲れ切って犯罪に手を染めてしまった男の顔と表現した方が良い。
そして喋れば、声変わりなど10年以上前に終えておりますと勘違いされそうな激渋重低音なウルトラバスボイス。
初見で秋水が中学生、いや未成年であるということを見抜けという方が、土台無理な話だ。難易度は無理ゲーどころかクソゲーの領域に足を突っ込んでいる。
深夜をふらふらで歩いていても、お巡りさんに見つかって補導される心配というのは、ほとんどない。
見つかったところで、子どもがいる、と思われないからだ。
だからこそ今まで無警戒で出歩いていたわけだが、これが知り合いのお巡りさんであれば話は別だ。
見た目がデカい以上、秋水は良く目立つ。
遠目でも特徴的なのだ。
あそこで誰か歩いているな。
縦にデカいな。
横にもデカいな。
怖い面だな。
おい待て棟区 秋水、なんて時間に出歩いてるんだテメェ。
先週、知り合いのお巡りさんに発見されて取っ捕まったのも、ほとんどこの流れだ。
目立つからこそ簡単に目をつけられ、知り合いだからこそ未成年だとバレた。
ならば、目立たないような服装にしよう。
とてもシンプルな思考回路だった。
とりあえず、夜間外出を止めよう、とはならなかった。お説教を頑張ったお巡りさんと祈織は泣いても良いかもしれない。
まあ、でも、筋トレを教える相手である美寧は、高校生である。
深夜徘徊で美寧がお巡りさんに交番までドナドナされたら、きっと内申点などに傷が付くだろう。
バレないように注意するか、時間をずらすかの打診くらいはした方が良いだろうか。
今日にでも相談してみるか、と考えつつ、秋水は店内のメンズ上着を一通り見終えた。
「やっぱ、さっきの革コートか」
秋水の目的、闇夜に紛れるのに最適そうな服、という点で考えたら、やはり先程の羊革コートが一番良かった。
売り場を戻ってキープしていた羊革コートを再び手に取る。
ハンガーから外し、試しに制服の上から着用する。
「……うん、いい感じじゃないか?」
軽く動き、着心地を確かめる。
やはり色が良い。
無駄に光沢がなく、重く落ち着いた闇の色。
目立つロゴやデザインはなく、どこまでもシンプルなデザインなのも良い。
サイズは大きめで、秋水のような無駄に筋肉ムキムキな野郎が着ても、少しぶかっとするくらいである。
動いた感じは引っ掛かりもなく、オーバーサイズなのもあって窮屈さはまるで感じない。
そしてなにより、袖の長さはジャストサイズだ。
お誂え向き、とはこのことを言うのだろうか。秋水が求めている条件にここまで合致した商品が探し出せるとは、正直なところ秋水も期待していなかった。
革製品特有のお手入れに関しては、うん。
「……クリームとかなくても、なるべく濡らさないで、軽く拭くとかくらいでも良いんかな?」
革ジャンのような革製品など身に着けたことのない秋水は、その手入れの仕方をよく知らない。
まあ、調べれば分かるだろ。
軽く考えながら秋水は値札を確認する。
ちょっぴり良いお値段。
古着としては、であるが。
「よし、買いだ」
秋水はカゴを持ってきて、羊革コートを突っ込んだ。
それから帽子を探したが、そちらの方はすぐに見つかる。
黒いニット帽だ。
羊革コートと色合いが良く似ていて、こちらも夜に溶け込む感じが良い。
そして安い。
安いが故のシンプルさ。
即決で買いである。
これなら夜に出歩いても目立たないだろ、と秋水は満足気にコートと帽子をレジに持って行く。
「袋はいかがされますか?」
そして、レジの店員さんが若干引き攣った笑顔で尋ねてきた。
厳つい客が長居しちゃってごめんね。
ではなく。
袋の有無を尋ねられた秋水は、反射的に背中に手を伸ばし、今は学校の帰りであり、いつものリュックサックではないことを思い出す。
しまった、小さめの買い物袋しか持ってない。
学校用の鞄には、革のコートを入れるスペースは流石にない。
かと言って、レジ袋を貰うのも、ちょっと勿体ない。
背中に手を伸ばしかけた姿勢で一瞬だけ固まり、少し悩んでから秋水は落ち着いた声で店員さんに告げる。
「いえ、着て帰ります」
「はい、かしこまりました」
羊革コートは着て、ニット帽は被って帰ればいいだろ。
単純な解決策である。
値札を切ってもらってから、秋水は今着ているコートを脱いで、羊革コートに袖を通す。
やはり、丁度良い。
ふむ、と軽く肯き、秋水は会計を済ませた。
「あ、ありがとうございましたぁ……」
何故か、店員は先程以上に引き攣った営業スマイルになっていた。
なんだろうか。
まあ、怖がられるのはいつものことなので、それ以上気にすることなく秋水は店を出ることにする。
ぐるり、と肩を一度回す。
着心地は良い。
違和感がない。
これは良い買い物をしたかもしれない。
夜中に目立たないこのコートを着て、後は周りに気をつけながら歩けば、お巡りさん対策は大丈夫だろう。
そう思いつつ秋水は店を出て。
「っ!?」
「あ」
古着屋のその入口で、女子中学生とばったり遭遇してしまった。
何故中学生だと分かったか。
クラスメイトだからだよ。
秋水は思わず足を止める。
向こうの足も止まっていた。
須々木 海霧。
秋水を嫌うクラスメイトで、今朝の通学中にも遭遇してしまっていた女子である。
本日2度目の、エンカウント。
タイミング悪し。
須々木はちゃんと家に帰ってから出歩いているのだろう、すでに私服姿であった。
教室とは若干雰囲気の変わっている須々木は、秋水の姿を見てびくりと盛大に体を震わせる。
震わせ、表情を硬くしてから。
「……寄り道?」
至極当然の指摘を受ける。
はい、寄り道です。
羊革コートの下がモロに制服なので、完全にバレてしまっていた。
否定しようのない事実の指摘なので、秋水は困ったように軽く首を撫でる。
「はい、昼食ついでに少し」
「やっぱ不良じゃん……」
ぐうの音も出ねぇ。
ついでに夜間外出を画策している身としては、あまりにも真っ当なツッコミを受けてしまった。
う、と秋水は言葉に詰まる。
須々木は顔を青くしながらも、ぐ、と奥歯を噛んで秋水のことを鋭い目つきで睨んできた。
ナイスガッツだ。やはり須々木には好感が持てる。
「お昼ごはんも、お弁当とか家で食べなよ。帰りに外食はダメって言われてるでしょ」
怯えを含むように少し震えた声ながらも、須々木ははっきりと秋水に駄目出しをしてきた。
まあ、学校帰りに買い食いしたりするのは、本来は禁止されている。須々木の注意は正論だ。
めちゃくちゃ真面目な人なんだな、秋水は須々木のことを評価しつつ、苦笑を浮かべる。
秋水の苦笑に、須々木が再びビクリと震えた。
しまった、表情を表に出してはマズい。
苦笑いを隠すように、ぱっと秋水は口元を隠すと、その動きに須々木は手でも上げられると思ったのか、ざっと後ろに1歩下がってしまう。殴ったりしませんって。
「ああ、家で昼食の準備をしていなかったものでして」
「用意してくれないんだ、あんたの家族」
「そうですね」
ごはんを用意してくれることは、もう二度とないよ。
母の豪快な料理も、父の好んだ味付けも、美味しいという妹の声も、もう二度とないよ。
的確すぎる須々木の指摘に、手で隠した口元に再び苦笑を滲ませる。
きっと須々木は、母か、父か、家族の誰かが、家で昼食を準備してくれていたのだろう。
それはお弁当かもしれないし、買ってきた総菜だけかもしれない。
でも、たぶん、黙っていても食事が出てくる、という環境にいるが故の発言、なのだろう。
それは、とても幸せな環境だ。
とても贅沢な環境だ。
秋水には、もう二度とない、環境だ。
海霧は悪い奴じゃないよ。
ふと、一昨日に沙夜が言っていた言葉を思い出す。
須々木は、悪い人ではない。
むしろ、秋水を警戒し続けて簡単に意見や態度を変えないその一貫性は、とても安心できると秋水は思っている。
ただ、知らないだけで。
「冷たい家だね」
怯えて後退っても、須々木は秋水を睨んで蔑むように口にした。
本当にそうだ。
秋水は心の中で深く同意した。
冷たい家だ。
秋水しか住んでいない、冷たくなった家だ。
むしろ、もう秋水自身も住んでいると表現して良いかどうか迷う、がらんどうの家である。
冷たいのがイヤだから、秋水にとってのウチは、もう。
「……ちっ」
須々木は軽く舌打ちをした。
それから、ぎっ、と鋭い目つきで秋水を一睨み。
「私は、騙されないから……っ」
そんな宣言を叩きつけつつ、須々木は秋水を大きく避けるようにして秋水の横を通り、古着屋の中に入る。
きっと、今年に入ってからクラスに受け入れられてきた、秋水のことを言っているのだろう。
騙しているつもりはないが、クラスメイトが騙されているのは、確かだ。
棟区 秋水というクソ野郎は、紗綾音が言うような 『イイヤツ』 では、決してない。
独りだけのうのうと生きている、正真正銘の、ゴミである。
それがなんの間違いか、だんだんとクラスに受け入れられている。
勘違いされたまま。
騙されて。
だから、須々木の感性は、正しい。
周りに流されないで、自分の感覚という軸を信じて動いている須々木は、本当に良い人だ。
だから、是非とも秋水などという輩に騙されないで、最後まで嫌いのまま、卒業式を迎えてほしい。
拒絶を貫いたまま、別れたい。
秋水はひっそりと笑む。
海霧は悪い奴じゃないよ。
沙夜の言葉がもう一度過ぎった。
悪い奴どころか、彼女こそまさに 『イイヤツ』 じゃないか。
そんなことを思って。
「……なにそのレザーコート、本物のヤクザじゃん」
古着屋のドアが閉まる直前、ボソリと言った須々木の言葉が秋水の胸を貫いた。
え、嘘、ヤクザっぽいのこれ!?
秋水は慌てて自分の着た羊革コートを見下ろす。
マットな黒い革。
シンプルなデザイン。
内側にナニカを隠せそうな多少のオーバーサイズ。
なるほど、確かに。
ヤクザというか、これは古き良き殺し屋スタイル。
似合っているとかと問われたら、これは間違いなく秋水の外見にベストマッチな羊革コートである。
ただし、非常に悪い方向で、よく似合っている、という感じだ。
闇夜に紛れることばかり気にしていたが、総合的な服装の評価としては、ヤベェ、である。
もちろん、ネガティブな意味で。
失敗したぁ。
秋水は盛大にガクリと肩を落とす。
須々木の言葉のトゲの中で、最も秋水を傷つけた言葉は、間違いなく服装の駄目出しであった。
『学校での様子を思い出しつつ、来週は平穏無事で過ごせますように、と心の中で秋水は祈りを捧げる』
来週はバレンタインデーだからね。
ならないよ。
(無慈悲)