僕は自分の爪と指の間に詰まった泥を見つめていた。敵が来るのを待つ間の時間は、酷く長く感じられた。実際長いのかもしれないし、実際にはそれほど長くはないのかもしれないが。僕は歯で爪を噛んでやって、泥をこそいだ。苦い泥の味がした。それから、誰のものでもない穴倉の隅にペッとつばを吐いた。
森の中で息を殺して敵を待っていると、気がおかしくなりそうになった。殺し合いはずっとそのままの調子で行わなければいけないと、僕は考えた。なぜなら、一度落ちついて、正気になってしまうと、普通ならできないことを、ひと殺しを、あっという間にできるようになった自分を信じられなくなるからだ。恐ろしく冷たい鉄の人形に、体と心を乗っ取られてしまったような心地になるからだ。どんな正義を振りかざしたところで、僕の壊れてしまった部分を治せるわけではないのだ。
穴倉で、槍を抱いて三日間過ごした。食う。眠る。見張る。僕や、僕たちがしたことといえばそれだけだった。人殺しよりも、余程穏やかだった。だが、役立たずには違いなかった。だから、僕たちは早く戦いたいと、心にもないことを願ってしまうのだろう。無価値で、無意味な時間の浪費に、どうしようもない愛着がわいてきてしまって、惜しまれるようになってくるのだ。
敵軍が来たのはそれからさらに二日後のことだった。天幕が僕たちの潜む森を囲むように張られて、無数の赤い獅子の紋章が、流々と天幕の頂にたなびいていた。敵の数は数えるのもばからしくなるほど大勢だ。百人以上は、僕にはさっぱりだった。余りにもたくさんの大軍で、食事や排せつはどうしているのだろうと、僕は漠然と思った。敵が現れて幕を張ったその日は、何事も起きずに一日が過ぎた。ラウル百人隊長は、男爵に援軍の要請をしたと言っていたが、僕にはなんとなく、無理だろうなと思われた。誰も言わなかったが、みんな思ったに違いない。無理だろうな。明日にでも、襲い掛かってくるだろう敵を、どこまで減らせるのか、そのことに考えを切り替えるしか、正気を保っていられるすべなどなかった。いいや、そもそも正気ではなかったのかもしれない。
明けて早朝、敵の大軍が笛の音と共に全方位から攻め寄せた。第一陣はしのげるだろうと、ラウル百人隊長は言っていた。案の定、第一陣はこの日の為にせっせと掘った落とし穴に、人馬問わずはまってくれたおかげで、特別な苦労は何もせずに済んだ。だが、問題は二日目からだった。
二日目からは落とし穴が十分に機能しなくなる。敵も、あるものだと理解して襲ってくるのだから、慎重に慎重に兵隊が森に浸透するのだ。これは具合の悪い事態だった。だが、自分の身を守るための穴倉から出て行って、彼らをいちいち追い返してやれるだけの兵士が居なかった。だから、あっという間に敵の第二陣と、僕たちの部隊は接敵した。僕たちが剣戟を演じる頃、丁度雨が降り始めた。あの独特の、くすんだ匂いが漂ってきて、そこに血の鉄臭い強烈な匂いが混ざった。吐き気を催すような、嗚咽を誘うような匂いだった。それが、言うなれば戦場の匂いだった。
敵の第二陣を、僕たちは何とか追い返した。だが、僕は流矢で右肩に裂傷を負ってしまったし、ラウル百人隊長は馬に首をひき潰されるという酷い死に方をした。次席指揮官として、僕が指揮を執ることになったが、到底生き残る術は残されていなかった。
森の周囲は完全に包囲されており、援軍は無し。実戦経験のある兵士は第二陣を追い返すのに挙って投入され、ほとんどが満身創痍だった。
かといって降伏もできそうになかった。なんでも、捕虜に聞いたところ、敵の指揮官の子息がつい先日斥候部隊と共に出た切り帰ってこないそうだ。特別に身形の好い騎兵を、丁度先日落とし穴にはめて殺したばかりだったのが思い出された。
僕たちはいよいよ死ぬしかなくなってしまったというわけだ。
だから、というわけでも無いが、僕は全員分の仲間の名前を憶えてから死のうと、四苦八苦した。努力はしたのだが、全員分は覚えられなかったので、死んだ敵兵の服をキャンパスにして、墨棒で全員分の名前を書いておいて、戦い終わったら誰かが見つけてくれるようにと、旗みたいに木の枝に垂らしておいた。
これくらいしかできなかったが、皆この段になると口数も少なくなり、陰鬱だが、一周まわって気持ちが大きくなっていた。一人でも道連れにしてやろう、だなんて言ったりして。
死ぬ前だというのに、僕たちは落ち着いていた。そして、あの低く這うような笛の音と共に兵士が雪崩を打って森に入ってきた。落とし穴も、何も無し。僕たちは自分の持つ肉体と、それからとって付けた様な鈍らだけを頼りに、雨の中で打ちあい、殺し合った。
人間の体はたくさんの水と油を含んでいて、とても一太刀でどうこうできるものでもなかった。剣の達人でもない僕ならなおさら、何度も同じ場所を勝ち割るように、振り下ろして、断ち切った。敵の苦悶の顔は、もう僕に何の感情も働かせてくれない。寧ろ、自分の方が余程気の毒に思えてきてならなかった。
剣を振るい始めて、ぬるぬると血で滑る柄を何度となく握りなおして、もう十分に立った頃、身形の好い騎士が馬から降りて、僕の前までやってきた。剣を抜いて、何かを叫ぶと、僕と剣士だけを残して円陣が組まれた。決闘がしたいらしい。
僕は決闘などやった試しも無かったが、ティエルモ王国の言葉の方がよほど難解で理解しがたいものであったから、まぁ、決闘なら僕にも理解できる、という心地で頷いてみせた。
相手の騎士は赤いサーコートの上から銀色が眩しいプレートアーマーを着こんでいた。得物は片手剣と、盾だ。盾には赤い獅子の紋章が刻まれている。名うての騎士なのかもしれない。今となっては知ったところで意味をなさないのだが。
果たして、僕は身一つ。槍一本で騎士に襲い掛かった。
剣を弾いたり、槍を弾かれたり。二三合、打ちあってから、僕の槍の穂先が折れて、騎士の剣が僕の胸の深くまで、ずぶりと刺さった。
肋骨に引っ掛かっていたせいで、剣は中々抜けなかった。
血が、命が、全身から流れ出していく感覚を味わっているうちに、僕は泥と血の中に頭から突っ伏してしまった。
パシャリと音がした。杖代わりに立てていた槍が水たまりに転がった音だ。主人である僕と一緒に、そこいらで転がっているのだ。
騎士がまた二言程口走っていたが、僕にはもう何もわからなかった。
全てが黒く塗りつぶされていく。恐ろしい。寒い。痛みで狂うより先に、痛みの方が消えてしまった。
命の火が消える瞬間を目の当たりにして、僕はゆっくりと瞼を閉じた。
酷く眠い。雨粒が頬を打つ感覚も、剣戟の音も、全てが遠くへと。