ウチの庭にダンジョンがあります   作:ShilonkS

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※この物語はフィクションです。実在の政府関係者とは全くの無関係です。
※秋水くん周りとはストーリージャンルが極端に違います。



252『裏の戦い:政府交渉⑤』

 

 

 

 大事な供給者を委縮させ、サンプルの販売停止にまで追い込んだ。

 会議室を満たしつつある怒りの矛先は、完全に政府へと向いている。文科省までもが、その矛を握っているのだから笑えない。

 英語といくつかの言語が飛び交い、内閣府の男がようやく口を開いた。

 

「……誤解なきよう、申し上げますが」

 

 その声は、努めて落ち着いている。

 しかし、経産省代表の男は思わず息を詰めた。

 それを言うな。

 

「この場は、あくまで “円満な協議” のために設けられたものです」

 

 内閣府の男が、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 選ばれるであろう言葉を、峰岸とかいう弁護士の男が予測していないはずがないだろう。

 理由のない嫌な予感を、どうか外れていてくれ、と経産省代表の男は内心で祈った。

 ただ、祈った時点でもう、自分が誰かの盤上で踊らされていることは、直感で分かっている。

 

「対立や非難を目的とした場ではありません。民間と政府が、互いに理解を深め――」

 

 言葉を紡げたのは、そこまでだった。

 鎬が視線も上げずに、手元のタブレットを操作する。

 内閣府の男が言葉を止めたのは、きっと全員が感じた気味の悪さのせいだろう。

 スピーカーが、ピ、と小さく音を立てる。

 次の瞬間、会議室に聞き覚えのある声が響いた。

 

 

 

『誤解なきよう申し上げますが、この場は、あくまで “円満な協議” のために設けられた場です』

 

 

 

 内閣府の男自身の、声だった。

 会議室の空気が完全に凍り付く。

 通訳が、一拍遅れて英語に訳した。

 

「『This meeting is intended solely for amicable discussion』」

 

 海外研究者たちが、顔を見合わせる。

 鎬はそこで、ようやく顔を上げた。

 内閣府の男を真正面から見据える。

 次の瞬間、同じ言葉が、鎬自身の口から発せられる。

 

 

 

「誤解なきよう申し上げますが、この場は、あくまで “円満な協議” のために設けられた場です」

 

 

 

 声色も、抑揚も、驚くほど似ていた。

 だが、決定的に違う。

 そこに、温度がない。

 耳の穴に、氷を突っ込まれたかのような悪寒が走る。

 

 

 

『ですが、ご協力をいただけない場合、政府として、対応方針そのものを再検討する必要が生じます』

 

「ですが、ご協力をいただけない場合、当店として、対応方針そのものを再検討する必要が生じます」

 

 

 

 再生される音声。

 それを鎬は、一拍置いて丁寧になぞった。

 言葉の構造は、完全に同じである。

 違うのは、主語だけだ。

 模倣ではなく、反転。

 経産省代表の男は、背中に冷たい汗が伝うのを感じてしまう。

 あのとき政府側が使った正論が、今や完全に裏返されている。

 そして鎬は、最後に一言だけ淡々と付け加えた。

 

「――ええ、誤解なきように、ね」

 

 完全に読まれている。

 この女は、感情で動いていない。

 準備された言葉を、準備された順番で、淡々と置いていくだけだ。

 会議室のあちこちで、通訳イヤホン越しにざわめきが走る。

 オンラインの向こう側でも、誰かが激しく身振りを交えて議論を始めているのが見えた。

 このままでは、収拾がつかない。

 経産省代表の男が口を開こうとした、その一瞬だけ前であった。

 

「……棟区さん」

 

 静かな声だった。

 経産省代表の男は、はっとして横を見る。

 どこか決意を秘めたような表情。

 怒りでも、諦めでもない。

 内閣府の男は、しっかりと鎬を見返しながら言葉を続けた。

 

「私に少し、お時間を頂けないでしょうか」

 

 鎬がわずかに首を傾げる。

 

「あら、共謀して悪だくみでも?」

 

 軽口。

 だが、その瞳は一切笑っていない。

 内閣府の男は、深く息を吸った。

 

「……私たちには、今回の交渉に関して、ある程度の裁量権が認められています」

 

 官僚らしい、正確な言い回し。

 

「ですが、私が次に提示すべき案は、その裁量権を、はるかに超えています」

 

 会議室が、静まり返る。

 正確な言い回しなだけに、経産省代表の男は、その言葉の意味を正確に察することができた。

 

「許可を取りつけない限り、私は次の言葉を喋ることができない」

 

「そう。なら、交渉は決裂、と考えてもよろしいかしら?」

 

 鎬は即座に返した。

 躊躇はない。

 確認するような、事務的な口調。

 内閣府の男は、思わず歯を食いしばった。

 

「10分……いえ、5分で構いません」

 

 声が、わずかに震えた。

 

「私に、時間をください。お願いします」

 

 数秒の沈黙。

 鎬は、周囲を一度だけ見渡した。

 現地の研究者たち。

 オンラインの向こうの重役たち。

 そして、沈黙を保ったままの弁護士2人。

 

「――皆さん」

 

 鎬がゆっくりと口を開く。

 

「20分ほど、休憩にしましょうか」

 

 内閣府の男は、深く頭を下げた。

 下げざるを得なかった。

 

「ありがとうございます……」

 

 それは、もはや力関係をそのまま可視化したような光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議室の扉が閉まった瞬間、内閣府の男は足早に廊下を進んだ。

 駅直結の高層ホテル。

 遮音性の高い特別会議室の外は、異様なほど静かであった。

 彼は立ち止まり、ポケットからスマホを取り出す。

 画面を一瞥し、短く息を吐いてから、すぐさま発信した。

 

「私です。今、名古屋です」

 

 数秒の沈黙。

 相手が誰かは分からないが、内閣府の男の声色が一段低くなった。

 

「はい。第二回協議の最中です…………ええ、想定よりも遥かに厳しい状況です」

 

 廊下の端で、経産省代表の男が距離を取って立っている。

 聞こえてくるのは、内閣府の男の断片的な言葉だけだ。

 

「民間側が、供給停止を示唆しました」

「いえ、脅しではありません。理屈としては、完全に通っています」

「海外の研究機関と、外国政府関係者も同席しています」

 

 一拍。

 

「……はい。このまま決裂すれば相手は、日本政府に脅された、という形で動きます」

 

 声に、焦りが滲んだ。

 

「最悪の場合、次の会議を行うまでの間に、第三国が保護を名乗り出る可能性もあります。そうなれば、サンプルも人も、全部国外です」

 

 内閣府の男は、窓際に移動し、ガラス越しに街を見下ろした。

 喧騒が、やけに遠くに感じる。

 

「……分かっています。こちらの裁量を超えているのは承知です」

 

 少し、間を置く。

 

「ですが、この場で何も決めなければ――民間人が危険に晒されます」

 

 声が、僅かに強くなった。

 

「彼女は、供給を止めると言っています。それは交渉カードではなく、経営判断です」

 

 電話の向こうで、誰かが何かを言ったらしい。

 唇を噛んだのが見えた。

 

「……では、確認します」

 

 背筋を伸ばし、はっきりと告げる。

 

「現場判断で、最大限の譲歩を行っても――責任は、私が取る。そういう理解でよろしいですね?」

 

 数秒。

 その数秒が、やけに長かった。

 やがて、内閣府の男は、力なく笑った。

 

「……はい。最善を尽くせ、ですね」

 

 通話が切れる。

 内閣府の男は、スマホを下ろし、そのまま額に当てた。

 深く、長いため息。

 そこへ、経産省代表の男が歩み寄る。

 

「……どうだった」

 

「丸投げだよ」

 

 内閣府の男は、顔を上げた。

 その表情は、苦笑いである。

 

「ただし、許可は出た。この場で決めろ、だとさ」

 

 そして、決めた責任を、誰が取るのか。

 経産省代表の男は、思わず目を伏せた。

 

「本来なら……俺がやるべきだった」

 

 この協議を決裂させるわけにはいかない。

 しかし、次に持ち越せない。

 この場で決めるしかない。

 そうならば、自身の職を掛けるべきは、自分であるべきだった。

 政府側において、この協議の代表は、経産省だからだ。

 歯噛みをする経産省代表の男に、内閣府の男は首を振って応える。

 

「いや、お前が前に出たら、次がない」

 

 静かな声。

 もしくは、どこか憑き物が落ちたような。

 

「経産省の顔が潰れたら、その後の管理も交渉も、全部詰む。俺が泥を被る方がまだマシだ」

 

「……すまん」

 

「謝るな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議室の扉が再び開いた瞬間、経産省代表の男は空気が変わっていることを即座に察した。

 棟区 鎬は、席を立っていなかった。

 休憩を挟む前と変わらず、中央の席に綺麗な姿勢で座っている。

 ただ、その頭には、目を奪われるような白銀の、とても綺麗なサークレットが戴かれていた。

 控えめな光沢。

 銀線を編み込まれたデザイン。

 そして、美しいエメラルド。

 

 休憩前には、確かに着けていなかった。

 

 彼女は、四方八方から飛んでくる質問を、じつに淡々と捌いていた。

 

「材質の安定性については、現時点では評価途中よ」

「いえ、用途は限定しないわ。研究次第でしょう」

「販売? まだ先の話ね」

 

 英語、フランス語、時折混じる別言語。

 通訳が追いつく前に、次の質問が飛ぶ。

 新作のネックレス、その次。

 サークレット。

 それが意味することを、経産省代表の男は理解していた。

 

 切り札は、まだ残っている。

 

 アンクレットで終わりではない。

 ネックレスで終わりでもない。

 この女は、さらに次の手を持っている。

 アンクレットの販売を中断するとなったら、それら全てを中断する。

 それが、どれだけの損失になるのか。

 無言のプレッシャーだ。

 政府側が揃って着席すると、鎬は初めてこちらに視線を向けた。

 冷たいほどに澄んだ眼。

 内閣府の男が、一歩前に出る。

 

「……お待たせして、申し訳ありませんでした」

 

 深く頭を下げた。

 

「時間をいただいたこと、感謝します」

 

「ええ。待つのは嫌いじゃないわ」

 

 鎬はわずかに首を傾けただけだった。

 嫌みでも皮肉でもなく、淡々と事実を口にするだけのようだ。ニュースキャスターでも、もうちょっと感情が籠もっている気がする。

 内閣府の男は姿勢を正す。

 

「結論から申し上げます。政府として、妥協案を提示します」

 

 経産省代表の男の喉が、ひくりと鳴った。

 内閣府の男は、言葉を選ぶように、しかし逃げずに続ける。

 

「第一に、安全です」

 

 会議室の視線が集まる。

 

 

 

「質屋、従業員、その周辺人物を含め、警備・情報保全・対外的な防護について、政府が責任を持ちます」

 

 

 

 鎬の表情はぴくりとも動かない。変わらない。

 

「具体的には、警察庁および関係機関と連携し、接触者の管理、危険情報の遮断、必要に応じて身辺警護を行います」

 

 ここで、経産省代表の男が口を開いた。

 

「これは、脅しではありません」

 

 思わず、強調する。

 

「あなた方を危険に晒さないための措置です。民間人を、交渉の道具にはしない」

 

 鎬は、静かに答えた。

 

「……続けて」

 

 内閣府の男は、頷いた。

 

「第二に、利益です」

 

 モニターの向こうで、研究者たちが息を詰める。

 

「政府主導の研究機関からの正式発注、および価格保証による安定した収益を約束します」

 

「市場から排除することはしない。正当な対価は、必ず支払う」

 

 内閣府の男の言葉から受け継ぐようにして続けながら、腹の底がひりつくのを感じていた。

 ここまで踏み込むのは、正直に言えば危険だ。

 だが、内閣府の男は最後のカードを切った。

 

「第三に、出所情報です」

 

 空気が張り詰める。

 

 

 

「開示は求めません」

 

 

 

 ざわり、と小さな波紋。

 

「ただし、政府が独自に調査することは止めません。あなた方に情報提供の義務は課さないが、国家としての責任も放棄しない」

 

 つまり。

 知ろうとはするが、無理に聞き出さない。

 秘密は吐かせないが、探りはする。

 経産省代表の男は、内心で呻いた。

 完全な二律背反。

 だが、これ以上は踏み込めない。

 内閣府の男は、真っ直ぐ鎬を見た。

 

「これは、守るための妥協です」

 

 一拍。

 誰かが喉を鳴らした音が、いやに耳につく。

 自分の喉だっただろうか。

 

「民間を護り、研究を止めず、国際的な衝突を避けるための、最善です」

 

 言葉を投げられた鎬は、ゆっくりとサークレットに触れた。

 

「……なるほど」

 

 それだけ漏らす。

 何故だろう、その一言に、背筋が粟立つのを感じた。

 評価しているのか。

 まだ足りないのか。

 あるいは。

 

 次の札を、切る準備をしているだけなのか。

 

 彼女は、全てを見せていない。

 その事実だけが、はっきりと伝わる。

 鎬はしばらく黙っていた。

 サークレットに添えた指を離し、組んだ手をテーブルの上に置く。

 姿勢は崩さない。

 声も上げない。

 だが、その沈黙が、政府側には何より重かった。

 評価はしている。

 だが、完全には受け入れていない。

 経産省代表の男は、直感的にそう理解した。

 安全を保障する。

 利益を保証する。

 出所は秘匿する。

 どれも、政府としては限界の譲歩だ。いや、限界から足を半歩踏み出しているかもしれない。

 それでも、彼女が首を縦に振らなければ、意味はないのだ。

 しばらくしてから、鎬がゆっくりと口を開いた。

 

「……興味深い案ね」

 

 その言葉に、わずかに空気が緩む。

 だが、続く一言で、それは霧散した。

 

「でも、少しだけ整理させてちょうだい」

 

 彼女は、経産省代表の男を見た。

 責めるでもなく、感情もなく、ただ確認するような目。

 

「あなた方は、こう言っている」

 

 指を一本、立てる。

 

「私たちに、情報を出せとは言わない」

 

 次に、もう一本。

 

「ただし、あなた方が調べることは止めない」

 

 そして三本目。

 

「それはあなたの言う、国家としての責任、だと」

 

 内閣府の男が、静かに頷く。

 

「……そうです」

 

 鎬はわずかに首を傾けた。

 白銀のサークレットに飾られたエメラルドが、キラリと輝く。赤に近い一瞬の煌めき。エメラルドとは、そんな表情を見せる宝石だっただろうか。

 彼女は、淡々と続ける。

 

「知ろうとする自由を、否定するつもりはないわ。国として、未知のものを把握したいという意思も、理解できる」

 

 胸の奥で小さく息を吸う。

 理解した。

 彼女は、こちらの正義を否定していない。

 だからこそ、拒絶がより冷たい。

 

「ただしそれは、あなた方の行動よ」

 

 鎬の声が、わずかに低くなる。

 音域の話ではなく、温度の話だ。

 ただでさえ冷たかった声が、より一層冷え込んだ。

 

「私たちは何も教えない。協力もしない。でも、妨害もしない」

 

 静かに、しかしはっきりと言い切った。

 

「調べるなら、どうぞご自由に。ただし、それは政府の意思として行っていると判断するわ」

 

 逃げ道が、ない。

 この場で頭を抱えなかっただけでも、褒めてほしいくらいだ。

 もし政府が調査を強行すれば、それは民間を圧迫した政府の行動として、この場にいる海外の研究者たちの目に映る。

 もし調査を控えれば、それは国家として責任を放棄したと見なされる。

 どちらを選んでも、政府の名前が前に出る。

 鎬は視線を、モニターの海外勢へと移した。

 

「ご安心なさい。私は、日本政府があなた方の研究を妨げるとは思っていないわ」

 

 それは、擁護の言葉にも聞こえる。

 だが同時に、縛りでもあった。

 妨げた瞬間、それは約束違反になる。

 彼女は再び、政府側の面々へと視線を移す。

 

「だから、こうしましょう」

 

 その言葉に、経産省代表の男は背筋を伸ばした。

 

 

 

「安全が保障される限り、不当な干渉がない限り、私たちは商売を続ける」

 

 

 

 一息吸う。

 鎬が息をするだけで、悪寒に似た緊張が走る。

 

 

 

「ただし、危険だと “当店が” 判断した瞬間に、市場から即時に撤退する」

 

 

 

 その言葉に、海外勢が息を呑む。

 経産省代表の男は、拳を握りしめるしかできない。

 完全に、主導権を握られている。

 だが、それでも。

 この女は、一線を越えてはいないのだ。

 脅していない。

 要求していない。

 ただ、条件を提示している、だけなのだ。

 それが、何よりも恐ろしい。

 内閣府の男が、静かに問いかける。

 

「……その条件で、この協議は、継続可能でしょうか」

 

 鎬は即答しなかった。

 ほんの数秒。

 それだけで、会議室全体が息を止める。

 そして、彼女は微かに笑った。

 

「ええ」

 

 それは、初めて見せる、感情らしい表情だった。

 

「続けましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意外なことに、そこからはとんとん拍子に話が纏まっていった。

 アクシデントはなく。

 海外勢が遮ることもなく。

 追加案が出ることもなく。

 淡々と、そして粛々と会議は進んだ。

 

 まるで、誰かの筋書きをなぞるかのように。

 

 一通りの条件整理が終わったあと、会議室には奇妙な静けさが残っていた。

 経産省代表の男は、喉の奥に引っかかっていた言葉を飲み込み、資料の一枚をまっすぐに揃えた。

 政府側の提示した妥協は、形としては成立している。

 安全の確保。

 利益の確保。

 出所情報の秘匿。

 そしてその代わり、供給は継続される。

 

 

 

 ――結局、最初に弁護士が提示していた落としどころだ。

 

 

 

 腹の底が、すっと冷えた。

 これは、民間側が押し切った、ではない。

 政府が折れた、だ。

 内閣府の男が、淡々と確認を取る。

 

「本日の協議内容は、後ほど文書化し、双方で確認します。ただし、暫定合意としては――今の整理でよろしいですね」

 

 それは、事実上の白旗だった。

 経産省代表の男は、隣で深く息を吐く。

 勝ったか負けたかで言えば、負けだ。

 だが、民間を守ることはできる。

 それだけは、確かだと自分に言い聞かせる。

 

「ええ。暫定で構わないわ」

 

 鎬は頷いた。

 その言い方が、また厄介だ。

 まるで、いつでも引っくり返せると言うかのようである。

 す、と鎬が立ち上がった。

 資料を丁寧に揃え、書類の端を指で整える。

 その所作は完璧で、ビジネスマナーの模範のようだった。

 だが、その瞳だけが、氷のように冷たい。

 

「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」

 

 形式的な挨拶。

 それだけなら、ここで終わっていた。

 そして鎬は、ここでようやく、いや、会議が始まってから初めて、峰岸の方へ視線を流した。

 たったそれだけの動きなのに、会議室の注意が一斉にそちらへ寄った。

 経産省代表の男は、反射的に峰岸を見てしまう。

 

 峰岸鉄臣。

 

 無言のまま、ただ静かに座っている中年の弁護士。

 表情は変わらない。

 背筋も崩れない。

 落ち着き過ぎていて、逆に薄気味悪い。

 鎬が、静かに微笑んだ。

 

「……峰岸先生」

 

 その呼び方が、妙に丁寧だった。

 視線が再び動く。

 政府側の方ではなく、海外勢へと向けられた。

 

「今回の協議、売買中止とならずここまで円滑に進んだのは、全て、こちらの弁護士のおかげです」

 

 鎬ははっきりと言った。

 その言葉に、経産省代表の男は内心で身構えてしまう。

 儀礼的な締めの挨拶、ではない。

 

「峰岸先生には、事前に何度も助言を頂きました。この交渉が、どういう形に落ち着くべきか。政府の立場と、民間の立場を両立させるには、どこまで踏み込む必要があるか」

 

 峰岸は、なにも言わなかった。

 急に持ち上げられる発言に動じることもなく、否定もしない。

 それが、より雄弁である。

 

「最初から、今日の着地点を見据えていらしたように思います」

 

 経産省代表の男の背中を、冷たい汗が伝う。

 最初から?

 思い返せば、確かにそうだ。

 先週の、第1回の会議。

 あの意図的に拗れたやり取り。

 政府の言葉を、一つ一つ引き出すような進行。

 そして今日。

 海外勢を含めた布陣。

 録音という切り札。

 政府が折れざるを得ない順序。

 民間の女一人が、ここまで段取り良く、ここまで冷たく、ここまで正確に、国家の弱点を刺せるわけがない。

 だが、それらすべてが、この弁護士の描いた線路の上だったとしたら。

 

「凄腕なのね」

 

「……恐縮です」

 

 峰岸が、わずかに口を開く。

 それだけだった。

 謙遜にも、拒絶にも聞こえる短い一言。

 姿勢を正し、右手を軽く腹にあてたまま微動だにもしない。

 だが経産省代表の男には、それが余裕にしか見えなかった。

 計算の後に残る、無駄のない返答だ。

 計算高い。

 すべて承知の上。

 国を相手にしても、顔色ひとつ変えない。

 そう見えてしまう。

 鎬は満足そうに頷き、視線を戻す。

 

「当面、供給は続けられる見込みよ。ただし、あなた方にも理解してほしいの。私は商売人で、安全が崩れた瞬間に撤退する。そこは絶対に変わらない」

 

 海外勢が、まだ納得しきれない顔で頷く。

 さっきまで怒りを露わにしていた連中も、供給継続という言葉に一旦は矛を収める様子だ。

 鎬は、淡々と続けた。

 

「忙しい中、参加してくれてありがとう。あなた方がここにいること自体が、今日の抑止力になったわ」

 

 抑止力。

 その単語に、経産省代表の男の胃がきしんだ。

 鎬は、今この瞬間も、危険を道具として数えている。

 そんな会場の端に、メモを取っている中国人がいた。

 いや、日本人か。

 最初は研究者の付き添いかと思った。

 だが、ペンの動きが違う。

 誰とも視線を交わすことなく、ただメモを取っている。

 

 記者か。

 

 学術系か、経済紙か。

 嫌な汗が背中を伝った。

 もしも、今日の流れが外に出るなら、政府が民間を脅し、弁護士にねじ伏せられた、という絵が出来上がる。

 しかも鎬は、今まさにその絵を仕上げている。

 最後に彼女は、政府側へ向き直った。

 

「では、本日の協議はここまで。暫定合意の文書化は、そちらで進めてちょうだい」

 

 変わらず、淡々としたものの言い方。

 ちらり、とその視線が再び峰岸の方へとわずかに向く。

 

「……峰岸先生が、細部を詰めてくださるわ」

 

 まただ。

 また、峰岸の名前を置く。

 まるで、政府と対等に渡り合う窓口が、彼であるかのように。

 

「それでは、本日はお疲れ様……皆さんもどうか安全に。交通事故などないように」

 

 それが気遣いに聞こえないのが、彼女の恐ろしさだった。

 鎬はゆっくりと歩きだし、峰岸と、今回は爆発せずに沈黙を貫いていたもう一人の女の弁護士も立ち上がり、鎬の後を追うようにして会議室の扉へ向かう。

 経産省代表の男も立ち上がる。

 内閣府の男が、小さく頭を下げる。

 他省庁の面々も、悔しさと疲労を飲み込みながら、同じ動きを繰り返す。

 そして、会議室を出る直前、鎬が言葉を一つ落とした。

 

「峰岸先生。本当に、頼りになるわ」

 

 その瞬間、経産省代表の男の胸の中で、ひとつの名前が危険物として刻まれた。

 日本政府を相手に、全面的な譲歩を引き出した弁護士がいる。

 峰岸鉄臣。

 残された政府側の面々は、誰一人としてすぐに動けなかった。

 

「――あの弁護士の男を調べろ」

 

 経産省代表の男が発した指示が、会議室に重たく落ちる。

 

 

 





 ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
 第7章はこれにて終演です。
 本来であれば、バレンタインデーに起こる地雷の上に足をそっと乗せる些細な事件、までが第7章の予定でしたが、色々長くなったせいで変更でございます(;´・ω・)
 それに伴い、次回の第8章は少し短めで、ダンジョンの地下4階と、楽しいバレンタインデー辺りの話を予定しています。
 なお、新元素関連は、もうちょっと蛇足が続きます。
 もしくは、茶番。

 次回の更新はざっくりとした登場人物の紹介だけで、半月程休みを頂き、第8章を開演いたします。
 それでは、これからもお願いします。

 ……全く関係ない新作短編書きたいの!!
 主人公の重たい心情とかドロドロの政治劇とかじゃなくて、頭空っぽの主人公がバカみたいな能力をバカみたいな使い方しながら平和にのほほんと過ごす、そんなほのぼの物語が書きたいの!(発狂)
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