広背筋などを中心とした背中の筋トレ種目で、ワンハンドダンベルローイングというものがある。
トレーニングベンチに片側の手と膝を乗せ、もう片足はしっかりと床に着けて体を支えるのが基本姿勢だ。背中は丸めず、真っ直ぐに伸ばし、四つん這いに近い姿勢とも言える。
その基本姿勢で、自由にしている方の手にダンベルを持ち、床に向かって垂らす。
そして、ダンベルを腰骨に向かって引き上げる動作を、ワンハンドダンベルローイング、と言う。
ワンハンド(片手)でダンベルをローイング(引く)するという、めちゃくちゃド直球名な筋トレ種目名である。
「そうです、丁寧にいきましょう。9……手ではなく、肘を後ろに引くように。10……脇腹をこするような軌道を意識すると、背中の筋肉が収縮しやすくなりますよ。11……」
秋水の目の前で、そのワンハンドダンベルローイングを黙々と繰り返す女性が一人。
本日は絶好調で様子のおかしい女子高生、錦地 美寧である。
トレーニングベンチに左手と左膝をつけた基本姿勢のまま、右手に持ったダンベルをゆっくりと下ろしていく。
「ふぅ……はぁ……」
「下ろすときは力を抜かず、ゆっくり下ろしましょう。背中の筋肉を意識して。はい、12」
「ふにぃっ」
完全に下ろし切る直前、秋水の声かけに反応するように、美寧はダンベルを一気に腰に向かって引き上げる。
下ろすときはゆっくり、上げるときは素早く。
ただいま8セット目。
ダンベルを持っている美寧の右腕は、ぷるぷるしていた。
「素晴らしいですよ美寧さん、今日はブレが少ないです。体がしっかり動かせるようになっていますね。はい、そこからゆっくり下ろしましょう」
「ふへへ……へふぅ……」
落下させようとする重力に逆らうように、上げたダンベルを再びゆっくりと下ろしていく。
息をつく合間に、美寧が一瞬不気味な笑いを漏らしたが、秋水はそれを綺麗にスルーすることにした。
今日の美寧は、モチベーションが高いが、ちょっと怖い。
ジャンプする。
簡単な動作と思われるかもしれないが、非常に効率の良い全身運動の一つだ。。
「おっと、強く足を打ち込んではいけません。着地のときは猫のように、深く沈み込む形でしゃがんで衝撃を逃がしましょう」
垂直の大ジャンプから着地した美寧は、どんっ、と先程までよりも大きい音を立ててしまった。衝撃が上手く逃がせなかったようだ。
膝に負担が掛かってしまう。
秋水が即座に注意をすると、こくこく、と美寧は何度も頷きながら、深く尻を沈ませるようにしゃがみ込む。
返事をする余裕がなさそうである。
しかし、美寧の目は死んでおらず、スクワットの沈み込んだ座り姿勢から次の合図を待っている。
相も変わらず、ナイス根性。
「はい、23」
「にゃいっ!」
妙なかけ声と共に、一気に膝を伸ばして美寧が素早く跳躍した。
ジャンピングスクワットに近い。
座った姿勢からジャンプした美寧は、バンザイをするかのように両手を頭上に伸ばす。
一瞬の浮遊感。
バレーボールやバスケットで、ボールをブロックするかのような姿勢で跳んだ美寧は、重力に従って落ちる。
とす、と今度は静かな着地。
衝撃を吸収するように膝と股関節を曲げ、尻を落とし、上体を軽く前傾させる。
「はふっ」
「綺麗な着地です。全身の筋肉が連動していますよ。あと2回のラストスパートです。はい、24」
「ちょあっ!」
再び美寧は跳んだ。
汗を滲ませ、息は切れ切れ。
しかし、その目はやる気に満ち溢れており、表情はどこか恍惚としたものだった。
なんだろう。美寧から危ない雰囲気をヒシヒシと感じる。
「はひぃ……ふぅ……ふにゃ……はぁ……」
最後の最後に、インクラインダンベルローイングでしっかりと追い込んだら、美寧はいつものように息も絶え絶えになっていた。
だがしかし、表情はどこか生き生きとしている。
筋トレが楽しいという感じだろうか。
凄くよく分かる。
「きょ、今日のインクラ……けほっ、こほっ」
なにかを尋ねようとした美寧が咽せたので、秋水は軽くその背を撫でる。
インクラインダンベルローイング、その出来はどうだったのかを聞きたかったのだろう。
「バッチリでしたよ。前回よりもしっかりと動けています。頑張りましたね」
ぐ、と背を撫でるのとは反対の手でサムズアップを美寧にしてみせる。
これはお世辞でもない。
大きい筋肉から小さい筋肉へ、多関節種目から単関節種目へ、そんな王道的筋トレメニューの組み方を無視してインクラインダンベルローイングを最後に組み込んでみたものの、美寧はしっかりとフォームを守って行うことが出来ていた。
ベンチにしっかりと張った状態の胸をつけ、背筋をまっすぐに。
床に向かって垂らしたダンベルも、肘を使って弧を描くように引く。
最後の方は肘を上げきることが出来ないほどに背中を追い込んだが、その状態になってもなお、美寧の姿勢は問題なかった。
実に綺麗なフォーム。
これは、来月を待たずして、バーベルベントオーバーローイングを行っても、大丈夫かもしれない。
以前、美寧が体得できずに挫折した種目。
そして、今の美寧が目標としている種目。
凄い。
ジムでの筋トレを開始して2ヶ月も経っていないとは、到底思えない成長速度だ。
「素晴らしかったです。基本姿勢も安定していましたし、美寧さんの努力が如実に表れています。美寧さんの体はすっかり柔らかくなりましたね。お見事です」
「……にゅふ」
心の底から手放しで美寧を褒め称えれば、トレーニングベンチにもたれ掛かるように息を整えていた美寧の口から気持ち悪、ではなく、なかなかに特徴的な笑い声が漏れ出した。
やはり、筋トレの楽しさに目覚めたのかもしれない。
とても分かる。
筋トレを好きになってもらえて嬉しい、と秋水は何度か深く頷いてから、美寧の息が落ち着くのを待つ。
「今日の美寧さんは、とてもやる気に満ち溢れていますね」
「そりゃ、そうじゃんねっ!」
がばり、と美寧がトレーニングベンチから体を跳ね起こした。
元気である。
腹筋というか、体幹トレーニングを追加しても良いかもしれないな、と秋水が鬼のようなことを頭の片隅で考えていると、美寧は生き生きとした表情で、びしり、と天井を指さした。
「私には、でっかい目標ができたんだからっ!」
なんか、堂々とそんなことを言い出した。
大きい目標。
それはあれか、来月のことだろうか。
「えーっと、バーベルベントオーバーローイングですか?」
「それは来月だから、短期目標じゃんね。そうじゃなくて、大目標!」
「大目標?」
「目指せ、体力と持久力の向上っ!」
違ったようだ。
確かに、今の美寧の大臀筋やハムストリングスの柔軟性であれば、バーベルベントオーバーローイングの体得は十分射程圏内である。
それとは別に、体力と持久力の向上ときた。
体力とは総合的な身体能力のことなので、持久力というのは体力の一要素なのだが。
無粋なツッコミが脳裏に浮かんでくるが、秋水はそれを飲み込む。
「それはなんとも、急ですね」
「急だけど頑張るね! せめて先生が満足できるくらいには体力と持久力をつけるじゃんねっ!」
「うん?」
満足、とはなんのことだろうか。
よく分からない美寧の台詞に秋水は首を傾げるが、そこでふと、木曜日のことを思い出す。
美寧と合同の筋トレをした日のことだ。
せっかくの合トレということで、秋水はポーションの使用を控え、美寧の補助を受けながら楽しく筋トレをした。
一方で、美寧は軽めの筋トレではあったものの、秋水より先にヘバり気味だった。
秋水と美寧では、そもそも培ってきた体力に圧倒的な差があるのだから、こればかりは仕方のないことである。
なるほど、美寧は合トレで食らいついてくるために、体力の向上を目標にしたということか。
不覚にも、秋水は感動してしまう。
合トレにわざわざ付き合ってくれただけでも嬉しいというのに、次を見据えてくれている。
それはつまり、また合トレをしてくれる、ということだ。
この前の合トレで筋トレの楽しさに目覚めてくれたのか。
それはとても、嬉しいことだ。
秋水は思わずうっすらと笑みを浮かべる。
それを見上げた美寧が、ぼっ、と顔を赤くした。
なお、美寧の脳内はドピンクで、体力向上を目標とした理由は全く違うものである。
美寧の目標を聞いてニコニコの秋水だったが、はて、美寧の大目標はそもそも綺麗なボディーラインを目指す、というスタイルの維持向上じゃなかっただろうか、と続いて思い出す。
確か美寧と最初に会ったとき、彼氏に見られても恥ずかしくない体になりたい、と言っていた。
他者からの評価を目的にするのはオススメできないけどな、とは思ったが、それでもキツい筋トレを継続できる美寧の根性は凄いな、と感心していたので、その目標はよく覚えている。
彼氏のために、という他者依存の理由から脱却しつつある、と考えるべきだろうか。
いや。
違うか。
「そういえば、美寧さんは彼氏さんとは別れられたのでしたね」
「え? あ、うん……はいっ! めっちゃフリーですっ! 彼氏なんていませんっ! 安心してねっ!」
「安心……」
元気に手を上げて彼氏がいないことを強調する美寧を、秋水は真顔で見下ろす。
美寧は、彼氏と別れている。
そもそも、目標となる軸がなくなっていたのだ。
だから、別の大目標を打ち立てたということだろう。
納得である。
納得ついでに、その別れたという美寧の彼氏のことを思い出す。
そう、夜道で美寧にスタンガンを突き立てられていた男性のことだ。
秋水の中で彼は、完全に美寧の元・彼氏さんだと認識されていた。
「あの、質問なのですが、美寧さん」
「はい?」
「お知り合いの男性と、険悪な感じだったことですが……」
「ああ、石川のこと?」
少し聞きづらそうに秋水は尋ねてみると、美寧はなんとも思っていないかのようにしれっと返す。
すでに名字呼び。
実にあっさりした恋人関係だったのだろう。
いや、石川という元・彼氏さんの必死さを思い出すに、美寧の方はすっぱりフったとしても、元・彼氏さんの方は未練たらたらなのかもしれない。
修羅場かぁ。
「その、何があったかはお察しすることしかできませんが、スタンガンを持ち出すのは少々、どうかと思いますが」
「えー……だってアイツ、先生のこといきなりディスってきたし……」
「あれくらい、私は構わないですよ。ですが美寧さん、スタンガンは正当な理由もなく持ち歩かれてはいけませんよ」
「護身用は正当な理由じゃんね」
「確か違ったような気が……」
「ネットで買えるような低出力のだから大丈夫大丈夫」
「大丈夫とは」
普通だよね、というようにあっけらかんと答える美寧を見て、最近の女子高生は普通にスタンガンを持っているのか、と秋水は間違った知識を得てしまった。
秋水の脳内では何故か、高出力に改造されたスタンガンをバチバチと放電させて微笑んでいる律歌の顔が思い浮かんだ。完全なる風評被害である。
「それじゃあ先生、また夜にねっ!」
そしてクールダウンの柔軟をしっかり終えた美寧は、筋トレ用の衣類から私服へと着替え、そろそろ帰る時間となっていた。
今日は本当に、徹頭徹尾、美寧が元気だ。
何か良いことがあったのかもしれない。
「はい、帰り道も気をつけてくださいね」
「はーい。怪しい奴が来たらスタンガンぶっ放しまーす」
「いえ、逃げてください」
「にひひ。先生は優しいじゃんね」
美寧はからからと笑う。元気の方向性がなんか怖い。
それから美寧は、それじゃあね、というように手を振るが、それを秋水は咄嗟に呼び止める。
「あ、美寧さん、ちょっとお待ちを」
「はえ?」
危ない危ない、普通に別れるところであった。
元・彼氏さんとの修羅場とか、いきなり気絶する美寧とか、目が覚めたと思ったら家族になるとか幸せにするとか口走って脳の異常を疑ったりとか、実に色々あってすっかり忘れていた。
秋水は扉の電子ロックを開けようとしていた美寧の傍まで改めて近寄る。
「チョコレートと手紙、ありがとうございました」
「――――っ!?」
そして、深々と頭を下げた。
一昨日の木曜日、合トレをした日。
美寧から押しつけられるようにしてチョコレートと、そして丁寧にしたためられた手紙を貰った。
チョコはまだ食べていないが、手紙はしっかりと読ませてもらった。
ありがとう、という言葉が綴られた、とても嬉しい言葉が並んでいた、あの手紙。
そのお礼を、していなかった。
「手紙、嬉しかったです」
「――そ、そぉ? 変じゃなかった?」
顔を真っ赤にして裏返った声で返事をした美寧の目は、忙しなく泳いでいる。
変な手紙ではなかった。
まあ、いつもの美寧から受ける印象とは違って、かなりキッチリした文体には、確かに驚いたが。
「はい。とても丁寧な手紙で、少し驚きました。それに、そこまでありがたいと思われていたことにも、驚きました」
「そ、その……ありがとう、っていうのは、本心だし……えっと……」
「私も、美寧さんには感謝をしています。美寧さんに筋トレを教えるようになって、私もまた改めて勉強させていただいています。ありがとうございます」
「ふへ、ふへへ……」
改めて美寧に深々と頭を下げると、恥ずかしそうに美寧がくねくねしていた。
美寧の挙動不審はいつものことだろう。
しかし、頭を下げてから、チョコレートは貰いっぱなしだ、と秋水は気がついた。
「ああ、なにかお返しの品を持ってくるべきでしたね。気が利かず、申し訳ありません」
「ぜ、全然大丈夫じゃんねっ! あれはあの、ほら、感謝の気持ちって言うか、そのっ!」
「あ」
お返しの品を持ち合わせていない、と困ってから、秋水はふとデジャブを感じる。
そういえば、律歌からチョコレートを貰ったときも、同じ状況だった。
「少々お待ちください」
記憶が確かなら、同じく証拠隠滅的なノリでリュックにしまい込んでいたはずだ。
秋水は少しだけ美寧に待ってもらい、棚に入れていたリュックサックのところまで小走りで向かう。
リュックを開き、奥を覗き込めば、鈍く光る黒い輝き。
アクセサリーだ。
たぶん、女性は好きであろう、というのは偏見か。
まあ、なんだかんだで律歌も喜んでいたと聞く。
ならば、丁度良いだろう。
個人に渡したところで、成分分析がどうだとか、素材の鑑定がこうだとか、なんてことにはならないだろう。全員が全員、祈織みたいな鑑定眼を持っているわけじゃないのだ。
1個か2個くらい、渡しても大丈夫だよな。
秋水は非常に軽く考えつつ、それを持って美寧のところまで戻っていく。
「美寧さん、これを」
「へ?」
そして、美寧に手渡した。
黒鉄の指輪を、美寧の手のひらの上に。
「今はこんなものしかありませんが、よろしければ」
「み゜」
ゴブリンをぶち殺したらなんか出てきた正体不明な貴金属、程度で申し訳ないな、という気持ちで手渡した途端、美寧の口から人間にはほぼほぼ発音不可能みたいな声が漏れ出した。奇声を上げるのは美寧の得意技である。
黒鉄の指輪は、ゴブリンからのドロップアイテムだ。
白銀シリーズとは違い、ダンジョンの地下4階の攻略を始めてから、まだ3つしか出てきていないという異常に渋いドロップ率であり、祈織や鎬にもまだ報告していない品である。
つまり、まだ世間には流出させていない。
未知の元素が含まれていたアンクレット、さらに別の元素が入っている可能性があるネックレス、祈織の知識には存在しない宝石が埋め込まれたサークレット、それら白銀シリーズとは色からして明らかに違う金属だが、研究対象として流出してないなら、まあ、大丈夫だろう、たぶん。
バレなきゃ同じだろ、と秋水は非常に気楽に考えていた。
一方、受け取った側である美寧は、非常に重く考えていた。
「こ、婚約指輪じゃんね……」
「え?」
「な、な、な、なんでもないよっ!?」
ぼそり、となにか呟いたので聞き返してみたが、美寧は顔を真っ赤にしてブンブンと首を横に振る。
それから、ぎゅ、と黒鉄の指輪を強く握り締めてから、美寧は恐る恐る黒鉄の指輪を指で掴みあげた。
す、と指に、はめる。
「にゅふ、ふへ、ふふへ、ふへへへへへ…………」
流れるような動作で黒鉄の指輪をはめた美寧は、実に嬉しそうに表情を崩して不気味、ではなく、特徴的な笑い声を上げた。
うん。
喜んでくれているようだ。
ならば良し。
やはりアクセサリーは女性に喜ばれるんだなと、それを見て秋水は軽く安堵する。
黒鉄の指輪はそんなにドロップするわけじゃないし、売り物じゃなくてプレゼント用に少量確保しておくくらいでいいかな、と頭の片隅で考えつつ、ちらりと秋水は美寧の左手を見た。
左手の薬指って、あんまり指輪をつけない方が良いと思うのだが、気にしすぎだろうか。
美寧の左手の薬指で鈍く輝く黒鉄の指輪を見つつ、秋水は軽く首を傾げるのだった。
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秋水くんのおバカ!(2回目)
美寧ちゃんの情緒はもうダメかもしれんね。え、わりと前からダメ? それはそう( ´-ω-)
次回、黒鉄の指輪、バレる(無慈悲)