「柳瀬たつき」
本部から帰ろうとしていたところで名前を呼ばれ、つい顔を上げてしまった。はるか高い位置にある彼の顔を見て、あっ、しまった。そう思い顔を下げて聞こえなかったフリをしようとするも、当然の如く失敗に終わった。
「……なぜ逃げる」
「……ええと、いや、なんとなく……」
柳瀬は曖昧に誤魔化したが、二宮隊のスーツ姿で出待ちをされて圧を感じ逃げたくなった、というのが本音だ。二宮とてそこは本題ではない。特に問い詰めることもせず柳瀬に尋ねる。
「先週、俺と会っただろう」
「……何のことですか?」
もちろん柳瀬には何の件か聞くまでもなく覚えがあった。とは言えあの暗闇の中では誰がうずくまっていたのかまでは分からず、人命救助の観点で駆け寄ったのがきっかけだった。Sub dropに陥っていることを察知し、たまたま自分がDomだったためケアの為に呼びかけた。相性がよかったのはまったくの偶然だったし、名前を聞いてあの有名人だと気付きその場で変に驚かなかった自分を帰路で褒めてやったくらいだ。しかし、それでどうして二宮が柳瀬を訪ねてきたのかがわからない。
すっとぼけたのは二宮にもわかるほどあからさまで眉を顰めると、睨まれたと思った柳瀬が肩を振るわせた。
ポケットに入れていた手を伸ばし、柳瀬の左手首を捕まえる。
「……あっ!」
パーカーの袖を捲られそうになって、ようやく意図に気付いた柳瀬が振り払おうとするが間に合わない。そもそも生身の柳瀬とトリオン体の二宮ではパワーが圧倒的に違う。
「これは?」
Sub dropに陥った二宮がつけた跡がかすかにだが残っていた。しまった、という表情隠さずやがて柳瀬は観念した。
「……はぁ、そうです。先週、ぼくは二宮さんに会いました」
「おまえは……」
二宮が言いかけて、あたりが俄かにざわついているのに気が付いた。少し前までA級隊員として活躍していたが、同じチームの隊員が隊務規定違反を行った連帯責任として、B級に降格されたばかりのチーム隊長が中学生の腕を掴んでいる。体格差も相まってあまりいい絵面とはいえなかった。
「……この後用事は」
「……家帰って寝るだけです」
「ついてこい」
踵を返しスタスタと歩いていく。有無を合わせぬ様子に柳瀬は小走りで二宮のあとを追いかけていった。
ガコン、自販機が音を立てた。無言で差し出されたお茶を受け取りぺこりと頭を下げる。
「いただきます」
二宮は自分のドリンクも取り出して柳瀬の隣に腰掛けた。人の声は聞こえるが少し遠く、やはり人通りの少ない場所を選んだ。
「柳瀬たつき」
「……はい」
「三門市立第二中学校二年、B級アタッカー、スコーピオン5700点、入隊時は…──」
「?! ちょ、ちょちょ、っと、待ってください!」
二宮が諳んじたのはこの一週間で調べた柳瀬についての情報だった。口に付けていたお茶を吹き出しかけた彼は口元を乱暴にぬぐい尋ねる。
「隊員ファイルでもみたんですか、なんでそこまで詳しく……」
「おまえのことは調べさせてもらった」
「……え? もしかしてぼくは脅されてるんですか、それともこれから脅されるんですか?」
「どうしてそうなる」
「ど、どうしてもこうしても……」
数秒みつめあって、眉を寄せた二宮がため息を吐いた。吐かれた柳瀬は今すぐここから逃げ出したかった。
「社会人か大学生か、少なくとも高校生かと思っていた。だから女性隊員を中心に探していたが……」
「……?」
「まさか中学生だったとはな」
「? あ、ああ……すごく辛そうだったけど、よく探し出せるほど覚えてましたね」
「おかげで一週間もかかった」
「も……?」
ボーダーの人員はC級隊員まで含めると膨大な人数になる。加えて戦闘隊員だけでなくオペレーターやエンジニアまで含めるとさらに人数は増えるため、その中からただ一人を探し出すのは決して容易な作業ではなかったはずだ。ある程度条件を絞り込んでいた様子だが、その条件も本来のものとは異なっていた。それをわずか一週間でやってのけたうえでの表現につい首を傾げる。
「……どうして名を名乗らずに立ち去った」
「え、っと……名乗るほどの者では……? 換装すれば人ひとりくらい運べますし、二宮隊の部屋も近かったので……それに、あなた方の隊長のケアしてました、とは中々……。ぼくも気まずいですけど、二宮さんと隊員さんたちはもっとでしょう。……他の誤魔化し方をしようにも、まぁ、先ほどの通り、あまり誤魔化すのがうまくないたちですし……」
「――…なるほどな」
少し考えて納得した様子の二宮にほっと息を吐いた。どうやら怒られることはなさそうだ。この威圧感もあるが、年上からの呼び出しにはつい教師からの呼び出しを思い出して。何かやましいことをしているわけでなくともやけに緊張した経験を彷彿とさせた。
「柳瀬」
「は、はい」
「礼を言う。助かった」
ストレートに感謝の言葉を伝えられ、ぽかんと口を開けた。しかしすぐはっと我に返り手と首を振る。
「あぁ、いいえ! ほんとに、緊急時でしたし。大事に至らなくてよかったです」
二宮はつられて、先ほど袖をまくった腕をちらりと見た。
「……それから、腕のことも」
「き、緊急時でしたし……!」
先ほどとは別の緊張が走った。叱られるのはもちろん嫌だが感謝されてもそれはそれで恐縮してしまう。もちろん無事でよかったという安心感と、感謝されたという高揚感はあるのだが。それから、先ほど脅されるのかと尋ねた罪悪感も迫ってきた。柳瀬の脳内は若干キャパシティがオーバーしている。
しかし、こんな興奮もずっと気がかりだったことをひとつ思い出してふっと熱が下がったような心地になる。言いだそうか少し迷って、二宮がその様子を察知したのか尋ねられたことでようやく口を開いた。
「……あの、ほんとにお節介だとは思うんですけど。あそこまで落ちるのって大丈夫なのかな、って……それで、ええと……もしかしたらこの間除名になった人が、二宮さんのパートナーだったりしたのかな……みた、い、あ。や。なんでもないです」
二宮の纏う空気が剣呑なものになったのを察知して柳瀬は言葉を切った。しかし一度口に出した言葉を戻すことはできない。調子に乗ってデリカシーに欠いた発言をしたのは己なのだ。結局怒らせてしまったと肩を落とした。
「気色の悪い妄想をするな」
「ええ、あぅ……はい。ごめんなさい……」
しかし否定されたとなると、ではなぜ二宮がSub dropに陥っていたのかという疑問が残る。口は閉ざしたものの疑問の残る柳瀬の視線に口を開いた。
「俺は、今まで落ちたこともないし、そもそもプレイしたこともない」
「──…それは、する必要がない体質、ってことですか?」
DomでもSubでもSwitchでも、日常生活を送るうち次第に欲求が溜まり、溜まったフラストレーションを解消するためにプレイをする。プレイが必要な頻度も強度も個人やパートナーごとに様々だが、十何人に一人かの割合でまったく、もしくはほぼプレイの必要がない者も存在する。端的に尋ねた柳瀬に二宮はうなずいた。
「ああ……だから、気付くのも遅れた」
「そうだったんですね……」
こういった体質は時には変わることもある。環境が大きく変わったり大けがをしたり、本人にとってそれが良いものであれ悪いものであれ、大きなストレスを受けた際に現れるといわれている。そこまで思い出して、ん? と柳瀬は首を傾げた。二宮との面識はこれまで全くなかったため強い部隊の隊長、ぐらいの認識をしていたが、それでもさっき尋ねた通り一名が除隊になった事件はボーダー内でもその噂を聞かない日はなかった、というか現在進行形でされているほど有名な話だから知っている。しかし逆に言うと、二宮の周辺情報に対してはそれぐらいの情報しかない。ボーダー外の個人的な事情が理由なのかもしれないが、柳瀬の思考は時期的にもやっぱりそれが原因なのでは……という方向に行く。今回は口に出さなかったが視線は雄弁に語っていた。その視線を受けた二宮は先ほどと違い否定せずにただ黙殺する。
「……まぁ、大方の見当はついてるが、原因が分かったところで体質が元に戻るわけじゃない。が、ひとまずは処方された薬も、Sub向けの面談の予定もある」
「おお、それは何よりです」
「……そういうわけだ。世話になったな」
言うなり立ち上がって、飲み切った缶を回収ボックスに入れた。柳瀬は返事をして、それから驚いた。
「はい。……え?」
「なんだ」
「今日の用事って、それだけですか?」
「……飯でも行くか?」
「えっ?! や、逆です、逆!」
勢いよく首を振ると二宮はいぶかしげに眉を寄せた。慌ててなんでもないです、ごちそうさまでした。そう言うと彼は不思議そうにしていたが、すぐ踵を返し廊下の角を曲がっていった。
まだ少し残っている缶を揺らして、柳瀬は半ば早然としていた。ただ礼を言うためだけに、膨大な人数の中から柳瀬ただ一人を特定した。それだけではない。本来ならば話す必要もなかったごく個人的なことを、説明のために一度会っただけの他人へ語った。あれは彼なりの謝意と誠意のあらわれだったのだと、立ち去り際の言葉ではっきりと理解できてしまった。
「……二宮さんって、…….ものすごく、律儀なひとなんだな……」
誰に言うでもない独り言をぽつり落として、
「……脅されるとか言ったの、ほんとうに悪かったな……」
そしてやや落ち込んでいた。
しかし聞いた内容によると、二宮の言う通り事態は好転しているようだ。Sub dropに陥いっていた二宮のケアをして、ある程度、もう大丈夫だという確信が持てたからこそ扉の前に置いてきたのだが。やはりその後どうなったのかは気がかりだった。実際彼は元気だったし、人助けして良かったー! そんな達成感のままほくほく顔で布団に入り、それ以降柳瀬はいつも以上に個人ランク戦に精を出していた。
いたのだが。