領域展開
『
『餓沖平線』は時化た沖合が延々と続く領域。領域内に引き込まれた者は昏い海の真ん中へ投げ出されることになる。人間であれば戦うどころか、まず水上へ顔を出して溺れないように努めなければならない。そのうえで領域内へ付与された必中効果に対処する必要があった。
「なるほど。これがオマエの生得領域……随分と荒れてるな」
「術式解放ぉ!!」
『
仄かに赤く色づいた海面には小さな粒が見え始める。やがて瞬く間に数を増やし海を真紅に染めたのは極小のオキアミであった。
「『沖積湧群』は際限なく湧き出るオキアミの群れ!!肉を千切って齧って毟って甲殻の足しにするぅ!!」
「ははっ!!いいんじゃないかっ──」
辻倫の全身を赤い粒が一瞬にして覆い尽くした。例え必中効果であっても、対象の体内へ式神を顕現させる──といった方法で攻撃はできない。体内もまた一種の領域であり、そこへ干渉することは、領域へ引き込んでいたとしても極めて困難であるためだ。
『沖積湧群』はその点、全身をくまなく覆うことで、体内への侵入を可能とする。すなわち、噛んで穴を空けるか、または穴という穴から無理やり侵入するかといった手法である。
強化された微小な式神による飽和攻撃。それは領域対策を持ち得ない術師ではまず対処不可能なものであり、下手な1級術師要請を行っていれば返り討ちにされることは必至であった。
荒海は心中でほくそ笑む。生意気なガキのニヤケ面ごと『沖積湧群』で飲み込んでしまえば、なんてことはなかったと。甲殻を捨てて脱皮の選択肢を取ったのは荒海自身ではあったが、棚に上げて辻倫へ恨みを抱いていた。赤く蠢く塊が空に浮かんでいた。
苦悶の声を聞こうとしても、肺にすら侵入するオキアミによってかき消されるハズである。その事に思い至って、荒海は少し残念そうにすると──違和感を覚えた。
(……何故まだ浮いていられる!?骨すら微塵にして糧とする『沖積湧群』だぞ!?数秒もかからずに海面へ落ちるハズ──)
「──悪くない。まともに相手取ると少し面倒だな。せっかくの一張羅も台無しだ」
両手を前方に構えた辻倫の姿があった。御三家に伝わる領域対策の術。すなわち──秘伝『落花の情』である。
必中効果によって攻撃が身体へ触れた瞬間、自動的に呪力を放出してカウンターを行う──といった呪力操作のプログラムであった。式神による攻撃といったシンプルな術式効果に適した対策であり、それで猛攻を凌ぐことは理論上可能である。
しかしながら、相手は微小で膨大な数のオキアミ型式神。カウンターのスピードと呪力操作精度には高いレベルのものが要求された。『応陣』による防護は必中効果のダメージを防ぐことができるものの、体内へ侵入する小さな式神への対処には向かない。
そのため、辻倫は『応陣』による防護・保持を解除し、『朱鷟』の部分的な顕現と並行して『落花の情』を発動していた。自らの身体を覆い尽くすオキアミ達との自動カウンターの速さ勝負。結果として、上半身をはだけさせながらも、術式行使と並行して今も尚呪力操作精度を向上させている──辻倫に軍配が上がった。
オキアミが群がるよりもさらに速く殲滅する勢いによって、ついに顔を見せた辻倫の視線が荒海と再びぶつかる。
荒海は現状の理解を放棄して術式を最大出力へと引き上げた。物量で圧殺する──ためではなく、それすらも足止めとして。
領域内へ付与することのできる必中効果は原則1つまで。荒海の生得術式の拡張術式と
荒海の左ハサミの中で高温高圧となり、臨界点を超えた水は、"超臨界流体"と呼ばれる状態へ変化している。超臨界流体は荒海の術式によって再現されており、さらに呪力による強化を経て、極めて攻撃的な特性を持っていた。それは人体へ触れればたちまち浸透・拡散して体内組織の破壊を行い、圧力の解放によって炸裂する。加えて、残留することで反転術式による再生を困難とする──まさに悪魔の流体であった。
「極ノ番──『
それは圧力を維持したまま、触れた瞬間に浸透・炸裂する毒のようなもの。生半可な防御を容易く貫く威力がある。
『落花の情』を維持したまま、辻倫は『朱鷟』の顕現を解除する。別の式神を完全顕現させる必要があったために。
わざと緩めた呪力操作によって、一匹のオキアミは彼の体内へ侵入する事に成功した。太い動脈を傷つけられたことで、飛び出した血液をそのまま媒体として素早く利用する。顕現させるのは──六凶将が一体。
落下する辻倫の前方に顕現した巨大な黒い甲羅。着水と同時に甲羅の穴からは黒々とした水が勢いよく湧き出る。
着水と同時に荒海が放った超臨界流体は甲羅に触れた瞬間──爆散する。流体は堅牢な甲羅へ浸透・拡散を経て圧力を解放し、爆発的な膨張による破壊を行っていた。
顕現した『玄冥』の
「お返しだ」
「なん──ッ!?」
攻撃を凌いだ辻倫へもう一度追撃を構える荒海の足に、黒い水が纏わりつく。この黒い液体こそ『玄冥』の本体であり、堅牢な甲羅は単なる器──水瓶であった。
此処は荒海の領域内。領域の主である荒海は水面に立って自在に戦うことが可能である。領域内で足を取られることなど通常考えないうえ、甲羅を仕留めたばかりでもあった。それ故、不意を突かれて生じた隙は相応に大きなものとなる。
「『
音をたてて両手で挟んだ黒い水。『玄冥』の本体であるそれを加圧し、一点から打ち出す術を辻倫は構えた。
狙うのはエビのような頭部の一点。高圧で水を撃ち出すという手法は、既に荒海の手本と読み漁った書物から理解していた。『落花の情』と術式操作に集中する辻倫はそれ以上口を開かない。奇しくもそれは赤血操術の奥義に似た術となる。圧縮された黒い水が──
『
──荒海の頭部を撃ち抜いた。
黒い球状の領域外殻にヒビが入る。するとヒビ割れが瞬く間に全体へ走り──領域は崩壊した。
中から現れたのは、ボロ布と化した水干を纏う血まみれの辻倫であった。既に負傷部位の止血は済ませたものの、太い血管を傷つけられたことに違いはなく、凶将の完全顕現を二度行ったことで確かに消耗している。
しかし、領域内で特級相当の呪霊祓除に成功した──という充足感もそれなりにあったようで、辻倫は心做しか満足気な表情で歩いていた。
ちなみに、齢7歳の辻倫の体重から考慮して、現在までの血液消費量は相応に危険な度合いでもある。端的に言えば──
「──貧血気味です。輸血パックも持ち合わせずに今まで祓除へ向かっていたのですか。血液を扱う術師の自覚はおありで?」
帳を解除した辻倫の前に待ち構えていたのは、一目で事情を察した宮子であった。早速輸血パックを取り出しながら処置を始めている。心做しかいつもより鋭い皮肉を言葉にしていた。
一方で、辻倫は珍しく表情を固まらせていた。かといって動揺や罪悪感は微塵も顔に表さないまま、滔々と話し始める。
「服をまたダメにしてしまった。そういえば……領域が展開される前から既にズタボロにしていたな。そこさえ上手くいけば完璧に勝ったと言えるんだが」
「服の問題ではありません。いくらでも替えればいいのですから。問題なのは貴方様のやり方です。どうして血を惜しまずに服を惜しむのですか。出し惜しみなどせずに一撃で終わらせればいいでしょう。そもそも……──」
暖簾に腕押しの手応えながらも、宮子は懇々と説教を続けていく。辻倫は欠伸をしながら大人しく輸血を受け入れていた。
帰りの車内へ乗り込んだ後、辻倫の隣に座る宮子の話が尽きることはなさそうではあったのだが──
「──聞いていますか辻倫様……辻倫様?あら。疲れてらしたのね。珍しい」
宮子はどこか棘のある口調と声色で
古びた書斎の一室。背から生える翼を広げ、術式効果によって重力を無視する辻倫は、中空に浮かんだまま寝転がっている。透明なハンモックでくつろぐかのような様子ではあるが、古めかしい書物を読むその表情は真剣そのものであった。
「失礼します。辻倫様。少しお話があります……そのまま聞かれますか」
丁寧な所作で戸を開いた宮子は、宙に浮かぶ少年へと穏やかに声をかけた。辻倫がふと向けた眼には射すくめるような光があったものの、悪意や害する意思があるわけではなかった。
宮子はその眼光に臆することなく書斎へと踏み入った。彼が理由なく悪意を向けることはないとしても、煩わしい雑事へ容赦なく術を用いることは知っている。
先んじて言葉を発しなくてはならない──という意志を固めて一息吐くと、辻倫の返事を待たずして彼女は言伝を遠慮なくぶつけた。
「聞かれますよね?ではまず──禪院家と五条家、どちらがお好きですか?」
「……返答次第でそっちにご挨拶へ──ってところか?先に宮子の見解を聞きたい」
宮子の語りに興味を示した辻倫は改めて向き直った。くるりと回った彼の姿は天地逆さで浮くものであったが、お互い気にせずに会話を続けていく。
「禪院家は貴方様の術式と実力を高く評価されたご様子です。
多数の術師を輩出する名門──御三家のひとつ、禪院家。彼らは強力な術式を家系に取り込むことで発展を遂げていた。
辻倫による特級呪霊祓除の報は既に各所へ届いている。それと同時に、加茂家のパワーバランスが揺るぎつつあることも嗅ぎ取ったようでもあった。
ゴタゴタに乗じて六凶顕術を取り込むためには、ある意味ベストなタイミングでもある。近年、禪院家はある相伝の術式を
「五条家と関わる選択肢もありますね。貴方様がどう思われようと、周りから見えるその行動が術師としての未来に大きく影響します。加茂家に入るとはそういうことです」
逆さのまま浮遊して聞いていた辻倫は、術式を解除して地に足を着けた。手に持つ古びた書物を閉じて立つと、宮子との身長差が浮き彫りになる。
「術式が欲しければ僕の血縁を洗い直せばいい。挨拶回りは面倒だ。どっちの家もどうでもいい」
そう言って辻倫は新たな書物を再び探し始めた。先日の戦いにも役立った、積み重ねた先人達の術と知識は彼のお気に入りでもある。
半ば予想していた返事に対して宮子はすぐに切り替えて言葉を続ける。彼がそういった家の事情に興味の欠片もないことは知っていた。そのため、考えられた次善策は──餌で釣るという単純なもの。
「そうですか。ところで辻倫様……現代最強の術師──ご覧になりたいと思いませんか?」
古い書物を取り出す辻倫の手がピタリと止まった。