方々への報告が終わり、急ぎの仕事を終わらせた後。二人はケーキ屋に来ていた。話していたとおり二宮の誕生日を祝うためだ。夜とは言ってもそう遅くはないはずだが、ケーキ屋としては閉店間際の時間に慌てて駆け込むことになってしまった。隙間の多いケースを眺め、一足先に入った柳瀬が振り返る。
「なにケーキがいいですか?」
「……柳瀬は何が食べたい」
「ええ? いやいや、二宮さんのお誕生日ケーキなんだから」
そうは言っても、二宮にケーキのこだわりはなかった。大切なのは「柳瀬が一緒に食べて祝ってくれるケーキ」だからだ。とはいえ知っていたとおり柳瀬は好き嫌いなくもなく食べる量こそ増えたものの、やはり食に対してこだわりというこだわりはないようだ。強いて言うならば春キャベツが好きだと前に上げていたが、今いるのはケーキ屋で。ついでに言うと季節は秋で、彼の好物はようやく種が蒔かれる時期だ。
どうしたものかと考えていると、彼は小さく声を上げた。
「まだホールケーキある。他に気になるのがないならアレにしません? お誕生日っぽいでしょ」
小さめの、三号のショートケーキだ。とはいえ二人で食べるには多いだろうか? いや、胃の許容量が増えた柳瀬ならば食べられるかもしれないし、残っても冷蔵に入れれば少しは持つはずだ。頷くと彼は張り切って、ショーケース奥に待機していた店員へ話しかけた。
「これください、あと、お名前プレートも付けてください。『まさたかくん』で」
「おい、待て。何でだ」
「お誕生日ケーキに付けないでいつ付けるって言うんですか」
「いつでもいらん」
「絶対いります!」
結局柳瀬に押し切られてしまった。店員がその様子を微笑ましげに眺めていたのがまたむず痒さを加速させる。第三者から見て、自分たちは一体どういう関係に見えているのだろう。
ケーキ代も自分で払うと言ったが「お誕生日なので」と一刀両断された。柳瀬にとって誕生日という理由付けは伝家の宝刀なのかもしれない。
「どうぞ」
人感センサーで明るくなった玄関を上がる。ぱちぱちとリビング周りの電気を付け、その流れといった動きでラジオがついた。パーソナリティの穏やかな声を数秒聞いて、「あっ」と気付いた彼が慌てて切ろうとするのを止める。
「どうせ付けたんだからそのままでいい。いつもそうしてるんだろう」
気を遣って言ったわけでもないのに、柳瀬は嬉しそうににへっと笑った。少しだけ音量の下げられたそれをBGMにして尋ねる。
「いつも何聞いてるんだ?」
「ミカドFMがメインですね、嵐山隊のラジオもたまに聞いてて、あとは……ずっと音楽流してるところが多いです、リクエスト制の。散歩の時とか聞きながら歩くと楽しいんですよね~」
にこにこと嬉しそうに語るのを聞き流しそうになって、しかし聞き逃さなかった。食事の用意を進める柳瀬におい、と声をかける。
「おまえ、外歩くときも耳塞いでんのか」
指摘すればあからさまに余計なことを言ったという顔をした。懇々と説教をはじめるのを柳瀬は何とか阻止しようとしたが明らかに分が悪い。結果はやはりというべきか、もうしませんから! という言葉を二宮が引き出したあとにやっと食事をはじめた。言質は取った。
食事自体は普通だけれど、やはりどこか特別感がある。浮ついているのを自覚しながら奇しくも加古の言葉通りになったなと思い出す。「なにも誕生日会は当日にしかやっちゃいけない決まりなんてないもの」。たしかにそうかもしれない。が、素直に頷くのは記憶の中だけだとしてもやはり癪だ。ポップしてきた彼女を脳内から追い出した。二人きりの時間を邪魔するんじゃないと言わんばかりに。
食事も済み、いざケーキに挑む時が来た。買ったとき一緒についてきたろうそくを二本立てて火を付けて、一瞬だけ電気が落とされる。柳瀬の歌う張り切ったハッピーバースデーは声色から楽しんでいることがこれでもかというほど伝わってきた。けれど二宮からすると嬉しいながらも中々に据わりの悪い時間だ。それでもやはり、彼の笑顔をみればこれもいいかもしれないと思わせられる。
直接言葉で祝われはするものの、からかいがひとつもない歌はいつぶりだろうか。ここ数年は両親から歌を歌われた覚えもない。欲しいという意味ではなく、その分柳瀬から贈られたものが希有だという話だ。彼の拍手に合わせて息を吹きかけてろうそくの火を消した。
ケーキカット……とは言っても二人分で、さらに柳瀬がホールに近いまま食べたいと目を輝かせて言うので半分に切るだけだ。包丁を持つ彼を眺める。流麗な字で書かれた『まさたかくん』お名前プレートをつまみ、皿に置くかと思いきや――二宮の眼前へ差し出した。
「あーん」
プレイ中でもないのに、パブロフの犬よろしく考えるよりも先に口が開く。チョコプレートは長いため一口では食べきれない。半分ほどを咥えたところで力を込めて、バキリ、という大きな鈍い音の後にパキパキ、小気味のいい音が続いた。食べ落とした破片はちょうど皿の上に乗っている。床は汚していない。目の前の彼は、いつもの少年らしい無邪気な笑い方とは違う、二宮の輪郭を視線だけで撫でるような、どこか蠱惑的にも見える瞳で二宮を見つめていた。
ぞわ、と背筋に甘い痺れが響く。想いを自覚しただけで、彼も同じ想いだと知っただけで、こんなにも影響が出るものだろうか。ましてや、プレイでもないのに。
「っ、もう半分は、おまえが食え。全部は甘い」
感想は本音だ。彼は素直に頷き、二宮が一口で食べた残りの半分をさらに二口で食べた。ふふ、と笑みが溢れる。すっかり年相応の表情に戻っていた。
柔らかな甘さのショートケーキをつつきながら二宮は呟くようにして話し始めた。
「辻たちに聞いたんだが、やはりSubの勝手な行動を止めるには事前の躾かGlareが有効だと」
柳瀬はどきりとした。いつのまに尋ねていたのか、いや、それよりも彼にそうさせたのは柳瀬自身だ。動揺を気取られないように、努めて冷静に頷く。
「ぼくも、マサ先輩と柿崎さんにちゃんとGlare使えるようになれって話をされました。……練習、してもいい?」
「ああ。練習というか……実地だな。頼む。……だがその前にすることがある」
一旦フォークを置いて鞄から取り出したのはA3用紙にプリントされた紙だ。そのタイトルを見て、柳瀬はぱちぱちと瞬きする。
「……これ、前にぼくが持って行ったのと同じやつですよね。プレイについての同意書」
「ああ。前回とは変わる箇所と……あと、見落としてたところがある。一旦書き直すべきだ」
見落としてたところ? オウム返しにすると二宮の指先がある一点を示した。……。なるほどと柳瀬は頷き、慌てて柳瀬の端末から例の画像を探し出す。大きなバツ印の中にその項目は入っていた。
「たしかに、今までは関係なかったですけど……いりますね。これは」
食べきれないかもしれないと思っていたケーキはクリームの甘さに飽きが来なかったこともあり、以外にも食べきれてしまった。一通り片付けたあと彼から渡されたボールペンを握る。前回記入したときと違うのは、二宮の家ではなく柳瀬の家で書いてるということ。そして、向かい合って座るのではなく、二宮の利き手の逆側にぴったりと柳瀬が位置していることだった。
「……近い」
「んぇ? ああ、ごめんね」
腕を絡め、肩に頭を預けるように紙を見下ろしていた彼に声をかけると一瞬何のことかわからない、と言った様子で、しかしあっさりと腕はほどかれ身体も離された。その代わりのように広いカウチソファに置かれたクッションを抱き込み、また紙を眺める。
「? 書かないの?」
あまりにもあっさり離されるとそれはそれで名残惜しさが生まれる。自らの矛盾に内心で衝撃を受けつつ、そういえばラウンジや廊下ですれ違ったときも一緒にいた友人たちとは大概距離が近かったことを思い出す。前回記入したときは向かいに座っていたのもあるが、まだそこまでの距離感ではなかった。柳瀬の行動は心理的な距離が近くなったが故のものとはいえ、恋人同士だから。つまり、相手が二宮だからという理由でなされた行動ではない。
「……おまえ、それ……誰にでもやるのか」
「へ?」
「やたらとひっつくのは」
「うん、仲いい人には? ……あっでも、そんな仲良くないとか、密着するのが苦手っぽい人にはやってませんよ?!」
「……」
それはそうなのだろうが。色々と──二宮自身も処理しきれない程度には複雑な気持ちを抱きつつ、ペンを持ち直した。まずはお互いの名前だ。
大して内容は変わらないだろうと思っていたが、書き直すと意外にも更新されていくことに気が付いた。勝手がわからず書きようのなかった好きなプレイは、柳瀬が気ままにコマンドするのが気に入っているとして。ご褒美は特に頭を撫でられることが心地いいと、隣で柳瀬に見られているにも関わらず、照れも躊躇いもなく書くことのできる自分にまた驚いた。
すると柳瀬が膝をそわそわ揺らし、クッションをより強く抱きしめたのがわかる。喜んでいるのだ。そしてきっと、先ほどよりもさらに強く二宮とくっついていたいと思っている。
意趣返しというわけではないが、彼の様子にちょっとした優越感を覚えた二宮は口元だけ僅かな笑みを浮かべ、また続きを記入していく。
「お仕置きは……結局、部屋の隅を向いて放置ってやり方でいいのか?」
「うーん……うん、そうだね。またやり方変えることもあるかもだけど、ひとまずは。あと、さっき話してたGlareかな」
覚悟は決めたようだが、まだ少し怯えのようなものが残っているらしい。後で書き足せばいいのでGlareについてはまだ書かずに、次の項目へ。セーフワード。
「……柳瀬」
「ん?」
「セーフワードを変える」
「おぁ~、なんかいいの思いつきました? いいですね、それにしましょう」
確認も取らずにうなずいて、何にするの? と身を乗り出した彼をより近くに呼ぶため隣を叩く。ひっつきたいと思っていたから彼は嬉々としてすぐ隣に収まり、二宮は彼へ語りかけるように視線は紙へ向けたまま、彼のいる側へ首を傾けた。
「柳瀬」
「うん」
「セーフワードだ」
「……へ? あっ、ああ? ぼくの名字? ……えへへ、ふーん? セーフワードでも、ぼくの名前呼びたいんだ? なーんて……」
「そうだ。……なあ、いいだろう? たつき」
冗談にしようとする彼の耳に吹き込むように囁いて、彼の反応を一つも見逃すまいと至近距離でじっと目を見つめる。じわじわと顔をあからめた彼は、やがて虫のつぶれたような悲鳴を上げながらあからさまに身体を硬直させた。さらには抱きしめていたクッションを壁にするように、二宮の顔へ押し付けた。
「なに、急に、なに?!」
「ダメなのか」
「いいよ!!」
ためらいのない承諾が返ってきた。少し肩を揺らしたあと、また机に向かってペンを走らせる。「なんなの、もぉ……」とへろへろの声で唸った彼はそのまま後ろに――ソファに身体を預けるようにして倒れこんだ。
「そんなのしなくてもさあ……いいよって言ったじゃん……」
その声は天井に向かって放たれる。ただ二宮はちょっとしたいたずら心が働いただけなのだ。ちょっとというには、いささかやりすぎたようだけれど。
それ以降は性的なコマンドの欄が並ぶが、前回と同じ轍を踏まないよう一つ一つチェックをつけていく。恋人とパートナーは同じ。そして、別のパートナーを持つか否かについて。二宮は気になってはいたもののずっと聞いていなかったことをついに尋ねた。
「たつき、」
再び呼ばれた名前にどきりと心臓が跳ねる。DomとSubを入れ替えてプレイを行ったことを思い出したのだ。けれど今回はプレイの真似事ですらない。セーフワードを名字に変えたのは、つまりそういうことで。こんな呼び方の変え方ある? と、ラブコメでさえ読んだことのないやり口に、寝転んだままなぁに、と聞き返した。その声にはやはり照れがにじんでいる。
「パートナーが他にもいると言ってたが、何人いるんだ」
その問いに、ゆっくりと身体を起こした。指折り数えて、ええと、思い出しながら口を開く。
「ホントにたまにしかプレイしない人も含めて……五人かな。でも、二宮さんと正式にパートナーになったし、解消しようと思ってる」
「……俺には別のパートナーを許すのにか?」
「ぼくは二宮さんとは事情が違うもの。お互い他にもプレイする子はいる前提だし、絶対必要なわけじゃなくて……遊びの一つみたいな。……もしかしたら、緊急時はプレイすることもあるかもだけど」
「……そうか。……どこまで、何をしたかは、聞いても?」
う、と柳瀬は言葉を詰まらせた。ここにきて教えろという聞き方ではなくお伺いを立てるような言い方をするのは内容も相まってずるいと感じる。けれど恋人のプレイ歴が気になるという気持ちも理解ができるのでまごつきながら答えた。
「あーと……まぁ、ほぼ二宮さんにしてることと同じですよね。ハグとか、頭撫でたりとか……。……あと……ちゅーも、したことあります……」
柳瀬のパートナーは二宮以外、全員が同年代だ。別に倫理的に問題があることをしているわけでもなく、ただ二宮が尋ねたことを正直に答えているだけなのに。柳瀬はどこか罪悪感にも似た何かを覚えてしまう。彼のその答えを二宮は想定していたため、特に表情を変えることもなかった。しかし、それで全ての答えが得られたとも考えていない。あくまでも彼がはぐらかしたらそれ以上は聞かないつもりで聞き返す。
「……それだけか?」
二宮の声は涼やかで詰問するような色はまったくない。まっすぐに柳瀬をみつめる彼に、針山の上に立たされているような気分になった。視線を四方八方にうろつかせながら正直に答える。
「……たまに……盛り上がって……舌、とか入れたり……」
「……そうか」
ふい、と視線が紙に戻ってしまうと、柳瀬は焦って二宮の腕のあたりの服をつかんだ。先ほどのように機嫌がよくて、ひっつきたくてひっついているのとは違う。縋りついているという表現が正しい。
「……お、怒った?」
「怒ってない。おまえを責めようなんて思ってないから気にするな」
「そ、それ以上のことはしてないよ? ほんとに、しちゃいけないし、そもそも友達だし」
「わかってる」
なるべく穏やかに聞こえるよう返事をしたが、いくら気になったとしても聞くべきではなかったかもしれない、と二宮は少し後悔していた。柳瀬のすがりつく指先の強さが二宮の後悔に拍車をかけていた。
プレイはからきしだが、二宮だって……経験豊富、とは口が裂けても言えないが、それなりに恋愛経験は重ねているのだ。人肌に触れることへ抵抗のあるタチでもないため、他人との性的な接触もおおよそ人並み程度にはある。しかし、ここでいくら二宮が気にしていないと言ったところで、質問の意図を柳瀬は「交際相手の略歴が気になっているのだろう」と考えるだろうし、かといって柳瀬の経験を「気にしていない」理由としてわざわざ二宮の恋愛遍歴を語るのもよくないだろう。そうした場合、また別の方向から彼を追い詰めることになることは予想に容易い。
柳瀬に尋ねたのは、柳瀬に経験があったら嫌だとかそういった感情からではない。そもそもキスのコマンドは、場所こそ二宮に選択権があったものの二回目のプレイで既に指示されていたのだ。他のパートナーと口でしていても、二宮としたものより多少濃厚なものだったとしても何もおかしいことはない。
気になっていたのは確かだけれど、なければ嬉しいとかでもない。把握しておきたかった、というのが一番近いのかもしれないと、二宮はしばしの自問の末に行き着いた。
しかしいくら二宮自身が納得したとして、このまま彼を放置して記入を進めるのもよくないだろう。ペンを置き、多少は体重が増えたかもしれないがまだまだ軽いままの彼を抱き上げて膝の上に乗せる。驚き声を上げる彼と額を合わせ、彼の瞬く瞳をじっと見つめた。
「本当に怒ってない……。余計なことを聞いて悪かった。……何に合わせるでもなく、俺とたつきのペースで進めればいいだろ。違うか?」
「……ち、ちが、わ、ない……」
首を振ったのを確認して、彼の頬にキスをして抱きしめた。柳瀬は安心したように身体の力を少しだけ抜いて、ぐりぐりと肩口に頭を押し付ける。少し唸った後、彼は控えめに主張した。
「ねえ、いまぼく、めちゃくちゃ……ちゅーしたいんだけど……」
「舌を入れないならいい」
「怒ってる?!」
「怒ってない。が、舌は入れない」
「……な、なんで?」
「まだ早い」
「うぅ~……。友達とはしてるのに……」
ふにゃふにゃとぐずる彼にしばし無言になる。早い、というのはやや語弊があるというか、二宮の見得のために少々飛躍させた言葉だった。彼が大人になるまで手を出さないと言う言葉に偽りはない。が、手を出す出さないのふたつしか無いわけではないのだ。その間には無数の隔たりや忍耐、葛藤がある。それでも尚、彼がどうしてもと言うのであればあるいは。考えないでもないけれど。やはり少し迷った後、二宮は重々しく口を開く。
「……言っただろう。俺はおまえが思ってるより、おまえのことが好きだと」
「……、?」
「俺は……好きな奴には触りたいんだ。だが、まだそれは早い」
「……キスは、触れるのに入らないけど……舌を入れるのは触れるのに入るってこと?」
「キスならまだ耐えられる。……が、舌を入れたら、それ以上欲しくなる。……俺のために堪えてくれ」
二宮の答えは柳瀬を理解していた。この言い方をされれば柳瀬は二宮の願いを聞き入れざるをえない。加えて、この言い方は逆説的に柳瀬のためなのだと理解できてしまう。柳瀬は全身の血液が沸騰しそうだった。尋ねる前よりもさらにキスをしたい気持ちが増していくけれど、実行に移すわけにはいかない。キスをすれば、絶対にそこまでしたくなってしまう。
かといって身体を離すこともできないまま、二人はしばらくの間言葉もなく抱き合っていた。