それからまた少し筆を進めて、ふと思い出したことを尋ねる。
「……おまえ、Glareは使うのか?」
「えっ……と、使いたく、ない、です?」
二宮は無言で続きを促した。
「あ、あれって、Subはもちろん怖いと思いますけど、Domも怖いんですよ! 当てられた時はびりびりするし、怒った時に出そうと思ってなくても出ちゃう時あるし、下手したら友達とか大切な人すら怯えさせちゃうし、公衆の面前でダイナミクスを晒したり晒させたりすることになるし、それに下手したらSwitchを切り替えさせちゃうこともあるし!」
柳瀬の恐れはおおよそのSubが心配しているところと同じだった。というか、Glareに関してはプレイでもないのに悪行目的で、SwitchやSubに対して故意にGlareを向ける一部の者が目立つため批判されやすく注目も受けやすいが、ほとんどのDomはGlareの孕む暴力性について特に理解している。本来であれば対Domへの防衛や、Subの躾のために使うためのものだ。
「……そうか」
「……っていうか、ぼくが二宮さんに怒鳴っちゃった時、Glare漏れたりしてなかったですよね……?!」
「いや、ないな。……だが、必要だと思ったら使え」
「……。……ええとそれは、お仕置きとかで、ですか? ……んん、一応覚えておきますね……」
柳瀬が頷いたのを確認して書き込んでいく。
思い出したように、スナック菓子をまた差し出され続ける。──と、何故か途中からペースが上がり、飲み込む前に差し出された。二、三度それを繰り返したところでもういいと断ると、柳瀬は呆けたように返事をした。
「……あ、ああ。うん、はい」
見ると、彼の目元は赤らんでいた。目が合ったかと思うとうろうろ視線を泳がせて、やがて素直に白状する。
「プレイじゃなかったはずなのに、スイッチ入りかけちゃった……かも。や、なんでもないです。真面目にやりますよ」
誤魔化すように頭を振りカップを机の端に寄せた。スナック菓子の塩がついた親指を、彼の、赤い舌が。いや、そう思うのはきっと塩味のせいで、その指を。薄い唇を。ああ、また舌が見えた。
舐めたい。
そう思った己を認識した瞬間、ダンッ! と机を叩きつけた。当然ながら柳瀬は目を白黒させて肩をすくめる。
「ぅわっ?! えっ、なに?!」
「虫だ」
「五分の魂が……」
一寸の価値もない、ただの気の迷いだ。ただたまたま側にいるだけのDomに反応しているだけだ。Domに対する欲求と個人に対する欲求を混ぜるな。こんな感情、きっと大多数が思春期のうちに終わらせているはずなのだ。そう、それこそ柳瀬のような年頃のうちに。
「おい、その辺で拭くなよ。手洗い場は部屋を出て右手奥だ」
「ぼくのことなんだと思ってるんですか。……あ、お手拭きもらってるんだった」
二宮の葛藤も知らずのんきにビニール袋を探る少年を小憎らしいと思う。それと同時に、絶対に気付いてくれるなとも思う。二宮はきっと、成人間近になってSubの衝動を初めて覚えた身にしてはうまく向き合えている方なのだろうと自己評価をしている。けれどSub dropに陥りかけたことや先ほどの邪念を覚える度に、本能だかなんだかわからないが己の一部に組み込まれている機構にうんざりもする。
何故よりによって、まともにプレイできるのが、二次成長期すら終えていない柳瀬たつきでなければならなかったのか。
雑念を振り切るようにまた紙に向き合う。"性的コマンド"の欄はまとめて大きくバツを付けた。勢いのよさが面白かったのか柳瀬はけらけら笑っている。
「条例とか法律的なのに引っかかっちゃいますもんね」
「……念のため言っておくが」
「はい?」
こつ、ボールペンで指し示した。「パートナーを複数持つことを認めるか」、DomもSubも、ここを気にする者は多い。プレイのパートナーと恋愛のパートナーをイコールで結ぶ者が、特にこの国では多いからだ。
「俺は、今後も合うDomを探してプレイする。ここは認めてもらうぞ」
「あー、まあそうですね。うん、賛成です」
「どうせそのうち解消する関係だ。おまえも同年代と相手を作るなり、好きにしろ」
言いながら、二宮に改めて言われずともとっくに特定のパートナーがいるのかもしれないという可能性に思い至った。それならそれでいい、柳瀬にわからないよう嘆息する。柳瀬こそ無理矢理付き合わされて、今日だって二宮の家までわざわざ来た身なのだ、だから二宮はてっきり、柳瀬も同じ認識でいると思っていたが。
「えっ……、……」
「……なんだ」
彼の瞳は動揺の色を見せていた。尋ねるが、言葉を探すように視線の先が定まらない。柳瀬はちらと二宮の表情を確認して、表情豊かとは言いがたい二宮の感情を読み取れる程の付き合いではないことを思い出す。
「……ん、いや、ちょっと待ってください。……わかるん、ですけど。他にもプレイできる相手を探すって言うのは、そりゃ賛成ですよ。勿論。……でも二宮さん、この前ぼくのこと、"俺のDom"って言ったじゃないですか」
……。
言った、覚えがある。医療機関で紹介されたプロの誰とも相性が合わず、再び柳瀬にケアを依頼したときのことだ。プレイの中で柳瀬に「ぼくのSub」と言われ体温が上がったこともよく覚えている。それに二宮なりに「俺のDomと返した意図もある。あるが、あったとして口に出すかどうかは別問題だ。どうして不用意に、プレイ中でもないのにあんなことを口走ってしまったのか。
トリオン体に体調は関係ない。そのはずだ。しかし、あのとき柳瀬の言っていた「ぱやぱやしてる」感じが、万一トリオン体になった後も引き継がれていたとしたら。
「……、え、もしかして忘れてました?」
「……いや。……あれは、二度も……俺を掬ってみせたのだから。おまえの代わりはいないという意味で……」
「えっ」
苦し紛れに答えたのは常ならば絶対に言わないような言葉だった。
「他に、プレイができるDomを見付けたとしても、それは、変わらないという……いや、俺は何を言っているんだ……」
「……」
頭がぐらぐらしてきた。どうしてこんなことに。
額を押さえる二宮に対して、柳瀬は困惑していた。重箱の隅をつついて(柳瀬にとっては隅ではないが)ごねたのはミステイクだったとして、直後に「そんな、ぼくのことは遊びだったんですか?!」なんて言って、わかりやすい泣き真似をする。そんな風に振る舞えば二宮も気の迷いだったと言いやすいだろうと、思っていたのだが。
尤も、二宮にとってはあらゆる意味で遊びなわけがなく。さりとて本気だと返すのも語弊しか生まれないのだが。
(……いや、これ。先に発言して、かつ真面目に受け取ったぼくが悪い感じだよな……)
自分が言ったプレイ中の発言だって、いわば言葉の綾のようなものだ。それをプレイ後に返されたとして、所有格に胸を躍らせたとて、だだをこねる子供のように持ち出すべきではなかった。そもそも柳瀬は、プレイをする相手が複数いることにさして抵抗はない。多くの大人が認識しているように、プレイのパートナーと恋愛のパートナーがイコールになって、プレイの一環としてそのような──二宮が大きくバツを付けたような──行為もするようになれば、また価値観も変わるのだろうが。とにかくいまは医療的な意味も含めて、二宮が柳瀬以外のDomとプレイできるようになることは柳瀬にとっても望ましいことのはずだった。
というのも柳瀬には、あくまでも知人友人に収まる範疇でプレイする相手が複数いる。二宮と同じようにSub dropに陥りかけたDomだったり、SubのパートナーはいるけれどDomのパートナーはいないSwitchだったり。大声で言えることでもないが、それこそ学校帰りに一緒に買い食いする、くらいのノリでプレイをする相手がいる。
そんな自分を棚に上げて、プレイ経験で言えば自分よりもずっと少ない回数しか、というかそもそもきちんとプレイできた回数で言えば自分しか知らない二宮をして、ただ口が滑っただけであろう一言をここで持ち出すのは。そう、まさに、クラスの女子から借りた大人向け少女漫画で見た、あれだ。
(……一回プレイしたからってパートナー面するなよのやつだ……!! しかも言った方が最低とかじゃなくて、ホントにその通りなパターンの……!!)
穴があったら入りたい気分だった。気持ち悪すぎるぞ、ぼく。
「……二宮さん! やっぱりさっきのナシで!! 二宮さんの二代目Dom、張り切って探しましょうね!」
重い沈黙をなるべく明るく払おうとしたが、二宮の「はぁ?」というオーラが目に見えてわかるようだった。切り替えの為に叩いた手が驚くほど綺麗に鳴り、それが逆に、部屋の空気を寒々とした物へと変えた。