悠香君も人の子なので、心を壊しそうになる時はあります。
結論から言うと、交流会の団体戦は前代未聞の中止となった。
楽巌寺の事故を装った抹殺命令によって悠香は真依に撃たれたが、その際に飛び散り地面に染みついた悠香の夥しい血痕が禍々しい呪力を発し始め、それに当てられた三級以下の呪霊たちが突然変異を起こし巨大化。見境なく暴れ始め、楽巌寺が予め放っていた準一級呪霊と殺し合いを始めたのだ。
これが原因で種目そのものが成り立たず、生徒だけでなく教師も駆り出て事態を鎮圧せざるを得なくなった。さらに血痕の残穢は異常なまでに強烈で、処理をしようとした補助監督たちが次々に体調不良に陥った。
宿儺の器の弟・虎杖悠香の抹殺計画は、双方に大きな爪痕を残すこととなった。
「やってくれたな、ジジイ」
五条は苛立ちを剥き出しに楽巌寺を非難した。
「事故を装うという発想といい、学生に悠香を手にかけさせたことといい……本当に反吐が出る」
凄まじいプレッシャーを放つ五条。
自分の思惑と真逆の結果になってしまい、楽巌寺は渋い表情を見せてたじろぎつつも、腹をくくって口にした。
「……呪術規定に基づけば、虎杖兄弟は存在すら許されん。二人が生きているのは五条の我儘だろう」
「楽巌寺学長。悠香がいなかったら、今頃呪術界は壊滅してる。実質、悠香一人の犠牲で今の秩序は成り立ってるとも言える状況です」
夜蛾に指摘され、楽巌寺は唇を噛んだ。
もし悠香を殺せば、宿儺たちは縛りから解放され、呪術界全体が危険に晒されるどころか日本が滅びかねない。それ以前に悠香のあの再生能力を目の当たりにしたせいで、ちゃんと彼を殺せる自信がない。
つまるところ、呪術界が悠香を抹殺することは不可能なのだ。
(……まさかこんなことになるとは)
楽巌寺は、呪術規定に則った自分の判断に誤りはないとは確信しているが、悠香の異常な再生能力など全く計算外で、ここまで波紋を呼び起こすとは考えていなかった。
楽巌寺が黙り込んだことで、五条は舌打ちしつつ家入に声を掛けた。
「ところで、悠仁はどう? 硝子」
「……はっきり言うが、メンタルが相当やられてる。間違いなく
家入は深い溜め息を吐いた。
事態が収拾してから事情を知った悠仁は、立ち直れるかわからないくらいに酷く落ち込んでいた。呪いによる「間違った死」から人を助けることを指針としている彼にとって、唯一の肉親が人の手にかけられたことが相当ショックで、しばらく情緒不安定な状態が続くと家入は考えているらしい。
「ハァ……呪霊が侵入してきた件は?」
「宿儺が出張ったのは想定外だった。八つ当たりだね、アレ」
話は、特級呪霊と呪詛師が侵入した事件に触れる。
何者かの手引きで高専の敷地内に入ってきた侵入者たちは、学生たちに猛威を振るったが、そこに助け舟を出したのはまさかの宿儺だったのだ。どうやら悠香絡みのストレスが溜まりに溜まり、鬱憤を晴らすかのように蹂躙したのだ。
最終的には苛立つ宿儺と戦うのは分が悪いと判断して逃走した訳だが、その際にいくつかの特級呪物が盗まれていたことが発覚した。幸い、一早く異変に気づいた甚爾が別件を対処し、死傷者はゼロで済んだ。
「――まあ、とりあえず中断だね。これ以上は危険かもしれない、お互いに」
普段なら学生の青春を大事にするべきだと言いふらす五条が、交流会中止を誰よりも早く提言した。
それがどれほどの異常事態かを察した夜蛾は、そっと胃薬に手を伸ばした。
*
その頃、高専内の保健室。
目を覚ました悠香は、ベッドに上半身を起こすと、頭を抱えながらケラケラと笑い始めた。
彼は不幸にも、全て憶えていたのだ。
「――許しちゃくれないってことか」
地の底を這うような暗い声が慟哭と化す。
今回の件で、呪術界は全員が自分の敵となり得る存在だと思い知った。今回は京都校の面々だったが、いずれ東京校の人間も牙を剥くだろう。
そう考えると、今の自分の立ち位置は酷く不安定だ。いつ誰が命を狙ってくるのか予測もつかない。伏黒も釘崎も順平も、もしかすれば五条や夜蛾、家入も……。
味方である立場の仲間達や一定の信頼を寄せている大人達が次々と敵として浮かんでくると、強い警戒心が猜疑心となり、疑心暗鬼が止まらない。考えれば考える程に心が蝕まれ、溢れ出る負の感情が止められない。
しばらく笑っていると、笑い声が段々と湿り気を帯び、声が掠れ始めた。
「俺は……身の丈に合った幸せすら噛み締められないっ……」
笑いながら泣くなんて、自分でもよくわからない状態に陥り、止め方がわからない。しかし、一つだけわかったことがある。
(次は兄さんだ)
保身しか頭にない上層部は、今回の件で悠香は殺せないと判断すれば、今度は悠仁を狙う。
そもそも悠仁は、器としての才覚がある。悠香の方が危険度が高いと判断されただけであり、悠仁も上層部から危険因子と見なされてることは変わらない。それに悠仁と宿儺は分離状態で、悠仁を殺すこと自体は容易くなっている。
「ダメだ……兄さんも俺も危ない……」
不安に押し潰されそうになる悠香は、布団を強く握りながら、ぽつりと呟いた。
仲間だと、味方だと思っていた全員が、恐ろしく思えてしまう。気を許したら兄も自分も死ぬ。信用すれば兄も自分も呪われる。背中を預ければ兄も自分も殺される。もう自分は兄以外を信用してはならない。味方はいないに等しい。
そんな言葉ばかりが頭に浮かび、悠香を追い詰めていった……。
その頃、東京校の控え室は重苦しい空気に支配されていた。
「……とんだことになっちまった」
真希は複雑な表情で呟き、他の面々も言葉を出せない。
驚異的な再生能力で息を吹き返したとはいえ、後輩があんな目に遭ったのだ。その後に立て込んだ呪霊と呪詛師の襲撃はともかく、交流会の中断は間違いなく抹殺計画のせいだ。
男勝りで反骨精神が強い彼女も、今回ばかりは堪えた。真依にも悠香にも、悠仁にも、何と声を掛けていいかわからないのだ。
「……悠香……」
「……」
悲しみに暮れながら弟の名を呟く悠仁に、伏黒は何も言わず肩に手を添える。
お前のせいじゃないと言いたいが、それは何の慰めにもならない。唯一の肉親である弟が、自分の目の届かない場所で一度死んだのだ。それがどれほどの絶望か、計り知れない。
「……こんな時、
『?』
項垂れる悠仁の呟きに、一同が反応した。
「おい悠仁、誰だそいつ?」
「……悠香の中学校の担任だよ、パンダ先輩」
悠仁は一同に語り出す。
教師としてだけでなく一人の人間として悠香に向き合い、時に厳しく時に優しく面倒を見た教師の鑑。悠香にとって日置は、単なる恩師ではなく父も同然の存在という認識なのだ。
「……俺のせいで悠香はあんな目に遭った。俺じゃダメだ……!」
『……』
自責の念に駆られる悠仁に、伏黒達は何も言えなかった。
言葉選びを間違えれば、余計に心を抉る可能性がある。
「全く……小僧はつくづく愚かだ」
『宿儺!?』
不意に、やれやれと言った様子で宿儺が姿を現した。
傍にいる裏梅も、不愉快そうに顔を歪めている。
「あの程度の奸計に弄ばれる悠香が悪い。…………が、どこの馬の骨とも知れん蛆共が奴の生殺与奪を握るのは、心底不愉快だ」
天上天下唯我独尊な呪いの王らしからぬ言葉に、一同は面食らった。
宿儺は悠香を気に入っているが、向ける感情は呪いらしく邪悪。絶望の前でこそ悠香の命は輝くと考え、彼が窮地に陥る状況を心から楽しんでいる。なぜなら悠香は、その程度で屈する魂ではないと確信しているからだ。
だが今回の件は宿儺自身も予想外であり、不愉快であった。お気に入りの人間に手をかけた者たちを許す気には到底なれないが、縛りの関係で鏖殺することができず、苛立ちを覚えていたのだ。
「早く手を打て。有象無象を玩具にしても何の暇潰しにもならん」
「悠香もお前の玩具じゃないんですけどね!!」
「黙れ小僧、
「わかったって! ――にしても、電話通じるかな……」
呪いの王に気圧されつつ、悠仁はスマホを取り出し、一縷の望みをかけて連絡先をタップした。
*
東京、某中学校。
虎杖兄弟の中学卒業と共に異動した日置は、小テストの採点をしていた。
「はーっ……ったく、また同じトコ間違えてんぞ佐藤……」
そうボヤく日置は、ふと思い返した。
仙台の中学校に赴任していた頃に出会った、一人の生徒。成績は優秀であったが妙に警戒心が強く、大人しそうな雰囲気の割に気性の荒い一面もあった、今までの教え子の中でも随一の問題児――虎杖悠香。
「悠香の奴、大丈夫か……?」
窓から夕陽を眺めながら、思いを馳せる。
悠香は他人をすぐに信用しない、よく言えば人見知り、悪く言えば猜疑心の強い性格だった。我ながら人望の厚いタイプの教師だと自負する日置でも、信用を得るのに丸一年かかった。あれ程達観して周囲を警戒する生徒はそういないだろう。
ただ、信用を得てからは悠香は自分を尊敬して頼りまくった。教師として冥利に尽きるが、兄の悠仁の愚痴も散々聞かされたため、相談の時は悠仁を怒鳴り散らしたい気分になったのも、今となってはいい思い出だ。
「……そういやあ、明日は有給取ってたな」
ふと、カレンダーを見て気づく。
そういえば、二人は杉沢第三高等学校に進学したはず……。
(せっかくだし、仙台に行ってちょっくら覗いてくるか)
そんなことを考えた時、着信音が鳴った。
学校の固定電話ではなく、自分の携帯だ。
画面を見てみると、そこには「虎杖悠仁」という文字が。
「……ちょうどいい」
日置は画面をタップし、電話に出た。
「おう、久しぶりだな悠仁」
《やった、繋がった! ……日置先生、今どこ?》
「どこって……異動先に決まってんだろ? 俺が東京に異動するって卒業式で言ったろ」
《そりゃ、そうだけど……》
ノリが軽く気さくな悠仁が、随分と歯切れの悪い返事をする。
日置は訝しげな表情を浮かべ、まさかと思いつつ尋ねた。
「……おい、何かあったのか?」
《っ……》
電話の向こうで、息を吞む気配がした。
それは間違いなく、肯定の意味だ。
あの根明な悠仁が切羽詰まっている様子に、日置は瞬時に事が逼迫していることを悟って目を見開いた。
《日置先生、俺……!!》
「落ち着け。大丈夫、ゆっくりでいい」
焦燥を滲ませた声を抑えるように促すと、悠仁は助けを求めた。
《……助けてくれ、日置先生。悠香が大変なんだ!!》
「っ!?」
あまりにも予想外の内容に、日置は息を呑んだ。
「悠香が……どうした? 何があった!? あいつは大丈夫なのか!?」
《っ……》
電話の向こうで、悠仁が逡巡する気配がした。
最悪の結末を想像しかけて、日置はそんなはずはないと信じて振り払い、今度ははっきりと告げた。
「……悠香を助けてほしいってことか?」
《……うん》
全てを肯定した教え子の兄に、日置は続けた。
「――大丈夫だ、先生に任せろ」
《っ……!》
「俺は教師だ、元が付いても教え子の異変は些事でも意地で駆けつける」
かつての教え子の窮地に、日置は立ち上がった。
どんなに離れていても、どんなにバカでも、大事な教え子を救い導くのが教師の務めなのだから。
オリキャラの日置先生は、筆者が今までお世話になった先生達をモデルにしてます。