人間失格(再試験)   作:ヨシザエモン

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寤寐思服(ごびしふく)

 人間失格。

 その四文字を目にした瞬間、身体がその場に縫い留められたように固まり、視線もその四文字が記された表紙から反らせなくなりました。なんだ、これは。混乱し、けれど何も言えず、動けず、更に動揺は増してゆきます。

「優ちゃん?どうしたの?」

 母の声で文字の呪縛が解け、私は慌てて振り返り、笑顔を見せました。「心配させてはなるまい」という、お得意のおべっか精神でした。

「ねえねえお母さん、ここ、本の色が沢山あって、虹みたいだね」

 本当はそんなこと微塵も思っていませんでしたが、こういったお利口なことを口にすれば、大人は喜ぶということを、この二度目の人生で学びました。それが真新しい知識であっても、ご機嫌取りができるなら何だって構いません。

 私は、人間失格でありながら、またもや人間として生を受けたのです。これは全く予想外のことでした。自分みたいな生き物は、来世というものがあるとしても、下等な畜生だとか、ミミズとかになるだろうと思っていたのです。

 地獄でした。今度こそは真っ当に生きようなどという、清らかで前向きな心を持てる人間ではないのです。欺き合いながら笑って生きる人間、謎の常識、それら諸々に適応できず、堕落していき、果ては脳病院に連れて行かれた、そんな私に「もう一度人間を生きろ」とは、一体何の仕打ちでしょうか。この輪廻転生が神の御心だというなら、額を床に擦り付けて土下座したい思いです。私は駄目人間だ、人間の屑だ。もうそれは重々承知しているから、地獄でもなんでも連れて行ってくれ、人間だけは嫌だ、と。

 私が前世の記憶を取り戻しだしたのは1、2歳の頃ですから、もう5年以上この二度目の地獄を味わっていることになるようです。自殺してみようかと思ったこともありますが、なにせ幼児ですから一人の外出は許されておらず、たまに留守番ができるとなっても、背が小さいので紐を電球にくくることはできません。飛び降りるのは、激痛に見舞われそうなので諦めました。死にたいのはやまやまですが、苦しみたくはないのです。

 ここ3年は、自殺は大きくなるまでの辛抱として、頑張って生きてゆくことにしました。とは言っても、やっぱり私は臆病な人間で、今日の本屋での一件だけを見ても分かるように、前世から続けているお道化で生きているのです。

 人間失格。

 あの四文字は、まさに私の本質を一言で表すものでした。聞けば、あれは有名な文豪が書いた作品だそうで、世界中で高い評価を得ているのだと言います。内容は教えてもらえませんでしたが(母も父も、内容に関しては口にするのを渋っていました。言語化が難しい、とかなんとか言って、はぐらかされました)、成程、そんなに有名な作家なら、私のような人間の心も、書き表すことが可能なのかもしれません。

 その夜私は、ずっとあの本について考えていました。あれは一体何を描いた物語なのだろう。あれを読めば、私は誠実に真っ直ぐに、生きていけるのでは?そんな想像が膨らみ、一睡もできずに朝を迎えました。

 月曜日でしたが、私は昨日(さくじつ)の授業参観日の代休でしたので、両親を見送ったあとは、家には私一人だけとなりました。一秒も眠らずにいたものですからまぶたが鉛のように重く、今すぐ布団に潜りたい心地でした。しかし私は、一晩の思考の果てに、ある計画をしておりましたので、冷水で何度も顔を洗い、無理やり目を覚ましました。

 その計画とは、あの「人間失格」を手にすることでした。幸い我が家には私専用の部屋があり、両親も私の承諾なくして入らないという決まりになっていますから、入手したあとは自分の部屋に置けばいいのです。それは簡単なことなので、何も心配は要りません。私の懸念点は、一人で外出できるか否か。いや、正確には、一人で外出したことを両親にバレないようにできるか否か、と言ったほうが良いでしょうか。

 私の新しい両親は、前世のそれのように何か大きな権利を持つような者ではありませんが、私をうんと可愛がり、言うことは何でも聞いてくれました(勿論先にも述べたように、一人きりの外出などの危険が伴いそうなお願いは聞き入れてくれませんでいた。しかし断り方は決して上から目線ではなく、代替案を提案し、誘導するという、とても穏やかなやり方です)。そんな両親が、我が身より大切な一人息子が勝手に外出していると知ったら、一体どんな顔をするのでしょう。さしもの両親も、怒り狂うのではないかしら。私は人間の怒った姿というのが、恐ろしくてたまらないのです。人畜無害を装って眠る子犬が、寝言で狼のような唸り声を上げているの聞いたときのような、息が止まるくらいの衝撃を覚えるのです。

 両親が帰ってくるのは午後5時くらいですから、直接外出しているところを見られる心配は、まずありません。考慮すべきは近所の人達でした。

 両親は律儀な人で、今のマンションに引っ越してきた時に、ちゃんと両隣の住人にお蕎麦を渡していました。その時着いて行っていた私を見て、右隣のお姉さんが

「あら可愛い」

と顔をほころばせたのを見て、私は咄嗟に、その頃流行っていたお笑い芸人のギャグを披露して、両親とお姉さんを笑わせました。左隣の堅物そうなお爺さんも、私のインデヤンの踊りを見るとフフフと笑い、寂しくなったらいつでもウチにおいでと頭を撫でてくれました。そんなふうに私は、持ち前のお道化力で、お隣さんに好かれることに成功したのです。その後も私はお姉さんに可笑しな話をしたり、言われたとおりお爺さんの部屋にもお邪魔したりしています。それによって私は二人にマンション以外でも声をかけられることが多くなりました。

 もしも出かけた先に、もしくは行き帰りの途中に、彼らと出くわしてしまったら、必ず告げ口されるに違いありません。それだけはまっぴら御免です。お姉さんも今は有給を取っているそうですから、見つかる確率は普段より跳ね上がっています。しかし私は、あの四文字に心を掴まれてしまったのです。どうしてもこの目で読みたいのです。けれど、見つかってしまうかもしれない。

 ウンウンと頭を捻り、私はある結論に至りました。とても危険な結論です。もしかすると、本屋に行けず、両親に怒られるという、最悪な結末を招くかもしれないのです。しかしそれは同時に、告げ口もされず怒られもしないという最善の結果にも成り得るものでした。私は覚悟を決めると、いくつか面白話を頭にストックして玄関を出、左隣のチャイムを押しました。

 堅物お(じじ)に、連れて行ってもらうよう頼むのです。

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