ウチの庭にダンジョンがあります   作:ShilonkS

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260『クラスの地雷原を疾走するロードローラー少女』

 秋水は、許してくれた。

 今まで仲間外れにしてごめんなさい。怯えてしまってごめんなさい。避けてしまってごめんなさい。

 それを謝ったとき、秋水はいとも簡単に許してくれた。

 こちらが拍子抜けするほど、簡単に。

 謝罪を承りました、と言って、何一つ文句や苦言を漏らすことなく。

 その、はずだ。

 なのにどうして、あのとき、あんなにも薄ら寒くて、分厚い壁を感じたのだろう。

 

「あんたら、誰一人として、許されてないくせにっ!!」

 

 それなのに、泣きそうなほど顔を歪ませて放たれた海霧の悲痛な叫びに、紗綾音は心臓を握りつぶされたような気分になってしまった。

 放課後の教室で、秋水への態度に我慢の限界だったのか海霧へ忠告してきた覚王山へ、ため込んできた怒りを爆発させるように切り返した海霧の怒声は、教室中に響き渡る。

 あんた、ではない。

 あんたら。

 覚王山へ向けているはずの怒りは、いつの間にか怒声が響き渡った範囲全体へと無差別に向けられていた。

 許されていないのは、覚王山だけではない。

 あんたら。

 クラスメイト、全員。

 その物言いに覚王山が目を丸くして言葉を失う。

 誰も反論できない重たい静寂の中、何故か思わず紗綾音は視線を下げてしまった。

 許されてない。

 そんなはずは、ない。

 だって。

 だって。

 だって。

 海霧を止めるより、覚王山を引き剥がすより、紗綾音は頭の中で反論を引き出そうとした。

 

「私も謝れ? どの口が! みんなが謝ったとき、あいつ、なんて言った!? 『謝罪を承る』だよっ!?」

 

 肩を抱き寄せていた蜜柑の手をぱしりと払い除け、海霧はまっすぐ覚王山を睨みながら、ゆっくりと立ち上がった。

 あ。

 マズい。

 止めなきゃ。

 それは分かっているはずなのに、何故か紗綾音は足が竦んでしまった。

 蜜柑も、美々も、ノンノも、チナも、いきなり全方位に向けてトゲを剥き出しにしてきた海霧に驚いたように言葉を失っている。

 沙夜は、驚いている感じはなかった。

 痛いところを突かれた、みたいな表情になっていた。

 

「受け取っただけじゃん! あいつ、『許します』って一言でも言ったっ!? 誰か言われた!? ねえ!?」

 

 悲痛な色すら滲んでいるその叫びが、再び紗綾音の胸を貫いた。

 覚王山へ向けているはずなのに、それはまるで自分を責めるように聞こえてしまい、思わず紗綾音は痛み始めてきた胸を押さえる。

 

「謝ったみんなを、あいつ許してないよ!? なのに、なんでみんな “許された側” みたいな顔で言うの!? おかしいよ! 誰も許されてないんだよっ!!」

 

 周りが息を飲んだ。

 そうだ。

 そうなのだ。

 

 

 

 棟区 秋水は、たぶん、誰も許してなど、いない。

 

 

 

 それくらい分かっていた。

 薄々、気がついていた。

 押さえた胸をぎゅっと握り、紗綾音は俯く。

 自分が謝ったとき、沙夜たちが謝ったとき、秋水は確かに謝罪を受け取った。

 

 受け取った、だけだった。

 

 淡々と、事務的に。

『謝罪を承りました』

 格好良い台詞だ。大人びた台詞だ。

 でも、その言葉の続きを、秋水が口にはしなかった続きを、紗綾音はなんとなく、理解している。

 

 

 

『……それで?』

 

 

 

 秋水は謝罪を受け取っている。

 だが、別に許しているわけではない。

 いいや、許すとか、許さないとかではない。

 沙夜の謝罪も、覚王山の謝罪も、美々の謝罪も、蜜柑の謝罪も、秋水は軽く受け止めた。

 すっと、しれっと、さらっと、なんでもないかのように、穏やかな口調で。

 

 なんだか、とても不思議そうに。

 

 それはきっと、通話越しで紗綾音が謝った日も、スマホの向こうで秋水は不思議そうに首を捻っていたのかもしれない。

 なんで謝っているんだろう。

 こいつはなにを言っているんだろう。

 とりあえず、返事はしておくか。

 それくらいの感覚で。

 彼は謝罪を承ったのだ。

 承った、だけなのだ。

 

 

 

「あいつ、みんなが謝った前と後で、なにも変わってないんだよ!? ずっとずっと、みんなのこと迷惑そうにしてるんだよ!? それ分かってる!? ちゃんと分かってる!? なんで分からないの!?」

 

 

 

 エグる。

 海霧の叫びが凶器となって、紗綾音が一生懸命になって見ないようにしてきた現実をエグりとる。

 息を飲むのが聞こえた。

 沙夜か、覚王山か。

 たぶん、気がついたのかもしれない。

 自分たちは秋水に対して大きく態度を変えた。

 

 でも、秋水が自分たちに対する態度は、何一つとして変わってなどいないのだ。

 

 紗綾音はなにも言えずに唇を噛む。

 分かってた。

 理解していた。

 かつて紗綾音は、秋水が日常で行っている行動をハッキリと評価したことがある。

 

『棟区くんはさ、いっつも、すっごい皆に気を遣ってるよね』

『立ったり座ったりするときとか、いつもゆっくりじゃん』

『ドア開けるときもゆっくりじゃん』

『足音も小さくしてさ』

『言葉遣いだって丁寧さんだし、挨拶は欠かさないし』

『皆がビビっちゃわないように、すっごい気を遣ってくれてるよね』

 

 それは、今でも変わらない。

 彼は、今でも常に周りに気を遣っている。

 立つときも、座るときも、ドアを開けるときも、ゆっくりだ。

 足音も常に忍ばせ、あの巨体で気配をなるべく消そうとしている。

 言葉遣いは変わらず丁寧で、常に敬語で、教師と喋るときとクラスメイトと喋るときで喋り方に差異はない。

 秋水は、変わっていないのだ。

 誰が謝罪しようと。

 誰が友好的に接しようと。

 怯えられて避けられていたときから、秋水は、変わっていない。

 

「謝ったら勝手に許されて、仲良しこよしになれたつもり!? あいつが許したかどうか確認もしてないのに!?」

 

 しん、と静まりかえってしまっていた教室に、海霧の怒りが轟く。

 放課後になっても未だに帰らず、教室に残っていた他のクラスメイトすら、海霧の怒鳴り声に黙ってしまっていた。

 黙らざるを得なかった。

 海霧のそれは、ただの怒りではない。

 誰にも理解されないまま友達の自己欺瞞を直視し続けて、限界まで張り詰めていた心が千切れるような、悲痛な叫びだった。

 

「そんなことも分からないくせに、あいつのこと大して見ようともしてないくせに、なんであいつがイイヤツなんて言えるの!?」

 

「それは……」

 

「喋り方が丁寧だからってなに!? 詐欺師だって喋り方は丁寧じゃん! 学年主席様だからってなに!? ヤクザだって頭の良いインテリいるじゃん! 穏やかそうだからってなに!? 本当に穏やかな人かどうかは別問題じゃん!」

 

「――っ」

 

 全方位に機関銃を乱射しているが、その銃口を一番に向けられている覚王山が反論をしようと口を開き掛けたが、一瞬で潰された。

 ぐうの音も出ない正論。

 そして、海霧が乱射している正論の弾丸は、全弾が紗綾音にも直撃している。

 喋り方が丁寧で、学年主席で、穏やかそうで。

 それらの評価は、クラスメイトを秋水と繋げようとしたときに、紗綾音が盾として使っていた言葉であった。

 ああ、つまり。

 海霧は覚王山を責め立てていると同時に。

 

 秋水に手の平を返した全ての人を、責めている。

 

 ぐ、と紗綾音は奥歯を噛み、覚悟を決めて顔を上げる。

 海霧はハッキリと、紗綾音を睨み付けていた。

 

「イイヤツって、紗綾音が言ってるだけだよ!?」

 

「!?」

 

 明確な怒りを、向けられた。

 それはたぶん、今まで必死に押し殺していた本音なのかもしれない。

 押し殺して、抑圧して、抱え込んで、友達という関係を壊さないために海霧の内に秘め続けていた本心。

 

『私は、良い奴っていうのが、どういう意味か、よく分かんない……』

 

 かつて雑談に興じていたとき、海霧が言った言葉が紗綾音の耳に蘇る。

 そのときも、紗綾音は言葉に詰まってしまった。

 図星を指され、なにも言えなかった。

 最後の最後で、秋水のことをフォローしきれなかった。

 秋水は良い奴だ。

 善い奴なのだ。

 

 その言葉が空っぽの虚勢であることくらい、紗綾音だって、今でなお自覚していることだった。

 

 あのとき、海霧はすぐにグループの雰囲気が微妙な感じになっていたのを察し、すぐに謝って話題を変えた。

 でも、そのときにはもう、海霧は内心でずっと怒っていたのだろう。

 紗綾音に。

 いや。

 秋水と仲良くなれてきたと思っていた、全てに。

 ただ、今までそれを、我慢し続けてくれていただけである。

 

「それで昔の噂が否定されてない! 補導されたのは本当のことなんだよ!?」

 

 痛いところを突かれたように沙夜が表情を強張らせた。

 それでも必死に秋水を庇おうと、彼女は言葉を絞り出し。

 

「いや、それはあいつ、ジムに行ってて……」

 

「それ、誰が言ったか覚えてる!? 補導されてるあいつ自身だよ!? ジムに行こうとしてたって、あいつが言ってるだけだよ!? 誰かちゃんと確認した!? 嘘かもしれないじゃん! なんで疑わないの!? 疑わないことと信じることは別なんだよ!?」

 

「う……」

 

 秋水のことをフォローしようとした沙夜は、倍以上で叩き返された正論にたじろいだ。

 そうだ。

 確かにそうだ。

 秋水が未明に出歩いて補導された理由は、秋水の自己申告だけしか知らない。

 ぎろり、と海霧は周りを睨む。

 覚王山だけではない。周り全員だ。

 

「みんなしっかりして! 目を覚ましてよ! 誰かがイイヤツって言ってるから、周りがイイヤツだって言ってるから、だからあいつがイイヤツって考え方、おかしいよ!? 周りに流されてるだけなんだよ!?」

 

 涙を滲ませてまで、怒鳴られた。

 胸が痛い。

 言葉が出ない。

 紗綾音も立ち上がったまま、その言葉を無言で受け止める。

 

「ちゃんと向き合ってよ! あいつを見ようよ! みんな、なんで見ないの!?」

 

 誰も喋れない教室の中、海霧が叫ぶ。

 秋水と向き合ってみろと言われた海霧が、みんなに向かって同じ言葉を返してくる。

 謝っただけで、誰も秋水と向き合っていないだろうと。

 誰も秋水のことを見てないだろと。

 

 

 

「あいつ、“マトモ” に見えないよっ!!」

 

 

 

 一際の大声で言い切って、海霧が肩で息をする。

 誰も彼もが黙ってしまう。

 秋水の見た目がマトモでないことくらい、全員が承知の上である。

 大きな背丈。

 分厚い筋肉。

 凶悪な面構え。

 それを承知で、仲良くなろうと努力をしていた、はずである。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 海霧の荒い息が耳につく。

 全てを出し切っただろうか。

 

「――――あ……」

 

 そして、ふと、海霧の表情が変わる。

 我に返ったというか、正気に戻ったというか。

 それから海霧は、ゆっくりと周りを、教室全体を見渡した。

 残っているクラスメイトは半分くらいだろうか。

 全員が全員、こちらを見ている。

 真正面から言われた覚王山は、なにも言い返せずに悔しそうに表情を歪ませていた。

 沙夜は、苦虫を噛み潰したかのような渋い表情のまま沈黙していた。

 蜜柑とノンノとチナは、顔を真っ青にして俯いている。

 海霧の苦言に、思い当たる節があるのだろうか。

 さ、と海霧の顔が青くなった。

 やってしまった、という表情。

 言ってしまった、という後悔の表情。

 その表情のまま、海霧が紗綾音の顔を見る。

 紗綾音はまっすぐに海霧の目を見返した。

 自分は今、どんな表情をしているだろうか。

 

「ご……ごめ、ん……」

 

 怒りを爆発させた側の海霧の方が、気不味そうに顔を蒼白にさせていた。

 再び海霧は周りを見る。

 真っ青な顔で。

 ああ。

 言うつもりがなかったんだろう。

 ずっと我慢して、抱え込むつもりの言葉だったんだろう。

 それを、口に出してしまった。

 出させてしまった。

 

 海霧をここまで1人で追い詰め、こんな悲痛な叫びを上げさせてしまった。

 

 周りが秋水を受け入れようとしている中、ずっと拒絶し続けている海霧には相当なストレスがかかっているのだろうと、ずっと思っていた。

 でも、こんなに怒りを爆発させるほどのストレスだとまでは、思ってなかった。

 こんなものを、海霧1人に抱え込ませてしまった。

 そうか。

 

 

 

 海霧はずっと、秋水と打ち解けようとするクラスメイトを、「仲良しごっこ」の欺瞞だと捉え続けていたんだな。

 

 

 

 だとすれば、謝らなければいけないのは、自分だ。

 痛いところを突かれちゃった。

 ずっと抱え込ませてゴメン。

 1人で悩ませてゴメン。

 棟区君のことよく見てて、ジリちゃんは凄いね。

 だから、そんなに怯えた顔をしないで。

 ぐ、と紗綾音は再び奥歯を噛んだ。

 

「……ジリちゃん」

 

 ひねり出せた呼びかけは、ビックリするほど明るくなかった。

 びくっ、と海霧の肩が大きく震える。

 ああ、イヤだな。怯えさせちゃった。

 

「……っ!」

 

 そして海霧は、紗綾音の顔を見るより早く、鞄をひったくるように手にして席から立ち上がる。

 

「あ」

 

 上手く言葉が出ない紗綾音が呼びかける前に、海霧はそのまま走り出してしまった。

 走って、逃げる。

 教室のドアまで、走って。

 追いかけなきゃ。

 そう思っても、何故か足が重い。

 紗綾音は中途半端に海霧に向かって手を伸ばしている間にも、海霧は教室のドアをがらりと開けて。

 

 

 

 秋水が、そこにいた。

 

 

 

「ひっ!?」

 

 短く、鋭い、悲鳴。

 ドアを開けたその目の前に、棟区 秋水が立っていた。

 190cmに迫る巨体に、鍛え上げられた分厚い筋肉と、短く刈り上げられた髪に睨み下ろすような三白眼。

 人を十人単位で殺してそうな怖い顔をした男が、海霧の前にいた。

 その短い悲鳴は、本気の悲鳴だった。

 それは彼女が、本気で秋水に怯えているのを如実に示すような悲鳴だった。

 ドアを開けた目の前に秋水がいて、怯んだ海霧の足が止まる。

 追うか。

 引き止めるか。

 それとも。

 紗綾音が一瞬迷う。

 

「――邪魔っ!」

 

「申し訳ありません」

 

 迷っているその間に、海霧は震えながらも刺々しく短い言葉を秋水に叩き付ける。

 かなり理不尽な八つ当たりにだというのに、秋水は承知していたかのように、す、と半歩下がって道を開けた。

 あ。

 これは、聞かれてた、な。

 紗綾音は秋水のその動きだけで、海霧が感情を爆発させた叫びを、ドア越しに秋水が聞いてしまったことを察してしまう。

 道を空けた秋水をさらに押し退けるようにして、海霧は教室を飛び出した。

 脱兎の如く。

 言いたくても口にはできなかったことを全て出し切ってしまい、海霧は逃げてしまった。

 その海霧の背中を見送るように、秋水は海霧が走り去った方へと顔を向けてから、ゆっくりと教室の中へと視線を戻す。

 鋭い目つき。

 大柄な男。

 圧倒的な威圧感。

 

 海霧の言う通り、見た目だけなら秋水は “マトモ” ではない。

 

 教室の中は未だに沈黙している。

 そして誰もが、秋水から目を逸らしていた。

 沙夜は悔しそうに項垂れているし、蜜柑も青い顔のまま俯いているし、覚王山すらなにも言えずにいる。

 

 秋水は、誰も許していない。

 

 それを無視して、勝手に謝って勝手に許された気になって、そして勝手に距離を詰めようとしていたことを、海霧は真実として突き付けてきた。

 誰もそれを、否定ができなかった。

 誰も。

 紗綾音ですら。

 

「失礼します」

 

 いつもと変わらぬ調子で一礼してから、秋水は教室に足を踏み入れた。

 それは去年までと変わらず、今年に入ってからと変わらず、みんなが秋水に謝ってからと変わらず、淡々としたいつもの感じ。

 秋水は、なにも変わっていない。

 みんなの謝罪は受け取っただけで、秋水はなにも許しておらず、なに1つとして態度を変えていないのだ。

 常に礼儀正しく、穏やかで、誰に対しても敬語で接し続けている。

 分厚い心理的な距離を、ずっととり続けている。

 誰もが秋水を避けようと、友達面して近づこうと、海霧がクラス中を非難して教室の空気が死んでいようと、秋水からすれば、全て同じなのだろう。

 教室に入り、ゆっくりとした足取りで秋水は自分の席へと歩く。

 話しかけなければ、秋水は自分からは誰にも喋りかけない。

 秋水がクラスメイトと喋るのは基本、話しかけられたから、でしかない。

 故に、教室が沈黙していれば、秋水は自動的に沈黙する。

 その一貫し続けていた態度を改めて見せつけられて、海霧の言っていたことは正しいのではないか、という気がしてきた。

 

 秋水は、見た目が怖い。

 

 声が怖い。

 

 威圧感がある。

 

 マトモに見えない。

 

 そして、警察に補導されているという事実。

 

 

 

 彼は本当に、イイヤツなのだろうか。

 

 

 

 そんな疑念が、教室にわき上がってきているのを、肌で感じてしまう。

 重たい空気に、疑惑の視線。

 そんな中でも秋水は、変わることなく他者を怯えさせないようにゆったりした動きで、自分の席に掛かったカバンを手に取って。

 

 

 

 パンッ、と紗綾音は自分の頬を両手で強く叩いた。

 

 

 

「――違うんだよ、ジリちゃん」

 

 乾いた音を教室に響かせてから、紗綾音は自分へ言い聞かせるように呟いた。

 いきなり自分の頬を平手で叩いた音に、周りが驚いたように目を向ける。

 秋水ですら、なにしてんだ、とばかりに目を丸くして紗綾音を見た。

 紗綾音は少し涙目だ。

 ちょっと強く叩きすぎた。

 痛いの。

 

「……棟区くんっ!」

 

「はい」

 

 物理で頬を赤くしながら紗綾音は顔を上げて秋水を呼ぶ。

 いつもと変わらぬ低い声。

 心臓がぎゅっと握られるような怖い声。

 でも、落ち着き払った、短い返事。

 変わらぬ秋水。

 謝罪を入れる前と後で、秋水はなにも変わっていない。

 それは、誰も許してなどいないからか。

 

 違う。

 

 違うんだよ。

 

 彼は確かに誰も許していないけれど、それは怒っているという意味じゃないんだよ。

 だって、秋水が謝罪を受け取るとき、常に不思議そうな顔をしていたんだよ。

 

 黒い噂のことを疑っていたと沙夜が謝っても。

『仕方のないことだと思います』

 覚王山が自分も謝っていなかったと頭を下げても。

『そんなに気になさらずとも』

 顔が怖いから警戒してたと美々が本音を言っても。

『今まで怖がらせてしまい、申し訳なかったです』

 蜜柑が絶対無理だと思ってたと漏らしても。

『それが普通の感性ですよ』

 

 自分が今まで避けられ続けていたことを、クラスメイトの誰も悪いと思っていなかったんだよ。

 ずっとずっと、自分が悪いんだと、思っていたんだよ。

 だから、許してないんだよ。

 許せないような仕打ちを受けてきたと、彼は最初から思っていなかったんだから。

 それは悲しくて。

 なんだか、悔しい。

 紗綾音はまっすぐに秋水を見る。

 見た目は確かに、怖いけど。

 

「明日のデート、忘れちゃヤだからね!」

 

 自分は今、明るい声を出せているだろうか。

 いつものように笑えているだろうか。

 いつものスタンスを崩さない、というのは、こんなにも難しい。

 秋水の表情に、なに言ってんだろうなぁ、というような呆れた色がほんのり滲む。

 最近は、秋水の表情変化が分かるようになってきたと思う。

 

「デートではなく、律歌さんの用事ですよ」

 

「つまりデートなんだよ!」

 

「違います」

 

 いつものような穏やかな口調の、地響きのような超低音ヴォイス。

 いつものような、切り返し。

 教室の空気が死んでいようと、にぱ、と紗綾音は笑顔を浮かべた。

 

 ジリちゃん。

 ジリちゃんや。

 彼のことは確かになにも知らないけれど、空っぽの虚勢であることは間違いないけれど。

 

 

 

 それでも、この1ヶ月を振り返れば、秋水はイイヤツなのだと、私は思うよ。

 

 

 





・秋水くんは間違いなくお巡りさんに補導されている。
・当然のように深夜に出歩いている。
・「ジムに行こうとしていた」は秋水くん自身の発言。しかも、実際に嘘である。
・ダンジョンでは笑顔でモンスターをぶち殺している。
・野生のヒグマ2体分くらいの戦闘力があるボスコボルトを3体相手にして、五体満足のまま殺し返せる戦闘力がある。
・日本政府を交渉の場で捻り潰した叔母がバックにいる。
・その叔母を影から操ったらしい怪物弁護士とも知り合い。
・どこから入手したか不明な貴金属を秘密裏に売り捌いている。
・刃物や工具やバイク用品など、生活に必要なさそうなものに対して金遣いが非常に荒い。
・体がデカい。
・威圧感がヤバい。
・顔が怖い。
・声が怖い。
・目つきが悪い。

 ……うん、ジリちゃんじゃなくても普通は近づきたくないね!
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