被喰種   作:ヤン・デ・レェ

2 / 2
麺麭と葡萄酒

男は火のないパイプ煙草を口に咥えながら、持ち帰った肉に丁寧に火を通していた。

 

前菜代わりに、首から滴る血をワインと称して私に振舞い、そのまま台所へ向かった。

 

キッチンで私に無防備な背中を向けている男に対して、私は思うところが幾つとなくあったが、それをこの場で全て吐き出してしまうことは出来ない。楽になろうとすれば、するほどに、今の幸福が逃げて行ってしまいそうだったから。

 

そうだ。そうなのだ。私は今や、至福だった。

 

 

 

 

 

 

エトを連れて路地裏から出た男の向かった先は、新宿駅からほど近い一戸建てだった。一国一城の主として、その身形からしても、男には十分な稼ぎがあると見える。ダンディズム的こだわりからか、男の家に入るとコーヒーの薫りに混じって、靴墨の匂いがした。丁寧に磨かれた、同じような革のモカシンがずらりと並んでいる様子は、ほんの少し不気味ではあったが。

 

「さぁ、いらっしゃい。肉はいい部分だけ切り取っておいたから、あとは調理するだけだからね。好い子で待っているんだぞ」

 

男は幼い我が子に言うように、穏やかにそう言った。手の甲には血が付いていて、頬には血を拭った跡があった。何の変哲もない、そこらへんで売っているような包丁を使って、自身の肉体だったソレから、部位ごとに、エトが好みそうな…食べ盛りの喰種が好みそうな部位を厳選した。

 

筋を除けた血塗れの肉を軽く洗い、余分な水分を拭きとってから、男はキッチンのガスコンロでとろ火を焚いて、肉をフライパンに敷いた。

 

じわじわと肉が縮み、焼けていく様を待つ間、エトは興味深そうに男のことを観察していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

腿の辺りと、それから心臓。

 

二種類の肉を調理した男は、残りの肉を日付を書いた付箋したタッパーに詰めて冷凍庫に押し込んだ。

 

「さぁ、召し上がれ。塩と胡椒はお好みで」

 

「正気だとは思えないね…っでも、いただきます」

 

エトはもうこの段階で、男が到底自身の物差しでは測れない種類の存在であるということを受け入れていた。

 

差し出された真っ白い皿の上に乗った肉。焼いた肉。香しい、得も言われぬ旨味を想起させる薫香。肉。肉。肉。

 

純白の皿の上で赤黒く、ややレアの焼き上げられた、男の腿と心臓だった二つの肉塊。彼らは純白の舞台に乗せられて、なんとも居心地が悪そうだった。

 

エトは、ナイフとフォークをぎこちなく持ち、まずは心臓だった部位から、一口大に切り取って口に運んだ。

 

瞬間。絶頂を覚える程の旨味が、存在しないハズの神の温もりに抱きしめられたような安堵が、彼女を二重に襲った。

 

「ぺっ!と吐き出してしまえ!」と、エトは自分に言い聞かせたがもう遅い。彼女は気が付けば、口の周りを肉汁で汚すほどに、夢中で肉を食らい。食らいつくした後だった。

 

全て平らげてから、ようやくエトは自分が男の肉を食ったのだと理解した。

 

拒む理由など、最初からなかったかのように、男の肉は、エトの舌に馴染んだ。

 

だが、同時に認めざるを得なかった。

 

エトは男に戀をしていた。いや、まるで戀をしているような感覚だった。

 

痺れるような旨さだった。もう一度、もう一度叶うなら味わいたい。今度こそ、好く噛み、その香りと歯ごたえに感動したい。そんな欲望が駆け巡った。

 

エトは男の正体など、最早どうでもよかった。

 

ただ、男がエトの中で、過去に類を見ない程、莫大な存在感を放っていることだけが現実なのだ。

 

「おかわりって、貰えるのかな?」

 

エトは少し神妙な顔をして、男に訊ねた。

 

「まだまだあるよ。次は何処が好い?食べきってくれると嬉しいんだが」

 

パイプ煙草を口から離し、冷蔵庫を差しながら男は言った。

 

エトはにやりと笑って、男の言葉に接ぐように言った。

 

「私は大食らいだよ?飢えさせないで欲しいね。期待しても好いのかな?」

 

「勿論…腹が膨れて満足するまで食べればいいし、家がないなら気が済むまで此処にいると好い…私は歓迎するよ。一人じゃ広すぎるからね、この家は」

 

男はまたパイプをくわえると、今度は二の腕の柔らかい部位をソテーし始めた。塩も胡椒も振らず。

 

エトは静かに男の料理する背中を見つめていた。そしてふと思った。もしも自分が喰種ではなくて、親もいて、そう、神様から愛されてさえいれば、夕飯時にこんな光景を拝めたのであるまいか、と。だが、それは取りも直さず、男とは出会うこともなく、男の肉の、この旨味を知る事もなかった人生である。

 

何方が幸せだっただろう?

 

エトは即座に決めることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

エトが悩んでいると、男が皿とコップを持って目の前の席に座った。

 

「お待たせ、今度は少しさっきのより火を通してみたよ」

 

「匂いで分かるよ…凄く美味しそう…」

 

皿の上には大分火の通った、油が落とされた二の腕の肉がほこほこと旨そうな薫りを立てていた。コップの中身は男の血だ。

 

おかわりの分ももぺろりと平らげてから、エトはようやくひと心地ついた。

 

そして、問うべきことを男に問うた。

 

「ごちそうさまでした。美味しかったよ。それで、私は何を支払えばいいのかな?」

 

「私は何にでも協力しよう。この対価に相応しい協力を…勿論、私にできることに限られるけどね」

 

エトの真剣な言葉に、男は笑みを浮かべた。優しい笑みだった。

 

「そうか、そうか、そんなことも言ったっけ」

 

「でも、大丈夫。お礼は結構だよ」

 

男は一度言葉を切り、火のついていないパイプを脇に置くと、徐にキッチンに向かい、そしてコーヒーを淹れ始めた。

 

「私はね、君たちに食われるために生まれてきたのかもしれない…いや、そうじゃなきゃ何百年と死ねない理由が分からない。納得できない」

 

二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた男は、コーヒーを飲みながら語った。

 

「君たちが人間しか食べられないように、私の存在意義も、君たちが居なければ成り立たないものなんだ」

 

「自分がどうして存在するのか、考えたことはあるかい?私にはある。そして、身勝手の極みだと承知しているけれど、君たちが、喰種が人間と同じように生活するための助けになることが、強いて言えば私の存在意義なんだと、今はそう納得しているよ」

 

エトは思った。ふざけたやつだと。

 

だが、同時に好い奴だとも思った。

 

このどうしようもなく残酷な世界に生れ落ちて、こうして飢える心配が消えて無くなったのは、確かに目の前の男のお陰だった。

 

どれだけ神に祈っても、どれだけ神を憎んでも得られなかった、与えられなかった温もりが、充足が、今や手の中にあった。目の前の男に、エトが欲する全てが詰まっていた。

 

エトは生まれて初めて、神とやらに感謝した。

 

「私の神様と私を出逢わせてくれて、どうもありがとう」と。

 

 

 

 

 

 

 

エトにとって、この日から男は正に神になった。飢える恐怖からも、地を這いずる惨めさからも解放してくれた救世主に、エトは忠誠を誓った。

 

喰種を助けるだなんて。彼らの胃袋を、文字通り身一つで満たすなんて。そんな活動を男は大まじめに語った。

 

最初の体験者がエトだったというわけだ。それは偶然に過ぎないにしろ、エトにとっては神との邂逅は必然を越えた何かだった。

 

数百年間、孤独に喰種に襲われてきた男の出した結論が、『敢えて喰わせてやる』なのだからお笑い話にもならない。

 

異常者のそれ?それとも…。

 

正気なんて邪魔なだけだった。エトは生まれて初めての戀を成就させるためなら全てを投げ捨てられる覚悟があった。

 

喰種の孤児を拾い上げてくれた人。飢えから救ってくれた人に、エトは心底惚れていた。

 

「貴方が望むなら、私は私の力の全てを貴方の為に使う」

 

「邪魔するものはハトであれ、喰種であれ、なんであれ揉み消してあげる」

 

「それしか私には出来そうにないから。それが私なりの愛情だから」

 

「暴力的な愛でも、貴方なら受け入れてくれるよね、ダーリン♪」

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。