「おっ、辻ちゃん、ひゃみちゃんお疲れ」
「犬飼先輩」
「お疲れ様です」
学校から一緒に本部まで来たのだろう、並んで歩く氷見と辻を見付けた犬飼が声をかけた。彼らの目的地は同じなのでそのまま共に歩き出す。いつも通りの光景だが、そんな平和な昼下がりにはおおよそ似つかわしくない言い争うような声が廊下の先から聞こえてきた。
「なんだろ、喧嘩かな?」
犬飼が野次馬よろしくその先を覗きにいこうとするのを他の二人が止め、もし複数対一人や年下であるならば仲裁するなり職員を呼ぶなりした方がいいのではないかと氷見が提案したところ。
「もうっ……しつこい! うるさい! ついてこないで!」
焦れたように叫ぶ声には聞き覚えがあった。
「……、この声……柳瀬くんじゃないですか?」
言うなり、辻は迷っていた爪先を前に進めた。それにつられるように犬飼と氷見も後を追う。足の速度と比例して話し声は大きくなる。どん、と鈍い音がしたのに、後輩が無事であることを祈りながら。
「ねえ、今フリーなんでしょ? いいじゃん、ウチ入ってよ」
「ヤです」
「なんで? どこにも誘われてないんでしょ」
「なんでも」
ボーダー内をいつも通りふらついていたところで、見知らぬ高校生に絡まれた。話を要約すると「自分たちの隊に入らないか」という誘いではあるが、そのやり口は強引としか呼べないものだった。柳瀬はずっと断っているのに後をつけ回して、薄笑いを浮かべている彼らに早い内から我慢の限界がきていた。
人気の少ない場所で目をつけられたということは、このまま人の多い廊下やラウンジまで行けば諦めてくれるはずだ。どうかそうであってくれと祈りながらつかつか廊下を歩いていく。
(……じゃ、じゃなきゃぼくがこの人たちのこと殴っちゃう……!)
柳瀬はDomということもあり下手に振る舞った場合の他者への影響が大きいため、普段は激情を抑えようと努めている。が、元々そんなに気が長い方でもなかった。しかし神経を逆撫でするような、端的に言えば柳瀬のことを舐めきっている態度で接せられれば、怒りを感じるのも無理からぬことだった。
しかしボーダー隊員同士の私闘は禁止されており、そうでなくとも喧嘩でさえ、良識ある一市民としてはご法度だ。それは付きまとってくる彼らとて理解していないはずがないのに、何故こんなにもしつこいのか。理解できない行動により柳瀬の苛立ちは積もっていく。
「俺たちの方がポイントも高いしさ、先輩のアドバイスは素直に聞いておいた方がいいと思うよ?」
(そんな価値は、ない……!)
これ以上答えるのは時間の無駄なうえにうっかり悪口がまろびでてしまいかねない。柳瀬はぐっと唇を噛みしめて無視することに努めた。そもそも柳瀬を弱いと揶揄するのであれば、なぜわざわざチームへ誘うのか、何もかもが理解不能だった。
「っていうか噂で聞いたんだけど、柳瀬くんって千里眼のサイドエフェクトあるってホント?」
「あってたまるか、そんなサイドエフェクト!」
しかし決意もむなしくすぐに口を開いてしまった。
何かと思えば、やはり柳瀬のサイドエフェクトが目的で近づいてきたらしい。大方サイドエフェクトさえあれば楽をしてランク戦を勝てるとでも思っているのだろう。柳瀬がかつて所属していた部隊員と全く同じ思考回路をしている。彼らにとって、サイドエフェクトは便利な魔法なのだ。いくら使い道があったとしても、そんなめんどくさそうなサイドエフェクトは一生いらない。
サイドエフェクトの話は柳瀬にとっての逆鱗のひとつだったが、あまりにも話が盛られすぎていて突っ込みどころを失ってしまった。喧嘩をしたい訳ではないのだから問題ないのだけれど、それにしてもどこからそんな噂が流れているというのか。今すぐ聞き出したい気分だったが、それもなんとか堪えて歩を進める。早く人目の多い場所につかないだろうか、こういう時ばかりは、ボーダーの広大な敷地が憎らしい。
それからも次々浴びせられる心無い言葉に、やはり口を開いてしまう。その語気には、堪えがきかない己への苛立ちが多少ならず入っていた。
「もうっ……しつこい! うるさい! ついてこないで!」
「うわ、そんな態度だとすぐ師匠にも見捨てられちゃうんじゃない」
「あはは、けどあいつも凶暴だし、似た者同士でいいんじゃない」
「……なに……?」
「それになんだっけ、最近は二宮隊にも擦り寄ってるらしいし。そろそろ誘われた?」
「……誘われるわけないし、誘われたとしても入るわけないだろ……もう黙って……」
「やっぱり? おまえなんかが選ばれるわけないもんね」
「でも二宮隊も二宮隊で隊務違反で降格だ……うわっ?!」
柳瀬のみならず、柳瀬の周囲の人間まで馬鹿にする彼らは最後のラインを踏み越えた。柳瀬の耳からは音が遠ざかり、怒りのままに彼らを壁へ叩きつける己の動きがスローモーションに感じて、それをどこか他人事のように見つめていた。
言いたい文句は山ほどあった。けれど何より、これ以上彼らのことを汚らしい言葉で語られることが我慢ならなかった。
「うるっ……さいな。そのおしゃべりな口をスコーピオンで縫ってやろうか」
ずっとつきまとってきた彼らは驚き目を見開いている。柳瀬がそもそも年下かつ小柄であり、加えてさほどランクの高くないフリーのB級であることから御しやすいと判断していたのだろう。しかし、トリオン体であれば身体のサイズは違えど性能は変わらないのだ。本来の肉体よりもずっと力がある。
気圧された様子の彼らの視線が柳瀬からその背後に移った。そしてさらに顔を青くさせる。
「……にっ、二宮隊の……」
その呟きを理解した途端、目の前の彼らに続いて柳瀬の顔が青くなった。襟元を握っていた手を放し、ゆっくりと振り返る。そこには、二宮以外の二宮隊面子がそろっていた。
(……お、終わった……)
絶望する柳瀬の傍ら、氷見と辻は案の定驚いていた。一方、犬飼はいつも通りに見えるが実のところはわからない。
柳瀬の放つ空気が目に見えてかわったからか、しつこく付きまとっていた彼らははいずりながら、つい先ほどまで馬鹿にしていた彼ら手を伸ばす。
「た、助けてください! 僕たちこいつに脅されて……」
「はぁ……?!」
何をいけしゃあしゃあと、そう思ったが迫及する気力は残っていなかった。ふと我に返り、怒りに任せてまたGlareを撒いていたらどうしようかと肝が冷えたが、放たれていた場合に真っ向から浴びるはずの彼らには、Glareをぶつけられたとき特有の症状はでていない。苦々しく思いながらも、複数の強い感情が絡み合った末疲れてしまった柳瀬は、半ば自棄になってその場に座り込んだ。
一方、彼らに助けを求められた犬飼は、からりと笑い低い位置にある肩を優しくぽんと叩いた。ぱっ、と彼らの空気が和らいだのは、たった一瞬のことだ。
「脅された? いやいや、後輩と肩がぶつかったぐらいで大袈裟でしょ~! それよりもさ、さっき俺らの悪口が聞こえた気がするんだけど……誰が話してたのか、知らない?」
彼の笑顔には迫力があった。わずかに上向きになった顔色を瞬時に青く戻した彼らは、足をもつれさせながら大きな足音を立て走り去った。
間髪入れずに辻と氷見が掛け寄り、放心しへたりこむ柳瀬に合わせてしゃがむ。
「柳瀬くん、怪我とかない?」
「ゆっくりでいいから、立てる?」
「……え……?」
かけられた優しい言葉に、伏せていた視線を上げてぼんやりと答える。辻も氷見も、柳瀬を見つめる瞳は心配そうにしている。がっかりされていない? それだけは理解して、はっとして立ち上がった。
「……トリオン体なので、なんともないです」
それでもやっぱり大丈夫とは判断されなかったようで、二宮隊作戦室で休憩していきなよ、お誘いを受けてしまった。せめて二宮さんに会うまでにシャキッとしないとなぁ、とぼんやり考えていると、犬飼が元気ないね、と直球に背中を叩く。少し考えて、そうですねぇと返した。
「今月の、非暴力不服従のスローガンが……守れなかったなぁと……」
「聖人目指してるの?」
柳瀬の斜め上の回答に辻と氷見は虚をつかれたような顔をしている。犬飼は大丈夫そうだと判断したのか、思い出したように肩を震わせた。
「それにしてもさ、さっきの柳瀬くんの……スコーピオンで縫い付ける、みたいなやつカッコよかったね、ねぇ辻ちゃん」
「えっ?! な、なんか決め台詞みたいだなぁとは……」
指摘されて、柳瀬は首までかぁっと真っ赤にさせた。年齢通りの中二病過ぎるセリフをどうにか説明できないか考えて、出た言葉はお粗末なものだった。
「……違うんです!」
「何が?」
「昨日の夜やってた洋画のせいなんです!」
「あはは、なんかやってたよねそういえば。柳瀬くん影響されやすすぎ」
「洋画好きなの?」
「たまたまなんですよぉ……」
おススメあるよと微笑む氷見にしおしおとなりながら、それはそれとして興味はありますと食いついた。柳瀬は放心していた余韻も抜けて、気づかわしげに緊張していた辻と氷見の表情も和らぎ、作戦室につく頃にはすっかりいつも通りの空気になっていた。どうやらまだ二宮はいないようだ。冷蔵庫から辻が登場させたバターどら焼きはちょっとしたトラブルのあとだったからか、よけいに輝いて見えた。