「――その被害者は、私の両親と、妹なので」
「え」
青信号で進もうとしていた足が、その一言で止まった。
思わず秋水を見上げようと隣を見たら、秋水の方が一歩足を前に踏み出している。
もう一歩。
さらに一歩。
秋水が前を歩く。
前に進む。
横断歩道を、渡る。
「え?」
美寧は小さく疑問符を零しながら、歩く秋水の背中を見た。
大きく、広く、分厚い背中。
背筋を伸ばし、胸を張って、前を向き、顎を引き、綺麗な姿勢。
「な……え……」
信号は青。
進まなきゃ。
渡らなきゃ。
秋水の隣を、歩かなきゃ。
なのに、それなのに。
足が、前に、出ない。
去年のクリスマス・イブ。
この街の、少し大きめな交差点で起きた、交通事故。
赤信号で止まっていた乗用車に、トラックが後ろから突っ込んだという事故。
美寧はそれを目撃した。
結構、悲惨な感じの事故だった。
だけれども、美寧は正直、ふーん、くらいにしか感じられない。
あのときは、そんな事故を気にする余裕なんてなかった。
秋水にすら出会う前のことだ。
姉に勝つ。
完璧でいる。
精神的に余裕がなかった時期のこと。
車に乗ってた3人、即死だったそうだ。
ああ、そう。
それより、2学期の成績の方が美寧にとっては重要だった。
別に、交通事故なんて日本全国、いや世界全体で、毎日のように発生している。
交通事故に限らず、毎日、世界のどこかで誰かが死んでいる。
運が悪かったんだ。
気にすることはない。
美寧の姉も、そうやって死んだんだから。
だから、交通事故で人が死んでも、美寧にとっては、他人事に過ぎないのである。
秋水にとって、それは、家族のことで。
「――っ!?」
息を飲む。
ぶわっ、と美寧の背中に冷や汗が噴き出した。
心臓が握り潰されるような感覚。
全身が、一気に冷える。
自分は、なんて言った?
さっきまで、秋水に、なんて言葉を投げかけた?
『まあ、でも、被害が3人だけで良かったじゃんね。ガードレールも吹っ飛ばしてたから、下手したら歩行者も巻き込んでたかもだし』
血の気が、引く。
被害が3人だけで、良かった。
それが例え、秋水の家族でも。
父親と。
母親と。
妹さん。
トラックに轢き潰されて、死んだのが3人だけで、良かったね。
自分は、そんな言葉を、被害者遺族の秋水に、投げかけたのか。
秋水が歩く。
ゆったりとした歩み。
ただ、美寧が立ち止まっていることに気がついていないようだ。
歩いて、離れていく。
まるで心の距離かのように、離れていく。
待って。
違う。
知らなかった。
嘘でしょ。
先生の家族だなんて、そんな。
頭の中で浮かぶ言葉が、どれもこれも言い訳染みた薄っぺらい言葉。
交通事故の話とか、雑談で消費していい話題じゃない。
そんな反省は、あまりに遅すぎた。
行かなきゃ。
前に足を出さなきゃ。
秋水を追いかけなきゃ。
美寧はすぐに足を動かそうとして。
追いかけて、なにを言おう。
進めない。
歩けない。
秋水が離れる。
もう、横断歩道を半分渡っている。
耳鳴りがする。
目眩がする。
秋水の背中は、いつものように広くて大きい。
でも、彼の心を、傷つけたかもしれない。
かもしれない、じゃない。
傷つけた。
決して選んではいけない話題を選び、言ってはいけない言葉を口にした。
秋水の両親と、妹。
3人死んで、被害が少なくて奇跡的、なんて。
彼にとって、そんなわけは、ない。
その死がもたらす重さは、全く違う。
失った痛みの大きさは、比べものにならない。
美寧にとっては赤の他人が3人だが、彼にとって、それは。
「は――はぁ――」
息が上がる。
歩いていただけなのに。
今は立ち止まっているだけなのに。
息が短く、浅く、早く、繰り返す。
視界がぐらぐらする。
早く、追いかけなきゃ。
だけど、追いかけて、なにを言うのだ。
謝るのか。
謝るしかない。
ごめんなさい、と。
不謹慎なことを言った。
ああ、でも。
秋水を傷つけた恐怖より、秋水に嫌われるかもしれない恐怖の方が、あまりに大きい。
あまりにも身勝手すぎる感情が、美寧の中に渦巻いている。
追いかけて、冷たい目線で秋水に見下ろされたらどうしよう。
拒絶されたらどうしよう。
嫌われたらどうしよう。
抱く恐怖の根源が、あくまでも自己中心的。
こんなときに、クズでゴミな自分の本性が顔を覗かせている。
違う。
違うだろ。
知らなかったとは言えども、秋水を傷つけた。傷つけるような発言をしてしまった。
だから、心配すべきは秋水の心の方だ。
それは分かっている。
頭では分かっている。
それなのに、嫌われたくない、という想いが、あまりに強い。
秋水に嫌われるという現実を、直視したくない。
あまりに、身勝手。
下水底のヘドロみたいな性格は、なにも変わっていなかった。
秋水が、横断歩道を渡りきる。
車道分、距離が開く。
心の距離のような気がしてならない。
歩行者用信号は青のまま。
でも、このまま立ち止まっていたら、赤信号になってしまう。
赤信号になってしまったら、秋水との関係もまた、赤いランプが灯りそうだ。
いや、もう、灯っているのか。
不用意な発言をした。
見限られたかもしれない。
ダメだ。
前に、足が出ない。
歩き出せない。
横断歩道を渡り終えた秋水が、隣に美寧がいないことにようやく気がついたのか、足を止めた。
歩行者用信号の青い光が、点滅する。
ああ。
ああ。
待って。
赤に、なる。
赤く、なってしまう。
待って。
少しだけでも、待って。
行かなきゃ。
秋水の傍に行かなきゃ。
謝らなきゃ。
でも。
足が。
竦む――
『ほら美寧! がんばって!』
唐突に、懐かしい声が耳を撫でた、ような気がした。
その瞬間に、美寧はアスファルトを蹴っていた。
意識などしていない。
恐い。
苦しい。
でも、ふと蘇った言葉は、不思議と美寧の足を強制的に前に出す力があって。
『美寧は凄いんだから! 美寧はいつだって私の心の支えなんだから!』
青が点滅する横断歩道。
美寧は走る。
背中を押されるように、走った。
ああ、クソ。
なんでこんなタイミングで、思い出すのか。
美寧には姉がいた。
もう死んだ。
姉は完璧で、天才で。
そんな姉と比較されて悔しくて、がむしゃらに頑張った。
届かない天才に勝ってやろうと必死で足掻いた。
勉強も、運動も、芸術も、なにもかも。
必死で努力だけを積み重ねた。
それでも姉には届かない。
周りからは姉の出来損ないとして比べられた。
自分には努力しか出来ない。
天性の才能なんてものはない。
だから、何度も姉に打ち負かされた。
どれだけ藻掻いても、姉の栄光には手が届かなかった。
その結果を見て、両親はため息をつく。
周りは姉と比較する。
ダメな奴だと、みんな言う。
心が折れる。
くじけそうになる。
負け続けて、足が止まりそうになったことは数え切れない。
努力なんて止めようかな、なんて思ったことはごまんとある。
そんなとき、美寧をいつも励ましたのは。
『お姉ちゃんが、応援してるぞ!』
走る。
横断歩道を一気に駆け抜ける。
ふざけんな。
お前なんかに応援されて堪るか。
私は美寧だ。
錦地 美寧だ。
自分自身の足で進んで、秋水の前に、立つのだ。
「先生っ!!」
赤信号になる前に横断歩道を渡りきり、勢い余って立ち止まっていた秋水を追い越し、急ブレーキ。
振り返って、秋水の顔を見上げた。
いきなり後ろから走ってきて、デカい声で呼ばれて、驚いたのか秋水が目を丸くしている。
可愛いな。
好きだな。
だから、悲しませたくないな。
ああ、うん。
どこまでも自分本位なゴミみたいな感情だけど、彼を傷つけるだけには、したくない。
「私の姉さんも、交通事故で、死んだよっ!」
「え」
謝ろう、としたのに、咄嗟に口を突いて出てきたのは、畜生、姉のことだった。
ああ、もう、違う違う。
なんか知らないが姉の声援なんてクソみたいな幻聴が聞こえてきたせいで、秋水には興味がミリもないであろう姉の話をしてしまった。
「2年前に轢かれちゃって、死んで……みんな悲しんじゃってさっ!」
上手く言葉が出てこない。
そもそも出すべき言葉が違う。
無神経なことを言ってゴメンなさい、だろう、今言うべき言葉は。
なのになんで、姉の話なんぞを。
しかし美寧は秋水をまっすぐ見上げて、思いのままに言葉を放つ。
「なんで姉さんが死んだんだろうって、みんな言った! なんで姉さんの方が死んだんだろうって、陰口だってあった!」
がしり、と秋水の腕を掴む。捕まえる。
逃がさない。
もしも今、物理的な距離が開いたら、そのまま心の距離まで開きそう。
秋水を掴んで、見上げる。
「姉さんはさ、いつも勉強は一番で、スポーツも凄い得意で、ピアノ弾かせたらコンクールで賞まで取っちゃうみたいな、なにをさせても結果を出す天才児ってやつだったんだよ! どうせ死ぬなら美寧の方だったって、何回も言われたっ!」
謝ってない。
秋水にはなにも関係のない姉の話だ。
ああ、でも、違う、違うんだ。
美寧が言いたいのは、姉なんぞの話じゃない。
「だから、先生もっ! あの、えっと! 先生もねっ!」
言葉がつっかえる。
無神経なことを言った。
ごめんなさい。
そう謝るべきだ。
そうなんだけど、なにか違う。
違うんだ。
美寧の立場なら、姉が轢かれた事故の話をしたとて、謝られるのは、なにか違うのだ。
姉が死んで、美寧が泣いたときに、かけられたかった言葉は、謝罪じゃない。
言われたかったのは。
そして、誰も言ってくれなかったのは。
「私はっ、先生が生きていてくれてっ、嬉しいですっ!!」
秋水をまっすぐ見上げ、はっきり、言い切る。
両親が死んだのは、残念だと思う。
妹さんが死んだのは、残念だと思う。
その3人を、被害が少なくて良かったね、というのは暴言が過ぎた。
でも。
でもね。
ごめんなさいの前に、伝えるべきは、言って欲しかったのは。
「先生が、いてくれて、私は嬉しいよっ!!」
あなたが生きていてくれて、嬉しいと、言われたかった。
自分の方が死ぬべきだったと思ったときに、そんなことないよと、言われたかった。
失ったものを数える人たちに、残った私を見てよ、とずっと思っていた。
秋水が目を見開いて、美寧を見下ろす。
驚いている、と思う。
怒っているかどうかは分からない。悲しんでいるかどうかも分からない。
その秋水から目を逸らさず、まっすぐに見て、そして深々と頭を下げる。
「無神経なこと言って、ゴメンなさい!」
秋水の腕を掴んだまま、謝る。
ぎゅっと握り締めた秋水の腕が震えたのは、たぶん、美寧の手が震えているからだ。
恐い。
怖い。
無神経なことを言っちゃって、話題に出すべきではないことを言っちゃって。
秋水の口から、残酷なことを言わせてしまって。
嫌われるかもと思うと、身体が震えて止まらない。
秋水に嫌われたら、美寧はもう。
ゆっくりと美寧は頭を上げる。
視界が何故か、ぼやけていた。
「美寧さ――」
「先生っ!」
秋水が何か呼びかけたけれど、それを遮って美寧は秋水を呼ぶ。
声が、不格好なまでに震えている。
勢いだ。
もう、ひたすらに勢いだ。
ここで言葉を止めてしまったら、きっと自分はヘタレてしまう。
順番なんてぐちゃぐちゃだ。
でも。
美寧は秋水の腕から手を離し、肩から下げていたショルダーバッグに手を突っ込んだ。
「これ、どうぞっ!」
「え?」
そして、取り出したものを、勢いよく秋水の前に差し出す。
綺麗にラッピングされた、小さな箱。
ハートマークの包装用紙。
気合いの入ったリボン。
添えている手紙。
バレンタインの、チョコレート。
別のタイミングで渡すつもりだったけど。
照れながら、はにかみながら、渡すつもりだったけど。
そんな段取りは全て無視。
「悲しいこと言わせて、ごめんなさい! 先生の傷も知らなくて、ごめんなさいっ!」
秋水に押しつけるように、震える腕をまっすぐ前に伸ばしてチョコを差し出しつつ、美寧は再び頭を下げる。
謝る。
謝罪する。
なにも考えないで無神経な言葉を投げつけたことは、取り消せない。
そこはもう、頭を下げ続けるしかできない。
「私、先生にはいつも助けられてるのに! 先生には、ありがとうって、いっぱい思ってるのに! 傷つけました! ごめんなさいっ!」
言い切って、顔を上げる。
ボヤけた視界が、さらにボヤけている。
秋水の顔も、よく見えない。
ああ、泣いているのか、私。
今更気がついた。
美寧は、ボロボロと涙を流していた。
なにを泣いているんだ馬鹿。
泣きたいのは、秋水の方だろう。
家族の事故死を、高校生の小娘に、被害が3人だけで良かった、なんて暴言を吐かれたんだぞ。
それを怒ることも悲しむこともなく、淡々と、その被害者は私の家族です、なんて説明させたんだぞ。
泣きたいのは秋水だろう。
自分が泣いている場合じゃない。
だけれども、美寧の頬を流れる涙は、止まらない。
視界がぼやけてよく見えないが、美寧の涙を見て、秋水がギョっとしたような表情になったことは、なんとなく分かる。
ああ、もう、だから好きなんだ。
自分が泣きたいだろうに、家族の事故死を説明させる元凶の小娘が泣いていることに、驚いている。
きっと、次に秋水は美寧を心配するような声をかけるだろう。
それくらい、美寧は簡単に予想できた。
できた、からこそ、先制パンチ。
「私は、先生が、大好きですっ!!」
好きです。
大好きです。
暗くて重たくて、息もできない水面に沈んだヘドロのような自分を、優しく引き上げてくれたあなたが好きです。
他の誰とも比べなくて、私を見てくれて、面倒くさい私の世話まで焼いてくれて、それでも根気強く丁寧なあなたが好きです。
好きなんです。
愛しているんです。
もっと、もっと、傍にいたい。
美寧の心の声が、混じりっけなど一切なく、そのまま抽出された。
傷つけた相手に。
泣きながら。
不格好な、想いの吐露。
ぐ、と美寧は奥歯を噛んで、またもや勢いよく頭を下げる。
3回目。
でも、いくら頭を下げたところで、失言を埋め合わせることなどできやしない。
だから、延々と謝罪を繰り返すんじゃなくて。
「それじゃあ、またっ!!」
それだけ言い切って、美寧は脱兎の如く逃げ出した。
バレンタイン大作戦は、失敗した。
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相手の負担にならないように、チョコを渡したらすぐに逃げる、という母の教えが、方向性が全く違えど美寧ちゃんを助けたという最大のバグ。
役に立つクソ親、という美寧ちゃんの認識は正しかった……(。´・ω・)?
なお、恐らく本編ではフォローされないであろう、美寧ちゃんのお姉さんについての情報を先出ししておきます。
錦地姉妹は一生すれ違ったまま、永遠に分かり合えなくなった姉妹です。
誰だ、こんな悪夢みたいな設定考えた奴は(;´Д`)
【錦地 安璃】(にしきじ あんり)
以前まで美寧を悪夢で苦しませていた姉の幻影(114話)は、完全に美寧の被害妄想で、実際には全く違う性格。
実際は美寧大好きのシスコンな姉。
天才であったのは、努力して追い上げてきていた可愛い妹に負けないため、カッコいいお姉ちゃんでありたいがため、安璃も必死で努力した結果。
美寧は自分だけが努力していると思っていたが、実際には安璃もまた、美寧と同じかそれ以上に泥臭い努力量の鬼。美寧が凄まじい根性で追い上げてくるからこそ、安璃も手を抜くことができず、限界まで自分を追い込んで能力を磨き続けていったが故の天才。
逆に言えば、美寧が努力で追い上げ続けなければ、どこかで手を抜いて秀才止まりになっていた可能性は高い。
皮肉なことに、互いが互いの限界を引き上げ合う切磋琢磨の関係だった。
しかし、大好きな妹に『カッコいいお姉ちゃん』だと思われたくて完璧な天才を演じた結果、余計に美寧を精神的に追い詰めていたことには、交通事故で亡くなる最期の最期まで気がつけなかったポンコツさもある。
妹の前では常に完璧で、憧れられるような素敵なお姉ちゃんでいたい。その純粋すぎる愛情と見栄のために、裏で血を吐くような努力を重ね、完璧な天才の仮面を被り続けたピエロ。
ある意味、「安璃と美寧」という枠組みで美寧を比較せず、自分のことは横に置いて「美寧」という個人を最期まで応援していた存在でもある。
安璃にとって、美寧は自分が天才という「姉の仮面」を被り続けるための心の支えであり、努力の根源であり、大好きな妹であった。
というシスコンな愛情を、美寧は最後までちゃんと受信できず、一生すれ違ったまま姉は死んでいる。
美寧は秋水からの救済の全肯定で救われたけれど、安璃はずっと美寧に対してそのままの努力を肯定して応援し続けていた。ただ、美寧は自らの卑屈さで、安璃からの愛情を「自分を見下す天才からの哀れみ」だと全部へし折っていたという事実。
まあ、妹から心底憎まれていると最期まで察することなく、「大好きな妹のカッコいいお姉ちゃん」と自認したまま死ねたのは、もしかしたら安璃にとっては幸せだったのかもしれない……その内心を一生知ることが出来なくなった美寧にとっては、地獄なんだけれども……ははっ(乾いた笑い)