生塩はガチ
『キス』というものに興味があったわけではない。
ただ、知らないことが気に入らなかっただけだ。
正確に言えば、キスという行為を知らないわけではない。キス。接吻。口づけ。
互いの粘膜を接触させ、唾液を交換する行為。
知りたいのはその先で、その行為によってもたらされるモノだった。
それは幸福か。はたまた甘美な夢か。
得るものがあるとすれば、失うものもあるのかもしれない。
キスをすれば、なにかが変わるのだろうか。
キスをすれば、なにかがわかるのだろうか。
キスをすれば、大人になれるのだろうか。
「……」
シャーレオフィスの執務室の、ソファの上で仰向けになって眠っている先生の寝顔をじっと覗き込みながら、生塩ノアは考えていた。
彼と私の違いはなんなのだろう、と。
「先生……」
小声で先生のことを呼んでみたのは、彼がしっかりと眠りについていることを確認するためだった。
返事はない。
念のため、もう一度小声で呼んでみる。
返ってきたのはすぅすぅという寝息。
「……」
こくりと喉を鳴らして、一度躊躇ってから、やがてゆっくりとその唇を彼の口元まで近づけた。
左手で、垂れる髪を耳にかけながら、ふわふわと揺れる心を抑えつけられないまま、あと数センチのところまで近づいた。
「……んぅ? ……ノア? どうしたの、ってか、顔近いね」
「……!」
不測の事態に、2秒間、生塩ノアがフリーズする。
先生の意識はまだ完全には覚醒していない。
わずか数センチの距離で見つめあったまま、5秒が経過した。
思い出したようにばっと身を引くと、寝ぼけまなこをこすりながらゆっくりと身体を起こした先生から距離を取り、目を伏せて喉に引っかかった言い訳を吐き出すように弱い咳払いをした。
「ん……。んんっ…………そうですね、なにやら先生が寝言をもらしていたので記録していたのですが、起きてしまいましたか」
「うそ。なんかまずいこと言ってなかった?」
「いいえ? ただ『ノア、好きだ。結婚してほしい』と」
「……」
「ふふっ。冗談です」
「ノア!?」
どこかの冷酷な算術使いであれば、あわあわと慌てふためき、顔を赤く染めて目をぐるぐるさせていたかもしれない。
しかし生塩ノアは強かだった。
不測の事態でさえ、瞬時に立て直し、逆手に取ってしまえるほどの機転、頭の良さ、強心臓を持ち合わせていた。
「14時57分32秒、先生が『30分後に起こして』と言ってから24分が経過しました。あと5分20秒ほど残っていますが、もう一度お休みになりますか?」
言われて壁にかけられてある時計を見ると、指針は15時22分を指していた。
「いや、じゅうぶん休めたよ。ありがとう」
言って立ち上がると、先生はその場で大きく伸びをしてふうっと息を吐いて、給湯室へと向かう前に生塩ノアへと視線をやった。
「珈琲淹れてくるけど、いる?」
「それなら私が用意しますよ」
「いいよ、ノアにばっかり働かせられない」
「……では、いただきます」
ん、と短く返事をすると、先生は執務室を出て給湯室へと向かった。
生塩ノアはというと、待っている間、その場で両手で顔を覆い、「うぅ……」と小さく呻きながらしゃがみ込んだ。
ノアに限った話ではない。
たった数分前の出来事を、忘れろという方が無理な話だった。
自分がなにをしようとしたのか、鮮明に、脳裏に焼き付いている。
消せない記憶がまたひとつ、生塩ノアを悩ませた。
「……」
思えば先生と出会ってから、今日までずっと。悩まされ続けてきた。
彼の笑顔が。彼の言葉が。彼の声が。彼の温もりが。彼の全てがその原因だった。
ふとした日常の一瞬。夜、眠りにつく前。眠っている最中でさえ、悉く心を刺激してくる。
忘れさせてくれないのは、自身の特異体質か。それとも──
「困りましたね……」
ぽつりとこぼした細い声は、染みついて消えてくれないそれとは違い、誰にも気づかれないままあっさりと、どこかへと消えていってしまった。
最初は、親友のお気に入りである大人とやらがどの程度のものなのか見定めようと、面白半分に観察してみただけなのだが、それが間違いだった。
あわよくば親友を揶揄うネタが増えると楽しみにしていたのに、彼のことを知れば知るほど深みにハマっていく。
彼の優しさを知り、彼の頼もしさを知り、彼のかわいさを知り、彼の格好良さを知った。
気づいたときには手遅れで、抜け出せないほどどっぷりと浸かってしまっていた。
もしもこのキヴォトスに、先生と呼ばれる大人がありふれて存在していたのなら、今ほど溺れてはいなかったかもしれない。
きっと、物珍しさに惹かれてしまっただけだろう。ひとりしかいなかったから。未知の存在だったから。きっと──ただそれだけ。
「……」
うんうんと小さく頷いて、生塩ノアは立ち上がると、上着の裾についた埃を手で払った。
『────ノア』
瞬間、自身の名を呼ぶ彼の声が、彼の笑顔が、心の中で音を鳴らした。
消えない。消えない。消えない。
彼を形作るその全てが、記憶の中から消えない。
無駄だと知りながら、それを振り払うように小さく頭を振った。
それと重なって、扉が開いてマグカップをふたつ手に持った先生が帰ってきた。
「お待たせ。ノアみたいにうまくは淹れられないけど、頑張ってみたよ」
ふにゃりと、間抜けな笑顔でそんなことを言う先生を見て、生塩ノアは小さく微笑んだ。
記憶の中の彼と、同じ顔をしている。ずるい大人だ、と。
「今度、教えてあげましょうか?」
「いいの?」
「はい。先生さえよろしければ」
「じゃあ今度、ふたりでね」
持っていたマグカップをひとつ、笑いながら生塩ノアに差し出した。
────ふたりでね。
数秒前の言葉が、頭の中で反響している。
意味なんてないくせに、目を細めて愛おしそうに笑うから、また消えなくなる。
「……ありがとうございます。では今度、ふたりきりで」
両手でマグカップを受け取ると、視線を落とした。
注がれた液体に自分の紅潮した頬は映ってはいなくて、ただ黒い
「そういえば」
「……?」
マグカップを手にソファに座り直した彼の方へ、ゆっくりと顔を上げた。
「今日は18時ごろから大雨になるらしいし、この辺で切り上げようか」
言って、座っていたソファの隣を軽くぽんと叩くと、「おいで」とでも言いたげにやわらかく笑った。
「それ、飲んでからでいいから」
「ですが、仕事はまだまだたくさんありますよ」
「大丈夫だよ。ノアに任せたぶんはもう片づけてもらったからね。ありがとう」
なら、残った仕事は誰が無理をして片づけるのか。
半ば呆れたように笑顔を浮かべながら、誘いに乗って隣に腰かけた。
「だめですよ」
「でも……」
「だめです」
先生の言い訳を遮って。ようやく口に含んだ珈琲は、苦くて、少しぬるくなっていた。
「帰れなくなっても知らないよ」
「ふふっ。そのときは──」
至近距離で、揶揄うように笑ったノアを見て、心音が少しだけ大きくなった。
心臓が刻む律動でさえ。彼女の思うままに、てのひらで転がされているような気がした。
「いや……」
固まった口を無理やり動かして、返す言葉を探ろうとした瞬間。眩しいくらいに空が白く光ったと思ったら、数秒後には大きな雷の音が響いた。
それからぽつぽつと雨粒が窓を叩き始めて、数秒と経たないうちに豪雨になった。
「あら……。ふふっ、帰れなくなっちゃいましたね」
予報より2時間も早く降り出した雨空は、途切れた言葉の続きを吐き出させるように。
大粒の雨と、大きな雷の音が、ずっと部屋の中に響いていた。
× × ×
降り出したものは、仕方がないというやつで、一度「大丈夫」と言った手前情けなくはあったが、やはりキリのいいところまで手伝ってほしいと、積まれた書類を適当に取り分けて、彼女に依頼した。
作業中はほとんど会話はなく、滞りなく進んだ。
ただただ降りしきる雨音が、時折り思い出したように鳴り出す雷が、余計に静寂さを演出していた。
「……」
気がつけばもうすでに19時をまわっていて、そこで集中力が途切れた先生が、今日はここまでにしようと机の上を片づけ始めた。
それに倣ってノアも、処理した書類をまとめて引き渡すと、空になった自分のマグカップを手にして立ち上がり、先生に向けて微笑んだ。
「淹れましょうか?」
「見てていい?」
「特別なことはしていませんよ」
「うん。それでも、見ていたい」
「では、ご自由に」
ふたりして顔を見合わせて、可笑しそうに小さく笑うと、執務室を出て給湯室へと向かった。
お湯を沸かしている間に、2人分のマグカップを洗ってから水を拭き取ると、ソーサーの上に置いて、その上に陶器のドリッパーを置いた。
そのまま沸騰したお湯だけを、ドリッパーに円を描くようにゆっくりと注いだ。
「粉は入れないの?」
「はい。まずはドリッパー、カップ、ソーサーを温めておくんです。ホットコーヒーを1番美味しく感じられる温度は68〜70度と言われています。もちろん個人差はありますが」
「なるほど?」
「ドリップしている間に、温度は下がってしまいますので」
「そういうこと」
「そういうことです」
挽きたてはもっと美味しいのですが、今日は道具がないので、と残念そうに笑ったノアに、先生も苦笑を返した。
「あとは、先生と同じやり方だと思いますよ」
言って、お湯を捨てると水気をしっかりと拭き取り、ペーパーフィルターに粉を入れてお湯を注いだ。
その所作のひとつひとつに見惚れてしまうのは、とても幸せな時間だった。
俯いた横顔も、揺れる髪も、コーヒーケトルを傾ける右手さえも、美しく見えて仕方がなかった。
「ノア────」
「……はい?」
「……いや、ごめん。呼んでみただけ」
口を衝いて出た。
自分でも、理由などわからなかった。
ただ──呼びたい、そう思った。
「……どうぞ」
少し気恥ずかしそうに、右手で後ろ髪をいじった先生へ、できあがった珈琲を手渡した。
冬の夜に、冷えた空気の中をたちのぼる湯気が、ひときわ美味そうに見せていた。
「ありがとう」
受け取って、一口飲んでみると、確かに自分の淹れたものとは違った。
一手間加えただけで変わるのなら、これからはそうしようと、そのありがたさを噛みしめながらもう一口飲んだ。
「──雨、弱くなってきた」
立ちながら飲むのは行儀が悪いと窘められ、執務室のソファまで移動した先生は、珈琲を飲み終えて窓の外に目をやった。
まだ降り続いてはいるものの、降り出した頃に比べるとずいぶんマシになっていた。
雷も、飽きてしまったのか、いつの間にやらすっかりなりを潜めていた。
「送るよ」
かけてあった上着を手に取り、袖を通すと、ソファに座るノアの方へと振り返った。
「ひとりで帰れます」
「うん。でも、送るよ」
「……」
──結局彼は、どこまでもずるい大人なのだ。
「傘、持ってきてる?」
「いえ、忘れてしまったみたいです」
「じゃあこれ、また今度返してくれたらいいから」
子供みたいな笑顔を浮かべて、大きな黒い傘を差し出した。
「急ごう」
シャーレオフィスを出て、傘をさしながら、雨の中を無言のまま歩いた。
街灯の切れかかった帰り道は薄暗くて、一歩前を歩く大人の背中が頼りだった。
地面に落ちて跳ね返る雨水が、足もとから、心の底まで染み込んでいくような気がした。
────うそをついた。
本当は、忘れたわけじゃない。雨が降ることは知っていた。
傘を持ってこなかったのは、貸してくれるとわかっていたから。
また会うための、理由を探していた。
「……」
────あと何度、今日みたいな時間を過ごせるのだろうか。
「……ノア、後ろ」
────あと何度、この気持ちを抑え──
「ノア!」
「……」
後ろから来ていた車の存在に、まったく気づかなかった。
車はふたりの横を通り過ぎる瞬間、大きな水たまりを踏んづけて勢いよく泥水を跳ねさせた。
先生はノアを庇うように、跳ねた水に背を向けてぎゅっとノアを抱きしめていた。
「大丈夫? 濡れなかった?」
「……」
先生の傘は少し先の方に投げ出されていた。
抱きしめていた腕から力を抜いて、一歩下がった先生は、苦笑した。
「珍しいね。ノアがぼぅっとしてるなんて──」
生塩ノアは、右手で持った大きな傘の下で。左手で先生の襟首を掴み、ぐっと引き寄せた。
「……」
もう一台、車が横を通り過ぎて行く。
大きな傘の下で、ふたりだけが──ふたりだけの時間が、降りやまない雨と共に、流れ続けていた。