猟師の朝は早い。
雲一つない晴天の下、深緑生い茂る森の奥深くに住まう青年の一日は鳥のさえずりと共に始まる。
自作の木製ベッドから体を起こし、眠そうな足取りでこれまた自作の小屋を出てすぐ近くの湖へと向かう。濁りが一切見られない澄み切った湖は、飲料としても役立ち青年の生活に欠かせないものになっている。
絡みつく重たい眠気を祓うように水を掬い顔を洗う。同時に口の中を
目が覚め爽やかな気分になったら小屋に戻り、天井から吊るした干し肉を一切れ取り食べ始める。この干し肉は一週間程前に獲った、『ボア』という猪のような体躯のモンスターから切り取った物で出来ている。青年の食生活には欠かせないものだ。
「そろそろ、コレも無くなるな」
干し肉を齧りながら、吊るしてある同一の物を眺めながら一人ごちると、加えた干し肉を一口で食べ、いそいそと服を着替え始めた。
それまで上半身裸に麻のズボン一丁だけだった恰好が、身軽そうな格闘家然とした軽装に変わった。これが青年の普段着である。見るからに目立つ炎を纏い飛翔する鳳凰の刺繍が入った服の背中は、この森の中では明らかに異質なモノだった。
正装に着替えた青年はある程度の荷物を入れた袋を軽く担いで小屋から出た。
底を突きそうな食糧を確保しなくてはならない。が、それより先にやる事がある青年はまとめた荷物を売ってお金にする為、森を出た北にある『トーティス』という村に行かなくてはならない。
獲物を狩る事しか出来ない青年は、その他の生活必需品を生産する能力を持ち合わせていないからだ。干し肉を作る事は出来る。食べられる木の実は花の区別もつくが、衣服や狩りに使う武器の新調、もし万が一病気になった時の為の薬など。想定外のトラブルが発生した時の対処法を知っていても、対処に必要な道具を持ち合わせていないんじゃ意味がない。だから、青年は獲物の肉を村で売り、そのお金で必要な道具を買うのだ。
慣れた様子で森を出ると、目的の村は肉眼で確認できる程の近い距離にあるのが青年の目に映った。以前来た時と同じで、なんの変わり映えもしない見るからにのどかそうな雰囲気が滲み出ているのに、思わず笑みを溢した。
トーティス村は人口が五十にも満たない小さな村だ。
この世界の西に位置する大陸『ユークリッド大陸』の南方、山間にあるこの村は、貧しいながらも人々は満ち足りた生活を送っていた。村の中では争いも起きない程の平和さに、行脚に訪れた旅人も始めは驚き、そして居ついていたいと思う程に気に入った。
人の少ない村というのは、あっという間にあらゆることが知れ渡るために、悪さをしようと言う人間が居ないのだ。たとえそれをしたとしても、住人皆が協力し合っているこの村では、己の犯した犯罪が原因で自分にそのツケが回ってくるからだ。
罰を受けると始めからわかっているのに、それでもやろうとする村人は、ここには居なかった。
そんな村に、どういうわけだか剣術道場が存在していた。
流派の名は『アルベイン流』と言う。
道場には剣術を身に着けて、騎士になる為に都へ行くなどと野望を持つ少年や、ただ単に流されるままに通っているものから、様々な人種がいる。それぞれが皆違った志を持っているこの道場で、しかし一つだけ同じものが存在する。
中途半端に投げ出すことは絶対に無い、というのである。
言うだけならば簡単だと、道場の向かいに建つ家に住む少年ならそういうかもしれない。だから、そう言われないよう彼らは努力を重ねる。
ひたすらに、教わった型を繰り返し、繰り返し。体の芯まで染みつくよう、寝相もそうなるまで繰り返し木剣を振り続ける。
修業に励む門下生達を正面から観察しつづける男が居た。
貫禄のある顔立ちの男の名は『ミゲール・アルベイン』と言い、この剣術道場の師範代であり少年達にアルベイン流を指南している者だ。ミゲールはこの村より北の山を越えた所にある、王城『ユークリッド城』で独立騎士団団長を務めた過去を持ち、その実力は折り紙つきだ。
穏やかな双眸の奥に光る、鋭い観察眼は確かな物で、先程から木剣を振るう少年達の改善点を見出しては的確に指示をしている。
門下生の素振りが三百を越えた頃、道場がある場所より手前の廊下にある、二階の居住区から誰かが下りてくる足音がした。
「おはよう、父さん」
「ああ、クレスか。おはよう。今日は早いんだな」
二階から降りてきたのは微かに幼さの残る少年だった。山吹色の髪と、その下の額に巻いてある赤いバンダナがトレードマークの少年は、ミゲールを見て“父さん”と呼称したことから、息子である事が分かる。
名は『クレス・アルベイン』
齢十七ながら、落ち着きのある姿は歳不相応のものがあり、村の大人達は関心している好青年である。
クレスは父の指摘に微笑みを浮かべて返す。
「だって、今日は母さんの薬に必要な薬草が届く日だからね。早く取りに行ってあげないと母さんも辛いだろうから」
「まだ、容体は良くないか?」
「うん。そんなに酷くは無いんだけど、苦しそうに眠ってる」
母の容体を心配するあまり先程の表情はどこへやら、一転して暗い面持ちのクレスはまるで自分が悪いかのように僅かに視線を下げた。視界に映る父の足が、忙しなく床を叩いているのが見えた。
クレスの母『マリア・アルベイン』は普段から体力がある方ではなく、たびたび体を壊しては長引き、後を引いてしまう体質だった。
癒しの力を扱う『法術師』である彼女は、他の人間の傷や病を癒せても、己の身体を癒す事は出来なかった。原因はミゲールにも、クレスにも分からない。ただ、それでもこの村の南にある森では、彼女の病を癒す薬を生成する為の薬草が生えているのが救いだ。
定期的に森に住む人が村へとその薬草を持ってやってくるのだ。今日がそのクレスにとって待ち遠しい日であり、朝早く起きた理由でもあった。
「母さんの事は私に任せて、クレスは早く行ってやりなさい。彼も、きっとお前の事を待っているだろう」
「はいっ、それじゃあ行ってきます」
此処で落ち込んでいても母の容体が良くなるわけがない。クレスは元気よく父に言い残して家を出た。
早朝の風は少し肌寒く、こんな時間に川なんかに飛び込んだら絶対に風を引くだろうな、などと思いながら小さな川を跨ぐ橋を渡る。橋を渡りきった目の前には、村が火事などになった時の為に使う鐘がクレスの身長の何倍もある高さの半鐘台に設置してあった。思わず顔を上げてしまう高さのある台の土台辺りまで視線を戻すと、いつものように鐘を鳴らす仕事に着いている青年が退屈そうに突っ立っていた。
彼はこの村が平和なおかげなのか、それとも平和なせいなのか、鐘を鳴らす仕事にも拘らず鐘を鳴らすような事件が最近は無いため退屈な日々を送っていた。この間クレスがそれとなくどんな心境なのか聞いたところ「平和ってのは結構だけども、俺、失業するかも……」と、苦い表情でそう言っていた。
記憶の回顧をして思い出し笑いをしてしまったクレスは、笑いを引き起こした当事者である鐘の下の男に気取られないよう顔を逸らしながらその場をやり過ごした。
半鐘台より南に歩くと、二つの建物が目に入る。
クレスから見て左手にあるのは、この村唯一の宿屋である。旅人などが訪れる事がめっきり減ってしまった今となっては、もっぱら店主である老婆の道楽になりつつあるのがこの村の現状だった。いま宿泊している客も、行脚に訪れている旅人とその妻の二人だけ。明らかに売り上げが厳しいのだが、老婆はそれ以外にも、畑を耕し家庭菜園などをして生計を立てている。
そして右手に見えるのが、クレスの目的地である雑貨屋『ゴーリ』だ。食材や、薬、それに食べると体力等が回復する不思議なグミが売っている店で、クレスもたまに利用している。
もう目的の薬草は届いたのだろうか、と逸る気持ちが背中を後押しクレスを前へと進ませる。ちょうどその時、雑貨屋の先、村の入り口である門の向こうから歩いてくる人影が見えた。
180cmはあるだろう身長と、朝日に照らされキラキラと存在をアピールしている若葉色の髪がクレスの目に映り、思わず雑貨屋の横を走り抜け門まで向かっていた。
村を訪れたのは、クレスが待ち望んだ人物だったから。
「―――ライトっ!」
ピッタリと肌に張り付く伸縮性のある袖なしの服の上から黒を基調とした、わきの下から肩、そして首回りを通した膝裏まであるマントのようだが、前止めのボタンが付いているから上着なのだろうそれは彩度や明度の違う様々な赤い糸で鳳凰の刺繍が描かれている。
下半身には腰から足首にかけて渡り幅が広くなっていて、それが足首の高さでキッチリと閉まっている。不用意に膨らんでいるズボンには、まるで何かが入っているのではと思うような感じであった。染め色はやはり黒かった。
クレスはそんな彼を“ライト”と呼んだ。
声が聞こえた彼は、袋を担いだ右とは逆の空いた左手を軽く上げ挨拶を返した。目に見える距離とはいえ、それでも結構離れている場所からクレスのように大きな声を出すのは面倒だった為のおざなりさだった。
彼の名は『ライト・ライト』
トーティスの村より南にある森に一人住まう、ここの村人の一人である。
※
ボアの肉……当然、干し肉ではなく倒したばかり捌いたばかりの新鮮な肉。
ボアの毛皮……ボアを倒した時に肉を捌くついでに剥いだ。
ボアの牙……これもボアを倒したついでにもぎ取った。
特別な薬草……俺が住んでる場所の近くで採れる、ここにしかないらしい薬草。
見事にボア尽くしの荷物は袋に詰めると結構な重さになったが、逆にこれほどあれば、多少はまともな金(ガルド)に変えられるという証拠でもある。ボアの重みはガルドの重みなのだ。
それらを担いで歩く事数分。物心付いたときから住んでいた村の門が現れた。人が歩きやすくなるように申し訳程度に刈られ、作られたであろう土の道を外れれば遮るレンガ造りの古くなった塀と。入口はここから、と言うかのような村の名前が両柱に刻まれた門は俺がこの村を出た時から何も変わっていなかった。
穏やかで緩やか。しかし、時の流れさえも緩やかなのではと錯覚してしまうような、のどかで心地よい場所。
またここに来たんだな、と郷愁に近いのかもしれない感傷に浸りながら、今日はいつもの家で一泊していこうかな。などと考えていたら、
「―――ライトっ!」
なんて大声で俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
声のする門に視線をやれば、そこには見知った弟分のクレスが俺を迎えてくれた。迎えだよな、間違いないだろ。
呼ばれて無視、というのもアレなので、とりあえず片手を上げて返事する。同じように大声で返事をするのは面倒だし、なんか咳き込みそうだからやめた。
人を待たせておいてのんびり歩くのも、待っている奴に悪いかなと思い、仕方なく俺は歩く速度を速め久し振りにトーティスへと帰って来た。入った瞬間、森に居る小鳥とは違う種類のさえずりや、小さな小川の水音などの環境音が俺を迎えた。そして、村人もまた俺を迎えてくれた。
「久し振りだね、おかえりライト」
「ま、だいたい三か月ぐらいか。久し振りだなクレス。親父さんとお袋さんは息災か?」
「母さんはいま病気で寝てる。それで、その為の薬が欲しかったんだけど、材料が足りなくて……それで、ライトが来るのを待ってたんだ」
「そうか、お袋さんはまた病気になっちまったか。それなら俺が居る家までクレス、お前が来れば良かったじゃないか。それならもっと早く俺も知れたのに」
とは言ったものの。俺が住む森の奥に棲息するモンスターはちょいと強力なのが多い。出口周辺なら出てくるのもボアやG・ビー、それにバグベア程度で済む。それぐらいなら、クレスだけでも余裕だろう。だけど、俺の家がある周辺にはそれよりも厄介なモンスターが結構棲息している。しいて上げるならG・スラッグだろう。こいつは力こそ弱いが、毒を持っている。油断してくらってしまうと、毒を受けて身動きが取れなくなってしまう。
クレスは優秀な剣士だが、実戦経験が少ない。南の森で狩りをしてはいるが格下相手では成長も遅いから、それが油断を生んでしまう可能性もある。
だから、俺が来れば良かったじゃないか、と言った所でクレスは理由を言えない。嘘が苦手な正直者だから偽れず、そしてそれは己の未熟を見止める事にもなるからだ。これが、俺相手ではなく、クレスの父親だったり、その師匠だったりしたら違っただろう。
兄貴分を自負している俺に、自分が弱いからとは言えない負けん気が、クレスの良い所なんだろう。
「でもちょうど良かった、今日はその薬草を沢山持ってきたんだ。ほらっ、早くこれを『ゴーリ』の爺さんの所に持って行ってやれ」
「あっ、ありがとうライト。それじゃあ、僕行ってくるよ。後でまた顔を出しに行くから。これからチェスターの家に行くんだろ?」
「……よくわかったな。そういう事だ、用が済んでお袋さんが落ち着いたら来てくれ。じゃあな」
自分から振っておいて話題を違うのに挿げ替えた後、クレスは俺が差し出した特別な薬草を嬉しそうな顔をして持って店に入って行った。
これで、あいつのお袋も大丈夫だろう。身体が弱い代わりに、あの薬を飲めばすぐに良くなるんだから。
雑貨屋の扉の向こうへと消えたクレスを見送り、行っていた通りチェスターの家へと向かう事にする。多少軽くなった荷物を担ぎなおすと、自然と下がっていた視線に誰かの足先が入ってきた。靴と足のサイズからして女だろう。
「おかえりーライト。ねえ、ライトは結婚しないの?」
「出会い頭に早々、なにを言ってんだお前は。そういうスイこそ、結婚しないのかよ」
くすんだ赤毛を両側で縛っている俺と同じ歳の村人、スイが目の前に立っていた。しかもなんかうんざりした顔をしてる、また何かあったなこいつは。
「結婚ね~、私も早くお嫁さんとかになりたいわ~……」
「一体お前に何があったんだよ」
いつもなら皮肉交じりに言い返すと足りない語彙で怒りながら足を踏むのに。
明らかに今日のスイは魂が抜けかかっていた。今も俺を見ているようで、その向こう側の何もない所をただぼんやりと眺めているような、そんな感じがする。
その真相は、だが案外あっさりしたものだった。
「それがさ、ルーイとシルヴァが来月に結婚するのよ。しかも、その結婚式をどんな風にしようかで、今も橋の上でイチャイチャしてるのよ? そんなの見たら、私まで焦るじゃない」
「…………そうか、じゃあな」
なんだ、ただの嫉妬じゃないか。それならこれ以上聞いてもしょうがない。スイの話に付き合っていたら昼になってしまう。
愚痴を漏らす彼女を素通りしてチェスターの家に行こうと歩き出した。
けど、彼女はそれを許してはくれなかった。
「ちょっと待ちなさい」
「人を止めるのに足を掛ける必要があるのか? 人間なんだ、ちゃんと言葉で伝えようぜ」
「あんたが私を無視して行こうとするのがいけないんでしょ。人間なんだから、ちゃんと人の話は聞きなさいよ」
ああいえばこういう。
へそを曲げたスイはすっかり不機嫌面で、一見すれば美人なのだろう顔が歪んでる。見た目通りのおしとやかさを中身も持っていたら、きっと婚期を焦る必要も無かっただろうに。
人口が少ない村ではそれも仕方ないのかもしれない。未婚の男なんて、この村には知る限りで三人ぐらいしか居ないのだから。
「わかったわかった。それじゃあ俺がお前の結婚相手を紹介してやろう」
「えっ、本当に!? 誰よ? 森住まいのライトに紹介出来る男なんか居たんだ」
「おうよ……フォンなんかどうだ?」
「平和なこの村で半鐘を鳴らす仕事をしてる男なんか嫌よ、私。というか、この村の男じゃないの! 他の男は居ないの?」
半鐘を鳴らすのは重要な仕事だろうに。平和とはいえ、いつ何が起きるのか分からないのが現実なんだ。どこに落とし穴が潜んでいるのかなんて、わからないんだ。村の危機を知らせるのは一番重要だろ。我儘な女だ。
「なら、ジーンはどうだ?」
「雑貨屋の小間使いにも興味なんかないわ。大体あの男、私の事を“行き遅れ”って言ったのよ!? 許せないわ!」
なにも間違ってはないだろそれ。ま、でもそれを肯定したら俺までそうだと思われてしまう。同じ歳ってのは、こういうとき辛い。
二十と一年生きてはいるが、それでもまだまだ人生を決定づけるには早すぎるだろうとは思う。しかし、この村では二十になるぐらいには皆結婚をしてたりする。その習慣が、スイを焦らせるんだろう。
「それじゃあ―――」
「―――言っとくけど、神父様は既婚だし、教会の女神像で興奮する男も嫌よ」
先どって遮られてしまった。スイの眉間にどんどん山と谷が出来上がっていく。
このままじゃ、俺はあの山の頂上から谷底へと突き落とされる。
「それじゃあもう村に未婚の男は居ないぞ。というか、お前、実は結婚するつもりないんじゃないか?」
「何言ってんのよ、まだ一人いるじゃない」
あれ、そんな男居たか? もしかして俺が森に移ってから誰か移住でもしてきたのか。それなら俺が知らないのも納得だが。
「誰か移ってきたのか?」
「そんなわけないじゃない」
「じゃあ、あとはもう居ないだろ。……あ、もしかしてスイ、お前。ルーイをシルヴァから奪うつもりなのか? それは流石に不味いぞ、気まずいどころの話じゃないぞ」
頬を殴られた。
「馬鹿じゃないのっ。私がそんな事するわけないでしょうが!」
「じゃあ、いったい誰だってンだよ」
「あんたしか居ないでしょうがこのボケッ!」
殴られた頬がやけに熱いのは、殴られたからだろう。
犯人はいきなりわけのわからない事を言いだしてる。俺しかいない? それってなんの冗談だよ。もしかして村ぐるみの悪戯とかだったりするのかこれ。
発言した本人は乱暴に言い放った言葉の真実味を増すような、真っ赤に染まった頬と、水気を帯びて潤んだ瞳で俺を挑戦的な目で睨んでる。なんかもう、これは本当の事なんじゃないかと勘違いしてしまっても大丈夫そうな感じだった。
「……あー、その、なんだ…………まさか、マジで言ってるお前?」
「なによ、本気だったら……ど、どうする……の?」
「断るに決まってるだろ」
「ぇ? なっ……! え、ちょ、ほ、本当に……? な、なんでよっ」
本気だったのか。随分と回りくどいアプローチの仕方を選んだなスイよ。お前の性格なら、てっきり堂々と真っ直ぐに「私を嫁にしなさい!」とか言うかと思ってたよ。
バッサリと要望を切り裂いたのがショックだったのか、スイの身体が右に左に、酩酊した酔っ払いみたいにふらふらしていた。なんか、少し罪悪感が湧いてきた。
「だってお前、俺は―――」
「―――お兄ちゃ~んっ!」
舌っ足らずに俺の事をそう呼ぶ声と同時に走る腰の衝撃に、涙腺が決壊しそうなスイに言おうとした言葉がかき消された。いや、もうスイの事はどうでも良くなっていた。
視線を降ろせばそこには、一人の少女……いや幼女が俺の腰に抱き着いていた。
スイはその幼女の事を良く知っている。だから、彼女はその存在に気がついた瞬間に俺から幼女を引きはがした。
「こらっミイ! 邪魔しないのっ。お姉ちゃん今、とんでもなく大事な交渉中なんだから」
「え~、私もお兄ちゃんと遊びたいよ。せっかく帰って来たのに、ずるいよお姉ちゃん」
「駄目に決まってるでしょ! ほら、あっちで遊んでなさい。ライトも、見てないでちゃんと言いなさいよ。……私にも」
無理やり引きはがされた幼女……スイの妹であるミイは、俺の記憶が正しければ十歳になったばかりだろう。以前よりも村に来る時間を空けたお陰で、俺と遊びたくてしょうがないらしい。
嬉しさから思わず頬が緩みそうになってしまうのを、なんとかして必死に抑える。こんな所を姉に見られたらまた殴られる。
でも、だから我慢するのか? ……無理に決まってるだろ。
「まあ落ち着けよスイ。ほらミイ、こっちおいで一緒に川で魚でも釣るか? それとも前やった夫婦ごっこの続きでもブッ……っ!」
殴られた。今度は鼻だった。
ツンとした痛みが鼻から伝わってくる。
「もう知るもんか! あんたが行き遅れても私は貰ってなんかやらないんだからねっ」
沸点を越えたスイの怒りが爆発して、矢継ぎ早にそう怒鳴って走り去ってしまった。普通、女の方が貰うって言葉は使わないんだが。
指摘しようにも、彼女は既に教会へと去ってしまった。多分あの調子じゃシスターにでも俺の愚痴とか、村の男の文句とかを言うんだろうな。
ミイと二人残された俺は、取り合えず妹の方の様子を窺う。姉を怒らせて、ミイももしかしたら怒ってしまったかもしれないから。せめてフォローでも入れようかと思った。
「お姉ちゃんまた行っちゃったね。お兄ちゃんが来るといつもそうなんだから、しょうがないな~」
俺の心配は現実にはならず、ミイは走り去っていったスイの方を見て理解ある大人みたいに呟いた。
正直、スイの好意は迷惑じゃなかった。むしろ俺みたいな男を好いてくれた事は嬉しい。男が他に居ないから消去法ってんじゃないなら、嬉しいのは本当だ。俺だってそこまで馬鹿じゃないし、鈍いつもりもない。あれはきっと、本気だったんだろう。だからこそ、罪悪感が湧き上がる。せめてすぐに新しい男が見つけられるように、こっ酷く振ったつもりだが上手くいくんだろうか。
森に住む男よりいい奴を見つけるだろうあいつなら。
さて、気を取り直して。
「スイも行っちまったし、なんかして遊ぶか?」
「うんっ……あっ思い出した! 私、お兄ちゃんに伝える事があったんだった」
「伝える事?」
なんだ。スイだけじゃなくてミイも俺に告白とか? いや、それはこの間夫婦ごっこの時に……。
いつまでもひっくり返りそうになるぐらい顔を上げているミイが苦しそうなので、しゃがんで視線を合わせる。
「あのねっ、アミィちゃんがお兄ちゃんに渡したい物があるって言ってたの!」
「アミィが?」
渡したい物って、一体なんだろうか。
ミイの話は続く。
「だからね、きっとアミィちゃん待ってるから早く行ってあげて」
「わかった。それじゃあ、俺は行くから……あとスイに、姉ちゃんにコレ渡しといてくれ」
袋の中から取り出したのは、ボアの牙で作ったどこかの民族みたいなネックレス。以前村に来た時に、何かとお土産をねだられたので面倒だったがしょうがないので作った代物だ。
本当だったらこんな生活に必要ない物を作るのは面倒なんだが、あいつがやけに欲しがったのは、こういう事だったのだろうか。いまとなってはそれを確認してもまともな答えを得る事は出来ないだろう。
一度起きた事象を変える事は出来ないのだから。時は決して逆さには進まない。
ある意味このネックレスが証になって、スイは捨ててしまうかもしれないが、それならそれでもいいだろう。
ミイにネックレスを手渡す。小さな掌をめいっぱい開いて、掴んだものが落ちないように両手でしっかりと持って「ちゃんと渡しておくね~」と天真爛漫に笑顔を振りまいて教会に消えた。あんなにも可愛らしいミイが、いつかスイみたいになる未来が来るのは、ちょっと今から薄ら寒いものを感じた。
アミィとはクレスの親友である『チェスター・バークライト』の実の妹で、間違っていなければ今は十一歳の可愛らしいおしゃまな女の子だ。
昔からかまってあげていた甲斐あって、今でも俺を慕ってくれている。今日トーティスに来た理由の半分は、アミィの得意料理をご相伴にあずかろうと思ったからでもある。
俺が来ることは前もって、森に棲んでる鳥に手紙を括り付けて送ったので、知っている筈。だからこそアミィはミイにも、もし俺と会う事があったならと思って伝言を頼んだんだろう。我ながら都合のいい解釈だ。
チェスターとアミィの家はクレスの家の向かいに建っている。
その為、向かうには小川の橋を越えなくてはいけないのだが、その橋の上には、スイが愚痴を溢し嫉妬に燃え焦りを生んだ結婚を控えたカップルが居た。人目を気にすることなくイチャついて……人目なんて人口が少ないここではそんなにないのだが、現に俺しか見てなかった。
声を掛けたら小一時間は掴まってしまうのが目に見えていたので、俺はばれないように気配を消して橋を渡った。本気を出せばこの程度の事は余裕だ。
森で生活をしていると、自然と生き物の気配といのがどういうものか理解出来るようになって、いつの間にか自分の気配を操る事も出来るようになっていた。
一応、格闘家というカテゴリに入る俺の、ささやかな修業の成果というものだった。
関門を突破し、一直線にチェスターの家へとノックもしないで押し入った。
「おい……」
「……んっ? 誰だ?」
「誰って、ここは俺の家なんだ。俺に決まってるだろうがっ」
タイミングが良いのか悪いのか。この場合、泥棒というわけでもないので良いのだろう。
家に侵入して一息つけば、目の前ではチェスターが弓の手入れをしていた場に遭遇していた。
「悪いな、ちょっと会いたくない奴がいてさ、ノックも無しに入っちまって」
「ったくしょうがねえな。会いたくない奴っていうのは、もしかしてルーイとシルヴァの事か?」
「よくわかったな。あいつら、橋の上で二人の世界を形成してたぜ。あんなのに捕まったら、日が暮れるまで結婚式の相談をされちまう」
「あ~、しょうがねえよ。おめでたい事なんだから、せめて祝福ぐらいしてやれば」
「してやりたいが、そうもいかん。もしそうなったら……」
どこでスイの事を口漏らしてしまうかわからない。あの二人は昔から、とくにシルヴァの方はスイと仲が凄く良かったから、明日あたりになったらさっきの諍いを知って乗り込んでくるかもしれない。俺が居るってのは知らない方が良い。とは言っても、ここじゃすぐにばれるか。
「しゃあない、明日にでも祝うさ。それはそうとして、アミィは居ないのか?」
「アミィ? あいつなら今二階に居ると思うけど。なにか用でもあるのか?」
「いや、俺が……というより、さっきミイにアミィが俺になにか渡したいものがあるとかなんとか言ってたからさ」
「あぁ~、なるほどね」
どんな物を渡すつもりなのか俺には分からないが、チェスターにはわかっているらしい。その証拠に、ニヤニヤと締まらない表情で俺を見るこの顔を見ればわかる。
アミィの兄貴として、チェスターは俺目線から言えば優しい兄貴だろう。いつだってアミィの事を思いやっているし、たまに雑貨屋で貰うリンゴをアミィに上げていたりしている。俺より四つ下なのに、たまに俺よりも大人な一面を見せたりする時がある。
「チェスターはわかってるみたいだな」
「ま、俺は兄貴だからな、そりゃわかるさ。それじゃ、二階に行ってみるか」
弓の手入れを終えたのかチェスターは矢を矢筒に仕舞い、席を立って二階へと向かう。その後に俺も遅れずに着いていく。手荷物は持っていても邪魔なので、さっきまで作業台になっていたテーブルの傍に置いた。
この家はチェスターとアミィの二人しか住んでいない。にも拘わらず、二人で済むには大きすぎる程の広さを持っている。両親がどうしているだとか、そういうのは訊いていない。話してこないのを無理に訊くのも悪いし、それが原因で良くない感情が目覚めてしまっても面倒だ。
「アミィ、お前を見たらスゲー驚くかもな」
「大袈裟だろそれは流石に。悪い気はしないけどな」
二階に上がると正面にある窓から差す陽光に、思わず顔を顰める。
目当ての人物アミィは、二人の勉強机が置いてある方に居た。
チェスターが音を殺して静かに振り返った。人差し指を口元に当て、その手をアミィの居る方とは逆の、クローゼットなどが置いてある方へと振るった。
静かに、アミィを驚かせたいからアッチで隠れてくれって事なんだろう。たまには意に従おうと、言われた通り、無駄に森で培った気配遮断を駆使してアミィからは見えない場所へと隠れた。隠れたと言っても、アミィとは反対側の部屋に壁を挟んで隠れただけなんだけどな。
俺が隠れたのを確認したチェスターが動いた。
「アミィ、ちょっと今良いか?」
「お兄ちゃん、別に大丈夫だけどどうかしたの?」
「実はお前に、お客さんが来てるんだ」
「え、誰? ミイちゃんが遊びに来たの?」
チェスターは意外と会話の応用が利かない男だった。ごく普通にお客さんが来てるとか言ってるし、アミィを驚かせるつもりはないのだろうか。
騙されている? のかわからないアミィは、普通に来客だと思っているらしく、ミイの名前が出てきた。
どうでもいいけど、背中を壁に張り付いて隣の部屋の様子を窺うってのは、なんだか盗人になった気分がしてきてあまり良いものではない。
「いやいや、今日はミイじゃなくて、もっと大人の人が来てるぞ」
「……もしかしてっ」
おっ、流石に気がついたのか?
壁越しにアミィの息を呑む音が聞こえて、その無邪気さに俺まで興奮で息を呑みそうになる。ああ、早く抱っこしてやりたい。
チェスターにとって望んだ状況が出来上がったのか、左手を背にやりアミィからは見えないように、俺に合図を送ってきた。打ち合わせもなにもしていないが、多分ここで顔を出せってことなんだろう。
「そう、そのもしかして……だっ!」
語尾に合わせて姿を現す。
三文芝居みたいになってしまって少し気恥ずかしいが、そこは年長者としての余裕を保ってアミィの前に立った。
ミイより少し大きい、俺の胸より下にある頭が見上げてくる。なにが起きたのかわからないといった感じに惚けて固まった瞳は、大きく見開かれ俺を映し出している。思った以上に驚いて、アミィは固まっていた。
「やっ、久し振りだなアミィ。元気にしてたか?」
「…………あっ、うん。おかえりなさいライトさん」
「なんだ、照れてるのかアミィ」
「もうっ、お兄ちゃん!?」
兄貴にからかわれてむくれたアミィが、チェスターを邪魔だと言わんばかりにぐいぐいと背中を押し始めた。膨れっ面で押し出す姿はなんとも愛らしい。捻くれてる兄貴とあ大違いだ。
「ハハハ、悪かったって、兄さんは大人しく下に降りてるからっ……ライト、あとで色々聞きたい事があるから、終わったら下に降りて来てくれ。森の状況とかな」
「あいよ。そんじゃあ後で」
「お兄ちゃんは下に居てっ、もう……」
楽しそうに笑いながらチェスターは階段を下りて行った。
森の事が聞きたいって事は、また狩りにでも出かけるのかな。多分クレスも来るだろう。お袋さんの体調も、明日には良くなっているし。
邪魔者を排除し終わったアミィは、ふぅと一息吐いてこっちに振り返った。小さな体で大きい兄を追い出すのは意外と苦労したのか、額には雫のような汗が浮かんでいた。
「ごめんなさい、お兄ちゃんが邪魔するから、つい」
「気にすることはないさ、チェスターだってわかってやってるんだ。それで、俺に渡したい物があるって聞いたんだけど」
「そうでした、その、これを……」
兄の事ですっかり失念していたアミィの肩が弾けるように跳ねて、慌てて自分の机に戻りあるものを俺に差し出した。おずおずと、控えめに。身長差で自然となってしまう上目使いで俺の顔色を観察しながら。
それは、一つの人形だった。
「俺にそっくりな、人形だ。良く出来てるな」
俺の姿を模した小さな人形は、彼女が懸命に縫ったのだろう努力が垣間見れる。だから、俺はそれが嬉しくて、ついアミィの小さな体躯を抱き締めてしまった。
「ふわっ、ら、ライトさんっ?」
「ありがとうアミィ! 絶対に大事にするからなっ」
抱き上げた瞬間、耳元から小さな悲鳴が漏れ動揺しているような震えた声が聞こえた。
赤ん坊を抱き上げるように持っている為、アミィの顔はいま俺の顔の横にある。忙しなく視線を右往左往しているのか、しきりに横に動く頭を優しく手を当てて撫でる。サラサラとした細い髪が指の間を通る。
「ライト、さん。私、そんなにもう子供じゃないです」
「何言ってるんだ、俺からしたらまだ君は子供だよ」
頭を撫でられて大人しくなるようじゃ、まだ子供だ。体温が高くて抱いているととても暖かい。
こんな場面を下に居るだろうチェスターが見たら驚くだろうな。ものすごく名残惜しいが、弓で狙われてはたまらんのでアミィを降ろすか。
腰を曲げて両手の拘束を解く。いつの間にか背中に回っていたアミィの両腕が、惜しむように離れたのが印象的だった。勘違いではないと、思いたい。
地上に舞い戻った天使のような幼子はまたちょっと拗ねていた。下唇が不満を出しているように、上唇より出ていてむくれて視線を逸らされた。
「子供じゃないです。だって、もうライトさんのお嫁さんにだってなれますからっ」
「………………」
言葉が出なかった。
突然の告白。この場合、嫁になれるイコールつまりはアレが来てるという事なのか。それともむきになっているだけか。こんな事を考えてしまう俺は汚れているとか考えたり。
スイには非常に悪いと思うが、正直彼女よりもアミィのコレの方が心が揺れたのは墓まで持って行こうかと思う。でも仕方ないだろ。
俺は、小さな女の子が大好きなんだ。
これは病気だ。そういう病気なんだ。スイよりミイのが可愛いと思ってしまうし、今だって隙あらばアミィにスキンシップを図ろうと企てている自分が居る。
気が付けば同年代の女に心動かすようなことはなくなり、逆に小さな女の子が無邪気に遊んでいるのを眺めている時の方が心湧いている自分がいたのに気がついた時、俺は苦悩した。
だってそうだろう。まだ色々と成長しきっていない幼女が大好きだなんて、倒錯している。実ってない木の実には、時に毒性を持った物があるのは森では常識だ。だから、人間だって小さい実ってないうちに食べたら毒だ。俺を殺す毒に決まっている。
この病気はチェスターとクレスは知っている。知った上で、それでも俺を兄貴分として慕ってくれるあいつらには、俺が出来る限り助けてやりたいと思っている。チェスターなんて、こんな可愛い妹を平気で俺に任せるんだ、よっぽど信頼してくれているのだろう。
だから、
「そっか、だけどそれはアミィがもっと大きくなったら、お願いしよう」
「でも……っ」
「今は、たくさん遊んで、たくさん学んで、たくさん食べて大きくなりな。今日もたくさん肉を持ってきたから、それでも食べてな」
「それじゃあ、私が大きくなったら……ライトさんのお嫁さんにしてくれますか?」
純粋な気持ちは、俺にとっては眩しすぎて直視できない。
「そうだな、大きくなってそれでもまだ同じことを言えるなら、約束しよう」
「私、早く大人になりますね」
その頃には俺もオッサンになっているだろう。アミィもその頃にはまともな男を見つけて、結婚して、子だくさんな家庭を作っているだろう。クレスとか優良株だと思う。
両拳を胸の前にやって意気込んでいるアミィには悪いが、俺はまだある程度はまともでありたいんだ。小さな女の子が大好きな変態じゃ、アミィが可愛そうだ。
あぁ、でももったいねー。
「ああ、気長に待つさ。それじゃあ、俺はチェスターとちょっと話してくるな」
「はい。あ、今日は家でご飯食べて行って下さい。沢山作りますから」
「最初からそのつもりだったから、喜んで世話になるよ。見返りの食糧はたくさん持ってきたから」
アミィの手料理はとてもおいしい。これは私見ではなく、この村の総意だろう。クレスなんかはアミィの作ったマーボーカレーが大好きで、良く食べていたのを覚えている。
階段を下りて一階に降りると、そこには俺が持ってきた食糧を並べているチェスターがいた。
することが無くって暇だったんだろう。でも、その食料は勝手に食べるなよ?
「待たせたなチェスター。それで、その肉をどうするつもりだ?」
「おおライト、これは違うんだ。ちょっと中身が気になってな。それで確かめようと取り出して並べてみただけなんだ」
「ま、いいけどな」
「アミィからの贈り物はなんだったんだ?」
気を取り直して二人で席に着く。
俺はポケットに入れていたアミィ特製のライト人形を取り出しテーブルに置いた。
「コレだよ」
「おっ、人形か良く出来てるじゃないか。あいつが毎晩縫ってたのはこれだったんだな」
夜なべして作業をするアミィが連想されて、また心が締まるような感情が湧くのを感じた。悪い癖だ。でもアミィ可愛い。
これは後生大事に思い出として保管しておこう。
「それで、森の事が聞きたいとかさっき言ってたけど。もしかして近い内に狩りにでも行くつもりなのか?」
「ああ、それな。明日、クレスと一緒に行く約束をしてたんだよ。ライトが来たって事は、あいつのお袋さんも良くなるだろうし、食糧は大事だからな」
「俺が持ってきたものがあるだろうに、これじゃ足りないか?」
五年前、両親のいないアミィとチェスターが越してから今日まで、俺は定期的にこうして食糧を持ってきていた。
当時、六歳のアミィと十二歳のチェスターの二人だけで生きていくのは非常に困難だった。それでもチェスターは歯を食いしばって努力をしてきた。だからこそ、今のこいつが在るんだろうし、それは称賛に値する。
「いつまでもライトの世話を受けるほど俺もガキじゃないさ。いつも言ってるだろ」
「だったな。わかった、俺もお前をそこまでガキだとは思ってないさ。いまの森の状況を教えよう」
森は知る限りではいつもと変わらず比較的穏やかだった。
少なくとも、クレスとチェスターの二人が危険な目に遭うような事態にはならないだろう。この村では一、二を争う腕前にまで成長した彼らだ。大丈夫だろう。
粗方の情報を伝えている間、いつの間にかアミィが階段を下りてきており、邪魔にならないようキッチンで食事の用意をし始めていた。良く出来た嫁になるだろう。俺の嫁になってくれないかな……いや、いかんそれはマズい。面倒事になるのは嫌いなんだ俺は。
「ってことは、今の森は比較的モンスターは大人しい。でいいのか?」
「ああ。いつもの狩場だったら、軽く注視するだけですぐに大物に会えるだろう。だた、ボアチャイルドには気をつけろよ?」
「どうしてだ? ボアチャイルドぐらい余裕だぜ」
「そりゃそうだろう。だから……説明するのも面倒だな、まっ頭の隅にでも置いといてくれ」
ボアチャイルドの親であるボアは今日俺が狩ってしまったから、他の仲間が結構神経質になっている。そんな時に子供を狙ったら、間違いなく怒り狂って襲ってくるだろう。
だが、こいつらも手練れだ。そう簡単にはやられないから大丈夫という信頼から、俺は面倒な説明を省いた。
気が付けば、外の空は夕日になっていた。朝に来たのに、どうしてもう夕方になっているんだろうか。
思い返して理由がわかった。始めにクレスと雑談、これはそれ程時間がかかってないけど、その後スイと出会い、ミイと話して、肉を売ってガルドにして、ここに来てアミィを抱っこしてチェスターと。なるほど、日も暮れるわそりゃ。
アミィが飯を作っている背中を観察し、まだ出来ないだろうと思い席を立った。
「どっか行くのか? いま飯作ってるけど、ライトも食べていくだろ?」
「勿論食べるさ。ただちょっと、クレスのお袋さんの様子とか、親父さんに挨拶とかしとこうと思ってな」
「そっか、それなら早めに言った方が良いぜ。あそこの家の夜は早いからな」
兄妹に見送られて家を出た。
茜色に染まった空を見上げると、不思議と物悲しい気持ちが溢れてくるのは、果たして俺だけだろうか。朱くなった土を踏みしめて、クレスの居るだろう道場と一体になった家のドアをノックした。
「おーい、クレスー? ミゲールのおやっさーん? 居ないかー?」
古典的だが、これが一番わかりやすい呼びかけだった。こうすれば、大抵だれかが気づいて出てくるから。
いつも通り、気づいた誰かが扉を開けてくれた。
でもその人は、クレスでも、ミゲールのおやっさんでもなかった。年老いて腰が曲がり、杖を突いた爺さんだった。
「おやお主はもしかすると、ライトか?」
「トリスタンの爺さんじゃないか、どうしているんだ?」
「異な事を申す、儂はここの師範の師匠じゃて。孫弟子たちの修業を監督しに来ていたのじゃ」
爺さん……トリスタン爺はクレスの親父さんの師匠だ。言われてみれば、修業風景を見に来たのも納得がいくだろう。しかし、俺にはタイミングが悪い。
「あー、そうか。それじゃあ、俺は忙しいからもう行くわ。じゃあな爺さん」
「これ待ちなさいライト。お主から訪ねておいて、忙しいとは矛盾しておるぞ。せっかく来たんじゃ、ちょっとはこの爺の話し相手にでもならんか」
流石に苦しすぎたか。問答無用で服を杖で掴まれ連行されてしまった。畜生、ジジイのクセに強いから面倒くさいんだよこの人。化け物だろ。
家主の許可なく上げられた家の道場は門下生たちの死体、のように疲れ果て倒れている屍でいっぱいだった。恐らくはトリスタン爺が居たせいだろう。
入ってすぐ正面に居た受付嬢の姉さんに軽く挨拶をして、東側の道場とは反対の、西側の応接間のような場所に通された。
テーブルに座り、正面の席に着いたトリスタン爺がティーポットから紅茶を淹れた。
「しかし、まこと久し振りじゃのう。どうじゃ、最近はしっかり鍛錬を重ねておるか?」
「いんや面倒くさいから、もっぱら堕落三昧を満喫してるぜ」
鍛錬とか練習とか修業ってのは、どうも俺には合わないらしくすぐに面倒になって投げ出してしまう。昔からそうだったのを、このトリスタン爺は良く知っているので、彼はそこまで驚かなかった。
しかし、だからといって許してくれるようなただの温厚な爺さんでもない事を、俺は忘れていた。
「そりゃいかん。相も変わらず怠け癖は抜けないようじゃ、いつまでも精進は出来んぞ」
「別に、俺は強くなりたいとは思ってないからな。しかも剣を使わない俺に、どうしてそこまでうるさく言うんだ爺さん」
俺は剣士ではない。当然、ミゲールのおやっさんの師匠という事はこの老人も剣士だ。しかも一流の剣士だろう。それはおやっさんの腕を見ればよくわかる。
だからこそわからない。剣ではなく拳を使う俺は、この人から教えを乞う理由も必要もないのだから。
トリスタン爺は紅茶を一口含み、それを飲み干して口を開いた。髭のせいであまりわからないけど、もしゃもしゃ動いたからそうだろう。
「剣を取れとは言わんが、それを抜きにしてもお主の才能をそのまま枯らしてしまうのは、あまりにも惜しいのでのぅ。つい口やかましく言ってしまうのじゃよ」
「才能ねぇ、いいねぇ才能。あったら欲しいよ、俺も」
「うむ、じゃから今からクレスと試合をしてもらおうかのぅ」
とぼけてみたら追い打ちをくらってしまった。
クレスと試合だって? 冗談じゃない。そんなことになったら、俺が負けたら兄貴分としての威厳が。逆に俺が勝っても、この爺さんの持論を見止めてしまう事になってしまう。そうなったらより一層口やかましくなるかもしれない。自分の門下生だけにしてくれよそういうのは。
「やだよ面倒くさい、断る」
「そうもいかん。もうクレスは話を聞いてしまったぞ」
「はっ?」
気配がして見ればそこにはちょうど階段を下りてきたクレスが誤魔化すように苦笑いを浮かべていた。
「ごめん、母さんが良くなってきたから下に降りたら、ちょうど聞こえてきて」
「クレスは悪くないさ。悪いのは、この意地の悪い爺さんだ」
「ほっほっほっ、これじゃあ今から言い逃れても、お前さんの危惧する通りになってしまうぞい」
とんだ狸だこの爺さん。俺がこの場で逃げればクレスから逃げたと同義だと言いたいんだろう。
“威厳を守りたければ戦え”言外にそう言ってるんだこの爺さんは。
「それに、これはクレスへの修業にもなる」
「僕の修業に、ですかトリスタン師匠?」
「うむ、クレス……お主の剣術は良く磨かれ非常に優秀じゃ。しかし、それだけで完成するアルベイン流ではないぞ。他流の者と戦い、競い、それを打ち破り続けて初めて一人前になれるだろう。ライトは格闘家じゃ、剣を使わぬ相手と戦い経験することも大事じゃぞ」
もっともらしい理由を並べたトリスタン爺の説得に、真面目なクレスは師匠のいう事は絶対って感じに納得して首肯していた。よそでやる分には結構だが、それに俺を巻き込まないで欲しい。
反論意見を述べようかと思ったが、既にクレスの瞳にはやる気の炎が燃え盛っていた。こういう時のクレスは面倒だ。寒いダジャレを連発する時より面倒くさい。
「わかりました師匠! 僕、ライトと試合をしますっ」
「おいクレス、勝手に決めるなよ。俺はまだやるだなんて一言も言ってないだろ」
「ライト、僕、負けないからな」
聞いちゃいねえよコイツ。
諦めかけて嘆息したその時、ちょうどミゲールのおやっさんが顔を見せてきた。恐らく、騒ぎを聞きつけてやってきたんだろう。
「ライトじゃないか、久しぶりだな。薬草、持ってきてくれてありがとう、いつも助かってるよ」
「おやっさん、あんたのとこの息子と師匠を止めて下さいよ。話を聞いちゃくれねぇ」
「ん、何かあったのか? クレスがやる気を見せているが、師匠、どうしたのですか?」
真偽を問うならトリスタン爺じゃなくて俺に訊いて欲しかったが、それももう遅い。狸は化かすのが得意なんだから。
「なに、久しぶりにライトとクレスの手合せを見たくてのう、クレスの成長の為に協力してくれるらしいぞい」
とんだ詐欺師だこのジジイ。
「なんと、それならすぐに道場でやりましょう。クレス、木剣の準備をしなさい。私が審判をしよう」
アルベイン流ってのは人の話を聞かないってのも教わってるのか?
こうして有耶無耶になったまま、なし崩しに俺はクレスと試合をする事になってしまった。
クレスの装備は木剣と木の盾。一方の俺はレザーアームズのみ。要は頑丈な革の手袋ってことだ。
「ライトと試合するのも、かなり久し振りだね。あの時は負けたけど、今日は負けないから」
「ぬかせ、お前はまだまだひよっ子だってことを、俺が思い出させてやるよ」
もうどうとでもなれ。俺は開き直って、道場で二人相対した。
一方は剣士として剣術の使い手。
対する俺はまともな流派なんてのは持っていない。大体が思いつきと見よう見まねの我流だ。
「それでは、試合……始め!」
おやっさんが右手を上げ、振り下ろした瞬間一直線に駆け出した。
先手必勝は世の常だ。
右拳を強く握り、気を籠める。
目測でクレスとの距離は残り十歩。それを、後ろに出した右足で強く踏み地を滑走する事で省略した。
「……っ!?」
驚愕に見開くクレスの表情に満足する。すかさずこの隙を有効活用する。
気の籠った右拳を解き、指の第二、第三関節のみを折り曲げた掌底の形を作る。
滑るようにして懐に侵入し、掌底を叩き込む―――!
「掌底破っ!」
「ぐぅっ……!」
当たった―――! と思った瞬間、その期待は見事にクレス自信の技量で裏切られた。
掌底破をくらって吹き飛んだクレスだったが、瞬刻だけ苦痛に顔を顰めただけでなんともないようなそぶりで立ち上がった。
「驚いた。これでも結構本気でやったつもりなんだがな」
「いつまでもやられっぱなしの僕じゃないよ」
あの瞬間、クレスは俺の掌底と自分の身体の間に盾を差し込んだのだ。それによって打撃力が軽減されたのだ。
「それでも、もうその盾は使えないだろ」
「盾が壊されるのは、想定済みだよ。ライトはいつも壊すか、らっ!」
会話で時間を稼ぎ、体力を回復させ、隙を突いての突貫。なるほど、良く考えている。
今度はクレスが木剣を振るってきた。以前よりも洗礼された剣筋は、速度と威力を増して見えた。上段から中段突き、返す手で切り上げ飛び上がっての切降ろし大上段。間髪入れず、俺に反撃する暇を与えず、怒涛のような攻めが続く。
体を逸らして躱し、一歩下がって間合いから抜け、時に踏み込んで手を止める。しかし、ただ避け続けるだけじゃない。ちゃんと“仕込み”をするのも忘れない。
「くっ! このぉっ!」
「……焦ったな」
距離を限界まで詰められ、剣を振る隙間を埋められたクレスはじれったそうに乱暴に木剣を振るった。それはもう、アルベイン流の描く剣筋ではなかった。
だから、これは最大の好機。
俺は格闘家ではない。故に、誇りとか武道家としての、とかいう枕詞を吐く事もない。俺は格闘ではなく剣術に匹敵する
身体の力を限界まで抜く。この技に、力は必要ないから。森の中で舞い散る木の葉を一日眺めて思いついた技。風に舞う葉のように、流れに逆らわず、クレスの剣筋に合わせ俺は舞う。
軽やかに前進し、木剣を抜け、クレスの身体をもすり抜けるような歩法で背後へと回る。
「飛葉翻歩―――」
「なぁっ……! そんなのっ」
視線のみ背後に向けるクレスの背中に、今度は“両手”に気を籠めた掌底を―――!
片手を先に当て、
「双撞―――」
第一打を叩き込み、
「掌底破―――!」
すかさず第二打を打ち両手での掌底破が完成した。
クレスはさっき以上の速度で壁まで吹き飛んだ。埃や煙が立ち上り、クレスの姿は見えなくなった。これで、俺の勝ちで終わりだ。
―――思った瞬間、それが“油断”なんだと理解した。
クレスだって努力を重ねてきた実直な剣士なんだ。森で自給自足の怠惰な生活を送る俺とは違い、鍛錬を怠らない。うさぎは寝こけ、かめが追い抜くときが近いのだ。いや、かめではない。あいつもまた、うさぎだろう。それもとびっきり優秀で、怠けない努力家の。
「―――魔神剣!!」
突如、眼前に迫ってきた斬撃の衝撃波の回避が間に合わない。
完全に勝ったと思って力を抜いていた俺にとって、それはかなりのダメージだった。
「がぁ! ぐっ……」
「はぁ、はぁ…………」
だが倒れるわけにはいかない。ここで倒れたら、俺が最高にかっこ悪いじゃないか。
砂煙が風で散り、クレスの姿が見えた。見るからに満身創痍だった。あの状態で放った魔神剣だったから、倒れなくてすんだんだろう、俺は。
クレスが剣を構える。肩で息をするほど、呼吸が整っていないのに、まだやるつもりなのか。
なら、俺もそれに応えよう。今度は“本気”で……。
「それまでっ!!」
冷水をぶっかけられたように、おやっさんの怒号で俺の戦意は一機に鎮火してしまった。水を差された。そうおもったのは、クレスも同じだったのか不満そうな面持ちで父親を見ている。
「両者、戦闘不能とみなし、この勝負は引き分けとする」
「父さん! 僕はまだやれるよっ」
審判によって強制的に終了になったことが納得いかず、クレスはおやっさんに食ってかかった。
しかし俺はもう、
「引き分けで良いよ、俺はもう疲れた。また今度にしよう」
「ライトっ」
「クレス。お前は十分に強いよ。最後のは、マジで俺も危なかったからな」
「…………」
あれが万全の魔神剣だったなら、どうなったかわからない。
クレスは腑に落ちない感じだったが、俺の性格を良く知っているんだろう、諦めて剣を収めた。
「うむ、両者共に良い試合じゃった。これからも、精進をかさねんじゃぞ」
「はいっ師匠」
「冗談。俺は面倒だからパスだパス。それじゃあな、アミィとチェスターが待ってるだろうから俺は帰る」
そろそろ夕食も出来上がるだろう。
俺は身体に異常がないか、軽く確認して道場から出た。
帰り際、クレスが「今度こそ、完全にライトを倒して見せるよ」と意気込んでいた。あの調子だと半年もしないうちに追い抜かれるだろう。威厳のピンチだった。
「ただいまー」
「おう帰って来たか。随分遅かったじゃないか、アミィが心配してたぞ」
「お兄ちゃんっ」
チェスターとアミィの待つ家に入ると、二人が待ちかねた様子でテーブルに着いていた。既に夕食の準備は完了しており、テーブルの上には色々な料理が並べられていた。
アミィの得意料理であるマーボーカレーや、俺が持ってきたボアの肉を使ったシチューやステーキとサラダが、色取り取り。
試合後で腹が減っていたのでちょうど良い。席に着いて俺もいただく事にする。
「それがさ、クレスの家に行ったらトリスタンの爺さんにハメられてクレスと試合することになってな。もうさんざんだったよ」
「へぇー、ライトとクレスがねえ。一年ぐらい振りか? 二人が試合するなんて。それで、どっちの勝ちだったんだ?」
「引き分けだよ」
「おお、クレスも上達してるんだな。前回は負けたのに。俺も負けてらんないな」
二人は互いを切磋琢磨しあうから、いいライバルで親友だもんな。これは、チェスターにもその内負けるかもしれない。
疲労した身体に、アミィの作ったマーボーカレーは非常に良く効き、体力が全開になるような気がするほどだった。
食事を終えた後、軽く雑談を交わし、俺はそのまま泊まっていけば? という二人に断り森へと帰った。
帰路は生きよりも軽く感じたのは、荷物が減っただけではないだろう。
空高く昇る月の光を浴びながら、光の無い森の中へと、俺は消えて行った。
※
ライトが去った後の道場では、クレスが何故先程の試合を強制的に引き分けと下したのか納得がいかず父に詰め寄っていた。
「父さん、どうしてさっきは引き分けに終わらせたの。あのまま行けば、もしかしたらライトに勝てたかもしれないのに!」
反射的に放ったクレスの魔神剣は、確かにライトを疲弊させるに値する威力を持っていた。あのまま追撃を、乱戦を続ければ恐らくは勝利するという可能性も、確かに浮上した。しかし、それはクレスの私見であり、ミゲールの、審判者としての私見ではない。
未だ理由がわからないクレスに、ミゲールはわかりやすく納得させる為、徐に道場にある木剣を手に取った。それは、さっきまでクレスがライト相手に使用していた物だった。
手に取った木剣をクレスに投げ渡し、自らも別の木剣を手に取って構えた。
「どうして引き分けに終わらせたか、理由を教えてやろうクレス。私に思いっきり打ち込んで来い」
「父さん? 何を言っているの、僕は理由が知りたいだけで別に父さんを」
「いいから来い。すぐにわかる」
別に父を打ち負かしたいわけでも、責めるつもりも無かったクレスにとってそれは父が怒ったのだと勘違いをした。正そうとして、本心を語ろうとしたが、それも父の気迫に押し負けクレスは渋々木剣を構えた。
ライトと引き分けたクレスでも、剣を構える父を前にして未だ勝てるというヴィジョンが浮かばない。圧倒的に技量の差が、ここにあるのだとクレスは直観で感じていた。
しかし、そこで引き下がるわけにはいかない。理由を教えるという父が、打ち込めばわかると言ったのだ。答えを知るには、前に踏み出さなくては。
「……っやぁああ!」
「ふんっ」
ライトとの戦い同様、初撃は上段からの切り降ろしだった。
予想通り、その攻撃はミゲールの手によって難なく防がれてしまった。しかし、そこでクレスは瞬間的にある疑問が湧き上がった。
剣が―――軽いのだ。
「なっ、剣が、折れてる……?」
「それが、引き分けの理由だクレス。ライトは、お前の猛攻を躱しながら、少しづつ気づかれないように木剣に攻撃し亀裂を作っていたんだ」
驚きに声が出ないクレスは折れた木剣を見つめたまま何も言えなかった。
ミゲールがそれに補足するように、話を続ける。
「最後に放った魔神剣、あれは確かに見事な物だったが、それが最後の切っ掛けとなり木剣は死んだのだ。結果、威力は半減していたのだ。あのまま続ければ、どちらにせよ無様な試合になるのは目に見えていたからな、クレスも、ライトも……」
剣が折れてはクレスは格闘に頼らなくてはならない。もしくは、折れたままの剣で悪あがきをするか、その二択しか残されていなかった。
ミゲールはクレスに意味のない試合をさせたくはなかった。これからまだまだ成長するだろうクレスに、自棄という戦い方を教えない為に、あの場は止めたのだ。それまでは実に益となる試合だったが、ライトの奇策がそれをおしゃかにしたのだ。未だ底が見えない、とミゲールは森に住む自らを格闘家ではなく拳術家と名乗る男を思った。
夜も更け、闇が濃くなった空に、見下ろす月は何も言わずただ浮かぶのみ。
明日は、クレスとチェスターが森に狩りに行く日。
それは、長い。とても永い、時を越えた旅の始まりになる事を二人は勿論の事。若葉色の森の住人にも、知る由の無い事だった。
これは、長い。とても永い連載の始まりになるでしょう。
一話からオリジナルの名前が沢山出てきましたので、とりあえずここで軽い説明。
スイ トーティスの村人。宿屋『やすらぎ』の裏から雑貨屋『ゴーリ』の前あたりまで歩いている幼女の姉。オリジナル。
ミイ 上記の幼女。
ルーイ 来月結婚式の男。
シルヴァ 来月結婚式の女。
フォン 半鐘係。
ジーン 雑貨屋『ゴーリ』で忙しなく動き回っている人。