竦んだ足を、無理矢理動かす。
とぼとぼ。
とぼとぼ。
暗い夜道、錦地 美寧の足取りは、とても心許ない。
「…………ぅぅ」
肩に掛けたボストンバッグを、ぎゅ、と握る。
ウォーミングアップの歩き方はどうしたのか、美寧の背中は丸まって、俯いたまま歩く歩幅は狭い。
深夜の道を、体を縮こまらせて歩く。
逃げたい。
逃げ出したい。
「――き、気合い入れろ……」
自分を奮い立たせようと美寧は呟くも、その漏らした言の葉はみっともないほどに震えている。
呟きだけじゃない。
体全体が、震えている。
怖い。
その感情が一日中、美寧を支配し続けている。
秋水に、無神経な言葉を投げつけた。
昨日のバレンタインデー。
なにも考えずに交通事故の話をしてしまった。
死んだのが3人だけで良かったね、と。
その3人が、秋水の身内なのだとも知らずに。
傷つけただろうか。
いや、絶対に傷つけた。
むしろ、心の傷の、カサブタを開くような暴言だ。
呆れられた。
悲しませた。
嫌われた。
ぶるぶると体が震える。
ボストンバッグをさらに強く握り締めるが、体の震えは止まらない。
「先生……いるかな……」
震えながら、泣きそうになりながら、美寧はジムに向かって歩いて行く。
今日から明日にかけて、秋水に筋トレを見てもらう約束だ。
約束の、はずだ。
ただの口約束だと言われたら、返す言葉など、ないのだけど。
秋水は別に、ちゃんとしたトレーナーではない。
ただの筋肉ムキムキの筋トレ先輩だ。
筋トレを指導してくれるのは、秋水の好意でしかない。
嫌われたら、簡単に無視されるだけだ。
「…………」
ぐ、と奥歯を噛む。
怖い。
秋水に見捨てられたらと思うと、立っていられなくなりそうだ。
変なことを考えたせいで、足が止まった。
それを、無理矢理動かして歩く。
行かないと。
秋水は、ジムに居るかもしれない。
居なかったら、どうしよう。
いいや、どうしよう、じゃない。
なんとしても、見つけ出す。
街中を駆けずり回ってでも、探し出す。
探して、謝る。
ちゃんと謝る。
そしてもし、秋水がジムに居たなら。
「――っ」
ボストンバッグを、ちらりと見た。
いつもより重たいボストンバッグ。
用意は、万全だ。
いくら秋水が大きくて、筋肉があろうと、これならば。
これの一撃であれば。
いくら秋水でも。
動けなくさせれば、あとは押し倒して。
大丈夫。
母親になっちゃいけないタイミングで妊娠したら、傷つくのは美寧だと、母が言っていた。
だから、大丈夫だ。
母親になるタイミングは、きっと今なんだ。
コンドームなど、いらない。
ごくり、と美寧の喉が鳴る。
その目はどこか、黒く濁っていた。
「あー、そろそろ準備しねぇとな」
時間を確認してから、秋水は固まった筋肉をほぐすように、ぐいっと大きく伸びをした。
ダンジョンのセーフエリア。
ただいま大改造中である。
畳や雑草は全て地下3階へ下ろし、スライムにもぐもぐしてもらった。
今はセーフエリアの大半に防湿シートと防振ゴムを敷き、鋼製束を置く場所を決めて印をつけているところだ。
「全部決められると思ったけど、そうは上手くいかねぇなー」
ぐるぐると肩を回してから、軽くため息。
鋼製束を置く位置は、まだ半分くらいしか決まっていない。
まあ、土曜日と日曜日がある。じっくりやろう。
秋水は改装中の床から立ち上がる。
まずはシャワーを浴びて綺麗にならなくては。
思い詰めている美寧のことなど知る由もなく、思うところなどなにもない秋水は相も変わらずであった。
「あれ、美寧じゃん」
「あ?」
ジムへと向かう道半ば。
暗い夜道でいきなり呼び止められた美寧は、俯いていた顔をふと上げる。
誰だよ、このいっぱいいっぱいな時に。
まるで下から睨み上げるように、ぎろり、と声がした方へと目を向ければ、同じ年齢くらいの男子。
「うおっと。俺だよ俺。石川」
睨まれたことにその男子はビビったのか、害意がないのを示すかのように両手を素早く上げた。
誰だよ。
石川と名乗った男子を睨むも、美寧は彼のことをいまいち思い出せなかった。
なんとなく、記憶にあるような、ないような。
「夜道で喋りかけられたら、普通ビビるよな。ごめんごめん」
へらへら笑って近づいてくる男子。
あっち行けよ。
話しかけんな。
死ね。
余裕ゼロの美寧は石川と名乗った男子から目を逸らし、軽く舌打ちをした。
こちとら秋水に対し、不退転の決戦を挑まねばならないのだ。余計な茶々が入ると、集中を乱されるような気がして神経がささくれる。
「てか、こんな夜中に何してんの? 意外と悪い子ちゃん?」
近くに立った男子の顔を、改めてじろりと見る。
美寧と目が合って、へら、と石川と名乗った男子が気の抜けた笑顔を浮かべる。
軽薄そうな笑み。
秋水ならまず浮かべないだろう表情。
ぎゅ、と美寧はボストンバッグを強く握った。
「だったらさ、俺と遊びに行かね? 明日は土曜日だし、夜更かししたって大丈夫だからさー」
こちらは一切喋っていないのに、一方的に話しかけてくる石川。
それどころか、馴れ馴れしく美寧の肩に、ぽん、と手を置いてきた。
ぞわり、と鳥肌が立つ。
秋水以外の男に触られた。
それだけで、嫌悪感の波が一気に襲いかかってくる。
美寧は反射的に、ぱんっ、と石川の手を思いきり振り払った。
「触んな、消えろ」
そして、本音をストレートにぶちまけてしまう。
いつものような笑顔なんていう外面を取り繕う余裕などない。
ドブの底に沈殿したゴミみたいな精神を、直接言葉にしてしまった。
言葉にしてしまってから、急に思い出した。
ああ、そうだ。
コイツ、クラスメイトだ。
たまに教室で話しかけてくる、男子。
必死こいて学年末試験で過去最高得点を叩き出したのを見て、天才、という一言で片付けやがった糞野郎である。許してないからな。
まあ、姉を天才と一言で片付けてきた自分もまた、糞野郎なのだが。許す必要もないけどな。
石川と名乗った男子がクラスメイトだと思い出し、美寧はうっすらと自虐的な笑みを浮かべてしまう。
見てみろ、石川の表情。
凄い驚いた顔をしている。
それはそうだろう。
教室じゃいつも、黙り込んでるクソボッチ。
話しかけられたら、なるべく笑顔という仮面で答えていた。
そんな奴が、クズの本音を吐き出したのだ。
そりゃあ、驚くだろ。
「え? なにお前、外だとそんな感じなの? いくらなんでも性格悪くない?」
呆気にとられたように、石川が言う。
正解だ。
性格悪いよ、私は。
ふん、と美寧は鼻を鳴らす。
あーあ、バレちゃった。
でも、どうでもいい。
全部が全部、どうでもいい。
こちらは秋水との関係が切れるか、それとも進展するかの瀬戸際なのだ。
学校のことなんて、心の底からどうでもいい。
優等生ぶった汚い薄氷の仮面なんて、別に必要もない。
秋水さえいれば、他からの評価なんて、全部。
ぎゅ、とボストンバッグを握る。
握って、ふとその中身を思い出す。
そうだ、これ。
今日、秋水に逢ったら、使うもの。
試し撃ち、してないな。
いざ本番となって、上手く使えませんでした、は困る。
出会い頭の先制パンチ。
秋水に警戒される前に、一撃入れる。
だから、確実に起動させ、必中させなきゃいけない。
試運転の、試し撃ち。
獲物が、目の前に、いる。
美寧は無言で、ボストンバッグのファスナーをゆっくりと開ける。
息をするように自然な動きだった。
「あー……もしかして機嫌悪い感じ? こんな時間に出歩いてるのも、なんか理由あるっぽい?」
なおもごちゃごちゃ言っている石川に、視線を走らせる。
ゆっくりと、ボストンバッグに手を入れた。
硬く、無機質な、手応え。
これだ。
美寧はそれを掴み、取り出そうと引き出して。
「こんばんは」
美寧の耳に、重くて響く、聞き惚れそうな声が届いた。
その声に顔をあげた石川が、びゃっ、とか妙な奇声を発しながら物理的にも跳び上がる。
耳を撫でたその色気のある声が、一体誰の声かだなんて、確認しなくても分かってしまう。
ボストンバッグに手を突っ込んだまま、美寧はゆっくりと振り向いた。
高い背丈。
広い肩幅。
分厚い筋肉。
それを隠すような漆黒のレザーコートに、シンプルなブラックニット帽。
肉食獣のような力強い素敵な目が、石川の方に向けられている。
歩く色気。
解き放たれる圧倒的オスのオーラ。
今日もバッチリ決まっている、ミステリアスなスーパーイケメン、棟区 秋水であった。
「美寧さんのお知り合い、ですか?」
相も変わらずレザーコートが似合いすぎな秋水のスタイルに思わず見とれ、ふぉぁ、と妙な鳴き声を上げてしまった美寧に、その三白眼を向けながら低くお腹に響く素敵な声で秋水が尋ねてきた。声だけで子宮がキュンキュンする。ヤバい。
秋水に見据えられ、美寧は言い淀む。
ここで、お友達ですか、と聞かれていたら、悩む必要もなく、友達じゃありません、と即レスしていただろう。
ただ、まあ、知り合いではあるのだ、一応。なにせクラスメイトなのだから。
美寧はちらりと石川の様子を確認するため、振り返る。
「あわ……あわわ……」
なんか、絵に描いたように石川があわあわと震えていた。というか、あわあわ言っていた。
なんだコイツ。
まさか、秋水に見惚れて身震いをしているというのか。
男というのは、だいたい大きくてゴツゴツしてカッコイイのが好きな生き物だ。どれも秋水に当てはまる要素じゃないか。男らしさの擬人化みたいな秋水に見惚れてしまうのは深く同意できるけれども、ヤメロそんな舐め回すようにじろじろと性的な目で秋水を見るんじゃないぶっ殺すぞ石川。
ガタガタ震える石川に、殺意を込めて美寧は一睨み。
ひゅ、と顔を青くした少年が息を飲んだのが聞こえたが、美寧はさっさと石川から視線を外し、改めて秋水に向き直った。
「……こんばんは、先生」
秋水を見上げる。
相変わらず、秋水の体は大きい。
そして、その表情はいつものように、真面目そうな無表情。
でも、いつものように、優しそうな雰囲気。
疎ましそうだったり、嫌そうだったり、そんな雰囲気は、何故か感じられなかった。
どうして?
秋水の顔を見上げながら、美寧の頭の中で疑問符が飛び回る。
だって、昨日、酷いことを秋水に言ってしまった。
彼の家族が亡くなった事故を、目撃したから取材を受けたとか、酷い事故だったよねとか、他人事のように軽く扱った。
あまつさえ、死んだのが3人だけで良かったとまで、口走った。
秋水なら。
優しい彼のことなら。
それは絶対、傷ついているはずなのに。
なのに秋水の雰囲気は、いつもの通りだった。
なんで?
どうして?
想像していた険悪さや距離感を秋水から感じられず、ボストンバッグに手を入れたまま、美寧は混乱してしまう。
「こんばんは、美寧さん。談笑に割り込んでしまいましたか?」
「……ううん」
そして秋水の言葉にも、トゲが感じられない。
いつものように、優しくて低い声。
秋水は気にしてないのだろうか。
家族を失った事故に酷い言葉を投げかけられても、気にしないような人だったのだろうか。
美寧は首を横に振ってから、秋水の目をじっと見て。
「――も、もしかして、そいつと会うために、出歩いてんの? こんな時間に?」
割り込まれた。
秋水を見た感動で震えていたはずの石川とかいう奴が、美寧の肩を掴んで、ぐい、と引っ張り、無理矢理美寧を振り向かせる。
痛いな。
触んな。
邪魔すんな。
本当に殺してやろうかオマエ。
ボストンバッグに入れっぱなしの手で握っていたものを、美寧は眉を顰めながら思わず握り締める。
いや、ダメだ。
秋水の目の前だ。
これは、取り出せない。
ちっ、と内心で舌打ちをする。秋水がいるから内心だ。
「そいつヤバいって! 付き合うの止めとけよ!」
そして美寧の肩を掴んだまま、急に石川が一方的に力強く捲し立ててきた。
なんだ、いきなり。
美寧は一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くして。
「そんなプロのヒットマンみたいなやつ、普通じゃないのくらい見て分かるだろ! お前騙されてるって!」
は?
丸くしかけた目を、美寧は鋭く尖らせる。
プロのヒットマン?
騙されてる?
なにそれ。
まさかコイツ、秋水が悪人にでも見えているというのか。
なんで悪い奴に騙されて非行に走った少女を見るかのような目で見てくるのか。
バカが。
殺すぞ。
イケメン俳優も裸足で逃げ出すような色男じゃないか。目玉洗って出直してこい糞野郎。死ね。
えー、と後ろで秋水が苦笑いのような渋い声を上げる。
あ。
秋水の困った感じの声を聞いた瞬間、美寧の脳が、かっ、と灼熱した。
コイツ。
秋水を。
ディスりやがった。
美寧は目を見開いて、即座に石川の手を思いきり払い除ける。
「先生を馬鹿にするなっ!!」
そして、ボストンバッグからスタンガンを取り出して、驚いた顔をした糞野郎の腹に押し当てた。
えぇー。
目の前の光景に、秋水は絶句してしまった。
美寧の知り合いと思われる男性の腹部に、ごり、と当てられた無骨な黒いグリップ。
一瞬だけ、なんだそれ、とは思ったものの、秋水にはその形状のものに思い当たる節があった。
それ、スタンガンじゃね?
スタンガン。
高電圧の電気ショックを与え、相手の行動を制限する護身用品だ。
美寧の握っているそれは、以前に秋水がネットショップで見たことがある。
スライムと遭遇したばかりの初期の頃、その対処法がまるで分からなかったときには、とにかく攻撃方法を思案しまくっていたのだ。
モバイルバッテリーやドライアイスを食べさせたり、火をつけてみたり、花火の火薬だって試した。
そして、実行には移さなかったが、電撃、という案も一応あった。
電撃。
つまり、スタンガンの出番だ。
しかし、日本で合法的に購入できるスタンガンというのは、映画みたいに一瞬で相手を気絶させるような道具ではない。
基本的には、電極を押し当てて強い痛みを与えるものだ。数秒押し当て続けると筋肉が拘縮して一時的には動けなくなるが、それも確実ではない。
改造すれば違うのだろうが、残念ながら秋水には尊敬する律歌のように、機械弄りが出来るわけではないのだ。
よって、威力が低すぎると判断して購入を保留にした。
美寧が持っているのは、その保留にしていたスタンガンと瓜二つである。
え、なに、どういう状況なんだコレ。
ジムに向かう途中、美寧を見かけたから近づいてみれば、どうやら誰かと喋っている最中。元・彼氏さんだったら気不味いなぁ、と思って立ち去ろうとはしたものの、どうにも美寧が剣呑な雰囲気を醸し出していたため、渋々声を掛けたら、この惨状である。
ヤバい。
もしかして、元・彼氏さんと修羅場の真っ最中だったのかもしれない。
だってほら、付き合うの止めとけとか、騙されてるとか、凄い必死な形相で美寧を説得しているし。
それはそうだ。
こんなデカくて怖いツラした奴が、元・彼女さんと深夜に密会してたら、普通に心配だろう。元・彼氏さんじゃなくても心配するか。
というかもしかして、縒りを戻そうと美寧に言い募っている最中だったのかもしれない。
そこに割り込んだのは、なにを隠そう、この棟区 秋水とかいう空気の読めないバカヤロウ。
美寧がスタンガンを元・彼氏さんに押し当てている光景に、秋水の背中にぶわりと冷や汗が噴き出す。
マズいマズいマズい。
痴情の縺れによる暴力沙汰。
犯行は女子高生の錦地 美寧。
現場には職務質問常連客のヤクザみたいな大男。
巻き込まれたのは元・彼氏さん。
構図は最悪。
警察沙汰になれば秋水は確実に巻き込まれる。
ただでさえ深夜徘徊で補導されてから日にちは経っていない。
しかも、美寧まで一緒に御用だ御用だ。秋水と仲良くお巡りさんにしょっ引かれ、元・彼氏さんはただただスタンガンで痛い思いをするという。
うん、地獄かな。
「申し訳ありません」
秋水は恐怖で震えそうになる声を必死に誤魔化し、いつも以上に優しく落ち着いた声で、ゆっくりと声を出す。
元・彼氏さんに向けて。
スタンガンを押し当てられ、ひぃ、と情けなく悲鳴を上げていた元・彼氏さんは、秋水に声を掛けられて、ひぃ、と再び情けない悲鳴を上げる。なんだか凄く申し訳ない気分になってしまう。
秋水を警戒した途端に豹変したかのようにキれ出した美寧だが、きっとその前までの元・彼氏さんと話している最中にストレスが溜まりまくっていたに違いない。
秋水が警戒された話題で、たまたま怒りのボーダーラインを超してしまっただけだろう。
だが、自分の話題で美寧が怒り出したのも、また事実。
ここは自分が場を収めねば、元・彼氏さんの身が危ない。
秋水はそっと美寧の手を上から握る。
スタンガンを握った、その手を握る。
「美寧さん、落ち着いてください」
「――――っ」
なるべく優しく。
なるべく落ち着いて。
諭すように、秋水は美寧に話しかけた。
ひゅ、と美寧が震える息を吸い込む。
安心してくれ、実は秋水も足が若干震えている。
いや、だって怖いし。
急にキれ出す女性は往々にして怖いけれど、それで躊躇なくスタンガンを取り出せる美寧がとても怖い。
なるほど、美寧を怒らせると即座にスタンガンが出てくるのか。
わりと真面目に怖ぇ。
最近の女子高生って、護身用具でスタンガン持ち歩いてる感じなのだろうか。
もしかして律歌とか、下手したらクラスのチワワとかも持ち歩いている可能性があるかもしれない。
こえぇ。
女子こえぇ。
努めて冷静な風を装っているが、秋水の心臓は先程からバクバクしている。もちろん恐怖だ。
秋水は経験上、キれている女子に不用意に話しかけると、噛みつき返されるという記憶しかない。参考は妹だ。
噛みつき返すついでにスタンガンをお見舞いされたら、戦闘態勢の整っていない秋水ではどうしようもないのである。
ダンジョンのモンスターからは感じたことすらない、純粋なる恐怖をひた隠しつつ、秋水はスタンガンを握った美寧の手を握り、ゆっくりと元・彼氏さんからスタンガンを引き離させる。
ひぃ、と元・彼氏さんが三度目の悲鳴を上げ、へたり込んだ。
分かる。
女性にスタンガンを急に押し当てられるとか、トラウマになりそうだよね。
「……私は、美寧さんの筋トレを指導させていただいている者です」
美寧から手を離した秋水は、そんな元・彼氏さんの前で片膝をつきながら手を差し伸べ、自己紹介を挟む。
秋水は、見た目がゴツく、怖い。
しかも今は、海霧に本物のヤクザと酷評された羊革のコートを着ている。
これは、勘違いされて当然だろう。
その誤解を、まず晴らしておきたい。
ついでに、深夜に密会してたせいで男女の関係に不和が生じたとかなんとか言いがかりをつけられる前に、自分は筋トレを指導しているだけの健全な関係ですよ、というアピールも兼ねている。
秋水は防衛本能強め系男子である。ただし自称。
怯えた目を向ける元・彼氏さんに、秋水は優しく説得するように話しかける。
「私のような見た目の者が美寧さんの近くに居て、心配されるのは分かります。ですが、決して彼女に害を加えるつもりはありません。彼女は私の――」
あくまでも美寧との関係はクリーンな関係であるというのを強調するために言葉を重ねた秋水だが、ふとその言葉を止めてしまう。
美寧は秋水の。
続けようとした言葉は、「大事な生徒」だ。
秋水は美寧の筋トレを指導している。
トレーナーではないが。
素人だが。
でも、美寧は秋水のことを先生と呼んでくれる。教えて欲しいと頭を下げてくれた。
ならば、美寧は生徒である。
秋水にとって、美寧は大事な生徒だ。
だが、美寧は年上である。
秋水は中学生。
美寧は高校生。
年上の人を生徒扱いするのは、なんだか違和感がある。
秋水はこの辺り、社会人経験の無い中学生らしい感性であった。
そして、中学生らしい感性であったからこそ、言葉を止めた。
立場上、美寧は生徒だ。
しかしながら、秋水はあまり、美寧のことを生徒としては見ていない。
美寧は、同志である。
一緒に筋トレを行う、同志なのである。
鉄に向き合い、重みに抗い、自分自身と対話する、そんな同じ志を持った仲間なのだ。
初心者だろうが関係はない。
むしろ、美寧の筋トレにおけるド根性っぷりには、尊敬とリスペクトを感じているくらいだ。
美寧は秋水にとって、大事な同志。
それを生徒扱いするのは、気が引ける。
しかし、この元・彼氏さん、見るからに筋トレしたことのなさそうな線の細い体型をしていらっしゃる。
筋トレをしたことのない人に向けて、筋トレ同志という概念を伝えるにはどうしたら良いだろうか。
一般の方に向け、分かりやすく。
秋水は一瞬だけ言葉を止めてから、別の形で言葉を紡いだ。
「彼女は私の、大事な人です」
え、と元・彼氏さんが目を丸くした。
後ろで美寧が息を飲む。
「――え゜゛?」
息を飲んでから、奇声を発した。
まあ、美寧は時々面白い奇声を発する女子高生なので、きっと平常運転だろう。
「素晴らしい女性だと本心で思っています。なのでここは私に、美寧さんを預けていただけないでしょうか」
そして秋水は、真面目に元・彼氏さんに向き合い、堂々とそう曰った。
秋水はとにかく、この元・彼氏さんを美寧から離そうと必死である。
この場に居たら、恐らく元・彼氏さんの身が危ない。具体的にはスタンガンという脅威。
なので、ここは秋水が美寧を引き受けて、元・彼氏さんの安全を確保するのが先決だろう。
そう考え、秋水は元・彼氏さんを説得する。
なお、とんでもなく誤解を招く発言を口走っていることに、秋水は気がついていなかった。
するり、と美寧の手からスタンガンが滑り落ちる。
アスファルトに、ガチャン、と音を立てて落ちたスタンガンは、トリガー部分が偶然にも押されたのか、バチッ、と激しい音と共に電撃を放った。
「うわぁっ!?」
元・彼氏さんはスタンガンの電撃にビビって跳ね上がった。
ついでに秋水も恐怖のあまりビビって跳ね上がった。
「あ゜ぺ゛ぇ゛」
美寧は脳破壊されていた。
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【悲報】美寧ちゃん、またもや脳破壊される【何回目か分からねぇ】
秋水(この修羅場具合、彼氏さんとは円満な別れじゃなかった感じか。ここは二人を引き離さないと……)
美寧(大事な人! 預かる! つまりプロポーズってこと!? 私ってば先生にプロポーズされちゃってる!? いつの間にか私勝ち確!? やったああああぁっ!!)
石川(やっぱり美寧はこのヤクザと付き合って非行に走ってるんだ!)
こんにちは地獄絵図。