被喰種   作:ヤン・デ・レェ

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出逢い

私の名前はエト。苗字は捨てて久しい。

 

この東京で、慎ましくも掏摸と食人によって生きながらえる年齢不詳の孤児だ。

 

その日もその日で、その日暮らしの糧を得ようと、この稚気に溢れた諧謔的世情を憂いながら獲物を探していた。

 

暗鬱とした毎日だ。清涼剤が欲しかった。

 

私は思いつきのまにまに、ある一人の身形の好い男を、生まれ持っての喰種の怪力でもって路地裏に招き入れ、散々に甚振った。

 

「アンタ、ツキがなかったね。可哀そうに」

 

あれだけ整って見えた男の風体も、今ではこの通り、襤褸雑巾の如くである。

 

質の好い黒く柔らかく鞣された革のロングコートは赫子でズタズタにしてやった。ブランド物の皴一つなかったグレーのスーツ一式は、ワイシャツに至るまで引き裂かれていて、半ば上裸の有様だった。クロコダイルの革を刷いたモカシンも、あっちとこっちに散らばっていて、踏みつぶされて、もう見る影もなかった。

 

刹那的な衝動に身を任せての犯行だったが、男はそれでも中々に頑丈だった。

 

だが、頑丈であること以上に不気味だった。

 

男は殴られ蹴られている間、終始一言もしゃべらなかった。

 

ただ、エトを、私の瞳を覗き込むように、その険の張った眼差しを向けて来るのである。

 

険の張った、と言うと変ではあった。眼光自体は鋭いものだったが、悪辣なものではなかった。

 

なぜなら、男の視線からは、日頃向けられてきたような憎悪など、微塵も感じ取れなかったからである。

 

「そろそろ、頂こうかな…悪かったね、今楽にしてアゲル」

 

気が付けば時間がずいぶん経っていた。ここいら一体の治安の悪さは、住人である自分がよく理解していた。

 

「誰も助けには来ないよ。安心して、私のお腹におさまってちょ」

 

コンクリートの塀に背中を預けて、痛む腹をさする男に一歩一歩近づきながら言った。

 

猫が獲物のネズミを甚振るような感覚だった。果たして楽しいからそうしているのか、退屈しのぎにやっているのか、自分でも分からない空虚な感覚だった。

 

「私もお腹がペコペコでさ、お兄さん、今日の夕飯ってことで」

 

腹をさする男をまねて、からかうように私は腹をさすって見せた。

 

我ながら細くて細くて、どうしようもない体に生まれてしまった。栄養が足りていないに違いない。基本的人権などないが、きっとそいつも足りていない。

 

「いただきまーす♪」

 

暗鬱の風がまた吹き込んできやがったので、景気づけに元気よく、手を合わせて声を上げた。

 

その時だった。男が口を開いたのは。

 

「人間が体験し得る苦痛の中で最大のものは、飢餓である」

 

「数値的な根拠などない」

 

「だが飢えにより人間が人間でいるために必要とされる、最低限度の尊厳さえもが奪われるのだとすれば、それは最大の苦痛と呼ぶに相応しい」

 

「私の願いは陳腐なもの。到の昔に何百度となく繰り返されてきたもの。塗りなおしに過ぎない」

 

「だが、願わくば、わが身を以てパンと葡萄酒を君に与えん」

 

そう言って男は自刎した。

 

突然の出来事だった。余りにも突拍子もなくて、だから私は後退った。

 

恐れだった。未知への恐怖からの後退だった。

 

「項羽じゃあるまいに…」

 

拾って読んだ、ゴミに出されていたどっかの高校の漢文の教科書に載っていた、項羽自刎を思い出して、私は独り言ちた。

 

どうっと風が、路地に吹き込んだ。戻る風が、私の鼻腔にえも言われぬ香しい匂いを運んできた。

 

薫りの元は男の死体。

 

「さぁ、早い所ごちそうになろう」

 

そう思った瞬間、跳ね上げられたみたいに空を見上げて、それからうすぼんやりとした不安が湧き上がってきてしまった。

 

男の首は何処へ行ったんだ?

 

そのことだけが、自然と意識の外にあったことに、私は気が付いてしまったのだ。

 

男の首は何処にある。

 

男の首は何処にある。

 

男の首は何処に…。

 

首のない死体。新鮮な男の肉に手を出せずにいると、真後ろから声が掛けられた。

 

「なぁんだ。まだ、食っていなかったのか」

 

聞き覚えのある声に振り向くと、そこにはさっき死んだ筈の男が、人ごみの中で泳いでいた時と同じ服装で立っていた。

 

「…アンタ、何者?私を狙ってたの?あいつらの仲間、とか?」

 

自身の出生に纏わることほど、癪に障る話題もなかったが、どうしても避けられそうもない目の前の不思議な状況に対処するためにも、不本意ながら探りを入れた。

 

だが、私の緊張など関係ないとばかりに、男は皴一つないスーツの隠しからライターと葉巻を取り出すと、暢気に火を点けて、燻らせ始めた。

 

「狙っていた訳じゃない。寧ろ君が選んでくれた。あいつらと言うのは、正直誰なのか存じ上げない。だが、無関係だよ」

 

「だから、安心して食事をしたまえ」

 

「さ、どうぞ。そっちの体には煙草も酒もやらせてなかったんだ。きっとお口に合うと思うよ」

 

葉巻を旨そうに吸いながら、男は手で私を促した。もともとは自分そのものだったはずの、今は動かない肉塊へ向けて。

 

状況が全く読み込めず、混乱の境地にあった私は、中々男にも、肉にも手が出せなかった。

 

「ふむ、生肉は嫌いかね?ならソテーにでもしよう。お腹が減ってるんだろう?そこの肉を担いでお出でな。家が直ぐ近くにあるんだ」

 

男は私にそう言うと、まだ半分以上残っている葉巻を素手でもみ消し、携帯灰皿に仕舞った。

 

この時、ようやく私にも決心がついた。男が背中を向けて歩き出した瞬間に、襲ってやろうと、この得体のしれない輩について行ってしまってはどうなるか…わかったもんじゃない。だから、賭けで男を殺そう。そう思った。

 

そして、男が背中を向けて歩き出した瞬間に、私は跳躍し、男の体を縦横に裂いて殺すためにとびかかった。

 

赫子が唸り、風を切る音と共に。

 

 

 

 

 

 

気が付けば、私は抱きしめられていた。正面からガッチリと。

 

身じろぎすれば、耳元で男の声が聞こえた。

 

「君、名前は何と言うんだね」

 

「…エト」

 

何が起こったのか…簡単だった。私の跳躍に気付いた男は振り向き、そして、そのまま腕を広げたのだ。驚いて、何もしないですっぽりと男の胸に納まってしまった。

 

それだけだった。

 

男の体は温かかった。

 

どうしようもなくなって、素直に名前も言ってしまった。

 

「エト君。君、お腹は空いていないのかい?」

 

「空いてる」

 

「ならご飯にしようじゃないか」

 

「どうやって」

 

「さっきも言っただろう?私の肉を持ってきたまえ。痩せた子供を抱える分には好いが、血が苦手でね。君に持ってもらいたい」

 

男からの抱擁が解かれて物寂しい気持ちになり、私は首を振る代わりに身構えて距離をとった。

 

「…ねぇ、本当に何者なの?」

 

私の質問に男は答えた。

 

「私かい?私はしがない葬儀屋だよ。東京中の死体を集めて焼くのが私の仕事だ。そして、これは慈善活動というよりは、私が生まれた意味なんだがね」

 

男は言葉を一度切り、私の方を優しい目で見つめながら言った。

 

「私は強いて言えば、お腹を空かせた喰種にお腹いっぱいご飯を食べさせたい人間さ」

 

「意味わかんない、神様にでもなったつもりかよ」

 

私は気が付けばそう吐き捨てていた。

 

けれど、男に気分を害した様子はない。むしろ、自信が漲るような調子で、彼は夢を語った。

 

「さっきので分かっただろう?私は人間でも、喰種でもないんだ。第三の何かなら、私は私の身一つで、喰種が人間を殺さず、人間が喰種を殺さずに生きていける世の中を作れればいいなと考えているよ」

 

荒唐無稽な話だった。だが、現に目の前には「自分の肉をお食べ」と優しく語る変人がいた。

 

「でも、夢を実現するためには私ひとりじゃ無理だ。だから、手始めに君を誘ったってわけさ」

 

私に何を求めるって言うんだろう。不思議だった。

 

ただ、何かが変わる瞬間何だとは感じていた。あぁ、これが分水嶺ってやつか、と。

 

私はこの特大に不可思議な男の話に乗ってやることにした。

 

このままうだつの上がらない生命を憎悪と共に生きるには、私には忍耐が足りない。それに、まるで喰種に食われるために生まれてきたような、人間ではない人間を目の前にして、それまでの常識が吹き飛んでしまったのだ。

 

出逢いこそ不穏だったが、彼に気にした様子はなかった。

 

「お腹が空いていたんだから、仕方ないよ」だなんて…それで済ませてしまうなんて、どうかしてる。

 

でも、よくよく考えてみなくとも、この世界は元からイカれてる。

 

イカれた世界で、イカれた男が何になりたがろうと、その男の隣に私が座っていようと、それすらも私たちの勝手だ。

 

勝手なのだから、この男について行ってみるのも、案外、悪くないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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