「あらそう、私にもプレゼントしてくれるのね。ありがとう、秋水」
「…………うん」
昼過ぎの質屋 『栗形』。
店内のカウンターテーブルに突っ伏して、秋水は無事に死亡した。
正面に座る鎬はいつもの真顔だが、どことなく嬉しそうなのは、秋水を虐めて楽しんだからかもしれない。鬼だろうか。
あの小娘には指輪をプレゼントしたそうね。祈織も誘惑するつもりだったのかしら。小さい子が好きなのね。私、秋水からそんなプレゼントを貰った記憶がないわ。
静かにキレながら、ひたすらネチネチと問い詰めていたのはなんだったのか。
とりあえず、鎬にも黒鉄の指輪をプレゼントする、ということで話は落ち着いた。
話というより、鎬が落ち着いてくれた。良かった。
「持ってくるのは明日でいいよな?」
「あまり急がなくてもいいのよ」
「なら、来年でもいい?」
「へぇ?」
「ごめんて」
むくり、と秋水はカウンターから顔を起こす。
明日もこの質屋に来なくてはならなくなった。
祈織の注文である白銀のサークレットと、黒鉄の指輪。
そして鎬への献上品で、黒鉄の指輪をもう1つ。
ふむ。
サークレットを1つと、指輪が2つ。
……なくね?
起こした顔から、さ、と血の気が引いた。
白銀のサークレットは、ある。
この前、ボコボコにされながらどうにかこうにかスライムを殺し、もう1つ得たのだ。
しかし、黒鉄の指輪。
1つはある。
だが、2つは、ない。
黒鉄の指輪はドロップ率が激渋であり、今まで入手できたのは、通算で3個だけだ。
最初に拾ったものは、律歌にプレゼントした。
次に拾ったものは、美寧にプレゼントした。
そしてその次に拾ったものは、祈織に売却する予定だ。
ヤバい。
鎬の分が、ない。
す、と秋水は鎬へ視線を向ける。
にこり、と極上の営業スマイルを向けられた。
怖い。
「楽しみにしてるわね」
「…………はい」
秋水は力なく頷く。
5日ほどダンジョンアタックをして、黒鉄の指輪は3個しかドロップしていない。
明日まで頑張れば、どうにか4個目は確保できるだろうか。確率論なので、下振れしたら終わりだが。
ヤベェ、と秋水は内心で呟いていると、さわ、と鎬がカウンターに顎を置いたままの秋水の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でてきた。
「ま、無理はしなくていいわよ」
「無理をすんのは、作ってる 『ダン・ジョンさん』 だろ」
「ああ、そういうことになってたわね」
鎬は軽く呟きながら、ぴん、と秋水の額に指で弾いた。
そういうことになってる?
なにか、嫌な言い方である。
秋水は確かめるように鎬の表情を凝視するが、その内心はいまいち分からない。
「……そうそう、秋水」
秋水から疑いの視線を受けてから、鎬はふと思い出したように声を上げた。
鎬がこういうタイミングで思い出すとき、だいたいロクな内容じゃないような気がする。
名前を呼ばれ、秋水は思わず身構えてしまう。
「ちょっと、これを触ってちょうだい」
そんな秋水をスルーしつつ、鎬はカウンターの下から木製のトレーを取り出した。祈織が使っている金属のトレーではない。
キャッシュトレイとか、コイントレイとか、そういう呼ばれ方をされている会計盆である。正式名称はカルトンと言ったか。確かフランス語。
その木製トレーには、白銀のネックレスが乗っていた。
「なんだこれ?」
目の前に置かれた木製のトレーに目を向けた後、秋水は疑うような目線を鎬に向ける。
「私が聞きたいわ。なんなのかしらね、このネックレス」
正論で殴られた。酷い。
確かに、現代常識の枠組みからは色々外れているであろうダンジョンのドロップアイテムである。鎬が、なんなのかしらね、と言うのも当然である。そういう意味で聞いたんじゃないのだけれど。
ここで下手に拒否しても面倒そうだな、と秋水は小さくため息を吐いてから、木製トレーに置かれた白銀のネックレスに手を伸ばした。
すると、鎬がカウンターの下からさらに追加で別の木製トレーを取り出す。
なんだ、とそちらに目線を向けながら、秋水は白銀のネックレスに触れて。
ジャ、と鋭い金属音を立て、白銀のネックレスが跳ね上がった。
「は?」
まるで重力に逆らうかのように、もしくは磁石で同じ極を近づけて反発したかのように、白銀のネックレスが空中に跳び上がるのを見て、秋水は思わず間の抜けた声を漏らす。
触った瞬間に、白銀のネックレスが今まで見たことのない挙動を行った。
ヤバい。
なにがどうヤバいのかは分からないが、直感的に秋水は危険を感じ取る。
秋水は反射的に跳躍した白銀のネックレスから手を離し、距離を取るように体を仰け反らせた。
跳ね上がった白銀のネックレスが宙を舞う。
その下に、す、と鎬が取り出していた別の木製トレーを差し込んだ。
しゃら、と白銀のネックレスが、その木製トレーの上に落ちる。
まるで白銀のネックレスがジャンプするのを見越していたかのような無駄のない動きだった。
「……なるほど」
木製トレーで白銀のネックレスを受け止めてから、鎬がぽつりと呟く。
嫌な予感だけが、ヒシヒシとする。
「秋水」
そして鎬は顔を上げ、秋水を見た。
にっこりと、女優顔負けの笑顔。
100%の作り笑い。
たらり、と秋水の額から冷や汗が一筋だけ流れた。
「指輪、楽しみにしているわ」
厄介事の、予感である。
約束の時間まで、まだ20分以上ある。
見慣れた街中を歩きながら腕時計を確認した中年の男、峰岸 鉄臣(みねぎし てつお)は、コートの上から胃の辺りをさすった。鈍い痛みが顔を出し、ズキズキと自己主張を繰り返している、ような気がした。ぜひ気のせいであってほしい。
目指しているのは待ち合わせの場所に指定された喫茶店。
最近オープンしたばかりの、新しい喫茶店らしい。
その喫茶店で、鉄臣はとある弁護士と落ち合う約束をしていた。
示談・和解交渉についての、話し合いだ。
鉄臣が現在抱えている仕事として、とある交通事故の裁判がある。
去年のクリスマス・イブ、赤信号で停止中の乗用車にトラックが突っ込み、一家3人が亡くなるという悲惨な交通事故があった。
その刑事裁判と、民事裁判。
棟区 鎬が持ち込んだ案件である。
日本政府との交渉なんていう、地方の一弁護士が行うにはあまりにもぶっ飛んだ内容の仕事もあるのだが、あちらは一段落がついたところであり、鉄臣が集中すべき仕事は裁判の方へとシフトしてきている。
今日は、その裁判について、相手方の弁護士と話し合いを行うこととなっていた。
名目上は、話し合いだ。
「……胃薬もう1錠、飲んでおこうかな」
「先生、さっきも飲んだばかりじゃないですか。用法用量を守らないと逆に胃を壊しますよ」
隣を歩く相方の新人弁護士、鋒山 志穂(ほこやま しほ)が、呆れたような声でたしなめてくる。
鉄臣の胃が悲鳴を上げている原因は、明確だった。
これから会う予定の、交通事故の加害者、トラック運転手側の代理人弁護士との事前交渉だ。事前交渉、という名の話し合いだ。
相手は全国に支部を持つ、超大手の法律事務所に所属するエリート弁護士である。田舎町で細々とやっている鉄臣の事務所とは、規模も格も段違いだ。
だからこそ、待たせるわけにはいかないと、こうしてかなり早めに到着するように足を動かしているのである。
だが、憂鬱な理由はそれではない。
『危険運転致死傷罪に賠償金3億? 示談拒否? さらに刑事裁判では最高刑一点張り?』
明らかに鼻で笑ったその声が、鮮明に鉄臣の耳に蘇る。
それは以前、鎬が裁判で要求している内容を、加害者であるトラック運転手の代理弁護士へと伝えたときの反応であった。
いや、うん、正常な反応過ぎて泣きそうだ。
鎬は最初の頃、トラック運転手に対し、刑事裁判で 『未必の故意による殺人』 として死刑を求めていた。
そして加害者に遺族が死刑を求めている、という内容が伝わったと分かるや否や、即座に 『未必の故意による殺人』 での死刑を求めることを取り下げた。
代わりに、危険運転致死傷罪の最高刑である、懲役20年を求めることに切り替えた。
ついでに、民事裁判も並行して起こした。
民事裁判で鎬が加害者のトラック運転手および使用者である運送会社側に求めたのは、損害賠償3億円。
しかも、示談や和解の交渉には一切応じるつもりはない。
今回の3人の年齢・収入から裁判基準で最大限積み上げれば、3億円前後も十分に射程に入る。かなり強気だが、荒唐無稽とは言えない請求額の絶妙なラインである。情状酌量の余地など与えるつもりがないのが明らかだ。
普通に考えれば、一般人が思いつく内容ではない。
段取りが実に鮮やかである。
故に。
『……冗談も休み休みにしてくださいよ。被害者である弱った遺族につけ込んで、どんな入れ知恵をしているのかは知りませんがね、どうやら田舎の先生は現実をご存知ないようだ』
先日の通話で相手方の弁護士が放った、鼻で笑うような上から目線の言葉が脳裏に蘇る。泣きそう。
きっと相手には、鉄臣が被害者遺族に対して悪い知識を吹き込んだ悪徳弁護士だと思われただろう。
誤解である。
そもそも、その無茶苦茶な条件を突きつけたのは鉄臣ではなく鎬なのだが、そんな言い訳が通用するはずもない。
そして今日、その相手方の弁護士と話し合いを行うのである。
話し合い、になると良いな、と腹を押さえながら鉄臣は遠い目をした。
『次にお会いした際、私が相場というものを教えて差し上げましょう』
つらい。
胃がつらい。
加害者であるトラック運転手は、バックに大手の運送会社がいる。
その伝手をもって、トラック運転手側についている弁護士は、超大手の法律事務所に所属するエリート弁護士だ。
今日は間違いなく、その相場とやらを盾に、完膚なきまでに叩きのめされるのだろう。
「向こうが変な要求をしてきたら、真っ向勝負で戦いましょう。遠慮なく言ってやってください」
「志穂さん、お願いですから穏便に……ただでさえ心証最悪なんですから、これ以上こじれたら私の胃に穴が空きます」
臨戦態勢で鼻息を荒くしている狂犬ちゃんのリードを必死に握りしめながら、鉄臣は重たいため息を漏らす。
相手方からすれば、こちらの心証は最悪だ。
どう考えたって、こちらは遺族に入れ知恵を行った田舎の悪役弁護士にしか見えない。
しかも、刑事裁判で遺族側が求める量刑意見を変更し、民事裁判を起こしてから、少し間が空いてしまった。
それは新元素の取り扱いや利権などという異次元な交渉事に巻き込まれたからなのだが、それを知らない相手方の弁護士からすれば、弱小町弁が自分たちを後回しにしやがった、としか映らないだろう。
誤解だ。
泣きそう。
胃が痛い。
鉄臣は重たい足取りで目的地の喫茶店に到着し、腕時計に仕込まれている録音機能を起動させながら喫茶店のドアを開けた。
ちりん、とガラスを弾いたような繊細な音が鳴る。
ドアベルじゃなく、風鈴か。
「いらっしゃいませー」
のんびりとした店員の声が、カウンターの向こうからした。
コーヒーではなく、お茶の香りが漂う店内。
BGMもない。
人気店というわけではなく、店内はかなり空いている。
独特な雰囲気だ。
なるほど、話し合いを行うには丁度良さそうな喫茶店だ。
鉄臣は店員へ人数を伝える前に、店内の様子を観察するようにぐるりと見渡す。
見渡して、ピタリ、とその動きを止めた。
「あっ、峰岸先生!!」
約束の20分前。
いくらなんでも、まだ相手は来ていないだろう。
そう思っていた。
だが、店の一番奥のテーブル席に、すでに待ち人が待機していたのである。
仕立ての良いスーツの男。
鉄臣と同じく中年くらい。
今回の裁判で、加害者であるトラック運転手の代理弁護人を務める弁護士だ。
その彼は、鉄臣の姿を視界に捉えた瞬間、ガタァッ、と周囲が振り向くほどの音を立てて椅子から立ち上がった。
そして勢いよく頭を下げた。
深々と90度。
完璧なまでの最敬礼だ。
「ほ、本日は、わ、わざわざ貴重なお時間を頂戴いたしまして、誠に、誠に恐悦至極に存じます!」
「……え?」
震える声が、静かな店内に響く。
カウンター奥にいる店員が「ほぇ?」みたいな間の抜けた表情になっている。
鉄臣は慌てて腕時計を確認する。
間違いない、約束の20分前だ。
鉄臣は急いで男の方へと駆け寄った。
後ろで志穂が、あのテーブルに2名追加で、と店員に伝えている。ナイスサポート。
「す、すみません! 私、時間を間違えておりましたでしょうか……!?」
頭を思いきり下げている男の前へと駆け寄ってから、鉄臣もすぐに頭を下げて確認をした。
約束の20分前だと思っていたのだが、もしかしたら鉄臣が記憶していた約束の時間が間違っていた可能性がある。
だとすれば、大失態も良いところ。田舎で細々やっている弱小事務所の弁護士が、業界大手の事務所に所属している弁護士を長々待たせてしまった。最悪だ。
約束の時間を間違えていたのかと鉄臣は焦ったが、対する男の方は鉄臣の言葉に弾かれるようにして顔を上げる。
その表情は、鉄臣以上に焦りの色が浮かんでおり、なんならば冷や汗すらも浮かんでいた。
「と、とと、とんでもない! 私めが勝手に早く来てお待ちしていただけでございますので! ど、どうぞ、峰岸先生、おかけになってください……!」
どうぞどうぞ、と震える手で奥のソファ席を促してくるエリート弁護士。
上座と下座でいうなら、上座の方である。
上座下座という礼儀の概念を、あまり気にしないタイプなのだろうか。前回顔を合わせたときは、そういうことを気にしそうなタイプに見えたのだが。
鉄臣は少し意外に思いながら、お言葉に甘えて、とソファーへと腰を掛ける。
少し遅れて志穂が追いつき、男の方へと一礼した。
「ああ、鋒山先生もどうぞこちらへ!」
先日の電話口で見せた、あの傲慢で自信に満ち溢れた態度は微塵もない。
明らかに年若い、弁護士としての実績などなにもないようなものである新人の志穂にすら、過剰なまでに下手に出ている。
ただ、その顔は青ざめ、額には脂汗がびっしりと浮かんでいた。
真っ向から対立する気満々で意気込んでいた志穂も、予想外すぎる相手の平身低頭っぷりに、振り上げた拳の行き場をなくして「え、あ、はい」と完全に毒気を抜かれてしまっている。
「あの、先生もお掛けになってください」
「はっ、ありがとうございます!」
鉄臣の隣へ志穂が腰を下ろしてなお、びしりと背筋を伸ばして立っていた男に、鉄臣は戸惑いながらも着席を促した。
すると男は、勢いよく頭を下げてから、素早い動作で席に着く。
ここは就職の面接会場だっただろうか。
なんだろう、嫌な予感がヒシヒシする。
「いらっしゃいませー。ご注文がお決まりでしたらー」
3人が座って微妙な雰囲気の沈黙が降りたタイミングで、黒髪の店員が水とおしぼりを出してきた。
透明なコップに入れられた水。
そこには氷が入っている。
鉄臣はちらりと、相手方の弁護士の方へと視線を向けた。
その男の前にあるコップに入れられた水には、氷の姿はない。
いつから待っていたというのか。下手をしたら1時間は経っている可能性がある。
「えっと、ホットコーヒーを」
「あー、すみません。ウチ、純粋にお茶の店なんで、コーヒーないんですよ」
だいぶ商品が尖っている喫茶店じゃないか。
適当な注文ということでコーヒーを頼もうとした鉄臣だったが、申し訳ないと思っているかどうかいまいちつかみ所ない店員の言葉に目を丸くした。
「では、グリーンティーを2つお願いします」
「かしこまりましたー。グリーンティー2つ、承りましたー」
出鼻を挫かれた鉄臣だったが、無言でメニュー表を開いて確認した志穂が、流れるように注文を口にする。
それを手書きの伝票に書き込んでから、店員はひょこひょことカウンターへと戻っていった。他に店員の姿がないのを見るに彼女のワンオペなのだろうか。
色々と使いやすそうな喫茶店だな、と思いつつ、鉄臣は改めて相手方の弁護士の方へと顔を向けた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません。本日はよろしくお願いします」
言って、鉄臣は改めて頭を下げた。
「こ、こちらこそよろしくお願いします!」
対して、男の方はガチガチに緊張した様子で再度頭を下げてくる。
鉄臣よりもさらに頭が低い。
どうにも居心地が悪かった。
この男は、鉄臣のような個人事務所の弁護士ではなく、大手事務所の弁護士である。言ってしまえば悲しくなるが、峰岸弁護士事務所とは、あまりにも規模も違えば格も違う。もちろん、向こうが上、という意味で。
「……峰岸先生の付き添いとなりますが、よろしくお願いします。本日は相場を教えていただけるとのことで、楽しみにしています」
続けて志穂もゆっくりと頭を下げる。
だが、明らかに牽制目的の余計な言葉付き。
やめて、余計に心証が悪くなっちゃう。
男のことをガッツリと警戒したままの志穂の台詞に、場が荒れそうだ、と鉄臣は無意識に胃の辺りに手を置く。
しかし、鉄臣のデリケートな胃が痛みを訴える前に、うぐ、と目の前の弁護士が言葉に詰まるようにして唸った。
「せ、先日は私の不勉強ゆえ、大変無礼な態度をとってしまい、死んでお詫びしたい所存です……! どうか、どうかあのような戯言は忘れていただきたく……!」
「え?」
「はい?」
ハンカチで滝のような汗を拭いながら、男はさらに深く頭を下げた。
テーブルがなければ土下座をしていたかもしれない勢いである。
鉄臣と、そして牽制をした志穂も、その低姿勢ぶりに目を白黒させてしまう。
いったいなにを言っているのだろう。
相場を教える、と上から目線で息巻いていたのはそっちではないか。それがどうして、急に命乞いをするような目でこちらを見ているのだろうか。
そして志穂さん、そんな戸惑いを隠せない目でこちらを見るんじゃありません。反応に困るから。
「す、すみません、少し身構えていただけでして……いえ、不必要なことを言いました。申し訳ありません」
「滅相もございません! 悪いのは全て、私の無知と不徳の致すところであります!」
どんな傲慢な態度で相手が来るかと警戒して構えていたのに、ここまで低姿勢で謝られてさすがの志穂も居心地が悪かったのか、困ったように謝り始める。
しかし、男の方は譲ることなく、自分が悪かったのだとひたすら謝ってくる。
うん、志穂さん、謝れて偉いですね。でも、どうしよう、みたいな目でこちらを見るんじゃありません。こちらも同じ意見なんだから。
鞄から資料を取り出しながら、鉄臣は男の様子を見た。
罠、だろうか。
鉄臣の脳内に、嫌な予想が浮かぶ。
極端に下に出ることでこちらの油断を誘い、いざ交渉に入った途端に牙を剥く作戦かもしれない。
鉄臣の経験則として、大手事務所は平然とそういう心理戦を仕掛けてくるイメージがあった。だいぶ偏見が混じっているが。
油断はできないな、と鉄臣は姿勢を正しながら気持ちを引き締め直す。
そしてすっかり毒気を抜かれた志穂は、なんでこの人はガタガタ震えているのだろう、気持ち悪ぅ、とでも思っているのか、どこか不気味な物を見るかのような目を相手に向けていた。
油断なく沈黙した鉄臣に、冷ややかな視線の志穂。
奇しくもそれは、日本政府相手の第2回交渉会議で、鎬の隣に控えていたときの様子と全く同じであった。
沈黙。
もしくは、無言の圧力めいたものが、場に降りた。
何故だろうか、男の冷や汗が増えたように見える。
「おまたせしましたー、グリーンティーでーす」
そしてタイミング良く、ほんわかした雰囲気の店員が注文していたグリーンティーを持って来た。
ありがとうございます、とそれを志穂が受け取って、少しだけ雰囲気が和らぐ。
いや、和らいだのは、鉄臣と志穂だけかもしれない。
男の方は、変わらず緊張している。
店員が下がってから、鉄臣は意を決して口を開いた。
「さて、早速示談の件なのですが……」
「も、もちろん承知しております!」
食い気味に男が頷いた。
なにを承知しているのか。
いや、内容についてか、たぶん。
「示談や和解は一切不可、民事裁判において請求は賠償3億ですね!」
「そ、そうですね……」
「また、刑事裁判の方では危険運転致死傷罪の最高刑である懲役20年を求める、という内容でお間違えないでしょうか!?」
「は、はい……」
男の気迫に鉄臣はたじろいでしまう。
向こうはちゃんと、鎬の請求を把握している。
それは良いのだが、なんでこうも気合いが入っているのか。静かな喫茶店には、少々不釣り合いな気迫である。
だが、さて。
男の気迫に押されてはいるが、鉄臣は油断していなかった。
法的ギリギリの上限ラインを狙った請求。普通ならば通るはずがない。
それぐらい鉄臣は承知していることであるし、逆の立場なら鉄臣だってただ黙って頷ける内容じゃない。
向こうとしては、ここから譲歩を引き出すはずだ。
そもそも刑事裁判において、未必の故意による殺人から危険運転致死傷罪に下げたとは言えど、今回の事故の場合、基本的には危険運転致死傷罪ではなく、その下の過失運転致死傷罪になるのが一般的だ。
過失運転致死傷罪の刑の上限は、懲役7年。
3人死亡という非常に重い結果であっても、相場としてはせいぜいが懲役4年から5年の実刑に落ち着くことが多い。
飲酒や薬物、もしくは意図的に赤信号を無視したなどの悪質性が証明されなければ、通常は危険運転致死傷罪になることはない。
居眠り運転は、危険運転ではない。運転者の過失だ。
また、民事裁判の損害賠償3億円というのは、本当に相場ギリギリである。
実際に裁判で徹底的に争えば、決して不可能な数字ではない。
鎬の兄は一家の柱として、慰謝料3000万、逸失利益1億、合わせて1億3000万。
義姉は配偶者として、慰謝料2500万、逸失利益6000万、合わせて8500万。
その2人の娘は、慰謝料2500万、逸失利益5000万、合わせて7500万。
慰謝料と逸失利益だけでも2億9000万円前後。葬儀関係費などを含めれば、3億円請求そのものは決して荒唐無稽ではない。
ただそれは、あくまでも裁判で最後の最後まで戦って、どうにか勝ち取ることができるかどうか、という最高額である。
加害者側の保険会社や弁護士は、これを値切るために各保険会社の内部的な任意保険基準や、早期解決のメリットを持ち出して示談しようとするだろう。
3億なんて机上の空論。
裁判であれば1年や2年は平気で掛かって遺族も疲弊する。
ここは早期解決ということで、2億で示談にしましょう。
逆の立場であれば、鉄臣ならそう提案する案件だ。
これは、法の話である。
万人に対して平等な、法の話だ。
法は被害者だけの武器ではなく、加害者の盾でもある。
だから弁護士がいるのだ。
平等ではなく、公平に。
依頼人の利益を最大化させるために法を解釈して戦うのが、弁護士という究極なる不平等者なのである。
さて、どう出るか。
こちら武器として、懲役20年と3億円を突き付けた。
ならば次は、相手側の弁護士が法を盾として構える番である。
鉄臣は油断なく、男が次に出してくるであろう言葉を待ち構えた。
「全面的に峰岸先生の御意向に沿う形で、私どもも全力を尽くし、必ずや依頼人を説得する所存でありまして……!」
「……はい?」
「どうか、どうかそれだけは信じていただきたく……っ!」
加害者側のトラック運転手に最大限の肩入れを行うはずのその男は、あっさりと鉄臣に全面降伏の意を示した。
――――――――――――――――――――――――――――――
志穂(なにこれ、このグリーンティーめちゃ美味しい……っ!?)
鉄臣(お腹痛い……)
???(なんか物騒な話してるお客さんが来ちゃったなぁ……)
170話で過失割合100対0が強硬姿勢の1つみたいに書いたけれど、よくよく考えたら赤信号停車中の追突なので、過失割合100対0は絶対基準判定に該当しますね。
勉強不足で死にたい(・ω・`)
次話は、攻撃魔法という名のエネルギーの生成と変換という物理現象による物理攻撃、という話。ファンタジーも突き詰めれば物理!
なお、時系列的にとある女子高生が入り浸る前です。