自分は、いるだけで価値があるような人間なのだろうか。
「……んなわけ、ねぇな」
布団から起き上がり、秋水はぼそりと否定の言葉を口にした。
2月10日の日曜日。
雲は分厚く、雪が降っていた。
ボスコボルトを再討伐した秋水は、ダンジョンの地下3階と地下2階をぐるりと周回した後、早めにダンジョンアタックを切り上げ、食事と入浴を済ませてジムへと向かった。
わりと冷静な行動である。
そして、ジムでは美寧に筋トレを指導して、それから秋水はバーベルを使って身体強化の魔法による強化倍率を計測する。
方法は、サイドレイズ。
身体強化なしで横方向に持ち上げられるバーベルの重さを計測し、それから全身の身体強化を50%施した状態で同じく横方向に持ち上げられるバーベルの重さを計測する。
結果、現在の身体強化の強化倍率、260%から270%ほど、といったところであった。
1回目のボスコボルト討伐後と比べれば、強化倍率の上がり幅は下がっている。
しかし、それでも大幅成長であることは間違いない。
身体強化は基本的に常時60%の出力で全身強化をするので、強化倍率は160%前後といったところになる。
そこからさらに部分強化の重ね掛けを行えば、MAXで480%前後の強化倍率だ。
部分強化だけを最大出力で施せば、強化倍率をもっと跳ね上げることができるのだが、それをしたら強化していない部分への反動がヤバいので、現実的にはMAXで480%が今の頭打ちだと考えるべきだろう。
いや、でも、武装強化の魔法や魔素反発の魔法に魔力を割いている分、部分強化に回せる魔力は少なくなっているはずだ。
となると、身体強化の重ね掛けによる強化倍率は、460%くらいだと思っておくべきだろうか。
どちらにせよ、エグい強化である。
順調な成長を感じ、秋水は独りご満悦。
なお、未明1番乗りで来た筋トレ民が、ダンベルではなくバーベルでサイドレイズを行う秋水を見てドン引きしていた。
そんな目を気にすることなく、身体強化の強化倍率の計測を終えた秋水は、改めてみっちりと筋トレに励むことにした。
秋水の筋トレは体全身を鍛える全身法をメインとしているのだが、今日は大胸筋を鍛えたい気分だったので、胸を中心にしたメニューを組んだ。
本日はベンチプレス特売日。
訳の分からないキャッチフレーズを口ずさみながら、180㎏のバーベルを200回ほど上げ下ろしした。
嘘だ。300回である。
15回ほどを20セットだ。
基本を5セット。
バーベルを握る手幅を狭くしたナローベンチプレスを5セット。
逆に手幅を広く握ったワイドグリップベンチプレスを5セット。
そしてトレーニングベンチの頭側を30度ほど高くして行うインクラインベンチプレスを5セット。
これで計20セットである。
いや、しかしよく考えたら、15回やって、まだいける、とそこから2回くらいプルスウルトラ毎回していたから、正確には17回を20セットだ。
340回。
まあ、誤差だ誤差。
わははは。
行動は冷静だったかもしれないが、ボスコボルトを再討伐してから普通にテンションはおかしかった。
「ぬあー……4階に降りてぇぇー……」
ごちそうさまでした、と家の食卓で朝食を食べ終わった秋水は、そのまま食卓に崩れ落ちながら愚痴のように不満を零す。
ジムを終えて家に帰って風呂に入り、セーフエリアで一眠りしてから朝食を平らげた秋水は、早くもダンジョンに潜りたい衝動に駆られていた。
ボスコボルトを再討伐してから、秋水は地下3階と2階しか回っていないのである。
そう、地下4階に、降りていないのだ。
この結果だけを見れば、安全パイをとった冷静な判断に見える。
次のステージ、地下4階。
体力やダメージはポーションで回復できたし、武器や防具に大きな損傷はなかった。せいぜい、バールを1本、スライムに食われたくらいである。
地下4階に乗り込もうと思えば、乗り込める状態であった。
しかし、秋水は地下4階には降りなかった。
もちろん、秋水は内心で、めちゃくちゃ降りたい気持ちでいっぱいであった。
だって、興味ある。
新しいステージ。
そこには恐らく、いや、きっと新しいモンスターがいる。
次はどいつだ。
どんな化け物が待っているのだ。
殴りたい。
斬りたい。
殺したい。
殺す気で襲いかかってきて欲しい。
遠慮なくぶち殺し返してやる。
命をかけるような戦いがしたい。
ボスコボルト戦で大きなダメージを負わなかったためか、秋水の中にある欲求はかなり大きくなっていた。
武装強化の魔法と、魔素反発の魔法。
正直、ボスコボルト相手には過剰な強化であったように思う。
それに、ボスコボルトは3体いたせいだろうか、1体1体はそこまで強くなかった。少なくとも、角ウサギとボスウサギほど、戦闘力が跳ね上がっているようには思えなかったのだ。
だからこそ、秋水の中には不完全燃焼みたいな残り火が燻っていた。
が、降りない。
秋水は涙をのんで、ダンジョンの地下4階には進軍しなかった。
理由は、つまらないものだ。
「変なドロップアイテム出されても……持て余すよなぁ……」
秋水はため息を1つ。
モンスターを殺したら、いくらかの確率でドロップアイテムが出現する。
角ウサギからは、白銀のアンクレット。
コボルトからは、白銀のネックレス。
そして、サークレットまで出た。
では、地下4階に新しいモンスターがいた場合、恐らくだが、新しいドロップアイテムが出現するであろう。
それ、どうすんじゃい、という話である。
そもそも現在、白銀のアンクレットで政府機関までしゃしゃり出てくる大騒動に発展しているのだ。
白銀の中に、地球上には存在していなかった元素が発見された、という中学生の秋水でも、エラいことになったぁ、と顔を青くしてしまうレベルの大問題だ。
そこに別の金属疑惑があるネックレスを追加して、さらには未知の宝石らしきものが飾られたサークレットまで秋水は上乗せしてしまっているのである。
そこで新しいドロップアイテムを、祈織の質屋に持ち込んでみろ、想像しただけで胃が痛くなる。
とりあえずはアンクレットの取り扱いが決まるまで、迂闊に新しいドロップアイテムを世に出すことはできないだろう。
少なくとも、明日の交渉会議とやらの結果が分かるまでは、地下4階には足を踏み入れない方がいい。
「はぁ……早く取り扱いの方針決めてくんねぇかな、鎬姉さん」
再びため息をはきながら、秋水は朝食で使った食器を持って立ち上がる。
なお、秋水は無意識に、ドロップアイテムは質屋に持ち込む、という前提で考えていた。
地下2階の、スライムもいないボス部屋へ一時的に貯め込んでおく、という発想がなかったのだ。
「4階行きてぇー……」
そもそもドロップアイテム拾わなきゃいいだろ、というツッコミを入れるものは、誰もいないのである。
昨日の今日だが、本日も本日で質屋 『栗形』 にお届け物だ。
ダンジョンのドロップアイテムの売却、という納品である。
日本政府まで動いてゴタゴタと大騒動の真っ最中だが、納品して良いのだろうか。
まあ、ダンジョンのセーフエリアは然程広くはないし、家の方に置いておくのも不用心だ。こまめに売却した方が秋水としては助かる。それに、売れるときに売ってお金にしておきたいのだ。買い取っているのは鎬なのだけれど。
地下2階のボス部屋という倉庫に適した存在を完全に失念している秋水は、そんなことをつらつら考えながら自転車を流す。
雪が降っている。
あまり雪に馴染みのない地域の人間が聞くと首を傾げられるかもしれないが、雪の日は体感として暖かく感じる。
科学的な理由はいくつもあるが、そういう細かい話は横に置いておき、秋水としてはよく晴れた放射冷却大万歳の極寒地獄よりも、雪が降っている日の方がありがたい。
「……自転車は早計だったか?」
自転車のペダルを漕ぎつつ、秋水はぽつりと呟く。
路面には、そこそこ雪が積もっている。
秋水の住んでいる地域では冬の数回は発生する程度の見慣れた積雪量で、豪雪地帯では全く問題にならないくらいの薄ら雪であるが、雪に馴染みのない都心部では交通機関が麻痺するであろうレベルだ。
その雪が積もった道を、自転車で突き進む。
なにも考えていなかったが、普通に滑りそうで危ないじゃないか。
積雪の翌日であれば感覚的に地面が凍ってそうだなと思うので、自転車は乗らなかったであろう。
しかし、雪降りの当日、マジでなにも考えずに自転車に乗ってしまった。
なお、タイヤは極々普通のタイヤである。雪用ではない。
「帰りは押して歩くか」
やっちまったなぁ、と思いつつ秋水は降りることなく自転車で走る。
アホみたいなミスである。
今まで、雪の日に自転車で行ってきます、なんてミスをしたことがあっただろうか。
うーん、と考える。
思い当たる節は、ちょっとある。
雪の日や、まして積雪の翌日で晴れた日にすら、自転車に乗ろうとしたことは過去にも数回あった。
ただ、あくまでも、乗ろうとした、である。
「……あー、そうか」
思い出して、納得したように呟く。
そういうときは、父や母が、止めてくれたんだったな。
危ないでしょ。
雪道なんだから。
転んで自転車壊したら勿体ないじゃない。
考えなしで動こうとしたとき、止めてくれたのは両親だ。
「…………」
自転車を漕ぐ。
これからは、もっと、ちゃんと考えて、動かなきゃな。
誰も心配してくれないし。
誰も止めてくれないし。
そんな人は、もういないから。
自分はもう、独りなのだから。
吐く息は白く、降る雪に逆らうようにして空に昇る。
雪の日なのに、今日は、寒い。
「ちょっと秋水くん、雪道なんだから自転車は危ないですよ!」
質屋 『栗形』、開店直後。
出会い頭の開口一番、祈織に真下から怒られ、思わず秋水は言葉に詰まってしまった。
雪で転ぶ、などというハプニングも特になく、いつものように自転車を店の前に駐めて、アンクレットとネックレスが入ったリュックを背負って裏口から入ろうかな、としたところ、窓ガラス越しに店内から目が合った祈織がぎょっとした表情となり、慌てて店から跳び出してきたのである。
エプロン姿。
上着なし。
寒くないだろうか。
ではなく。
店から出てきた祈織は秋水に近寄って、腰に手を当てながら真下から睨み上げている。
ぷんぷん、といった様子だ。
全然怖くなくてびっくりである。
「秋水くんの自転車のタイヤ、雪道用じゃないじゃないですか! 雪道は怖いんですからね! 滑って転んでその肉体美に傷がついたらどうするんですか!」
腰に手を当てながら祈織は怒っている。
身長こそ50㎝近くは低いものの、大人として子どもを心配しているようだ。
ようだ、ではなく、心配してくれているのだろう。
秋水は少しばつが悪そうに首の後ろに手を当てて困った顔になる。
「その、すみませんでした」
「分かれば良し! 帰りは押して歩いてくださいね!」
「はい」
ふんす、と鼻を鳴らす祈織に、秋水は苦笑しながら頷いた。
怒られてしまった。
考えなしに自転車に乗ってきたせいで、無駄に心配を掛けてしまった。
そんな申し訳ない気持ち半分、そして、少し複雑な気持ちが半分。
そう言えば、秋水が深夜徘徊でお巡りさんに補導されたと知ったとき、最も秋水を厳しく叱りつけたのは祈織であった。
鎬はどんな方向性でも反省しているならよし、という態度でなにも叱らなかったし、担任の教師も名目上の説教という程度で、むしろ秋水のメンタル面の危惧が前面に出ていた。
一方、祈織はがっつりと叱ってきたのだった。
そうか。
そだったな。
自分を叱る大人は、まだ、いるんだな。
心配掛けて申し訳ない。
叱られるようなことをして申し訳ない。
だが、何故だろう。
少しだけ、ほっとしたような気持ちが、半分ある。
祈織は小さいが、大人である。
鎬に揶揄われたり圧倒されてばかりに見えるが、その鎬と同じ大人である。
ふ、と秋水はほんのりと口端をつり上げるように、もう一度だけ苦笑を漏らす。
「栗形さん、寒いですから店に入りましょう」
エプロン姿のまま店を跳び出してきた祈織を心配しながら、秋水は祈織を促す。
と同時に、ぽん、と祈織の頭に手を置いた。
何故か知らんが、手を置いてしまった。
きょとん、と祈織の表情が変わる。
きょとん、と秋水の表情も変わる。
あれ、なんで祈織の頭に手を置いたのだろうか。
「――秋水くん、レディの髪に気軽に触れるのは、お姉さんちょっとどうかと思いますねぇ……」
ゆっくりと、祈織の表情が引きつってきた。
ヤバい。
祈織は子ども扱いを受けることを極端に嫌う。
1ヶ月程の付き合いだが、見事に子ども扱いを受けて祈織が憤慨している姿は何度も見た。
まあ、背が低くて童顔という、見た目が見た目だ。色々とあったのだろう。
だが違う。
別に秋水は、祈織を子ども扱いするように頭を撫でようとしたわけではないのだ。
「……誤解です」
秋水はぎこちなくゆっくりと祈織の頭から置いた手を上げ、ついでに反対の手も上げ、無罪を主張するかのようにホールドアップ。
なんで自分は、祈織の頭に手を置いたのだろうか。
これはあれか、気軽に頭を撫でさせるどこぞのチワワのせいで、他者の頭を撫でる癖がついてきてしまったとでも言うのだろうか。最悪じゃねぇか。
クソチワワめ。
秋水は苦渋の表情を浮かべつつ、内心でクラスメイトの女子に毒づいた。
なお、基本的には自分から紗綾音の頭をぐりぐりと撫でているのは棚に上げる。
「……もう! 言いたいことは色々ありますけど、体が冷えちゃいますから店に入ってください」
「それは私が言った台詞では……」
「なんです?」
「いえ、今日は冷えますね。お言葉に甘えて入らせていただきます」
ぎろりと睨み上げてきた祈織の視線に一瞬で屈した秋水は、促されるまま質屋の店内に入ることにした。
秋水が触ったせいで髪型が崩れたのを気にしているのか、秋水の後に続くように店内に戻る祈織が、ちょいちょいと自分の髪を触っている。
なんというか、申し訳ない。
何故か自然と祈織の頭を触ってしまっただけで、悪意はないのだ。
自分は女性の髪をベタベタ触るような野郎だったかなぁ、と秋水は考えながら苦悶の表情を浮かべる後ろで、ふ、と祈織が小さく笑っていた。
両親が注意してくるときと同じような言葉で叱られ、秋水は少しだけ、ほっとした。
父よりも大きな手で頭を少しだけ撫でられ、祈織も少しだけ、ほっとした。
「ふざけないでくださいっ!!」
そして、質屋の店内に足を踏み入れた途端、秋水はそんな怒鳴り声に出迎えられた。
ひえ、と思わず足を止めた秋水の背中に、正確には背負っているリュックに、むぎゅ、と祈織がぶつかる。
なんだ。
どうした。
喧嘩か。
怒鳴り声は女性の声だ。
「弁護士に喋るなと言うことですかっ!? あなた独りで交渉を回せるとでもっ!?」
「うわぁ、やりあってるぅ……」
続くように女性の怒鳴り声が店内、ではなくバックヤードの方から響いてくる。
その声を聞いて、リュックサックから顔を離した祈織が、若干引いたように呟きつつ、盾にするかの如く秋水の背中に張り付いてきた。
店内に、鎬がいない。
秋水の叔母、棟区 鎬の姿がないのだ。
ということは、バックヤードの方だろうか。
どういう状況だろうか。
秋水は後ろを振り返り、祈織の顔を見た。
何故だろう、祈織はどこか気不味そうな表情であった。
「――今ちょっと、弁護士さんが来てましてね……」
「あ、今日の分はリュックに入ってますので、それを渡しておきますね。それではお疲れ様でした。私はこれにて」
「帰しませんよ!? この前見捨てやがったこと忘れてませんからね私!? 今日は律歌ちゃんもいないんですから死なば諸共ですよ!?」
「帰らせてくださいお願いします。あの弁護士の女性の方、絶対鎬姉さんと相性悪そうじゃないですか。仲裁とか絶対嫌ですよ」
「仲裁しなくて良いですから! 私の隣で一緒に気不味い雰囲気を味わうだけでいいですから! せめてこの筋肉で私を癒やしてくださいよ!?」
「段々隠さなくなってきましたね栗形さん」
逃がしてなるものかとばかりに祈織は秋水の背中にしがみ付き、最高にピリついている店内へと秋水を引きずり込んだ。
たすけて。
紗綾音「とんだ風評被害なんだよ」
秋水くんが無意識で相手の頭を撫でるときは、だいたい家族のことを想起しているときですね。
ただし、チワワは別枠( ´-ω-)
第7章は残り4話です。
そして、その残り4話は、鎬さんサイドの話になります。
鎬さんサイドだと作風ががらりと変わるけど許して(;^ω^)