1ヶ月は経っていないが、それは半月以上前の話だ。
美寧は、背中の筋トレで体得できなかった種目があった。
バーベルベントオーバーロウ。
バーベルを持った状態から尻を引き、前屈みの中腰姿勢で体を固定して、バーベルを腹なり胸なりに向けて上げたり下ろしたりする種目だ。
広背筋をメインに、僧帽筋、脊柱起立筋、大円筋、上腕二頭筋など、背中全体と腕の筋肉を鍛える筋トレである。
しかしながら、このベントオーバーロウは難易度の高い筋トレでもある。
とにかく正しいフォームを保持することが重要で、腰に不必要な負担を掛けないように注意しなくてはならない。
そして、その正しいフォームを保持するためには、中腰の姿勢を安定させるための体幹と、股関節周りやハムストリングスの柔軟性が必要不可欠なのである。
美寧は、背中の筋肉が弱く、硬い。
そしてついでに、ハムストリングスと呼ばれる太もも裏にある大腿二頭筋・半腱様筋・半膜様筋もまた、総じて硬いのだ。
フォームを安定させるために必要な体幹の強さと、ハムストリングスの柔軟性が欠如している。
それは、バーベルベントオーバーロウを習得する上では、明らかに不利な状態であった。
そうとも知らず、美寧はバーベルベントオーバーロウに挑戦した。
当然のように、失敗した。
上手くできない。
どこか変だ。
四苦八苦していたところに、秋水が助言をくれた。
尻を後ろへしっかり引いて中腰姿勢になる基本ポジション、ヒップヒンジ。
それができるのか。
秋水はヒップヒンジの基本姿勢をお手本で見せてくれた。
美寧もやってみた。
全然できなかった。
秋水が見せたお手本とは、まるで違う不格好な姿勢しかできなかったのだ。
失敗。
大失敗だ。
基本の姿勢ができない。
スタートポジションが狂っている。
ももの裏の筋肉も、背中の筋肉も、硬いのだ。
それでバーベルのベントオーバーロウができるはずがない。
その日は確か、筋トレの種目を1つも体得できずに帰るという、大惨敗を喫した日だった。
そして、秋水と約束をした日だ。
ストレッチである程度は背面の筋肉達がほぐれたら、改めてベントオーバーロウを教えると、約束したのだ。
秋水はそんな約束を、覚えていて、くれたのだ。
その約束を、守ろうとしてくれているのだ。
一瞬、美寧は泣きそうになった。
それを、ぐっと堪える。
「え……と……」
髪を触って表情を誤魔化そうとしたが、今の美寧は背もたれを起こしたトレーニングベンチに胸を預けるように逆向きに座り、両手にはダンベルを持っている。
インクライン・ダンベルローイングのやっているところだった。
そんな中で、秋水は切り出した。
今月中は、このインクライン・ダンベルローイングを続けると。
そして、来月にはトレーニングベンチをなしで行うと。バーベルで行うと。
インクライン・ダンベルローイングなのに、インクラインのトレーニングベンチを使わないのであれば、それは普通にスタンディングである。
つまり、立って行う。
立って、中腰でバーベルを下に下ろして、それを引き上げたり戻したり。
それは要するに、バーベルベントオーバーロウだ。
秋水はインクライン・ダンベルローイングを教える前、試してみたい種目、と言っていた。
なにを試したいのか疑問だったが、ようやく分かった。
秋水は見ていたのだ。
今の美寧が、ベントオーバーロウを行えるか否か。
それを試していたのである。
その結果、合格。
だからこそ、告げたのだ。
バーベルベントオーバーロウを行う下地が十分にある、と。
故に来月には教えてくれるのだろう。
ベントオーバーロウを、教えてくれるのだろう。
かつてして、ただの口約束を、律儀に守ってくれるのだろう。
やっぱり、泣きそう。
凄くないか。
優しすぎないか。
聖人君子じゃなかろうか。
だって、あのときの美寧は、とんでもない腐れ女であった。
正直、内心では秋水のことだって見下していた。
利用できそうだから利用しようと、そう思って先生と呼んだ。
基本的なことだけ教えてもらったら、あとは利用時間をズラして縁を切ろうとすら思っていた。
自分の周り全てが敵としか思えなかった、暗く濁った日常に身を沈めていた時期の話だ。
きっとあのときは、秋水に失礼な態度をとったと思う。失礼な発言もしたと思う。
ベントオーバーロウを教える、と約束したときは、そんな時期の美寧だったのだ。
今思い返しても、最低な自分だった時期の美寧だったのだ。
そのときの、約束を。
涙を、飲み込む。
表情が崩れてしまったのは、どうかお願い、見逃してほしい。
少し彷徨った視線を、改めて秋水に向ける。
秋水は真っ直ぐ、美寧の瞳を見ていた。
ああ、この恋の沼は、まだ底が見えないというのか。
「ま、まだ早くない? まだ1ヶ月も――」
「いえ、できます」
誤魔化すようにどうにか苦笑いを絞り出したものの、秋水はきっぱりと断言で返す。
いや、だって、まだ3週間くらい前の話だ。
ハムストリングスやお尻や背中のストレッチは欠かしてないが、それでも以前に秋水が見せた、ヒップヒンジのお手本姿勢にはまだ届いていないのだ。
ヒップヒンジは基本だ。
基本姿勢だ。
それができなければ、ベントオーバーロウは難しいのではないだろうか。
それに、インクライン・ダンベルローイングは足の定位置が定まらない感じの種目だった。
足で踏ん張ってない。
そんな種目を見て、ベントオーバーロウができるかどうかの判断なんてできるのだろうか。
そもそも背中の筋肉の動きだって、まだちゃんと意識できているかどうか怪しいし。
断言した秋水の言葉に、美寧はつい、言い訳染みた建前を並べ始める。
いや、言い訳ではない。
これは、失敗したときの、予防線だ。
自分は今、ベントオーバーロウが失敗するという前提で、その言い訳という予防線を考えている。
秋水が言い切ってくれたのに。
できると言ってくれているのに。
自分はそれを、信じていないのだろうか。
錦地 美寧は、秋水の言葉すら疑ってしまうのだろうか。
自分の好きな人すら、お前は信じることもできないのか。
やはり根本は、ただの腐った女のままなんじゃないのだろうか。
姉に負け続け、親に否定され、惨めな負け犬のままなのか。
結局、自分は。
胸の奥から、黒いゴミみたいな感情が噴き出してくる。
思わず、美寧の視線が秋水から逃げてしまった。
「美寧さん」
逃げた視線が、その声に吸い寄せられる。
真っ直ぐに美寧を見据える、秋水の瞳に引き寄せられる。
「錦地 美寧さんを、信じてくださいませんか?」
――なんでこの人は、欲しい言葉をくれるのか。
秋水の言葉すら疑い掛けてしまった自分に、そんな自分を信じてと、言う。
秋水を信じてほしい、ではない。
美寧を信じてほしいと。
美寧自身を、美寧が信じてほしいと。
秋水の言葉を咀嚼するように、美寧は一瞬言葉に詰まった。
「……信じ、られるかなぁ」
結局出たのは、弱音だった。
「だって、失敗したばっかじゃん……」
「大丈夫です」
それでも、秋水は言い切った。
断言した。
「背中側の柔軟性は確実に改善されています。背中の筋肉もちゃんと動いていました。肩甲骨も寄せられています」
それは、そうだけど。
少しくらいはできるように、なったけど。
秋水が並べた根拠みたいな褒め言葉に、美寧は口をもにょもにょとさせる。
そんな美寧に向けて、秋水はほんの僅かだけ笑みを浮かべた。
「美寧さんは、確実に一歩進んでいます」
『それを、美寧さん自身が見ていないだなんて、何事ですか』
それはいつか、秋水から叱られた言葉。
秋水はなにも言っていないのに、まるで続けられたかのように、その言葉が美寧の脳裏に蘇る。
『あなたは、錦地 美寧さんですよ』
そんな言葉に続いた、美寧にとっては思い入れのある、お叱り文句。
美寧が恋に落ちた、あの日の言葉。
あ、と美寧の口から小さく声が漏れた。
そうだ。
そうだった。
美寧は美寧だ。錦地 美寧だ。
他の誰にもなれないし、他の誰からもなれやしない、錦地 美寧である。
自分で自分を見なくちゃ。
自分で自分を信じてあげなくちゃ。
「…………分かった、来月だね」
「はい。頑張りましょう」
少し気合いを入れ、うん、と美寧は頷く。
秋水は気負いなく、軽く返してくれた。
胸の奥から噴き出していた黒いゴミみたいな感情は、この人の前では、無力である。
なーんて、ちょっぴり甘めの筋トレの話は、2種目目以降に移ってからはいとも簡単に消し飛んでいた。
「ぜぇー……はぁー……ひぃー……ぜぇー……」
錦地 美寧はストレッチコーナーにて、四つん這いになって死にかけていた。
酸素。
酸素が足りない。
肩で息をするとか生ぬるい。体全体の筋肉を使って美寧は呼吸をしていた。
「素敵ですよ美寧さん、あと2回です。さあ頑張って。これで今日のセットは全部終了です。体を伸ばして、戻して、跳んで、叩いて、があと2回。美寧さんならできますよ」
鬼かな。
好き。
だらだらと汗を流しつつも、にへ、と美寧は表情を崩し、両手を床に着いたまま軽く足を跳ねさせて一気に体を伸ばす。
腕立て伏せのスタートポジション。
そこから再び足で床を蹴り、膝を胸につけるように素早く足を折り畳む。
「素晴らしい、体幹がしっかりしています。人間の芯は体幹から。ジャンプです」
体の筋肉は、もう勘弁してくれぇ、と泣き言を言っているのだが、秋水の低い素敵な声を聞いたら不思議と体が動く。
床から手を離して足の裏に重心を移動。
座ったその姿勢から一気に立ち上がるようにしてジャンプする。
ジャンプのついでに両手を横に振り、ぱちん、と頭の上で手を叩く。
ヤバい。
ツラい。
苦しい。
でも先生の声には従っちゃうからやっぱり先生の声は麻薬だよぉぉぉぉぉっ!
着地からの衝撃を逃がすように膝を曲げて体勢を低くし、両手を床に着く。
美寧が行っている種目はバービージャンプ。
断言しても良い。秋水から教えてもらった筋トレの中で、最もキツい種目はこれである。
ダンベルもバーベルも使ってない。
ただの自重のトレーニングだ。
座って、腕立て伏せの体勢になって、戻して、ジャンプして頭の上で手を叩く。
これを繰り返すだけの運動だというのに、今のところ一番キツい。
ヤバいね。
ゲロ吐きそう。
でも先生の前でそんな乙女指数が下がるような醜態を晒したら死ぬしかない。
あと1回。
あと1回だから頑張れ美寧ちゃん。
先生も見ているぞ。
「はい、そのまま体を伸ばして腕立て伏せの体勢です」
やっぱり先生は鬼かもね。
でも好き。
優しい声で容赦がないところとかゾクゾクする。
苦しいのに気持ちが良いのは、脳内麻薬がドバドバ出ていてランナーズハイな状態だからだろうか。それとも生粋のマゾなのだろうか。
もしも私がマゾだとしたら、きっと先生に調教されたせいだっ!
あまり乙女がするのはどうかなと思う表情のまま、美寧は立ち上がってジャンプ。ついでに頭の上で手を叩く。
「終わりです。素晴らしい。達成しました。お見事」
着地と同時に美寧は再び座り込むように両手を床に着き、四つん這いの状態になった。
「ずはぁー……ぶはぁー……ひぃぃー……」
肩で大きく大きく息をする。
汗はダラダラ。
膝がガクガク。
胸がドキドキ。
死☆に☆そ☆う☆
バービージャンプを最後に組み込むとか鬼畜過ぎて笑えない。
汗臭くないよねとかナチュラルメイクが崩れてないかとか、そんな心配をしている余裕なんて一切ない。これが先生の言うプルスウルトラとかいうやつか。美寧ちゃんが開けちゃいけない扉のさらに向こうへイっちゃったら先生の責任だぞ。
徹底的に追い込まれ、ひーひー言っていると、す、と美寧の水筒が差し出された。
顔を上げれば、秋水。
片膝を付き、まるで指輪でも差し出してくるかのように丁寧に、秋水が水筒を渡してきてくれた。
「よく頑張りましたね、美寧さん。宝石よりも価値のある汗ですよ」
もー、好き。
好き好き。
私、頑張ってる。
先生がそれを認めてくれる。
私を見てくれる。
こんな言葉を貰えるならば、この程度の疲れなんてないのと同じだ。
やっぱり私は先生に調教され尽くされて、マゾになったのかもしれない。
美寧はそんな馬鹿みたいなことを考えながら、震える手で水筒を受け取った。
「それじゃあ先生、お先でーす」
本日のトレーニングメニューを全てこなし、軽くシャワーを浴びて着替え終わった美寧は、にぱっ、と笑顔を秋水に向ける。
筋トレ後は、とにかく気分が爽快だ。
特に秋水の組んだ筋トレメニューを完遂した後は、とにもかくにも晴れやかな気持ちになれる。メニュー内容は鬼畜だけれど。
雑念が吹っ飛んで、さっぱりした表情の美寧に、何故か美寧が行っていたメニューを美寧の倍くらいの勢いで行っていた秋水は、じんわり浮かんでいた汗をタオルで拭きながら頷いて返す。
動く筋肉、浮かぶ汗。エロい。
そこらのボディービルダーを凌駕する体格で、190近い身長の大男がバービージャンプをしている迫力ある光景を見てなお、美寧の感想はこんなのだった。もう手遅れなのかもしれない。
「はい。外は暗いので、美寧さんも帰り道は気をつけて下さいね」
「はーい」
定型文かもしれないが、秋水が心配してくれるのが嬉しくて、ついつい美寧の頬が緩んでしまう。
コートを着て、荷物を持って、秋水を見上げる。
いい男。
格好いい。
ヤクザみたい。
素敵。
好き。
緩んだ頬を、にへ、とさらに美寧は崩す。
「先生」
「はい」
「私、頑張るね」
むん、と気合いを入れながら美寧が言えば、秋水が一瞬だけ目を丸くした。
なにを、とは具体的なことは言わない。
言わなくても、伝わるかな。
そんな面倒くさいことを考えながら見上げれば、ああ、と秋水が軽く声を上げてくれた。
「……はい。私も微力ながら、お助けしますね」
「うんっ」
「ですが、無理は禁物ですよ。今月はまだ土台作りです。来月からの挑戦ですからね」
伝わった。
以心伝心できちゃった。
ヤバい。
嬉しいんだけど。
自分がチョロすぎて怖いんだけど。
うん、と頷きながらも、美寧はにやけてしまう頬を軽く揉む。
「じゃあ先生、また明日……じゃないね、また今夜!」
「はい、また今夜」
幸せだ。
美寧は夜道をルンルン気分で歩く。
「今日もよく寝れそー」
体は疲れている。
早くベッドに倒れて寝たい。
でも、心は不思議と軽やかだ。
いいや、不思議でもなんでもないか。理由ははっきりしている。
秋水に逢えたからだ。
なんと単純。
しかし、秋水に褒めてもらえるのならば、キツい筋トレなんてへっちゃらである。
それに最近は、筋トレがちょっと好きになってきた、ように思う。
悪夢で飛び起きることはなく、毎日が快眠だ。
いつものごはんも、美味しく感じる。
お肌の調子もよろしければ、化粧のノリも絶好調。
ちゃんとした筋トレを行うようになってから、いや、秋水を好きになってから、毎日が幸せである。幸せすぎて、今でも怖いくらいだ。
「んふー」
暗い夜道をニヤニヤしながら歩く女子高生。不審者かもしれない。
始まったばかりでも断言できる。今日は良い日だ。
来月にはバーベルベントオーバーロウを行う。
それは先月、美寧がどうやっても上手くできなかった種目である。
秋水のことを好きじゃなかった頃のことだ。これでリベンジできたら、まさに愛の力じゃなかろうか。
ああ、いや、秋水であれば、美寧さんの頑張りが実を結びましたね、と言ってくれそうな気がする。
「いやいや、気を抜くな私」
にやにやして堪らない頬をペちりと叩いて気合いを入れ直す。
秋水は必ずできると断言していたが、それでも行うのは来月だ。今月は土台作りとのことだ。
それはつまり、今の美寧が行うには、まだ不安が残っている、という意味なのであろう。
これで手を抜いて、来月にバーベルベントオーバーロウを失敗でもしてみろ、きっと秋水が悲しむ。
ガッカリするだろう。
ガッカリされるだろう。
それはイヤだ。
そんな未来は断固として拒否だ。
「よーし、頑張れ私。今月は気合いを入れて頑張るぞ」
えい、えい、おー、と暗い夜道で拳を突き上げる女子高生。不審者だ。
とりあえず今月は、前準備としてインクライン・ダンベルローイングを頑張ろう。あとはお尻ともも裏のストレッチを頑張ろう。
目標は秋水に褒められること。
間違えた。
目標は来月にバーベルベントオーバーロウをクリアしてリベンジ達成すること。
頑張るぞー。
今月は超頑張っちゃうぞー。
美寧は歩きながら、そしてによによと崩れた笑みを浮かべながら、再度気合いを入れ直す。
入れ直して、3歩進む。
そして、結構な勢いで崩れ落ちた。
「お前が超頑張るのは今日だったでしょうがバカちーんっ!!」
恐怖、暗い夜道で独り叫んでる女子高生。お巡りさんこっちです。
「バレンタインの日に用事がないか、先生に聞くの忘れてたーっ!!!」
大丈夫、秋水くんはバレンタインデーに用事はきっとないよ。
去年までチョコをくれてた2人は、もういないからね(無慈悲)