「おはようバラちゃん。何か雰囲気悪いねー。喧嘩?」
喧嘩じゃありません。やめてください。喧嘩だとしたら確実に自分が加害者側だと決めつけられてしまう、と秋水はぎょっとしたように紗綾音の方を見る。
沙夜と覚王山が意味不明な謝罪を行うという地獄のような教室に現れた紗綾音は、ドアの近くにいた女子生徒へ不思議そうに、そして脳天気そうに尋ねていた。
その紗綾音の制服の裾を掴んで不安そうにしていた須々木 海霧は、秋水が顔を向けた途端、びくり、と大きく肩を震わせる。
ヤバい、怯えさせた。
「いや、あの、喧嘩じゃないけど、その……」
ついでに紗綾音が話しかけた女子生徒が、ちらり、と秋水の方を見て紗綾音に説明しようとしてくれたが、その秋水が自分の方を見ていることに気がついたのか、そちらもまた体を震わせて口籠もってしまった。
なるほど、悪循環。
なるべく無害で大人しくいるから、静かに本を読ませてくれ。
秋水は軽く絶望した。
そんな空気の中、紗綾音は特に気にすることなく、ずかずかと教室の中に入っていく。
入っていく、というか、一直線に秋水のところまで歩いてくる。
おい、こっち来んな。
「へーい、棟区くんおはよー!」
しかもブンブンとわざわざ大きく手を振りながら近づいてくる。
さりげなく逃げようにも、秋水は席に座っており、目の前には悲痛な表情を浮かべている沙夜と、焦っている感じの覚王山に塞がれ、後ろには日比野だ。
しまった、囲まれている。
コボルト相手には常に1対1で立ち回るよう、ヒット&アウェイを心がけていたというのに、同じく1対3で人間相手に囲まれているじゃないか。
囲まれて一方的に叩かれるのを恐れていたからこそ、足を使って逃げ回っていたのである。
なるほど、ヒット&アウェイの戦法は正しかったようだ。
逃げ場がなく、目の前から脅威が迫ってくるのを、ただ指をくわえて見ていることしかできない恐怖がこれ程のものだとは。
自身の逃げ場がないのを悟り、迫ってくるチワワを見て、秋水はコボルト戦でこれと同じような状況に陥らないことが大切なのだと深い学びを得た。
なお、学びを得たところで事態は好転しない。現実は非情である。
「……っ」
迫り来る厄介事(チワワ)に秋水が悲壮な覚悟を決めながら待ち構えると、その紗綾音の制服の裾を握っていた海霧が、ぐっ、と奥歯を噛むようにして表情を強張らせた。
こちらに来たくないのだろうか。分かる。
しかし、海霧の目は死んでいない。
拒絶の色が混じった、明確な敵意に満ちている。
もしかしたら殺意に近いのかもしれない。
ダンジョンの外でモンスター以外から、そのような害意を向けられることに、秋水は安心感を抱いてしまう。
現状において、癒やしとなるのは海霧だけのようだ。
その海霧は、ぱっと紗綾音の制服の裾から手を離した。
そして、紗綾音の前に出る。
ずんずんと歩いてくる紗綾音を、たたた、と小走りで追い越して、秋水の方へと。
いや、覚王山の方へと駆け寄ってきて。
「昨日は、ごめんなさい!」
覚王山の前に来た海霧が、勢いよく覚王山へと頭を下げた。
もうヤだ。なにこの謝罪天国。いや地獄か。
沙夜が謝ってきて覚王山も謝ってきて、海霧は覚王山に謝っていく。余所でやってくれないだろうか。
目立つなー、ヤだなー、と思っている秋水を余所に、海霧に頭を下げられた覚王山は、一瞬だけぽかんとした表情になった。
しかし、すぐにバツの悪そうな顔をする。
「いや、昨日は俺の方こそ無神経なこと――」
「あれは私の本心だから! でも、すごい嫌な言い方しちゃったのはごめんなさい!」
「いや言わせろよお前。てか、え、それ謝って――」
「棟区のやつと仲良くするのは無理!」
「本人目の前にして言い切りやがったぞこの女!?」
覚王山に頭を下げて謝罪していると思ったら、急に秋水へと矛先が向いてきて、今度は秋水がきょとんとする番である。
まあ、海霧の性格を考えたら、ですよね、という感じだ。
そもそもデカい・分厚い・怖い・怖い・怖い、というバグみたいな糞野郎と仲良くしたくないと思うのは、至極当然の反応である。
わざわざ声を大にして宣言することでもないと思うのだが。
秋水は少し戸惑いながらも、安定した海霧の拒絶に、やはり安心感を覚えてしまう。
ただ、海霧のその発言に、覚王山は目を白黒させつつ、こちらの反応を窺うように秋水の顔をチラリと見る。なんなら、沙夜と日比野も秋水の反応を見るように視線を飛ばしてきていた。
ああ、話の矛先が向いたから、リアクションを求められているのか。
同年代とのコミュニケーションは面倒だな、と頭の片隅で思いつつ、秋水は口を開きかけた。
しかし、秋水が言葉を発するよりも早く、海霧はがばりと頭を上げ、そして覚王山を思い切り指さした。
「あと、紗綾音に色目使うなっ!」
「え?」
「え?」
「え?」
「え?」
いきなり話題が変わった。
突然の指摘に、覚王山と日比野、そして沙夜が、きょとん、として全く同じ疑問符を口から漏らす。
ついでに、近くまで辿り着いた紗綾音もまた、急に自分の名前が挙がったことに目を点にしていた。
海霧は情緒不安定な日なのだろうか。妹もたまに言動が支離滅裂になる情緒不安定なときがあった経験のある秋水は、さすがに人を指さすのは良くないなー、と他人事かのように考えていた。
「いや、え、色目って、んなことは――」
「それから沙夜!」
「人の話聞かねぇとかなんだコイツ!?」
ワンテンポ遅れて正気に戻った覚王山が海霧の言葉を否定しようとした時点で、海霧は沙夜へと向き直っており、覚王山のことをガン無視していた。
なお、秋水からすれば覚王山の頭には発言のブーメランが突き刺さっているようにしか見えない。
「昨日は八つ当たりで酷いこと言って、ごめんなさいっ!」
「え、あ、はい」
「でも確認してないから確認するねっ!」
「は?」
海霧は勢いよく沙夜に向かって頭を下げ、呆気にとられている沙夜を置き去りにするように再び頭を上げ、そして今度は秋水へと顔を向けてきた。
眼光が鋭い。
その気迫に、秋水は思わず椅子の上で上体を軽く仰け反らせてしまった。
なんだろう、今日の海霧は異様に迫力がある。
「棟区、あんた嫌いっ!!」
「ジリちゃん!? ちょっと!? 打ち合わせ無視無視無視ってなに言っちゃってるのかな!?」
びしりと秋水を指さして拒絶宣言してきた海霧に、慌てたのは何故か紗綾音であった。
打ち合わせって、事前になにを共謀していたのだろうか。
逃げも隠れもせず、真正面から嫌悪を表明してきた海霧に感心しつつ、秋水は紗綾音に向けてじとりと視線を送った。
なんだか海霧がハチャメチャに面白い人になっているのだが、これは紗綾音のせいかもしれない。
「おおっと、棟区くんから疑いの目!」
「あんたが警察に補導されたの、ジムに行こうとしてって理由は嘘だよね!?」
「うわぁん! ジリちゃんが暴走してるー!?」
秋水に人差し指を向けながら急に問い詰めてきた海霧に、紗綾音はその制服の裾をグイグイと引っ張って止めようとする。
すげぇ、チワワがストッパー役に回ってる。
秋水は一瞬だけ本日の海霧のテンションに驚きかけたものの、その質問内容を理解した瞬間、う、と言葉を詰まらせてしまった。
「いやお前、その話蒸し返すのは――」
「大事でしょ!? こいつが補導されてるのは本当だもん!」
「そりゃそうだけど、なにもそういう聞きか――」
「あとで先生にも確認するし! でも、こいつの口からちゃんと聞き出して、嘘か本当か確かめるべきでしょ!」
「おい何があったんだよ紗綾音! なんか今日の須々木ヤベェぞ!?」
「私の紗綾音に色目向けんなっ!!」
カオスである。
覚王山が明らかにテンションのおかしい海霧を指さして紗綾音に尋ねると、紗綾音の方を向いた覚王山に対して、がぁ、と海霧が威嚇するように牙を剥いた。
なんだこれ。
ではなく。
警察に補導された件。
それはたぶん、学年末試験直前にあった、未明にお巡りさんに見つかった件のことだろう。
お巡りさんに見つかって補導された理由は、深夜の3時にジムに行こうとして、それが深夜徘徊として補導されたのだ。
学校にはそう説明されている。
鎬にもそう説明されている。
祈織にもそう釈明した。
だがこれ、嘘なのである。
秋水はじんわりと背中に冷や汗が浮き上がるのを自覚する。
ヤバい。
海霧は嘘だという前提で問い詰めてきた。
どこでバレたというのか。
ジムの入出管理でも見たのだろうか。
あれって一般人が簡単に閲覧はできないと思うのだけど。
秋水の目が泳ぐ。
「お、おい海霧、ちょっと落ち着いて――」
「大丈夫だよ沙夜、これからは沙夜と一緒に紗綾音を護るからね!」
「おい紗綾音! あんた海霧になんかヤバいもん食わせただろ!?」
「予想外の誤解なんだよ!?」
静止に対して謎の仲間意識を返された瞬間、沙夜は即座に紗綾音へと疑いの目を向けた。沙夜の目からしても、本日の海霧は異常なようだ。
違う違う、と否定するように紗綾音が慌てて首を横に振る。
そのコントを見ながら、秋水は恐る恐る発言許可を求めるようにゆっくりと右手を挙げた。
「はい、被告人どうぞ!」
「ここって裁判所だったんだ……」
秋水が手を上げたのを見逃さなかった海霧は、腕を組みながら堂々と秋水に発言を求めた。
ぼそりと日比野が入れたツッコミが、不思議と教室に良く響いた。
「あの、補導の件なのですが……」
「嘘だったんだよね!?」
「えっと……はい、嘘です」
なにか言い訳でもしようとした秋水であったが、海霧からの圧力が強く、簡単に白状してしまった。
秋水のその一言で、教室がざわりとしてしまう。
怒濤の勢いで話を進めていく海霧に目を白黒させていた紗綾音や沙夜、日比野に覚王山の4人もまた、秋水の告白に、え、と表情を強張らせたのが分かる。
嘘というのは、バレたときのダメージがデカい。
秋水は挙げていた右手をゆっくりと下ろしながら、少し小さくなってしまう。
しかし、海霧の追及は止まらなかった。
「ほら嘘じゃん! 本当はなんで補導されたの!?」
「すみません、ジムに行こうとしていたのではなく、ジム帰りに補導されました……」
「ほらもっと酷いじゃん!」
「いやちょっと待って、もっと酷い以前の問題が聞こえちゃったんだけど」
秋水の嘘を鋭く批難してくる海霧を押しとどめるように、後ろで日比野が頭を抱えているのが分かる。
紗綾音と沙夜、そして覚王山は、秋水の言葉の意味が飲み込めなかったのか、少し戸惑った様子だ。
なお、実際に秋水がお巡りさんに捕まったのは、ジム帰りである。
ジムに行くとき、ではない。
ジムで筋トレをして汗を流し、すっきり爽快な気分でダンジョンに帰ろうとしているときに、お巡りさんに見つかってしまったのである。
なんてツいてない。
ではなく。
何故バレた。お巡りさんだって勝手に勘違いをして、記録上はジムに行こうとして深夜徘徊、となっているはずなのに。
海霧の調査能力に秋水は戦々恐々としつつ、秋水はさらにデカい体を小さくしてしまう。
なお、海霧は真実を知っているわけではなく、決めつけで問い詰めているだけである。
「え、棟区さん、ジム帰りだったの?」
「はい、すみません……出来心の嘘でした……」
「てことは、午前3時より前にジムに行ってて……棟区さん、ちなみにトレーニング時間は?」
「に……2時間ほど……」
海霧に代わって問い詰めてくる背後の日比野に目を向けられず、秋水は視線を泳がせながら言い訳をする。
ちなみに、これは嘘ではない。
あの日のトレーニング時間は2時間弱といったくらいだった。
その前に、美寧の筋トレを見ている時間はあったが、自分の筋トレ時間は2時間くらいなのだ。嘘ではない。
心の中で言い訳していると、ようやく意味が飲み込めたのか、紗綾音たちが白い目を秋水に向けてきた。
「生活リズムむちゃくちゃなんだよ……」
「なんつう子どもみたいな嘘を……」
「棟区、お前結構バカなんだな」
紗綾音、沙夜、覚王山からボロボロに言われ、秋水はさらにしゅんと縮こまる。
そんな秋水を、海霧はじとりとした視線で睨み付けた。
しばらく睨んだ後、うん、と海霧は腕を組んで大きく頷く。
「――よし、本当っぽい」
「なにお前、探偵かなんかなの?」
「ほら沙夜、こいつが補導されてた理由、違ったよ!」
覚王山は半眼になりながらツッコミを入れるが、海霧は軽くスルーして沙夜に向き直った。
見られた側である沙夜は戸惑ったように、えーっと、と口籠もる。ついぞ先程まで秋水に頭を下げ、浮かべていた悲痛な表情はすでにない。
紗綾音ではなく、海霧が場の空気を一変させてしまった。めちゃくちゃ助かる。
「いや、確かに違ったけど、もっとアホみたいな理由になったというか……」
困り顔になりながら戸惑っている沙夜の言葉が、ぐさりと秋水の胸に突き刺さる。
アホみたいな理由で申し訳ない。
「あと棟区!」
「はい」
再び海霧に睨まれ、秋水は思わず背筋を伸ばす。
「今まで避けてたのは、正直ごめんなさい」
そして、流れるように海霧が頭を下げた。
はて。
海霧もまた、よく分からない謝罪のビッグウェーブに乗るつもりだろうか。
正直、海霧はこのままの姿勢を貫いてくれると助かるのだが。
とりあえず返事だけはしておくか、と秋水は口を開きかけたところで、すぐに海霧が頭を上げた。
「でも無理!」
「え?」
「あんた怖いし……すごい怖いし! だから近寄りたくないし話しかけたくないし、これから先も正直無理だと思う! ごめん!」
これは謝っているのだろうか。
思い切り睨まれながら放たれた謝罪だかなんだかに、秋水は一瞬だけ呆気にとられてしまう。
ああ、なるほど。
理解が遅れて追いついて、秋水は思わず一人で頷いた。
海霧が謝っているのは、「これから先」の話のようだ。
沙夜や覚王山のように、はたまた以前雪崩を打つように口々に謝ってきていたクラスメイトたちのように、「今まで」という意味不明な謝罪文句ではない。
やはり、海霧は良い人だ。
無理な相手に無理と言う。
仲良くしようとかいう頭のおかしな同調圧力に屈せず、拒絶するべき相手をちゃんと拒絶する。
凄いことだ。
海霧に感心するように頷いてから、秋水は海霧に向けてそのまま軽く頭を下げた。
「いえ、むしろ私が怖がらせてしまい、申し訳ありません」
「分かればよしっ!」
「ねぇ紗綾音、あんた本当に海霧になに食わせた? 今までないくらい海霧の情緒が酷いことになってんだけど? 結構な覚悟決めてこっちは謝ってたんだからなお前?」
「知らないんだよ誤解なんだよ冤罪なんだよ。今日はみんなにごめんねしようって言ってたときは普通だったもん……」
海霧の後ろで沙夜に問い詰められているチワワが、ぶんぶん、と大きく首を振っている。
どうした、今日は大人しいじゃないか。
「これからも、私はあんたを避けるから、そこはよろしくお願いします」
「はい、承りました。これからも可能な限り、須々木さんとは距離を取るよう心がけます」
自分のような奴を避けるのは、普通のことだ。
野生の毒蛇が出てきたら距離を取るのは、正常な反応なのだ。それと同じである。
わざわざそれを宣言しておくとか、海霧には随分気を遣わせているようだ。
良い人だなぁ、と改めて感じつつ、秋水は胸に手を当てつつ、海霧に約束を取りつける。
しかし、海霧はそんな秋水をじとりと睨んだ。
「いや、棟区は紗綾音と距離を取れ」
「え?」
「え?」
秋水と紗綾音の口から、ほとんど同時に疑問符が漏れてしまった。
いや、そこにいるチワワと距離を取るのは、そりゃあ秋水としても大賛成であるし、常々距離を離したいとは思っているのだが。
「私の紗綾音にいつもベタベタして! それで紗綾音に何かあったらどう責任とるの!」
「いえ、あの……私が紗綾音さんにベタベタしたことは一度も……」
「膝の上に乗せてたりしたじゃん!」
「それは紗綾音さんが勝手に乗ったと言いますか……」
「紗綾音の髪触るじゃん!」
「それはその……も、申し訳ありません……」
「それと棟区、あんたいつから紗綾音のこと下の名前で呼ぶようになったの!?」
「えっと、それは律歌さんと区別をするため……」
「だったら紗綾音のお姉さんだけ名前で呼べばいいでしょ! いやらしい!!」
「も、申し訳ありません……」
「私の目の黒いうちは、私の紗綾音を誑かすのは絶対に赦さないからねっ!」
「は、はい、かしこまりました……」
どうしよう、申し開きを全く受け付けてくれない。
秋水から紗綾音に迫っているかのような酷い誤解を受けてしまっているようだ。まさに冤罪100%。
腰に手を当てて、ガミガミとあらぬ注意を受けながら、秋水は海霧に気圧されるように段々と体を縮こまらせる。
凄い気迫だ。
ダンジョンのモンスターより怖ぇ。
とりあえず下手なことを言って海霧を刺激しないよう、秋水は頭を下げて海霧の言葉を素直に聞いて。
「ぴとりんこ」
クソ馬鹿チワワが、空気も読まずに抱きついてきやがった。
しかも、にんまりと笑っていやがる。
「ぬあああああっ!? 私の紗綾音になにする気!? 離れろっ! 離れろっ!」
直後、海霧が発狂した。なんなの。
いきなり近寄って、ぺたりとくっ付いてきた紗綾音を引き剥がそうとしてくれるのか、秋水と紗綾音の間に両腕をずぼりとねじ込ませ、思い切り引っ張ってくれた。
秋水の方を。
違う違う。
逆です逆です。
引き剥がすのはチワワの方です。
「誤解です。よく見てください。紗綾音さんが勝手に抱きついてきているだけです」
「気安く下の名前で呼ぶんじゃない!」
「おおぅ……」
引き剥がすというよりも、秋水を押し退けようとぐいぐいプッシュしまくる海霧を落ち着かせようと声を掛けたら、一喝されてしまった。理不尽。
いや、冷静に考えて、100㎏を軽く超える座ったデカブツ野郎を押すよりも、半分以下の質量しかない紗綾音を引っ張った方が絶対に楽なはずだ。
この引っ付きチワワを引き剥がしてくれようとしてくれるのは嬉しいのだけれど、力を加える方向がどう考えても逆なのだ。
海霧には是非とも冷静になってほしい。
そして手早くこの子犬を引き剥がして欲しい。
「いやー、今日のジリちゃん面白いことになってるー」
「笑ってる場合じゃありません。紗綾音さん、離れてください」
「んにー、棟区くーん」
秋水に抱きつきながらも、にま、と紗綾音が笑顔を浮かべた。沙夜のようにアイアンクロー入れたろうか。
「今まで改めてごめんね。これからは、もっと仲良くなりたいな」
「いやです。離れてください。須々木さんが凄い形相になってらっしゃいます」
そして、紗綾音から秋水を押し退けようと半狂乱になっている海霧を思い切りスルーして、紗綾音が意味分からんことを笑顔で告げる。
いや、よく見ろ、海霧が血管切れそうなくらい凄い表情じゃないか。まずは止めろよチワワ。いや先に退けよチワワ。
「はーなーれーろーっ!」
「……なにこの状況?」
「俺に聞くなよ。おい、昨日教室でブチキレてたのとコレって同一人物か?」
「僕に聞かないでよ。あーもー、教室の雰囲気ぐちゃぐちゃだー」
なんだかよく分からない状況になってしまっている中、現実逃避のように視線を横へと向けたなら、助けに来ない3人衆が揃いも揃って頭を抱えていた。
教室にいるクラスメイトの面々が、こちらを時限爆弾でも見るかのような目で見てくるのは、どうでもいい。普通のことだ。
覚王山は、なにか一方的に謝っていたけれど、結局何のことかはよく分からなかった。もういいのだろうか。
日比野は、そう言えば筋肉痛の話題はいいのだろうか。大胸筋周りのストレッチくらいなら、いくらでも教えるのだが。
そして沙夜。
「竜泉寺さん」
「え」
その沙夜に向かって、秋水は言葉を投げかけた。
海霧がか弱い力でぐいぐいと秋水を押し退けようとしてくるわ、その海霧を煽るかのように紗綾音が抱きついてくるわ、こちらは下手な手出しもできない大変な状況である。
頭を抱えてないで、早く助けてくれ。
「ヘルプです」
別に沙夜は、友達でもなんでもない。
ただのクラスメイトでしかない。
しかし沙夜は、今年になってから紗綾音に絡まれたときに、助けてくれる心強い存在であることは、間違いないのだ。
下手に体を触ればセクハラになるし、少し力を入れたら怪我させそうだし、ちょっとでも感情を乗せたら周囲が怯えてしまうだろうし、物理的に紗綾音に絡まれたら、秋水は抵抗する手段がまるでないのである。
だから、沙夜に頼るしかないのだ。
だから、ヘルプである。
助けてくれ飼い主。
そんな情けない救援コールを出すと、顔を上げた沙夜は一瞬だけ呆気にとられたような表情をした。
しかし、ふ、とすぐに口端に苦笑いが浮かぶ。
「…………ははっ、過去は変えられないけど、明日は変えられるんだっけか」
そして、なにかを小声で呟いた後、沙夜はゆっくりと秋水の方へと近づいた。
右手で紗綾音の後頭部を、むんず、と引っ掴む。
左手で海霧の側頭部を、むんず、と引っ掴む。
両手でのアイアンクローである。
「秋水が困ってんだろうが馬鹿2人っ!!」
めちゃ強い力で両者揃って一発で引き剥がしてくれた。
サイクリングって、そんな腕力鍛えられたっけ。
紗綾音と海霧がようやく離れ、ほっとしつつも、沙夜の腕力に秋水はドン引きした。
過去を謝ったところで、秋水くんにはなにも響きません。家族のことに向き合えない限りは。
将来の希望を伝えた方がよっぽど有効です。
……ジリちゃん?
ああ、うん……どうしちゃったのこの子(頭を抱える)