ウチの庭にダンジョンがあります   作:ShilonkS

246 / 267
239『バーベルベントオーバーロウ』

 2月8日。

 いや、もう1時間もしないで2月の9日になってしまう。

 今日、もしくは明日にはビシッと決めないと、乙女としては大損失が確定してしまう。

 ここが恋する乙女の大一番。

 ジムに辿り着いた錦地 美寧は、むんっ、と改めて気合いを入れ、秋水へと真っ直ぐ向き直る。

 

 艶なし漆黒のレザーコート。

 

 シンプルなブラックニット帽。

 

 かっこ、よっっっっっっ!!!!

 なにこのイケメン、誰このイケメン、いつもの建築現場で見そうなベンチコートはどうしたのちょっと似合いすぎて死にそうなんですけど渋い雰囲気に磨きを掛ける最強装備じゃんそれヤバいって目立つってそんな格好で出歩かれたらライバル増えちゃうじゃん先生困るじゃんねそんなのちょっと!?

 秋水を見上げた美寧は、顔を赤くしながら視線を逸らしてしまった。

 なんで今日に限って秋水はそんな似合いまくりのロングコートなんて着ているのか。

 格好良すぎて直視できないんですけど。

 レザーコートがバリクソ似合いすぎてて困るんですけど。

 自分の魅力を最大限発揮するようなドレスアップなんてされたら火力高すぎて美寧ちゃん消し炭になっちゃうんですけど。

 

「き……着替えてきますぅ……」

 

「はい、どうぞ」

 

 戦略的撤退だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バレンタイン。

 馬鹿じゃねぇのか。

 ついぞ1ヶ月前まで、バレンタインデーに対する美寧の考えはそんな感じであった。

 チョコレートを意中の相手に送ってとかなんとか、お菓子メーカーの宣伝によって作り上げられた、日本独自の意味不明なイベントだ。馬鹿馬鹿しい。

 女性が意中の男性に、となると購入者が限られるので、意中の男性以外でもOKということで義理チョコなる市場が開拓され、友達相手にも買わせようと友チョコなる市場も開拓され、男性にも買ってもらって男女平等だとかいう感じで逆チョコなる市場も開拓され、なんならチョコレート以外でも良いじゃないかとなっている。

 経済を追えば、いかに日本のバレンタインデーというイベントがアホらしいかが分かる。

 はいはい、経済を回すために一般市民を搾取する記念日ね。

 そんなのに浮かれるとか、馬鹿じゃん。

 くっだらない。

 美寧は確かに、そう思っていたのである。

 

 

 

「今年のバレンタインデーは平日っ!! つまり私が誘わなきゃチョコを渡せる可能性はゼロっ!! 頑張れ美寧ちゃんっ!! 木曜日に暇があるかどうかだけでも今日中に聞き出すじゃんねっ!! ていうか先生ってチョコ好きなのっ!? 甘いの苦手そうな顔してるけどそこんとこどうなのっ!? むしろバレンタインデーに用事があるとか言われたら略奪ルートに切り替えなきゃだから急がなきゃ駄目じゃんねっ!? 進め勇気の旗掲げ突撃あるのみっ!! 女は度胸っ!! 頑張れ美寧ちゃんっ!!」

 

 

 

 なお、今の美寧は残念なことに、バレンタインデーの罠にガッツリ足を突っ込んでいた。

 商業戦略?

 つまり日本限定で使える愛情表現ツールじゃないか。

 それを利用しないなんて勿体ない。

 使えるものはなんでも使え。

 直接的な告白じゃなくても、「あれ、コイツ俺に惚れてんじゃね?」 と思わせたら勝ちなのだ。勝ち確コースなのだ。

 バレンタインデー。

 恋する乙女の強力な味方。

 このイベントには是非とも乗っかるしかない。

 美寧はそんな覚悟を決めていた。

 

 ちなみに、ただいま更衣室。

 

 顔は真っ赤、お目々ぐるぐる。

 

 鏡に向かって自己暗示を掛けている真っ最中である。

 

 いや、だって、ねぇ?

 バレンタインデーにお暇ございますか、なんて、実質告白じゃん。

 ほぼほぼ好きですって告ってるじゃん。

 そんで当日に気合い入ったチョコレートとかプレゼント、なんて普通に考えてラブコールよそんなん。

 つまり、錦地 美寧は今日、告白するのだ、実質。

 

「ふ、ふおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!??」

 

 ぱんっ、と美寧は気合いを入れるように両頬を叩く。

 逃げたい。

 怖い。

 吐きそう。

 そろそろ心臓爆発するんじゃなかろうか。

 頬を叩いてから、ぐりぐりと美寧はそのまま頬を回してマッサージ。

 

「き、ききききき、き、きき、聞くぞ私っ!!」

 

 着替え終えた美寧は、気合い十分で再出撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは、まずはウォーミングアップをしましょう」

 

「…………はいぃぃ」

 

 撃沈した。

 駄目です。

 緊張して話が切り出せません隊長。

 バレンタインデーに暇はありますか、なんて直接的すぎて聞けません。14日、と若干ボカして尋ねるべきでしょうか。もしくは木曜日と日付すらボカすべきでしょうか。どれにしたって本命チョコを渡すんだという気合いの入ったミニミニ美寧ちゃんが頭を掠めるものだから、緊張しちゃって喋れません。助けて下さい。

 いざ秋水にバレンタインデーの用事を聞き出そうとした美寧だが、顔を真っ赤にして目を逸らすだけで、バレンタインのバの字も口に出せなかった。

 ヘタレである。

 美寧の様子を特に気にすることのなかった秋水は、いつものようにウォーミングアップのラジオ体操に誘う。もはや美寧はウォーミングアップの必要性があるのか疑問になるくらい、緊張と胸の高鳴りのせいで体はポカポカしていた。なお、緊張しているならウォーミングアップはなおのこと必要である。

 というか、今の美寧は明らかに挙動不審である。美寧自身、その自覚がある。

 それを秋水に軽くスルーされたのだが、もしかして秋水から、美寧は挙動不審がデフォルトな子、とか思われているのだろうか。

 だとしたらショックなんだけど。でも、今までも散々先生の前で挙動不審な感じの姿をさらしてきたわけだから、そう思われても仕方ないかなぁ。でも乙女としては言動が怪しい子、なんて好きな人から思って欲しくないじゃんね。だけど覆水盆に返らず、後悔先に立たず、先生の前で挙動不審になって過去の私よ滅びろぉぉ。いや滅びちゃ駄目だ。せめて穴掘って自ら埋葬しておくくらいにしよう、そうしよう。まさに墓穴。でも、できるならついでに先生の私物も一緒に埋めてくれたら嬉しいです。過去の私よその私物をこっちに寄越せこのヤロウ。あれ、でも先生にお願いしたら、ワンチャンなにか私物くれるんじゃないかな。いや違う、今の私が先生にお願いするべきは、今度の木曜日に時間を空けておいて下さいっていうお願いじゃんねバカヤロウ。早く言うんだ私。でもでも、バレンタインデーを先生が意識しちゃったらどうしよう。この子、俺に本命チョコでも渡してくれるのか、なんて思っちゃうかな。はいその通りです大正解です先生。愛と勇気と希望と気合いが入った本命チョコを渡しちゃうもんね。でも本命チョコ渡したらほとんどそれって好きですって言ってるようなもんじゃんね。てことはやっぱりバレンタインデーに時間を下さいってお願いする=告白じゃんね。ちょっとヤダ、緊張しすぎて汗がヤバいんですけど。先生に汗臭い子って思われちゃうよ。いやでも今まで筋トレしてて散々コレより酷い汗だく状態先生に見せてたじゃん。ぬあぁぁぁん、なんで私の汗って薔薇の香りとかしないのかなぁ。これでイソ吉草酸の臭いなんてしてたら私は今から首吊って死んでやるじゃんね。いや本当に臭くないよね私。別の意味で心配になってきちゃったんですけどコレ。どうしよう、もしかして今日で私は死ぬか生きるか決まるかもしれない状態になってきたじゃんねコレ。そろそろ心臓が破けそうなくらい緊張が悪化しちゃったんですけどコレ。

 ぐるぐると考え込みながらも、美寧は秋水の隣でラジオ体操を行っていく。

 ラジオ体操も、すっかり慣れた。

 最初に秋水からラジオ体操に誘われたときは、久しぶりすぎて体操の順番もうろ覚えであったものの、今では自然と次の動作に移れるようになっている。

 先生にすっかり調教されちゃったぁ。

 現実逃避で美寧は意味不明な感想を抱く。台無しである。

 大きく深呼吸。

 第一から第二へ続けたラジオ体操が終わる。

 よし。

 聞くなら今だ。

 

「せ」

 

「それでは美寧さん、今日はまず最初に試してみたい種目があるのですが、そちらから先に行ってもよろしいですか?」

 

「はい、美寧ちゃん人体実験喜んで参加します」

 

「いえ、人体実験などと物騒なことはいたしませんが……」

 

 駄目だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行いたいのはインクライン・ダンベルローイングという種目です。チェスト・サポーテッド・ダンベルロウと言われたりもしますが、まあ、内容は同じ種目です」

 

「ていう言い方をするってことは、先生はインクライン・ダンベルローイングって言う派なんだ」

 

「美寧さん、派閥を意識すると争いが起きるので止めましょう」

 

「先生ってちょいちょい派閥間闘争のこと気にするよね」

 

 美寧と秋水はトレーニングベンチのコーナーへと移動した。

 試してみたい筋トレというのは、ダンベルの種目ということか。

 そして、ローイング、ということは引っ張る系の筋トレ、つまり背中の種目ということだ。

 背中か。

 美寧の弱点である。

 筋力が弱い、というのもあるが、美寧はそもそも背中の筋肉が硬いのだ。秋水曰く、現代人あるある、とのことだが。

 

「この種目はトレーニングベンチでも、このインクラインベンチを使用して行います」

 

「えっと、この複雑な方のベンチだね」

 

 秋水はトレーニングベンチの中でも、インクラインベンチと呼んだトレーニングベンチを指定する。

 このジムには、ダンベルのエリアにトレーニングベンチが6台ある。

 そのトレーニングベンチは2種類あり、足回りが非常にシンプルな作りをしたものが2台と、逆に複雑な形をしたものが4台ある。

 美寧はいまいち違いが分かっていないのだが、この複雑なベンチの方を、とわざわざ指定するということは、なにかしらの使い分けがあるのだろう。

 なにをもってベンチを使い分けるんだろう。帰ったら調べなきゃ。

 美寧は心の中でメモを取りつつ、肯いて返す。

 そんな美寧の様子を確認してから、秋水はそのトレーニングベンチの頭側の方をガシリと持つ。

 

「まずは背もたれを、そうですね、今回は45°くらいにしましょうか」

 

 そして、トレーニングベンチの頭側を持ち上げ、背もたれを起こした。

 え、それ、角度変えられんの?

 秋水がさも当然のようにトレーニングベンチを変形させる横で、美寧は思わず目を丸くしてしまった。

 

「ちょっと待って先生、今、なにやったの?」

 

「え?」

 

 え、ではない。きょとんとするな。可愛いかよ。

 しれっと次の説明に移ってしまう前に、美寧はすぐにストップをかけた。

 

「ていうか、このベンチって背もたれの角度変えられるんだ……」

 

「ああ、なるほど。そうですね。トレーニングベンチというと、あちらのフラットベンチが単純な構造でお安いのですが、このように背もたれの角度を変更できるタイプのものあるのです」

 

 驚きの色を含んだ美寧の呟きに、秋水は自身の説明が足りなかったことに気がついたのか追加の説明をさらりと行ってくれた。

 なるほど、この感じ、筋トレ界隈では知ってて当然レベルの常識なんだな。

 丁寧な説明をしてくれる秋水が説明を忘れているということは、そのレベルの話題なのであろう。

 ガチャガチャ、とトレーニングベンチの背もたれの角度を変えながら実演つきで説明をしてくれる秋水を見ながら、美寧は少し考えた。

 あまり昼間のジムには行かないので、秋水以外で筋トレしている人を中々見る機会がない。なので、根本的な部分で美寧は知識不足が目立ってしまう。

 最初に昼のジムに行ったときは、周りに圧倒され、筋トレをしている他の人をなるべく見たくないという気持ちで一杯一杯だった。

 そしてこの前は、偶然にも遭遇できた秋水の筋トレをうっとり眺めていたせいで、周りを全然見ていなかった。

 そう言われてみれば確かに、トレーニングベンチの背もたれを起こして筋トレしていた人が、いたような気がしなくもない、ような気がするようなしないような。駄目だ、周りを見てないから覚えてない。

 馬鹿な質問しちゃった、と美寧は恥ずかしくなってしまう。

 

「背もたれを水平よりもさらに倒すと、デクライン、と呼ばれる状態になります。そして、このように背もたれを水平よりも起こした状態を、インクライン、と呼ぶのです。この角度調整ができるトレーニングベンチを、アジャスタブルベンチと呼ぶのですが、インクラインベンチと呼ばれる方が多い印象があります。好みですかね」

 

「ご、ごめん先生、なんか基本中の基本みたいなこと聞いちゃったじゃんね……」

 

「いえ、知識の小さな穴を埋めるというのは大切なことですよ。素晴らしい心がけです、美寧さん」

 

 穏やかに秋水はフォローの言葉を入れてくれた。

 好き。

 こういう大人な感じなのが、好き。

 優しく教えてくれる秋水に、きゅーん、と胸が締め付けられる感じがする。

 ああ、恋してるなぁ、と美寧は思わず実感してしまう。

 

「え、えっと、なら今回はインクラインって状態を45°にするんだね」

 

「そうですね。一度背もたれの角度調整のやり方を試されますか?」

 

「やりたいです」

 

 胸をドキドキさせながら美寧は秋水に代わってトレーニングベンチの操作をする。

 背もたれを起こして、固定される。

 固定を解除して、背もたれを倒す。

 なるほど、こうやるのか。普通に知らなかった。

 この背もたれを起こしているのをインクライン。

 これを使ってダンベルを引っ張る、つまりローイングを行う。

 インクライン・ダンベルローイング、という種目は、意味を理解さえしていれば、非常に単純かつ安直なネーミングのようだ。

 へぇ、と軽く呟きながら、美寧はトレーニングベンチの背もたれを45°まで起こして固定する。

 

「この角度でいい?」

 

「はい。では、まずは私がやってみますね」

 

 それから秋水とバトンタッチ。

 3㎏という、秋水の体格からすればまるで玩具のようなダンベルを両手にそれぞれ持ちながら、秋水はトレーニングベンチに胸をつけるようにうつ伏せの形で座る。逆向きに椅子に座るような格好だ。

 それからダンベルを持った両手を下へと真っ直ぐに下ろす。

 どうやら、これがスタートポジションのようだ。

 

「インクライン・ダンベルローイングは、このようにトレーニングベンチに体の全面を預けた姿勢で行います」

 

「あー、だから胸(チェスト)を補助(サポーテッド)するダンベルのローイングってことね」

 

「そうですね。そして名は体を表す通りでして、ダンベルのローイングですので――」

 

 別名のチェスト・サポーテッド・ダンベルロウのネーミングにも美寧が納得したところで、秋水はゆっくりと体を動かし始める。

 

「このようにダンベルを引き上げて――」

 

 下へと下ろしていたダンベルを、ゆっくりと引き上げる。

 

「そして下ろします」

 

 胸を反らすようにして背中の筋肉を収縮させながらダンベルを上げた後、今度はゆっくりと下へと戻していく。

 またダンベルを引く。

 そして戻す。

 ダンベルを引き上げるというよりは、腰骨に向かって肘を斜め後ろに引き上げる、というのが正しいだろうか。

 秋水が繰り返す動きを、美寧はマジマジと観察する。

 背中の筋肉が盛り上がるの、すげぇエロい。

 

「ダンベルを真っ直ぐ引いてしまうと僧帽筋や上腕二頭筋の方へ刺激が逃げていきます。なので、斜め後ろに引く形ですね」

 

「それって、腰骨に向かって肘を引く感じ?」

 

「正解です」

 

「てことは、ワンハンドローイングと注意点は同じ感じだね。脇の角度とかも同じ?」

 

「その通りです。この前に行いましたワンハンドローイングを思い出して頂ければ、コツはすぐに掴めるかと思います」

 

 若干ピンク色したことを考えていたことなど一切表情に出すことなく、美寧はうんうんと肯く。

 前回やったダンベルのワンハンドローイングという種目に似ているし、下を向くか前を向くかの違いがあるだけで、やっていることはマシントレーニングのローローと同じである。

 なるほど、理解した。

 理解したけれど、これが秋水の試してみたい筋トレ、になるのだろうか。

 簡単そうとは言わないけれど、今まで秋水が教えてくれた知識があれば、すぐに会得できそうな筋トレ種目だと思うのだが。

 お手本を見ながらも、美寧は少しだけ疑問に思ってしまう。

 

「それでは美寧さん、代わってみましょうか」

 

 その疑問を口にする前に、秋水からバトンタッチを告げられた。

 ベンチに預けていた体を起こした秋水から、ダンベルを受け渡される。

 秋水が握っていたダンベルだ。

 秋水からすれば玩具みたいなダンベルでも、美寧が持てばずしりと感じてしまう。

 テンションが上がってきた。

 それから秋水がベンチから立ち上がって退いてくれたので、慌てて美寧はベンチへ逆向きに座り、むぎゅ、と胸を押しつけるようにしてベンチへ体を預けてスタートポジションをとった。

 ダンベルを下へぷらんと下げる。

 ベンチの頭側に顔を軽く押しつける。

 顔というか、鼻を軽くつける。

 

 

 

 ふぁあああああああああああああああっ、シャンプーの香りがするよぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおぉぉっ!!!

 

 

 

 バレないように美寧はくんくんくんくんくんくんくんくんくんくんくんくんと静かに、しかし素早く鼻呼吸を繰り返し、秋水の香りを堪能する。変態だろうか。

 美寧と同じくウォーミングアップをしているというのに、秋水は全然汗臭くない。むしろ良い香り。シャンプーの香りだ。でもほんのりと桃のような香りを感じる。これはシャンプーの香りなのだろうか、それとも秋水自身の香りなのだろうか。どちらにしても凄いエロい。ビニール袋にこの香りを入れて家に帰ってすーはーしたい。変態だろうか。

 それに、つい先程まで秋水が胸を預けていたベンチに自分が胸を預けていると考えると、凄いエッチな感じだ。秋水のぬくもりもまだ残っているし、これは実質秋水に抱き締められていると言っても過言じゃないだろう。最高である。秋水の目の前だから体全身を擦りつけて残ったぬくもりを堪能しないだけ褒めてほしいくらいだ。変態だろうか。

 今日のオカズはこれだな。

 美寧は真剣な表情のまま確信した。

 変態だ。

 

「それでは始めましょうか」

 

「う、うん……」

 

 表情は真面目なままではあるが、声が上擦ってしまった。

 ちらり、と秋水の視線が向けられる。

 やべぇ。

 美寧は気を引き締めて、より一層キリリとした表情を作る。

 

「あ、そうだ、足の位置って後ろに伸ばす感じでいい? それとも、ちょっと曲げて踏ん張る方がいい?」

 

 真面目に気合いを入れ直した途端、ふと疑問が浮かぶ。

 背中の種目だから上半身ばかり見ていたが、足の位置が微妙に手持ち無沙汰な感じである。

 ワンハンドローイングはベンチに片膝を付いて、もう片足を床に着ける関係上、踏ん張らざるを得ないのでポジションは自然と決まる。ローローは椅子に座っているので、体が前に引き摺られないように踏ん張るポジションも自然と決まる。

 しかし、このインクライン・ダンベルローイングは、体の全面をそのままベンチに預けるため、極端な話、足が浮いていてもできそうな種目である。

 足の置き場が分からない。

 美寧はぺたぺたと足のポジションを探すものの、いまいちしっくりとこない。

 そう疑問に思って秋水に尋ねた、が。

 

「…………」

 

 一瞬、秋水が沈黙した。

 即答がない。

 難しい質問だったのだろうか。

 美寧は顔を上げて秋水の方へ振り向こうとしたが、それより少しだけ早く秋水が口を開いた。

 

「この種目は足を後ろに伸ばして姿勢を安定させる程度で構わないのですが、今回は足をできるだけ前に出しましょう」

 

 今回は。

 どういう意味だろう。

 そこも疑問に思ったものの、とりあえず美寧は足を前に出して床に着き、軽く踏ん張る。

 これはこれで、やはりしっくりこない。

 なんか変だな、と美寧は思いながらも、一先ずスタートポジションが完成したので秋水の合図を待った。

 

「では、その状態から、ゆっくりとダンベルを引き上げましょう」

 

 秋水の合図により、美寧は下ろしていたダンベルをゆっくりと引き上げ始める。

 脇は開きすぎないように。

 手で持ち上げるのではなく、肘を上げるイメージ。

 真上ではなく、腰骨に向けて斜め上に引く。

 

「肩甲骨を寄せていって、背中の筋肉意識しましょう。少し胸を反らす感じです」

 

 秋水の言葉通り、肩甲骨を寄せる。

 寄っているだろうか。

 背中の筋肉は、意識できているかどうか怪しい。鏡が見たい。

 胸を反らしていくのは、そうか、バックエクステンションと同じ感じか。

 自身の動きを細かくチェックしつつ、ダンベルを、いや肘をしっかりと引き切った。

 

「いいですね。素晴らしい。今度はゆっくりと下ろしていきます」

 

 続いてダンベルを下ろしていく。

 負荷が掛かっている方向への動き。ネガティブ動作だ。

 確か、重力に任せないようにしっかりと動きをコントロールしながら下ろすのが重要になってくるハズだ。

 

「そうです、ゆっくりです。ダンベルの重さですとんと下ろさないように、しっかり下ろす動きをコントロールして下さいね」

 

 正解のようだ。

 秋水から教えられている知識が血肉になっている証拠だろう。

 秋水(から教えられている知識)が血肉になっている、という表現は、なかなかにメルヘンチックじゃなかろうか。

 いやいや、真面目にやれ自分。

 若干ピンクになりかけた脳内に、美寧は自身で冷や水をかけながらダンベルを下ろす。

 

「完璧です。ではこれを、10回繰り返しましょう」

 

「え、10回だけ?」

 

「美寧さん、筋肉痛を思い出して下さい」

 

 提案された回数に美寧が驚くが、秋水の釘刺しに、う、と言葉に詰まる。

 確かに美寧にとって、3㎏のダンベル2つで計6㎏はずっしり感じる重量ではあるものの、この動作ならば15回は普通にできると思うのだ。

 それに、美寧の筋トレ方針は、低負荷高回転である。

 ならば、回数は多くした方が良いと思うのだが、違うのだろうか。

 やはり変だな、と思いつつ、美寧はインクライン・ダンベルローイングを繰り返した。

 

「いいですね、しっかり肘を引きましょう。可動域の広さは美寧さんの度量の広さ。背中の筋肉を盛り上げるイメージで肩甲骨を寄せましょう。そうです、バッチリです。背中の美人は姿勢の美人」

 

 

 

 褒められるのは嬉しいけど、嬉しすぎて気が散りそうになっちゃうよおおおおおおおおおおおおっっ!!!

 

 

 

 秋水から贈られるいつものエールに、美寧はにやけそうになる表情を必死に押さえ付けながらもインクライン・ダンベルローイングを10回行った。

 軽く息が上がっているが、まだ余裕がある。

 全然平気だ。

 前回と前々回の筋トレは、ジャイアントセットとかなんとか言って、3種目とか4種目を休みなしで代わる代わる行うというスーパー鬼畜仕様だっただけに、1種目だけ10回だと物足りなく感じてしまう。

 これだけで良いのだろうか。

 どうにも感じる違和感に、美寧は顔を上げて確認を取るように秋水へと振り向いた。

 

「…………」

 

 秋水は何故か、顎に手を当てて考え込んでいるようである。

 なんだろうか。

 考えてる姿も絵になって格好いい。

 疑問と賞賛が同時に出てくる。

 

「先生、これで良い?」

 

「え?」

 

 美寧が声を掛けると、秋水が我に返ったように顔を上げる。

 どうしたんだろう、と美寧は首を傾げる。

 そこで、ふむ、と秋水が鼻を鳴らした。

 

「美寧さん、少し先の目標を伝えます」

 

「え、はい」

 

「このインクライン・ダンベルローイングですが、しばらく続けます」

 

 そして美寧の目を真っ直ぐ見据えてから、秋水がそんなことを告げてきた。

 必須種目にするんですね。分かりました。背中弱点だもんね私。

 秋水の言葉に、美寧はすんなりと納得する。

 たぶんこの種目が、美寧の背中トレーニングに相性が良いと判断したのだろう。

 判断基準はよく分からないが、秋水が言うならば、きっと大丈夫だ。

 うん、と美寧は頷いて返そうとしたが、それより早く秋水が言葉を続ける。

 

「そして3月には、トレーニングベンチなしで行います。また、その時は短い方の……軽い方のバーベルを使用して行います」

 

 はい、分かりました。

 秋水の提案に美寧は脊髄反射的に言おうとしてから、ワンテンポ遅れて首を捻る。

 インクライン・ダンベルローイングは、インクラインのトレーニングベンチを使うからこそ、その名前が付いている。

 トレーニングベンチなしで行ったら、それは違う種目なんじゃなかろうか。

 ましてダンベルまで代えたのなら、もはやインクライン・ダンベルローイングの中で残っている名前はローイングだけだ。

 要は、来月にはバーベルローイングをやるよ、って意味なのだろうか。

 

「……えっと」

 

「大丈夫、できます」

 

 秋水の提案の真意がいまいち理解できない美寧は、少し困ったように言葉に詰まるが、そんな美寧を真っ直ぐ見据えながら、秋水ははっきり断言する。

 なんの断言だろうか。

 でも、なにかとても大切なことを言っている。

 それは分かる。

 秋水はあまり表情変化のない人ではあるが、それでも今、真剣に美寧に告げていることは伝わってくるからだ。

 

「やれます」

 

 続けて秋水は言う。

 言い切る。

 できるのは、やれるのは、そのバーベルローイングのことだろうか。

 それはまあ、秋水ができると言うならば、きっとできるのであろう。秋水に対しては、それだけの信頼が美寧にはあった。

 でも、その種目はそんなに念を押すくらいに大事な種目なのだろうか。

 凄いハードなんだろうか。

 難しい種目なんだろうか。

 まるで美寧を励ますように念を押す秋水に、美寧は若干の不安を感じる。

 そんな美寧の肩を、ぽん、と秋水は優しく叩いた。

 

 

 

「今の美寧さんなら、バーベルベントオーバーロウを行う下地は、十分にあります」

 

 

 

 その種目の名前は、美寧が今までで唯一体得できなかったものであった。

 

 

 





 唐突に200話近く前の話を掘り返し。(52『失敗』)

 美寧ちゃんが段々変態になってきてないかって?
 それはその……ごめん(;´・ω・`)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。