「プレイをするにあたって、改めて確認をしましょう!」
と、柳瀬が広げたのは印刷された一枚の紙だった。タイトルを読むに、双方が安心・安全なプレイをするための記入用紙のようだ。最低限のことは義務教育中の保健体育で習うものであり、二宮とて当時の記憶さえ薄いものの、大学のダイナミクス論の初回授業で説明を受けた覚えがある。当時はまだプレイの必要がない体質だったため他人事のように流し聞きをしていたのだが、もう少し真面目に聞いておくべきだっただろうか。
そうでなくとも病院で冊子が配布されたりと再度学ぶ機会はあったのだが、きちんと取り決めをしようとペンを用意する柳瀬には教科書通りの模範的な行動だと感じた。批判的な意味はない、Subとしての衝動を本格的に知ったばかりの二宮としても、互いの欲求について知ることは重要だったからだ。
三度目のプレイのために連絡をとり、今日は二宮の自宅へ柳瀬を呼んだ。物珍しそうにあちこち眺めている様子の彼を自室へ呼び、飲み物を用意する間に持ち込んだ道具を広げて待っていた。
「知ってますよね? これ」
「ああ」
「今年の初めくらいに授業でやったばっかなんですけど、似たようなの配布されてその場で書いてみましょうみたいなの言われるんですよ、ちょっとデリカシーないですよね」
「書いたのか?」
「やあ、そもそもはっきりしたパートナーなんていない子がほとんどだし、スルーかふざけてるのが大半ですよ。二宮さんが中学の時もやりました?」
「……覚えがないな」
「へー……あっ、じゃあ折角だし、二宮さんが書いてくださいよ」
自分の目の前に置いていた紙を二宮に向ける。紙の縁がコップにあたり、じわり結露が滲んだ。柳瀬に視線を向けると目が合って、甘えるように笑う。
「ね、お願い」
結露のように、柳瀬の言葉がじわ、と二宮の頭の中を侵食していく。言外に「上手にできるか?」と尋ねられている気分だ。しかしこれはまだプレイではない、拒否しようと思えば一言で切り捨てられるものだが、けれどあえて拒否する理由もない。二宮は病院から受け取った冊子にあった「プレイ外でも解消できるSub性」の項目を思い出しながら、差し出されたボールペンを受け取った。
用紙に記された項目は必要なものだけ使えばいい、という前提でそこそこの数があった。お互いのプロフィールにはじまり、好き・得意、苦手なプレイ、NG行為、ご褒美の好み、エトセトラ。
ひとまず自分の名前から書き始め、手元を覗き込んだ柳瀬が「わ、字綺麗ですね」と言うから一瞬手が止まった。
「ぼくの名前の字、わかります?」
「おまえのことは調べたと言っただろう」
「覚えてるんだ……」
感心したように言うが、二宮にとってはさして特別なことでもなかった。二宮が記入していく様子を眺めていた柳瀬は身を乗り出すのをやめて、コンビニで調達してきたスナック菓子を取り出した。カップの蓋を開け、中の一粒をつまみ咀嚼する。さくさく音とささやかな笑い声が聞こえた。
「ふふ、おいしくて。はい」
二宮の視線が何が面白いのか尋ねていたのだろう。一粒を差し出した。数瞬考え、尋ねる。
「……これは、プレイか?」
「んーん、まだプレイじゃないです。書き物してるから食べれないけど、欲しいかなって」
薄く唇を開き咥えた。薄い塩味が口内に広がりさく、と小気味いい音がする。
「セーフワード……。これ、前回は即席で決めましたよね。毎回考えるのも面倒だし決めちゃいます?」
「……その場にあるものかRedで統一してたから別ってもな……」
「ぱっと思い出せて言いやすいのが大事なので、ベタなのは好きなものですけど。二宮さんの好きなものってなに?」
「……ジンジャーエール?」
「……ああ! だからジンジャーエール出してくれたんですね」
スナック菓子を頬張る前、口に含んだ飲み物はシュワシュワと炭酸が弾けていた。やや時間の経った今、コップを伝った結露で机に輪ができている。
「んー、でもセーフワードにはちょっと長いかも……」
「めんどくせぇ。もうRedでいいだろ」
それ以上何も思いつかず、結局定番の単語に落ち着いてしまった。二宮が咄嗟に口に出せるかが重要なので彼が問題ないと言っているのなら柳瀬も異議を唱えない。書き込んで、その次の項目に移る間に柳瀬がまたスナック菓子を差しだした。さくさく。
「お仕置きって何が嫌ですかね」
「……傷が残ったりするのは困る」
「ぼくも困りますねそれは。やです。NG行為ですね」
その他に思いつかないらしい二宮を見て、首を傾げて尋ねる。
「じゃあ、質問の仕方を変えましょうか。ぼくとプレイしたときはそうもってられなかったと思いますけど……病院とかでプレイしたときにやだったコマンドはありますか?」
「──…Kneel」
「え?」
「……跪け、と言われるのが、無理だった。それ以外は基本コマンドなら問題ない」
「ああ~……ふんふん、なるほど」
基本コマンドと呼ばれるものはKneelやCome等、英単語で統一されているためわかりやすく、多くのSubやSwitchは基本コマンドであれば特に混乱することなくコマンドを受け付けられることが多い。例えばDomからの指示が日本語で曖昧だった場合、上手くプレイが行えないことがある。それを避けるためのものだ。親族や親しい友人間でケアをする際にもよく用いられ、二宮が受けた医療用プレイでも使われるほど汎用的なもの。二宮の言った通りKneelは「跪け」という意味だが、この国においては「正座をしなさい」くらいの意味も含まれたオーソドックスなコマンドである。
二宮も幼少期はKneelのコマンドを出された覚えがあるが、そもそもプレイを必要としない体質だと判明してからは長いことコマンドを受けることはなかった。そして、かろうじて覚えているその経験は両親からのケアだった。そのため今更初対面の相手から跪けと命令されるのも、Subとしての従順さよりも個人としての抵抗の方が大きいようだ。
柳瀬とプレイしたときは最初から膝をついていたり闖入者から隠れたりと、その指示が出されることもなかった。苦手なコマンド、に記入するペン先を眺めながら柳瀬は笑いかけた。
「でも苦手なものがわかってるなら次のプレイはやりやすいですよ、助かりました」
「? どういう意味だ」
「今日やろうと思ってたの、セーフワードの練習なので」
セーフワードは、Domが意図せず一線を越えたときに線引きを再確認するためのものだ。Subの心身を守るのと同時に、SubからDomへの信頼を損なわないための手段である。この関係が壊れるとそもそもSubの身体がプレイ自体を拒否する場合もあるほどだ。セーフワードがあるからこそ安心してプレイでき、何かあったら止められる、言っても関係は壊れないという認識を共有するためのもの。だからこそ通常はセーフワードを決めてからプレイするのがルールでありマナーでもある。
「ついでに聞きたいんですけど、ぼくがプレイ中に呼び捨てするの、やだな~って思ったりしてませんか?」
「いや……あれは、おまえがDomとして振舞うための行為なんだろう。やりやすいようにすればいい」
二宮の言う通り、柳瀬は呼び方と話し方を明確に変えることで相手の意識に入り込むようにしていた。それと同時に相手に対しても「これは命令である」と示すことで、よりはっきりプレイ中であることを意識させる意図もあった。この辺りはプロであれば技量があるため、柔らかな言い方や敬語でも問題なくプレイすることが可能なのだが、その辺りの一般中学生と、職業として日々の糧を得ているプロを比較しても仕方のないことだ。
それに。フン、と二宮は鼻を鳴らす。
「またプレイ中にビビられても面倒だ」
「あは~、たしかに」
あれは二宮に悪いことをした。自覚と負い目のある柳瀬は苦笑した。