合トレ。
ジムで行う合同の筋力トレーニング。
なるほど。
ヤバい。
天国だ。
お姉ちゃんが手を振っている。お前は地獄にいろ。
美寧は半ば放心状態で、幸せのあまり天に召される寸前になっていた。
「ぽ゛ぺ゛ぇ」
「あ、あの、美寧さん、大丈夫ですか……?」
トレーニングベンチに座り、口から美寧ちゃんソウルが抜け出ているところに、どこか戸惑いながらも心配そうに秋水が声をかけてくれる。
その声に、は、と美寧は我に返った。幽体離脱をしている場合ではない。
「ご、合トレ良いね先生!」
慌てて美寧は元気をアピールするように拳を握る。
まあ、実際に元気溌剌である。
秋水のサポートに回ると、特等席で秋水の体を鑑賞でき、しかも動く筋肉という生々しいエロスを触れそうな距離である。コンプレッションシャツというぴっちぴちのトレーニングウエアで肌は隠されているが、正直に言おう、余計にエロい。隠されているからこそのエロス。美寧はこの世の真理に目覚めた。
秋水がサポートに回ると、いつもの比ではないくらい秋水が美寧の身体を触ってくれる。手を握ったり肘を持ったり背中を押したり足を支えたり。美寧単独でやるよりもよりストレッチが掛かるように補助してくれるので、筋肉がしっかりと伸びてめちゃくちゃ痛気持ち良いというのが絶妙にエロス。開発されちゃった。
そして、どちらにせよ、秋水が近い。
とても近い。
いつもは美寧だけが汗だくになっているのだが、今日は秋水がしっかり筋トレしているので、秋水の方が汗をかいている。
深呼吸するのに忙しかった。
先生の汗の香りは美寧ちゃんを誘惑するフェロモンの原液だよー! 合トレ最高ー!!
錦地 美寧はすっかりぶっ壊れていた。
「そうですね。合トレは良いものです」
合トレに味を占めた美寧に秋水が大きく頷く。
秋水の言う「良い」と、美寧の言う「良い」は、恐らく天と地ほどに隔たりがあるが、ツッコミを入れられる人間など誰もいない。
そこでふと、美寧に疑問が湧いた。
土日の深夜以外にも、秋水は昼間のジムにも顔を出している。
そして秋水は、凄い筋肉質だ。
まさに筋トレの集大成みたいな身体である。
ならば、筋トレ仲間がいるんじゃなかろうか。
他にも筋トレ仲間がいるからこそ、合トレにも慣れていて、結果として美寧を合トレに誘ったのかもしれない。
そんな単純な疑問である。
「もしかして、先生って合トレする筋トレのお仲間さんは多いの?」
「――」
その疑問を口にしたら、何故だろう、秋水は数秒だけ黙った。
あれ、聞こえてなかっただろうか。
美寧が再び口を開こうとしたが、その前に秋水はゆったりとした口調で答えてくれた。
「いえ、いないですね。合トレは、父としかしたことはないですね」
「あ、先生のお父さんも筋トレしてたんだ」
少し懐かしむように、そして遠い過去を振り返るように、秋水は口にする。
秋水の父親。
なるほど、父親も筋トレしてたから、自然と秋水も筋トレをするようになったという感じなのだろうか。
親の背を見て子どもは育つ。
よし、自分も両親を見習って、恋の沼に秋水を沈めてやらねば。
美寧は内心で決意を新たにする。
秋水の口元には、何故か苦笑いが浮かんでいた。
さて、決戦だ。
合トレがハッピーシュガーでボーナスタイムのヘブン状態だったからすっかり魂が天に召されかけたけれども、美寧にとっての本番はここからである。
「よーし……照れながら渡して、ちょっと笑って、ダッシュで逃げる……」
呟きながら、美寧は更衣室のロッカーを閉めた。
合トレは無事に終わり、秋水と一緒に帰ることになったのだ。
美寧が帰った後、本格的に自分の筋トレを秋水が行うかもしれないことも予想していたが、今日は美寧と同時にジムを上がるらしい。
ラッキーだ。
ジムの中で渡して逃げる、という手もあったが、帰り道の方がロマンチックな感じじゃないか。
ふふふ、緊張しすぎて吐きそう。
美寧は何度も深呼吸を繰り返し、鏡の前に立つ。
軽くシャワーを浴びた。汗臭さは、たぶん大丈夫、だと思いたい。
髪は跳ねてない。こちらは大丈夫。
制服は、大丈夫、汚れていないし変なシワもない。
大丈夫。
大丈夫だぞ美寧ちゃん。
美寧ちゃんには、美寧ちゃんがついてるぞ。
自分で自分を信じなくちゃ。
自分自身を応援しなくちゃ。
それは秋水から教えられたことだ。
大丈夫。
落ち着け。
一緒に帰れるという特大ビッグイベントで心がすでに浮かれているけど、決戦はここからなのだ。
帰り道。
どこか、良いタイミングで。
よし。
チョコレートを、渡すのだ。
「お、おまたせ、先生」
「いえ、私も先程、出たところです」
更衣室から出れば、秋水がすでに待っていた。
おまたせ、からの、今来たところ。
実質デートじゃんね。
ここから一緒に帰る以上、デートだデート。
緊張してきた。
ごめん嘘。最初から緊張している。
ぱたぱたと美寧は秋水の傍に駆け寄った。
秋水はコートを着ている。建築現場で見かけるようなベンチコート。革のコートではない。
「あれ、先生、今日はレザーコートじゃないんだ」
「ああ、あれは……ええ、昼に着るには目立ちますからね」
「あー」
この前の渋くてムキムキで大人っぽくて迫力のあるバリクソ似合いまくりレザーコートじゃないんだなと思わず聞いてみれば、どこか秋水は遠い目をしながら答えてくれた
昼だと目立つ。
なるほどね、分かる。
理解した。
格好良すぎるもんね。
あんな色気振り撒きまくりのダディズムファッションでフェロモン垂れ流しまくりな革の渋い漆黒コートを真っ昼間に着て街を歩いたらすれ違うメスネコの性癖を片っ端からひん曲げちゃう歩く性の大博覧会みたいな超兵器と化すから昼間に着ないっていう先生の選択は大正解じゃんねいやまったく魅力的すぎる先生のルックスには困ったものじゃんね幼気な女の子が片っ端から惚れちゃっても仕方がないようなくらいに先生がイケメン過ぎるのが悪いんだからその魅力をさらに増大させるレザーコートは禁止カード仕方なしなんだけど私には幾らでも見せてくれていいからやっぱり着て欲しいって言うのはわがままなんだろうなって思いつつ昼間に着るにはって先生言ったことを考えたら夜には着てくれるってことだから夜のジムにはレザーコート着てくるっていう意味なんだからレザーコートをビシッと着こなした先生を拝めるのはほぼほぼ私だけってことだから最高じゃんねそれ先生のレザーコートは昼間禁止で今後とも是非よろしくお願いします!
「確かに、あれは夜に似合うやつじゃんね」
「いえ、似合うというより……」
「うん?」
「……いえ、まあ、はい。革コートは夜用ですね」
「是非ともそうするべきじゃんね!」
レザーコートは夜用。
ふふふ、土日のジムが楽しみすぎる。
にんまりと笑みを浮かべる美寧に首を捻りつつ、秋水はスマホをポケットから取り出して、QRコードを読み取って、ジムの扉を解錠する。
「どうぞ」
そして扉を開け、美寧を促す。
レディーファースト。
細かいところまで紳士で困るんですけどちょっと。
浮かべていた笑みをもにょもにょさせながら、美寧はジムを出る。
寒い。
まあ、2月だし。
「さむーい」
「体を冷やしすぎないように注意してくださいね」
「はーい」
寒さに体を縮ませれば、続いてジムを出た秋水が体を心配してくれる。優しい。好き。
「美寧さんもこちらでしたね」
「う、うん」
そして美寧の隣に並んだ秋水は、帰り道の方を指で指して確認する。
秋水とはジムへの往き道で遭遇したことがあり、家の方向が同じ、ということを覚えていてくれたんだろう。嬉しい。好き。
ああ、もう、秋水の全ての行動が魅力的でより一層好きにさせてくる。困る。好き。
このまま帰り道が一緒にできるなんて、幸せが過ぎる。もしかしたら自分は今、世界で一番幸せなのかもしれない。
頭が浮かれる。
心が騒ぐ。
でも。
でも、もうちょっと。
もう少しだけ、貪欲に。
「あ、あのね先生!」
歩き始めようとしたところで、秋水を呼び止める。
秋水はすぐに振り返ってくれた。
よし。
言え。
言うんだ美寧ちゃん。
明日は燃え尽きて学校休んでもいいから、今日、全力で魂を燃やすのだ。
ぐ、と美寧は一度言葉を詰まらせて。
「か……買い物に、少しだけ、付き合って……ほしい、な!」
つかえながらも美寧は誘った。
ただ帰るだけじゃ、勿体ない。
もっと、一緒にいたい。
傍にいたい。
秋水が少しだけ目を丸くしたのが分かった。
ウザいかな。イヤかな。断られるかな。
筋トレで疲れてるもんね。ここからさらに用事を差し込むとか常識ないよね。
でも。
秋水の隣に、もう少し。
美寧は僅かに震えながら、さらに口を開く。
「そ、そっちにあるス、スーパーにさ、食事、あ、食べ、食べる……その、食べる……」
言葉が、上手く出てこない。
頑張れ。
頑張れ。
心臓が暴れる。
視界がぐらぐらする。
本当は筋トレ用品とかを見たい、という口実で誘えたら良いのだけど、スポーツや筋トレの用品店やショッピングモールはここから少し距離があって、この時間から行くのは現実的ではない。
では喫茶店、とも考えたが、秋水の好みに合うかどうかも分からない。なにより秋水と向き合って、ただただお茶をする、なんて状況、正直なところ美寧の心臓と情緒が保たない。
なら、ならば、秋水が興味を引きそうで、美寧も会話に入れる話題があり、ここから近場。
スーパーマーケットかコンビニくらいしかない。
田舎め。
だから、秋水を誘うなら、食事の指導とか、意見とか、そういうのをもらう感じで、誘う。
誘いたい。
誘いたいのだけど、言葉が上手く出てこない。
えっと。
あの。
言葉が詰まる。
頑張れ。
頑張れ美寧ちゃん。
なんでもないです、と言いそうになるヘタレた心を力業でねじ伏せる。
言え。
誘え。
踏ん張れ、錦地 美寧。
私が、私自身が、信じてるんだから。
「食べる、ものの、もの、えっと、相談、ていうか、あの……」
ああ、ダメだ。
上手く出てこない。
でも、逃げるな。
立ち向かえ。
秋水を誘うんだ。
なかなか言葉が前に進まず美寧はもがく。
その美寧を見下ろしていた秋水は、あー、と不意に声を上げた。
「美寧さん、食事面にも興味が出てきましたか」
え、と美寧は顔を上げた。
どうやら無意識に俯きかけていたみたいだ。
見上げてみれば、秋水はどこか納得したように、アゴを撫でながら、うんうんと頷いている。
なにやら、自己完結されているようだ。
「運動を始めると、栄養も気になり始めますよね。分かります。私もそうでした」
あ。
好き。
この人は、いつもこちらの言葉を、汲んでくれる。
美寧の台詞を察して、ほぼほぼ横取りしてくれた秋水に、へにゃ、と美寧は表情を崩した。
「う、うん。食べ物、気になる」
「良い傾向です、美寧さん。身体は口にしたもので作られます。休憩5割、食事3割、筋トレ2割、ですね」
片言で頷けば、秋水は感心したように頷き返す。
やはり、喫茶店に誘うより、食事のアドバイスを求めるのが大正解だったっぽい。
というか、休憩5割、食事3割、筋トレ2割、ってなんのことだろう。
まあ、それは後で良い。
畳みかけろ、美寧ちゃん。
「だから、あの、スーパーでちょっと、見ながら教えてくれたりなんかしたら嬉しいかなって言う――」
「任せてください」
食い気味に秋水は返す。
本当に、トレーナー向きだ、この人。
胸に手を当てながら快く引き受けてくれた秋水を見上げ、ほ、と美寧は胸を撫で下ろした。
トレーナー向きというか、管理栄養士なんじゃなかろうか、この人。
「やはり米、卵、ヨーグルトか牛乳、それに魚肉に大豆製品が良いですね。特別なものではなく、普通のご飯をちゃんと食べるのが大事です」
「タンパク質と言えばプロテインというイメージかもしれませんが、卵やヨーグルトで補う方が栄養価としてはトータルでお得です」
「体重1㎏あたりで1.5gほど、上に見て2gほどを摂取されるのが好ましいとされています。ただ最初のうちは数字で縛るより、毎食タンパク質を一品追加するのが自然ですね」
「炭水化物も大事です。ダイエットのために抜くのはお勧めできません。トレーニングの重要な燃料になりますので、白米か芋、もしくはバナナで炭水化物もしっかり摂取しましょう」
「鉄分も重要です。鉄は赤血球のヘモグロビンや筋肉のミオグロビンに関わっていて、不足すると疲れやすさや運動機能低下にも繋がります。肉や魚に含まれるヘム鉄は比較的吸収されやすいです。豆類や野菜などの非ヘム鉄も、ビタミンCや動物性タンパク質と一緒に摂ると吸収を助けられます」
「筋肉ばかり見がちですが、骨も大事ですね。カルシウムとビタミンDをセットで摂取しましょう。カルシウムは骨や歯に多く存在しますが、筋肉の収縮や神経にも関わる大切な栄養素です」
「卵、納豆、豆腐は定番です。安くて美味しくて、栄養バランスがとても良いです。特に卵は食物繊維とビタミンC以外の栄養素は幅広く含まれていますからね。鮭や鯖、鰯であれば豊富なタンパク質に加えて脂質の質も良いですね。ヨーグルトや牛乳もお勧めです。タンパク質とカルシウムをまとめて取れますし、間食にも使いやすいです」
「個人的には酒粕は便利ですね。栄養価が非常に高いですし、味噌汁などに入れると食事の満足感が跳ね上がります。ただ、アルコールが残るので、使う場合はしっかりと加熱する必要がありますが……ああ、この酒粕は私も買っていますよ。これで甘酒も作れます。甘酒は飲む点滴とも言われまして、夏バテのときなどにもお勧めです」
なんだろう、デート云々じゃなくとも、相談してみてガチで正解だったかもしれない。
出てくる出てくる食事関連の知識。
正直、タンパク質やその辺り、くらいのアドバイスかな、なんて思っていたのだが、スーパーマーケットに辿り着いた途端、秋水の食品紹介が止まらない。
しかも栄養学の観点から、きちんと教えてくれる。
すごい。
美寧は秋水の説明を聞きながら、手に持ったスマホをフリックしまくって、ひたすらメモ帳に文字を入力する。
ついでに、秋水が一番強くお勧めしていた酒粕を、カシャリ、と写真で撮影しておく。秋水愛用の酒粕。え、100㎏くらい購入すればいいのかな。
実際にはなにも買っていないのだが、店を出たときにはもう、新しい知識の洪水に美寧の頭はクラクラしていた。
「すみません、喋りすぎましたね」
「ううん、なんか、今まで私、なにも考えずに食べてたのを痛感した感じじゃんね……」
店を出て一息ついてから、一気に説明しすぎたことに気がついたのか秋水が謝ってくるが、美寧は首を横に振る。
身体は食べたもので作られる。
その通りだ。
人間は光合成できないのだから、栄養のほとんどは口から食べて補給するしかない。
そして、その栄養をもとにして、身体は作られている。
あんまりちゃんと、栄養素、というのを考えてこなかった。
まさに無知。
「うー、これもまた、無知の知、ってやつじゃんね」
美寧はスマホに入力したメモ帳の文章をチラリと見返す。
すごい文字数になっちゃった。
そして、美寧がなにも知らなかった、という動かぬ証拠でもある。
無知の知。
ソクラテスである。
筋トレのフォームの無知から始まり、さらには栄養素も無知であった。
秋水風に言うならば、これは成長の余地なのであろう。
「さて、すっかり遅くなってしまいましたね」
その秋水は、辺りを見渡して言う。
まだ18時くらいだが、日はすでに沈んでおり辺りは暗い。
2月の太陽は、実にさっさと沈むものである。
もうちょっと日が長ければ、もう少し秋水と一緒に居られるのだが。
ああ、いや、逆に考えよう。
暗い夜道を、秋水と一緒にロマンティックデートである。
うん、良い感じだ。
良い雰囲気だ。
帰りましょうか、と秋水が誘う。
もっと一緒にいたいけど、と思いながら美寧は頷く。
帰り道は、他愛ない話をしながら。
あと1ヶ月と半分で2年生になっちゃうな。
まだ寒いよね。
早く暖かくならないかな。
先生って栄養士の資格もってるの?
もってないんだ、うそー。
筋トレしてたら栄養面が気になることって普通の感じなのかな。
そう言えば先生、私、学年末テストの点数凄かったんだから。
色々話す。
緊張はしているのに、いっぱい話せた。
楽しい。
嬉しい。
お喋りするって、こんなにワクワクするんだ。
学校で喋る相手も特にいないボッチ女だから、お喋りなんて周りからすればただの騒音なのに、なんて斜に構えていた。
ああ、でも、お喋りが楽しいのだろうか。
それとも、秋水とお喋りするから、楽しいのだろうか。
秋水がいれば、なんでも楽しくて、嬉しくて、ドキドキするけどね。
喋って。
歩いて。
もっとお話ししたいな。
もっと知りたいな。
もっと一緒にいたいな。
そんな浮かれ気分で歩いて。
赤信号だ。
足を止める。
「あ」
足を止めた。
大通りの、交差点。
この交差点は確か、いや、もう少し向こうの交差点だっただろうか。
正直美寧自身とは無関係の出来事だったから、場所は正確に覚えていないけど。
「クリスマスに事故あったの、ここだっけ?」
何の気なしに、秋水に聞いてみた。
クリスマス・イブの交通事故。
停車していた普通乗用車の後ろから、大型トラックが追突するという大事故だ。
追突された普通乗用車は結構な勢いで吹っ飛ばされ、大型トラックも反対車線にはみ出すくらいだったけど、幸いにも死人はたったの3人という、奇跡みたいな交通事故である。
まあ、死んだ3人はご愁傷様なんだが、下手をしたら通行人を巻き込んだり、反対車線の車も巻き添えにしたりする可能性を考えたら、死んだのが追突された乗用車に乗っていた3人だけなのだから、被害は最小限であろう。
そもそも事故起こさなきゃ、被害もなにもなかったんだけど。
「わりと大きな事故だったなー」
呟きながら、美寧は周りを見渡す。
あれ、なんか違う。
ここじゃなかったかも。
交通事故の現場を見て、まだ2ヶ月も経っていないというのに、すっかり事故現場の場所の記憶がおぼろげだ。
「――ここでは、ないですね」
と、秋水が静かに教えてくれた。
ああ、知っていたんだ。
美寧は彼を見上げた。
どこか遠い目をして、赤く光る歩行者用の信号を見ている。
「あ、やっぱり。お店の通りがある方だったっけ」
「そうですね。そちらです」
「先生、地元のニュースにも詳しいんだね。ニュースとか見たの?」
「……いえ、そうではないのですが」
「そっかー。ニュース番組で見てたら、もしかしたら私のことも見たかもしれないのにね。残念」
「え?」
美寧もまた車道向こうの歩行者用信号へと目を向けて、先程までの延長線上で、軽く喋る。
交差する側の歩行者用信号の、青が点滅し始めた。
どのタイミングでチョコレート渡そうかな、と考えながら、美寧は口を開く。
「その事故の目撃者だったから、インタビュー受けたんだよ私。ローカルなんだけど、テレビ出ちゃったんだよね」
「――――」
美寧にとって、今日の本番は、チョコを渡すこと。
思考のリソースは、そちらに大きく割いていた。
だから、あまり考えずに、喋る。
秋水を見ることなく、喋る。
「結構酷い事故だったからね。トラックに当てられた車も大きく弾かれてさ」
「――――」
「乗ってた人、3人とも死んじゃったって」
「――――」
「ガードレールは潰れるし、中央分離帯も破壊されるし、トラックは反対車線に行くし、凄かったんだから」
「――――」
「まあ、でも、被害が3人だけで良かったじゃんね。ガードレールも吹っ飛ばしてたから、下手したら歩行者も巻き込んでたかもだし」
言い終わってから、交通事故の話題とか不謹慎すぎたか、と遅れて気がつく。
秋水だって沈黙している。
返答に困っているんだろう。
そうだよね、実際に人が死んでいるんだし。
あんまり雑談で消費して良い話題じゃなかった。反省しよう。
そう思いながら美寧は再び秋水の横顔を見上げる。
「そう、ですね――他に被害者が出なかったのは、不幸中の、幸い、かと――」
秋水の声色が、少し硬い。
そして表情もまた、少し、硬い。
ありゃ、こういう事故みたいな不謹慎な話題は苦手だったか。
先生は優しいもんね。
話題選びに失敗したなと思いつつ、美寧はまた歩行者用信号へと顔を向ける。
反対側、車の信号機が赤に切り替わった。
数秒待てば、こちらの歩行者用信号が青になるだろう。
「でも、先生って本当に色々知ってるよね。交通事故なんか、日本全国で毎日発生してるのに、ちゃんと場所覚えてるとか凄いじゃんね」
「ええ、まあ――」
話題を変えるためのクッション。
そろそろバレンタインデーっぽい話題にシフトしていくべきだな。
よし、ここからが頑張りどころだ。
美寧は気合いを入れ直す。
歩行者用信号が、青になった。
美寧は自然と足を前に出す。
歩く。
その瞬間を狙ったかのように、秋水が口を開いた。
「――その被害者は、私の両親と、妹なので」
――――――――――――――――――――――――――――――
紗綾音相手なら、こんな自己開示はしなかった。
律歌さん相手でも、こんな自己開示はしなかった。
沙夜相手でも、未来相手でも、ジリちゃん相手でも、こんな自己開示は絶対しない。
この事実を秋水くん自身の口から告げるであろう相手は、今のところ、美寧ちゃんと祈織しかいない。
信頼性が高すぎるからこその、事実宣告。
さあ美寧ちゃん、本番で、決戦だぞ、頑張れ(邪悪)