「おはよぉー……」
朝7時、お寝坊さんの妹がようやくリビングに現れた。
寝ぼけ眼をこすりながら、むにゃむにゃ言ってるのがなんとも可愛い。でもパジャマは着替えなさい。
「おはよう、紗綾音」
「おねぇちゃーん、ねぐせー……」
「お姉ちゃんは寝癖じゃないんだけど……もー。はい、こっちおいで」
渡巻 律歌(わたりまき りつか)の方へとてこてこ歩いてくる妹は、なるほど確かに、寝癖がついている。
しょうがないなー、と苦笑いしつつも、リビングのソファーに腰を下ろしていた律歌は、さっと読んでいた新聞をたたみ、リビングテーブルに置いていたヘアブラシを手に取る。
妹、は朝に弱い。
と言うか、夜遅くまで友達と喋りすぎである。
そんなに喋ることなんてあるのかな、なんて律歌は思ってしまうのだが、交友関係の広い妹のことだ、色んな人とグループトークでわいわいしているのだろう、たぶん。
それで案の定、朝のギリギリまで寝ていた妹の身だしなみをまず整えるのは、だいたい姉である律歌の役目であった。
まあ、ちょっとは役得を感じなくはない。
仕方なく、という態度を律歌は崩さないが、ヘアブラシと寝癖直しウォーターがリビングテーブルに用意されている時点で、なんだかんだとやってくれると分かっている妹は妹で律歌にダダ甘えである。
律歌がソファーから立つと、ふらふらとやってきた妹は律歌の座っていた位置にどすりと座った。
「ほら座って。はい、蒸しタオル」
「んにゅー……」
「もー、ほら紗綾音、顔拭いて」
「……すぴー」
「こら」
蒸しタオルを妹に手渡せば、その暖かさに安心したのだろうか、妹はタオルに顔を埋めて再度夢の中に旅立とうとしたので、どす、とヘアブラシで妹の頭を軽く叩いた。
きゃぉん、とブラシが刺さって妹の悲鳴が上がるが、天罰である。無視です。
つーん、と律歌はすました顔をしながら、慣れた手つきで妹の髪を梳かしていく。
「んー、紗綾音、ナイトキャップした?」
「ふっ、気がついたら床の上だったんだよ」
「寝相が酷いね。おはよう紗綾音」
「頭皮にダイレクトアタックで強引に目覚めさせられたんだよ。おはようお姉ちゃん」
むにゃむにゃと眠そうだったのはどこへやら、すっかり目を覚ました妹がどや顔でくるりと律歌の方を向いたので、その頭を両手で掴んで再びくるりと前を向かせる。
寝癖なおしてる最中でーす。律歌は歌うように忠告しながら、寝癖直しウォーターをスプレーでぷしゅぷしゅと妹の髪に振りかける。
綺麗な黒髪だ。
ちゃんとお手入れしてるんだな。
それに比べて、ただ漠然と伸ばしているだけの自分の髪はどうだろう。痛んでるんだろうな。
妹の寝癖を直しながら、律歌は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべる。
「あら、おはよう紗綾音」
そこにキッチンの方から顔をのぞかせたのは、母である。目覚めた妹の声で、ようやく妹が起きたことに気がついたらしい。
母の方に妹が顔を向けようとするが、律歌はその頭を再びがしりと掴んで固定する。
身長差を考えようか。例え妹がソファーに座ってくれているとはいえど、背の低い律歌は立った状態じゃなければ髪を上手く梳けないのだ。
と言うか、また背が伸びたんじゃなかろうか妹よ。
「んあ、おはよーお母さん。ごはんちょっと待ってねー。先に寝癖直すんだよー」
「直してるのお姉ちゃんなんだけど……」
「二人とも髪が長いと大変ねー」
「私はショートにしたいんだけど……」
のんびりとした2人の会話に、律歌は律儀にツッコミを入れる。
いや、何でもかんでもツッコんじゃダメだ。ツッコミ所のあるポイントでツッコミを入れていては、妹と母と父の全ての言葉に対してツッコミを入れなくてはならなくなる。全員じゃないか。適度にスルーしなくては。
「おねーちゃーん、ごはん食べさせてー」
「赤ちゃんかな!?」
「律歌ー、お母さんにもー」
「お母さんさっき私の目の前でご飯食べてたよね!?」
「え!? 2人とももう食べちゃったの!? 裏切り者なんだよー!」
「紗綾音がお寝坊さんだからいけないんでしょ!」
「律歌ー、車の鍵ってどこに掛けたかしら?」
「まずはコートの内ポケット探す! あと、ちゃんと鍵掛けに掛ける!」
「お姉ちゃん寝癖直しまだー?」
「はい、おしまい! 後のセットは自分で――」
「律歌ー、お母さんのスマホはー?」
「充・電・器っ!」
ダメだ、スルーさせてもらえない。
交互に話しかけてくる2人それぞれにツッコミを入れながら、律歌はヘアブラシを置いて妹の髪を優しく撫でる。
よし、寝癖なし。
いい感じに直せた、と律歌はにへりと笑うと、妹がくるっと律歌の方を見た。
にへり、と似たような笑顔を浮かべていた。
「ありがと! お姉ちゃん大好き!」
「わぷっ」
そして、ぎゅ、と妹に抱きしめられる。
逆だよー。
立場が逆だよー。
いきなり立ち上がって抱きしめられた律歌は、その体格差から為す術なく妹の胸に顔を埋めてしまった。ナイトブラの感触。なんか悲しい。
「おっと、俺の方が律歌が好きだからなー」
なにを張り合っているのか。
びしっとスーツに身を包んだ出勤前の父が、その渋い見た目の正反対な軽いノリでリビングに現れた。
黙って立っていればガッシリした体格で燻し銀のナイスミドルだが、口を開けば三枚目なのが父クオリティ。
「むむっ、お父さんは好き、私は大好き。私の方が勝ちなんだよ」
「ふっふっふっ、お父さんの好きは紗綾音の好きの10倍なのさ」
「いやズルいんじゃないか!? チートよくないんじゃないかな!?」
「今のはメラゾーマではない」
「おのれ大魔王!」
「あ、紗綾音も当然好きだからな」
「わーい、私も私もー。お父さんおはよー」
「紗綾音おはよー」
朝からこのテンション。
恐るべきことに、父と妹の会話はこれが平常運転である。
なお抱きしめしめられている律歌は、ぱたぱたと妹の胸の中で暴れ、ぽこぽこと妹の背中を叩く。息ができなくてお姉ちゃん苦しい。
「あなた、もう出るの?」
「ああ。今日はやらなきゃいけないことが山積みでな」
あ、ヤバい。
父が出勤。母がいる。
律歌は慌て妹を抱きしめ返し、ソファーへとダイブするかの如く全体重を掛けて思い切り妹を押し倒す。
「ほわぁっ!?」
妹の口から妙な悲鳴が上がるとともに、ぼふっ、とソファーに倒れ込む衝撃。
の、ついでに、律歌の耳ははっきりとその音を拾った。
可愛い妹の教育上、あんまり好ましくない音である。
「いったーい! なんでお姉ちゃん、2人がちゅっちゅしてるときに邪魔するのー!?」
「こら! 見ちゃいけません!」
ぷは、と妹の胸から顔を上げ、律歌は即座に注意する。
渡巻家の両親は、とてもとても仲が良い。
それこそ、2人目の妹がいないのが不思議なくらいには仲が良いのだ。
その両親は、仕事に行く前に必ずお決まりの挨拶をする。
キスである。
娘の前で見せるんじゃないよ。
少なくとも妹の前で見せるんじゃないよ。
毎回毎回、目を輝かせて食い入るように見ている妹の情操教育に悪いでしょうが。
そういうのは、もっと、こう、隠れてですね。
「こらこら律歌、怒らない怒らない」
「誰のせいだと思って……」
「夫婦仲がいいのは良いことだぞ。律歌も将来真似してみてくれ」
「なっ!?」
まるで悪びれる様子のない父が、ぐっと親指を立てて律歌にお勧めしてきた。
朝のキスを。
いやでも、いくらなんでも、ちょっと身長差が。でも踏み台があれば。でも毎朝は。
違う。
火がついたかのように、ぼ、と顔を赤くした律歌が、驚きと変な思考ノイズのせいでワンテンポ遅れ、父親をぎろりと睨んだ。
「秋水さんのことは関係ないでしょ!」
「ははっ、これ以上喋ってると律歌が怒っちゃうな。それじゃ3人とも、いってきます」
「もう怒ってるんだけど!?」
律歌は目尻をつり上げて怒るが、軽く笑いながら父の方はご出勤である。
逃げる気か。
咄嗟に律歌は追いかけようと体を起こしかけるが、何故かソファーに押し倒した妹ががっちりと律歌の腰をホールドして抜け出せない。
語るに落ちるねー、と妹は何故かにやけた半笑い。
墓穴掘るのねー、と母も何故かにやけた半笑い。
なんなの。
ぱたぱた律歌は藻掻いている間に、父は颯爽とリビングから出るところだった。
「ちょっと! お父さん! 帰ったらお話があるからね! いってらっしゃい!」
「いってらっしゃーい」
「お母さんも出勤準備!」
「お父さん約束のブツ買ってきてねー。いってらっしゃーい」
「紗綾音は早く朝ご飯――約束のブツってなに!?」
「そう言えばお姉ちゃんって、棟区くんにどんなチョコ渡すの?」
「え?」
そして、渡巻 紗綾音(わたりまき さやね)は大好きな姉と一緒に登校中、気になっていた話題を唐突に切り出した。
今日は2月の12日。
バレンタインデーは明後日だ。
本日お空はちょっと曇り。午後からはすんごい曇り。
バレンタインの日は晴れると良いね、と見上げた空から隣を歩く姉へと視線を移したならば、何故か可愛い姉は、じとー、とした目で紗綾音を睨み上げていた。
なんでー?
「…………」
「わーお、じと目かわいい。でもほら、お姉ちゃんとチョコの方向性被ったら困るじゃん。先に聞かせて欲しいかなって」
今日は朝から不思議とご機嫌ナナメな姉のヘソをぐにゃりと曲げたら大変だ、と紗綾音は慌てて説明する。
よくよく考えて欲しい。
確かに紗綾音は、姉と感性のベクトルが明後日の方向へさようならなくらいに違う。バイクの格好良さを力説されても「う、うん……」という感じだし、エンジンの形状の違いを解説されても「へ、へぇ……」となってしまう。
だがしかし、明後日に渡すチョコレートが万が一にも同系統のチョコレートだったりしたらどうなる。
ピンクのラッピングを施した、ちっちゃいハートのチョコレート。
姉妹揃って似たり寄ったりなプレゼントフォーユー。
考えただけでも悲惨だ。
姉が。
紗綾音は別に良いのだ。
ただ、まかり間違っても自分が姉とダダかぶりのチョコレートを用意するわけにはいかないだろう。紗綾音にだってそれくらいの良識はあるのである。
そんな愛する妹からの配慮の塊かのような確認だというのに、何故か姉は大きなため息を目の前で1つ。
「……はぁ」
「クソデカため息なんだよ」
「こら、女の子がそんな言葉使っちゃいけません」
「男女差別なんだよ」
「そもそも、公共の場所でシモの話をしちゃいけません」
「クソデカため息が下ネタ認定されちゃったんだよ」
「こら」
結局怒られてしまった。
「あのね紗綾音、何度も言うけど、私と秋水さんはそんな関係じゃないの」
「はいはい。それで、どんなチョコ渡すの?」
「お姉ちゃんの話聞いてる?」
姉は半眼になって、呆れた顔で紗綾音を見上げる。
それから再び、はぁ、とため息。
「渡しません」
そして、前を向いてきっぱりと言い切った。
渡しません。
渡さない。
え?
思わず紗綾音は足を止めてしまった。
「え?」
「渡しません」
「なんで?」
「なんでって……」
足を止めた紗綾音を追い越してしまった姉も律儀に足を止め、振り返りながら再び紗綾音を見上げてくる。
ちょっと困ったような、少し怒っているような、そのくせ頬が少し赤い、不思議な表情だった。
姉は一度視線を逸らし、もにょもにょと言葉を口の中で咀嚼してから、また紗綾音の方へと目を向ける。
「そりゃあ、紗綾音からしたら秋水さんはクラスメイトで、学校がある日は毎日顔を合わせるだろうけど、お姉ちゃんは違うんだから。都合良く明後日秋水さんに逢えるとは限らないでしょ」
「都合良く……」
「え? なにか言った?」
「ううん」
思い切り漏れ出ている姉の本音を思わず復唱してしまった紗綾音は、慌てて誤魔化す。
都合良くって言ったぞ。
この姉、ほとんど無意識に言ったぞ。
いやもう、それってつまり、バレンタインデーに秋水に逢えるのは、都合が良い、と言ってると同じ意味なんだけど。
姉の頭は優秀さんのはずなのに、こんな単純なことに気がつかないなんて、なんかこう、もどかしい気分である。
「とにかく、バレンタインだからって秋水さんにチョコを渡す予定はありません。そんな間柄でもないんだし……それに、秋水さんに変な気を遣わせちゃうでしょ」
話は終わり、とでも言うように、律歌は前を向いて歩き始めた。
本気でチョコレートを渡さない気だろうか。せっかくのバレンタインデーなのに。
姉の拒否姿勢を、ぶー、と紗綾音は唇を尖らせつつ、姉の隣に並ぶようにして足を進め。
「えー、でも私、棟区くんにチョコあげるよ?」
「え?」
彼なら大して気にしないような気がするけれど、なんて思いながら軽く言った瞬間、今度は律歌が足を止めてぐるんと紗綾音の方へと向き合った。
おっと、ぶつかりそう。
歩き出しだが急ブレーキを掛け、姉への衝突を回避した紗綾音の両腕を、がしり、とすかさず姉が捕まえてきた。
おおっと、お顔が真っ赤っか。
「え!? ええ!? な、な、な、なんで!? どうして!? どうして秋水さんにチョコあげるの!? 紗綾音が!? 待って待って、どういうこと!?」
めっちゃ混乱していらっしゃる。
アンド、めっちゃ焦っていらっしゃる。
なんだなんだ。
姉に掴まれガクガク揺さぶられ、それでも紗綾音は思わず、きょとん、とした表情になってしまう。
「どういうことって、友チョコ」
「とっ!?」
「お友達へのチョコレート。棟区くん、お友達だし」
別に友達相手にチョコレートくらい普通でしょ。
そんな色が籠もった紗綾音の発言に、姉は目を見開いて動きが止まった。
ははーん?
揺さぶられるのが終わったくらいに、遅れて紗綾音は理解する。
「……あ、うん……と、友チョコ……友チョコね……」
す、と気不味そうに手を離し、目線を逸らしながら姉が乾いた笑いを漏らす。
うーん、もどかしい。
はよ告白しちゃえよ、と身も蓋もないことを紗綾音は内心で考えながら、改めてじっくりと姉を見下ろした。
「…………」
「な……なにかな紗綾音?」
「いやー……」
紗綾音は言葉を濁す。
チョコレートは渡さない。
都合良く秋水と逢えないから。
ふーん。
「……テコ入れ必要だよねぇ」
「おはよう棟区くん! 明後日のバレンタイン、私に時間ちょうだい!」
「おはようございます紗綾音さん。いやです」
「バレンタインに棟区くんとデートしたいのー!」
「いやです」
「チョコ用意してるから付き合ってー!」
「竜泉寺さーん、おたくのチワワがとんでもないこと吠え散らかしてまーす」
朝っぱらから爆弾の連続投擲に、教室にいたクラスメイトたちが騒然となった。
律歌さんのストレスやばそう( ´-ω-)
アナウンスをし忘れていましたが、この章は話の都合上、秋水くん以外の視点が多く入ります。
そうですね。地雷原の上をロードローラーで疾走する娘がおりますので。(不穏)