程なくして、半月状に薄く切られたキウイが皿に並ぶ。そのうちの一つを摘み上げ、柳瀬は自分の口をぱかりと開きながら二宮に差し出した。
「あー、」
包丁を用意する際に二宮が勧めたフォークや爪楊枝はとうに断られている。彼の指先に触れないよう、キウイの端を唇で咥えて味わった。甘酸っぱさが口に広がると同時に達成感がを覚える。
「お行儀がいいね」
果汁がつかないようにと言う配慮のためか、手の甲ですりすりと頬をなでられた。二宮の意図を察した皮肉ではなく単なる感想らしい。
滑らかな甲の感触が気持ちいい。噛み砕いたものを嚥下してやっと喉の渇きを思い出したように、次の一切れをねだった。
「もっと、くれ」
「まだあるよ」
欲求がするりと口から出た。彼が手ずから差し出した果実は、もともとの甘さもあるだろうけれどそれ以上に瑞々しく、また美味しく感じた。
理屈をつけようと明晰な頭脳を働かせる傍ら、一切れごとにその思考は削ぎ落されていく。けれどそれに恐怖心はなく、ただただ、目の前の相手に己の身体の操縦を任せることに安心感と快楽を覚えつつあった。二宮は無言でその果実を頬張った。けれど最初に考えていた通り、彼の指先に唇が触れないようにするのは変わらず続けられていた。目を伏せていても柳瀬がじっと見つめているのがわかる。きちんと彼のコマンド通りに食べられたのだ、二宮は彼からの称賛への期待がピークに達していた。
やがて最後の一切れを飲み込み、柳瀬が皿を傾けて中を示す。
「全部綺麗に食べられたね、上手だったよ」
そしてまた、手の甲で二宮を撫でようとしたのだろう。近づいてきた彼の指先から、果汁が滴り落ちそうになっている、まさにその瞬間が見えて。ああ、まだ"全部"ではない、残っているではないか。
それと同時に、コンビニで買ったスナック菓子を食べさせられたときのことを思い出した。そうだ、俺はあの指先が目についた時からずっと考えていたことがある。
──じゅる、
考えるよりも先に身体が動いていた。柳瀬の親指を舌にのせ、落ちかけた雫を拾った。そして指についた果汁もまとめて平らげてしまいたくて、彼のふちを舌先でなぞり上げ、そして吸った。
ばちばちと痺れるような、眠気にも似た心地よさが視界を遮る。果物の甘さだけではない、目の前にいる彼の、柳瀬を、ずっと求め続けていたものがようやく与えられて二宮の身体はどうしようもなく歓喜していた。彼の親指を軽々咥えて二宮の舌先は指の股へと渡った。ここにも果汁のあとがある。薄い水かきを撫でればくすぐったかったのかぴくりと柳瀬の指先が震え──爪が舌を甘くひっかいた。痛みはまったくない、本当に掠っただけの感覚。それがさらに気持ちよくて、二宮は目を細めた。
そうして、果実をつまんでいたもう一本の、人差し指についた果汁も綺麗に舐めとってしまおうと、
「──…っダメ、」
ぴたりと、身体が止まった。一瞬でぼやけていた思考がクリアになるのがわかる。
中途半端に口は開いたままで、柳瀬の親指がゆっくりと引き抜かれた。二宮の唾液にまみれたそこはてらてらと光り、よほど粘度が高いのか少し糸を引いている。そこからぽたりと一粒が垂れてラグに染みを作ったのを見て、身動きの取れない二宮は内心で愕然としていた。コマンドを正しく聞けなかったことだけではない。己の欲望のままに動いてしまったことが二宮自身信じられなかった。
「ぼく、舐めてとは言ってないよね。……うーん、お仕置きがいるかな……」
お仕置きという単語を聞いて胸がざわつくのを感じる。これの正体が期待か焦燥かの区別さえつかない。思考がまとまらず、殴り書きにされたような脳内で二宮の呼吸は次第に荒くなっていった。
「匡貴、こっちみて」
彼はいつの間にか、二宮よりも視線が高くなるような姿勢を取っていた。目が合うと彼は身体を硬直させている二宮を安心させるように小さく微笑み、唾液の垂れた顎をぬぐった。
「もう、口は閉じていいよ」
それはただの許可だったけれど、コマンドを打たれた時のように二宮の口は閉じられた。まだ息は荒い。
「……そうだな。余計な事しちゃう子は、何もできないようにしないとね。……こっちに来て、壁に向いて座って」
こっち、と示した場所にクッションを置いた。ふらつきながら立ち上がり彼の指示したとおりに座る。視界の範囲には鏡やガラスはなくて、背後に立った彼が次何をするかが分からない。まるで心臓に氷をあてられているような心地だ。続けて後ろ手を組むように言われそうすると、彼の手がそっとそこに触れた。
「……お仕置きは、ぼくがさっき使ったものを片付け終えるまで、ここで待ってること。手はきちんと自分で組んで、勝手に離したらだめだからね」
二宮がゆっくりと頷くのを見て小さく息をついた。その呼吸にすら過剰な反応を返してしまいそうになる。
「……タオルとか、結束バンド……は、ないかな。とにかく、道具を使わないのは、なんでかわかる?」
そんな様子に気付いてか気付かないでか唐突に問われ、戸惑いながらも無言で首を横に振った。まだ、声を出していいのかわからなかったから。
「跡が残らないようにって理由もあるけど。道具で強制されなくても、いい子にできるか見るためだから」
きゅ、と指先を握られた。念を押すように指先が二宮をくすぐりなぞる。
「セーフワードは?」
「――…Red」
もし耐えきれなくなったら言えという意味だろう。プレイの初めに確認したことを繰り返したあと、柳瀬は無言で二宮から離れていった。二宮がわかるのは音の情報のみだ。ここから動いてはいけない。身体はおろか首の向きさえ、今の彼には決定権がない。
はじめの何分かはよかった。背後で彼が動いている音がするから。皿の音、ビニールの音、柳瀬の歩く音。その一つ一つにじっと耳を澄ませていた。彼がキッチンに移動してもゴミ箱を開いたり、洗い物をする音は続いていた。けれどその後、彼の歩く音も気配もしなくなった。きっとこの"お仕置き"の本番は彼の様子がうかがえない状況で放置することなのだろう、部屋の時計の秒針と、せいぜい己の呼吸しか聞こえない。この部屋には自分しかいない。この家の中にも、音がしない以上本当に彼がまだいるのかもわからない。けれど柳瀬の言ったことを守り続けなければならない。
小さな子供でもないのだ、きっとプレイの一巻でなければここまでの寂寞に襲われることもなかったのだろうが。それでも二宮にとっては己を律しきれなかった罰にはまだ足りないくらいだと思っていた。その感情がSubとしての奉仕精神なのか、おおよそ彼へ向けるにはふさわしくない──例えば、性欲や支配欲のような──そういったものを否定するためなのかの分別すらついていない。どれだけ考えても、きっと堂々巡りなのだろうことはここしばらくの思案でとっくにたどり着いていた。
一方そのころ柳瀬は、一通り片付けた後キッチンでうなだれていた。
(やってしまった……)
二宮に果物を食べさせ、舐められた親指を眺める。もう諸々洗ってしまった後だから彼の唾液はすべて洗い流されているのだけれど、彼の舌や、当たった歯や口内の記憶は生々しく思い出せる。顔が赤くなるのを自覚して慌てて記憶を振り払った。
案内されたフォークも爪楊枝も断って、手から直接食べ物を与えたかったのは柳瀬のわがままだ。まさかそのまま指を舐められるとは思っていなかったとはいえ、果汁も果物の一部と考えれば、"綺麗に"の範疇に入らなくもない、の、かもしれない。いや、やっぱりおかしいだろうか。
どちらにせよ柳瀬は二宮の行為をすぐ止められずに、あまつさえ明確に禁止していないことを"余計な事”としてお仕置きをしている。これでは後出しジャンケンだ。まったくフェアなプレイではない。
個々人によるだろうが、柳瀬はSubが比較的自由に動くことを好むタイプのDomだ。指示したコマンドさえ守ってくれればたくさん褒めるし、プレイに限らず元々スキンシップが好きなためSubの方からあれこれしてくるのも大歓迎だ。自由に動けるだけの信頼関係が築けているという証拠だし、相手が楽しめていることもわかり純粋にうれしいしキュンとする。もっと気持ちよくしてあげたくなる。だからいつものプレイで二宮を褒めたとき、コマンドでなくとも彼から抱きしめてくるのに柳瀬はとても満たされていた。
けれどそうしてまで彼の行為を遮ったのは、このままだと当初の取り決めを反故にしてしまいそうだったからだ。性的なコマンドはしない。その取り決めを。
何も性行為をしたいとか、そういうわけではない。そりゃあ普通の中学生らしく年相応の興味はあるけれと、以前笑い飛ばした通り二宮が白眼視されるような状況に追い込むつもりはない。けれど、ご褒美にどこにキスしてもいいと言った時、考え込んだ末に頬へキスをするような彼を裏切りたくはなかった。あのキスだって、ぼんやりしていた彼の長考の分だけうれしくて心地よくて、気持ちがよかったから。
Domなら主導権を手渡そうとするなという叱責も含めて、柳瀬は"ただプレイをする仲"以上に二宮のことを好きになってしまったから。
しかしその結果が、とっさの判断だったとはいえ彼に負担をかけるものだったのはいけないと後悔もしていた。今後もし同じようなことが起きたら信頼関係の崩壊にも繋がりかねない。
キッチンから見た二宮のいる部屋は死角になっているが、柳瀬のサイドエフェクトであれば彼が言いつけられた通りその場から動いていないことがわかる。腕も変わらずに組んでいるようだ。
片付けはもうすべて終わったし、初めてのお仕置きであまり長い時間待たせるのもよくない。柳瀬は二宮の元へ戻った。
柳瀬が近づいているのは足音で分かっていた。呼ばれて、返事をするべきか迷っているうちにひょっこりと脇から顔をのぞかせる。
「片付け終わったよ」
にこりと笑う。二宮の組まれている指一本ごとを戻して、腕がほどけたところで腕を広げた。ほぼ毎週行われるプレイの積み重ねで、コマンドを終えた後のその行動はハグを意味していたが、二宮は屈むことはなかった。仕方がないので柳瀬は腕を伸ばし、高い位置にある首を抱きつくように引き寄せる。
「よしよし、お仕置き怖かったよね。どう動けばいいのか分からなくなっちゃった?」
「……、」
無言だけを返す彼に、ホントにやり過ぎちゃったかも、と平常心を装いつつも内心焦っている。ケアもかねてしばらく二宮の後頭部の感触を味わっていると、やがてもぞ、と身じろいだのを肩越しに感じた。
彼は熱に浮かされたような。しかし途方に暮れたような声をしている。
「──…柳瀬、俺を……躾けてくれ」
「……。いま、したじゃない」
「違う。やってから、じゃない。やる前の話だ。……俺を、縛ってくれ」
台詞だけを聞くと熱烈だが、そう単純な話ではない。ここでようやく、柳瀬は二宮の行為がしようと思ってした行動ではなかったらしいことに気が付いた。少し考え込み、一つのコマンドを出した。
「匡貴、ハグして」
それにまたもぞりと動く。至極不思議そうに聞き返された。
「……? しているだろう」
「ぼくからじゃなくって、匡貴からがいいの!」
駄々をこねるように言った、少々わざとらしかっただろうか。だが意図したとおり彼の腕がうろ、と迷った気配があり、そっと背中に手が回された。いつもよりずっと力のこもっていないハグだ。柳瀬はそっと目を伏せて、けれどもっと強く! と注文をつける。戸惑っている気配はこれ以上なく感じるが、柳瀬は表情が見えないことをいいことに唇をかみしめた。二宮の自由さを、よりにもよって己が損なうようなことはしたくない。やっと、力の入った腕に押されるように息を吐き出した。
「忘れないでね、ぼくのハグはこれぐらい強いから。ぼくがハグしてって言ったら思い出して、絶対にコマンドを優先させること。…──わかった?」
「……ああ、わかった」
再び彼を、思い切り抱きしめた。一度緩んだ彼の腕が、合わせるようにまた強くなる。柳瀬に言われたことを再確認しているらしい。彼の声は芯を取り戻していた。