たましいは夏かえる〜最終章〜『天へと昇る想い』   作:静姫沙也

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第1話

【たましいは夏かえる】 プロディP

 

終章『天へと昇る想い』 夏野青空

 

 

第一節 作戦会議(推敲1回目)→2回目スタート

 

 

 

 廃墟での一件から四日後、僕達は幽霊屋敷にてこれからすべき事を話し合っていた。

 外は茹だるような暑さで、蒸し風呂のような状態だ。冷房なしに何時間もこんな所で過ごすのは、まさに自殺行為と言えるだろう。とはいえ、ミネミネが買い溜めしていた冷えピタを全身に貼ってあるので、この熱帯地獄の中でも正気を保ちながら活動できる。

 そんなことを考えながら、グラスの中で温くなりつつある麦茶を飲み干した。

 ───火葬されたお父さんは……もっと暑いというか、熱い思いをしたんだろうか。

 お父さんが黒い少女と契約して、あの蛇を鎮めたことで命を落としたという事実を、残されたお母さんは理解するのに少し時間がかかった。

 それでも、紗姫や巳継さんをはじめ、中条家や青宮院本家の人たちのおかげで、なんとかお母さんの心を落ち着かせることができた。僕たちを守ってくれたお父さんが天国で安心できるように、僕もお母さんを頑張って支えたい。

 ────たとえ血が繋がっていないとしても、僕の母親はもう美樹母さんしかいないのだから。

 

 残された問題は唯一つ、僕を助けるために黒い少女と契約してしまった紗姫を、どうやって助けるかだけだ。

 

「無論、姫が助かる術は黒い少女を祓うしか……他にないだろうな」

 ミネミネが団扇で扇ぎながら、ここに来てから纏めた紙の資料をちゃぶ台に広げる。

「それがすんなりといくなら、ここまでこの問題は先送りにされてないでしょうが」

 紗姫はミネミネの差し入れのあんぱんを頬張りながら、資料の一つを手に取り読み耽っている。そんな紗姫の肩越しに、彼女の手の中にある紙の内容に僕も目を通した。

 

黒い少女≒蛇神を慰撫する巫女?蛇神→正体不明。その起源についての調査は必須。

正体不明の相手にアレでどうにかなるのか?etc.

 

「それはまぁ、そうだな……」

 ミネミネが髪を掻き上げながら、手元の資料を放り出した。

 重要なのはそこなんだ。幽霊屋敷での一件の後、ミネミネは言った。紗姫の問題を解決するためには、最終的には左獄山に行く必要があり、準備なしでは無駄死にするだけだと。しかも、あの時点では蛇神の存在を僕達は知らなかったわけだから、黒い少女単体でも、ミネミネでは到底敵わない恐るべき脅威であることが窺える。

「僕達だけでは対処しきれないから、ここは青宮院本家にも協力してもらおうよ」

 僕は二人に向かって、解決策を模索するのに最も有効であろう一手を指した。もはや、この朱沢の地で一番力を持つ青宮院本家にしか、手に負えない事態になっているに違いないのだ。

 それにあの人ならきっと、僕達に力を貸してくれると思う。

 

 お父さんの葬式で、僕は初めて青宮院本家の人達と会った。紗姫にとっての伯母にあたる現当主の青宮院雛美さんは、紗姫のように気の強そうな雰囲気を漂わせていた。今は病弱な紗姫のおばさんもあの雛美さんの妹であるから、元気な頃はあんな勝ち気な感じだったのかなと思う。なにせ、娘の紗姫が押しも押されもせぬ龍のような気性の子供であるから……

 

 なんとなく、紗姫が大きくなったら雛美さんのような女性になるんだろうなと感じた。紗姫のおばさん───母親である菊芭さんの雰囲気をキツめにして、髪は肩まで伸ばしたセミロング、長い睫毛と海を映したような深い青色の瞳を持つ目元は、目を合わせる者に畏怖の感情を抱かせるようだった。確かに美人ではあるけれど、中々近づきにくいタイプの女性であることは小学生の僕でも分かった。

 軽い挨拶だけで会話こそしなかったものの、彼女と視線を交わした時、その眼差しは優しげで申し訳なさそうな感じだったのは不思議だった。

 

「そうね、雛美伯母さんなら力を貸してくれるかも」そう言いながら紗姫は大きく頷いた。

 本家の人達や氏子衆と話す時は仏頂面であった雛美さんも、紗姫と話すときはその表情が柔らかくなっていた。恐らく、紗姫を実の娘のように想っているのだろう。紗姫から従兄妹の話が出たことがないからそれとなく察していたけれど、雛美さんには子供がいないとのことだった。

 だからこそ……廃墟で巳継さんが言っていたように、偽の灯火を僕達にけしかけて間接的に紗姫を殺させようと黒い少女に願ったのは、少なくとも雛美さんではない……そう考えたところで僕は頭を振った。

 

「どうした少年。暑さで気でも触れたか」

 ちゃぶ台の向かいに座っていたミネミネが、少し心配そうな顔して僕に近寄り様子を確認する。やたらと距離が近いミネミネをファイル越しに押し留めながら、僕は今考えていたことを述べた。

「偽の灯火さんを僕達にけしかけた人間について考えてたんだ。巳継さんは、黒い少女に願ったのは青宮院本家の人間だと言っていたけれど、それはあり得ないんだ」

「そうね、黒いやつと契約した時点で契約者の死は避けられないものね。私も気になって雛美伯母さんに聞いてみたのよ。本家で死んだ人か行方不明者が、廃墟の件の後で出なかったかって。そしたらいないって話だったし」

 そう言った紗姫は、ちゃぶ台に置かれている大福を手に取り大きくかぶりついた。大福だけでも本日四個目だが、この夏になってから本当によく食べるようになった。だが大丈夫だろうか、流石に食べすぎだ。

 そんな紗姫を傍目に見ながら話を続ける。

「巳継さんが旦那さんにやらせたみたいに、代理で黒い少女に契約させる方法をとったのなら、本家から死人が出ていないのも納得だけど」

「静太!!」

 紗姫にキッと睨まれ、蛇に睨まれた蛙如く身体が凍りついた。人の死をなんとも思わないような行動を、青宮院家がやると考えたことは、流石に紗姫のプライドを傷つけてしまったらしい。

「ごめん……紗姫」

「……いいわ、あくまで可能性の話をしてるものね。でもね。本家が私を殺そうとする理由がある?」

「そこなんだよ姫」

 ほぼ空気と化していたミネミネが、ちゃぶ台を手のひらでバンと叩き、僕らの顔を見回した。いきなり物を叩いて大きな音を鳴らすのは、流石にびっくりするから勘弁してほしい。

「姫が山荘にて青宮院彰殿の立会いの下、仮とはいえ本家の正統後継者になった。これにより、姫の祖母である先代当主亡き本家へ、かつてのように龍脈が集中して流れるようになった」

 ミネミネが言うにはこういうことらしい。紗姫が後継者になる前までは、本来青宮院が管理していた龍脈は本家の手を離れていたという。現当主と正統後継者の存在により、その家が続くことが決まっていて初めて、この地の龍脈は青宮院に力を貸してくれるのだとか。

 

 先代から当主の座を引き継いだ雛美さんには子供がいない。本家に正統後継者がいなくなったから、龍脈が本家に力を貸さなくなるのは当然のことだという。もっとも、別に直接本家に力が行き渡らなくても、龍脈は朱沢町全域に流れているため、それだけでその加護は得られるとミネミネは言った。

 しかし、本家は左獄山から悪いモノが降りてこないように、山に対して強力な結界を張っている。その結界の強度を維持するためには相当な量の霊力が必要であり、それを賄うためには龍脈が本家に集中していなければならない、とミネミネは仮説を立てた。

 

「だったら、尚更本家が私を殺そうとする理由がないわね。龍脈が本家に流れを変えたのも、正統後継者の私が生きているからこそだし」

 鼻を鳴らして紗姫は言う。確かに、紗姫の生存は本家や朱沢町にとってもメリットしかないはずだ。

「ホントだよ。ミネミネの仮説通りなら、紗姫が雛美さんを始め本家の人達に可愛がられているのも納得だよ」

「可愛がられるのはそれもあるだろうけれど、やっぱり私の愛嬌と容姿のおかげよ。お祖母ちゃんの葬式に行った時にも、うんと可愛がられたんだから。」

「いずれにせよ、本家の人間には姫を殺す理由はない……本家とこの地が滅ぶのを願う人間がいなければの話だが」

「おい!!」

 紗姫が空のペットボトルをミネミネに投げつけたところで、一旦会議は中断された。ミネミネは機嫌を悪くした紗姫に大福を追加購入してこいと命令され、炎天下の中自転車に跨ってすっ飛んでいった。

 

「それにしてもさ、紗姫。お腹大丈夫?いくらお昼を大福とあんぱんで済ませるからって、もう食べすぎじゃない?」

 この夏で大食漢になった幼なじみを、僕は呆れながら見つめた。

「うーん、確かに良く食べるようにはなったけれど、まぁ成長期だから良いんじゃない?」

 紗姫に軽く流されて、そうかなぁとぼんやり考えながら、麦茶の入ったグラスの水面を見つめる。

 青宮院本家と朱沢町を滅ぼしたい人間の存在……青宮院と朱沢の地を憎む存在?

僕の頭の中には早速巳継さんが思い浮かんだけれど、巳継さんが夫を使って呪ったのは中条家だ。黒い少女に願いを二つ頼む、という例外は恐らく存在しないだろう。いや、決めつけるのは早計だろうか?

 とりあえず彼女とは一度、腹の中を曝け出して話し合う必要があると思う。

 

「ねぇ紗姫。ミネミネが戻ってきたらさ、巳継さんの家に行ってみない?」 

「え?なんで……あぁ。あの言葉の真意を確かめにいくのね。まぁ私も気になっていたし。いいわよ」

 紗姫はミネミネに投げつけたペットボトルを手で遊びながら、僕の案に同意するのだった。

 

 

 

 

第二節 一ノ宮邸 (推敲1回目)

 

 

 

 蝉時雨の中、汗で制服の中が透けた状態のミネミネが戻ってきた。彼女が手早く着替えを済ませようとするのを横で見ていたが、下着に手をかけようとしたところで紗姫に目隠しをされてしまった。

 ミネミネがひと息ついたところで、買ってきてもらった大福を手土産に、僕らはまず最初にあるさんのアパートへと向かった。

 僕のお父さんの葬式で面識があるはずだが、まさかこのアパートの部屋に来るとは思っていなかったのだろう。あるさんはミネミネを見るやいなや、眼鏡をずり落としそうになっていた。「この状況の説明を求めるでござる」と、僕と紗姫に視線で訴えるあるさんに説明をする前に、ミネミネは微笑みながら大福の入った袋をアラフォー男性に手渡した。

 自分の身に何が起きたのか把握できずに目を丸くしていたあるさんは、数秒後に何が起きたのかを理解したようで、拳を天に突き上げて獅子のような雄叫びをあげた。

「現役JKからこの歳でプレゼントを受け取るとは……拙者、感激でござるうおおぉ!」となんか叫んでいた。それを目の前で見せられて慌てふためき、僕達に視線で助けを乞うミネミネが少し可笑しかった。紗姫はというと、「いい気味よ」と言わんばかりにご機嫌に鼻を鳴らしている。

 一ノ宮邸には前回と同じように車で行くため、ミネミネが助手席に座って僕と紗姫が後部座席に座った。あるさんの運転のもと、僕達は真相を確かめるべく出発した。

 

 

 運転中に差し入れの大福を片手で掴んで頬張りながら、あるさんは感慨にふけるように目を細める。ミネミネから貰った大福が相当美味しいのだろうか。

「それにしても、この歳で拙者がJKのミネミネ殿から差し入れを貰えるなんて……人生何が起こるか分からないものですな」

 大福を飲み込み、いつもより少し大きな声で子供のように喜ぶあるさんと、ルームミラー越しに視線が合った。あるさんと会ったのはお父さんの葬式以来だ。ミネミネの差し入れを抜きにしても、彼の調子の良さと分厚いレンズの先にある優しげな瞳から、僕を気遣ってくれているのがよく分かった。いつまで経ってもあの廃墟から戻らない僕と紗姫を心配して、泣きそうな顔で駆けつけてくれたのはあるさんだ。唯一の肉親であった亡骸に抱きついて、紗姫に頭を撫でられるまま泣きじゃくる僕を見てそっと肩に手を置き、静かに涙を流してくれた大人があるさんだった。

 その後、廃墟で起こったことと、僕と紗姫がこの夏で経験してきた怪異を、彼に全部話した。額に汗を光らせ、眼鏡鼻に押し当てながら動揺していたあるさんではあったが、流石僕のブレイン役で早稲田卒なだけはある。ミネミネの補足説明もあり、どうにか全てを理解したようだった。

 

「ま、まぁ……そんな大層なものではないので」

「ミネミネ殿。JKであるミネミネ殿がオタクの拙者にモノをあげた、その奇跡を享受できた事実は何よりの誉れなのでござるよ」

「はぁ……? そんなものでしょうか」

 あるさんの熱弁にミネミネが一方的に押される姿は、傍から見ていて結構面白い。紗姫はというと、ミネミネに力説するあるさんを冷めた目で眺めている。

「ま、アンタが車を出してくれるのは助かったわ。ありがと」

 紗姫の冷め切ったお礼の言葉に、あるさんが少し耳を赤くしたのが分かった。「当然でござる! 静太殿と拙者は、何があっても紗姫殿の味方でござる!!」とか何とか言っている。

 

 変わり映えのない田園風景を眺めながら、僕はシートにもたれかかって思考を凝らした。青宮院家と中条家は朱沢の二大巨頭であり、その二つの家に仕える一ノ宮家────、ふと頭に閃いた考えが口から飛び出す。

「廃墟での件で、一ノ宮家が確かに異能を持つことを確認できたけれど、やっぱりその異能のせいで朱沢町の端に追いやられたのかな。異能という意味では、青宮院も同じだとは思うんだけれど」

 僕の実の母親が一ノ宮巳影であることから、僕もいつかは町で除け者にされるのではないか、と少し心配になった。この瘴気を溜めやすいという体質には、一ノ宮の血が関係しているのだろう。限界まで瘴気を溜め込んでしまったら、周りに呪いを振り撒いてしまう……多くの人々を傷つけてしまう、もしかしたら死人も出るのではないか。そんな妄想が頭に浮かんで、自然と背筋が凍った。その不安も一緒に飲み込んでしまおうと、持ってきた水筒の水を半分ほど胃に流し込んだ。

 紗姫はそんな僕を傍目に、この髪を撫でながら言った。

「うーん、異能を持つ家がその地に二つあって、一方は崇められもう一方は差別されていた……その地における実績の有無かもしれない。巳影さんの話では、青宮院のほうが先に此の地に住み着いたらしいし」

「本家と一ノ宮家ではその異能の役割が違うから、一ノ宮家が町外れに住むことになった、と拙者は考えているでござるよ」

「どういうことよ」

「黄泉比良坂は知っているでござるか?」

 話が脱線しそうな気がするが、あるさんを信じて耳を傾ける。

「知ってるよ。イザナミノミコトの言いつけを破って、彼女の醜い姿を覗いたイザナギノミコトが、黄泉の国から現世に戻る際に通った坂だよね。彼女がこちらに戻ってこれないように、イザナギノミコトは大きな岩を置いて道を塞いだ」

「少年のその系統に関する知識量には、本当に驚かされるな」

 ミネミネが関心したように笑った。紗姫のおじさんと一緒に読んだ本が、確かに僕の血となり肉となっているのを確認できて嬉しい。

「静太殿の言うとおりでござるな。死者である伊弉諾尊が、怒り狂って現世で悪さをしないように、伊弉冉尊は千引の岩を黄泉比良坂に置いて道を塞いだのでござる」

「それと一ノ宮家に何の関係があるのよ」

 紗姫が口を尖らせて言う。

「黄泉比良坂は、死と生の境目にあるでござる。千引の岩は、常世と現世の境界線の役割を果たしているから、民俗学では塞神としても扱われるでござる。日本では、この塞神の向こうからまれびとという存在が来ると云われていたのでござる。このまれびとは、境界線の内側の人々にとって良い存在である時もあれば、悪い存在である時もあるのでござる。だから、まれびとをどう扱うかは、その良し悪しによって決められたのでござる」

「じゃあ何?その黄泉比良坂の伝説によって生まれたまれびと信仰が、ここら一帯にも存在していて、朱沢の人間にとって一ノ宮家はまれびとってことなの?」

「流石紗姫殿、理解が早い!」

 あるさんは自分の太腿をパンと叩いて、紗姫を称賛した。実際、紗姫はこういった系統の知識に精通しているわけでもないのに、一度説明されただけで完璧に理解するのだから、小学生にしては並外れて頭の回転が速い。

「一ノ宮家が朱沢町の外れに位置することから、朱沢の人間は一ノ宮を良きまれびととしては歓迎しなかったということになりますね。」

「そうなるでござるな。青宮院本家が一ノ宮をこの地で生きることを許したとはいえ、その異能のせいで完全には迎え入れることが出来なかったことは、かなり頭を抱えたのではないかと思うでござる」

「一ノ宮の血は妖に好まれるって話だもんね。悪いモノを引き寄せるならうってつけだ」

「町中……昔だから村の中か。村の中に魔物が引き寄せられるのは確かに危険だし、町外れで引き寄せるなら……少なくとも村の人間は安全だわ」

 紗姫も納得したように頷くが、一つ答えを得ていないことに気づいたのか、眉を吊り上げて口を開いた。

「でもこの仮説は、一ノ宮家が朱沢の人間にとってまれびとである前提があって成り立つものでしょ。一ノ宮家をまれびととみなすには、一ノ宮家と朱沢の大地を分かつ境界線が必要じゃない。そんなものあるの?」

「む……確かにそうでござるな」

 あるさんがハンドルを左手で握りながら、顎の下に右手を添えて考え込んだ。あるさんが答えあぐねていると、ミネミネが後部座席の僕らを振り返って、その答えを口にした。

「境界線はあるんだ。一ノ宮家は朱沢町に流れる川を隔てた向こう側にある。もう分かっただろう?」ミネミネと視線を交わした瞬間、脳内に電流が流れた。

「あ! 清流川だ!! あの世と現世の境界線には三途の川がある。黄泉比良坂伝説の常世と現世を隔てる、という境界線の役割にも矛盾してない」

「なるほどね。異能を持つ一ノ宮をまれびととする条件は、ちゃんと揃っていたわけね」

「境界線の役割を持つ清流川……なんだか他にも役割を持っている感じがするし、朱沢町のロマンでござるなぁ」

 ルームミラー越しに、ミネミネの眉が少し吊り上がったのを僕は見た。

 

「家が見えてきたわよ」

 紗姫の言葉につられて視線を上げる。周囲には何もない地に建つ一ノ宮邸は、やはりどことなく物寂しい。それでも、僕のお母さんもかつてはここに住んでいたという話だから、以前来た時には無かった郷愁的な感覚を覚えた。

 あるさんが家の前に車を停め、四人とも降りてから玄関に向かった。インターホンを鳴らすと、四十代くらいの見知らぬおばさんが出てきた。一瞬、訪ねた家を間違えたかと思ったが「巳継さんの身の回りを世話しています」と一礼され、すぐに身重の巳継さんの家政婦だと分かった。

 家政婦に部屋を通され、僕達はリビングのソファに座る巳継さんに会った。お腹を擦りながらこちらに微笑む彼女に、実のお母さんの幻が重なる。

「あら。静太君に紗姫ちゃん、こんにちは。そちらは陰陽師の方と……あぁ。廃墟に来てくれた方ですね」

 巳継さんの声には心なしか覇気がなかった。お父さんの葬式の時には、僕も気持ちに整理がつかなくて気づかなかったけれど、四日前からずっと元気がなかったのかもしれない。

 四人それぞれに巳継さんへ簡単な挨拶を済ませた後、僕と紗姫は絨毯の敷かれた床に座り、あるさんとミネミネは家政婦に促されるまま、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「今日はどんなご用事で遊びに来てくれたの?」

 誰よりも僕を見て優しく問いかけてくる巳継さんが、まるで聖母であるかのように思えた。廃墟で見せた笑みとは全くの別物であり、この優しい顔を見せる彼女こそが本物の一ノ宮巳継だとふと感じたが、直ぐにそれを頭の中で否定した。

 姉である僕の母さんを贄として朱沢町の人間に奪われ、九年間募らせた悔しさと中条家への憎しみを、その無念をも僕は理解しているから……だからこそ、廃墟での巳継さんも紛れもなく一ノ宮巳継なのだと、僕には分かっていた。

─────巳継さんの蓄積された想いは、黒い少女の召喚という結果に繋がった?

 幽霊屋敷でミネミネが教えてくれた、想いが力の源泉であるという話を思い出した。人の想いは、重力からは逃れられず大地に留まる。お父さんがあのとき黒い少女を呼び出せたのは、死んだお母さんへの愛を忘れずにいたから?その想いがお母さんに届いて、僕たちを一目見ようと魂の声でお父さんを呼び寄せた。それでお父さんに連れて行かれるままに、僕は左獄山で奇跡的に巳影お母さんと巡り会えたのだろうか……?

 

「静太、ねぇ静太ってば」

 紗姫に肩を揺すられて現実に戻ってきた。巳継さんが不思議そうに僕を見つめている。その表情に、直接は目にしたことのない実の母親の面影を見た。

「静太君、大丈夫?」

「はいっ、大丈夫です。今日は巳継さんに聞きたいことがあって来たんです。何故、灯火を僕にけしかけたのが青宮院本家の人間だと思ったんですか」

「あぁ……そのことね」

 巳継さんが困ったように眉尻を下げて呟いた。そんな彼女を傍目に、あるさんが遠慮がちに手を挙げた。

「あのぉ、拙者は部外者なので席を外していたほうがよろしいでござるか?」

「いや、この因果の深い部分に組み込まれている姫と少年に関わった以上、もはや無関係とは言えません。彼もこの場に残るのは構いませんね?」

 戸惑うあるさんを横目に、ミネミネが巳継さんに同意を求める。巳継さんは静かに頷くと、僕と紗姫のほうに姿勢を正した。

「さて、どこから話したものかしら……」

 フッと一呼吸つく巳継さんに、僕は前のめりになって尋ねた。

「現当主の雛美さんに子供がいないことは、今回の事態に関係ありますか?」

「静太?」

 紗姫が不安そうに僕の名前を呼ぶ。巳継さんは目を丸くして、僕の顔を見つめていた。

「なぁに?この感じだと、静太くんの中ではもう答えが出てるようじゃない?」

 巳継さんが妖麗な笑みを浮かべる。その表情に僕は顔を赤くして頷いた。

「巳継さんは……雛美さんが黒い少女を使って紗姫を殺そうとした、そう考えているんですね」僕がそう言うや否や、隣の紗姫が猫のように食いかかる。

「静太! 何言ってるのよ。雛美伯母さんが────、そんな事するわけないでしょう!」

 しかし、紗姫の言葉に怒りは含まれていない。伯母の無実を信じるも、僅かな疑念が込められた叫びがリビングに響いた。

「静太君は本当に鋭いわね。巳影姉さんにそっくりよ?」

 巳継さんが嬉しそうに微笑む顔を、紗姫が獣のように目を細めて睨んだ。流石に妊婦相手には飛びかからないだろうが、慌てたあるさんとミネミネが、今にも紗姫が飛び出して惨事にならぬよう、椅子から立ち上がった。

「雛美伯母さんが黒い少女に願ったというなら、彼女は死んでいなければならないでしょ。彼女には絶対に無理」

 鼻息を荒立てる紗姫の肩に手をやり、宥めながら僕は回答を待った。紗姫を見つめる巳継さんの表情は涼しげだ。

「静太君、私から話してしまっても構わない?」

「はい、僕も巳継さんの意見を聞いて、自分の考えが合っているか確認したいです」

「うん……じゃあ紗姫ちゃん、これだけは断言するわ。雛美さんは貴女を憎んでいない。彼女が貴女に対して、負の感情を抱いていないことは、間違いないわ。それでも尚、彼女は貴女の死を願った、私はそう考えているの。」

 口をぽかんと開ける紗姫優しく見つめ、巳継さんは子供をあやすように、言葉を続けた。

 

 

「まず紗姫ちゃんの疑問について、とうに貴女はその答えを分かっているわね。なにせ、自分の願いを他人に契約させた例が、あなたの目の前にいるんですもの。」

「でも、雛美伯母さんは死者も行方不明者も本家からは出ていないって……」

「まぁ、紗姫ちゃんに嘘を見破れる能力がないかぎり、それは証明出来ないわね。いないことは証明できないの、悪魔の証明よ。なんなら、本家の人間に契約させる必要もない、物は言いようね」

 まさかこんな屁理屈を聞かされるとは……紗姫を横目で見ると啞然としていた。

僕らの反応に不満を持ったのか、巳継さんが頬を膨らませた。

「んもう、私がこう考えたのは、雛美さんにはちゃんと動機があるからなのよ。」

「その動機って何よ? 私を納得させるに

足り得るものなんでしょうね」

 紗姫の言葉には力が戻ってきていた。どうやら巳継さんの推理は、取るに足らないものだと感じているらしい。

 紗姫が落ち着いたのを見計らって、ミネミネとあるさんは席についた。

「雛美さんはね、巳影姉さんと同い年で、二人共仲良かったの。小中高一緒で、学校ではいつも二人で行動してたみたい」

 巳継さんの話に耳を傾けるが、一体この話がどこに着地するのか、僕には見当がつかなかった。

 それを感じ取ったのか、巳継さんが僕の目の奥を覗き込むように見つめ、御伽話をするように語った。

「巳影姉さんはね、その名前とは正反対の性格をしていた。蛇のように狡猾で暗い性格とは縁がない、太陽のように明るい人だったの。一回り年下の私は、そんな姉さんの明るさに元気を貰っていたし、姉さんみたいになりたいと小さい頃から憧れてた」

 追憶に浸る彼女の口調から、本当に姉を慕っていたというのがよく分かる。巳影お母さんについて詳しく話せるのは、もう巳継さんと雛美さんしかいないだろう。これ幸いと、僕は全神経を彼女の話に集中させた。

「雛美さんは、高校卒業後に先代から引き継ぎを始めたから、自然と姉さんとの間に距離ができた。いつも一緒にいた親友がいない、色褪せた日々を送っていた大学生の姉さんに、彩りを与えたのが義兄さん…伸之さんだった。出会った空伸之という男性は、それまで言い寄ってきた男共と違って、控えめで素っ気ない態度を取っていたそうよ。でも、基本的には紳士な人だったし、どこか影のあるところが姉さんの母性本能を擽ったんでしょうね。二人がくっつくのに、そう時間はかからなかったって、私に自慢げに話してきたのを良く憶えてるわ」

 顔を紗姫たちのダイニング側から逸して俯き、「姉さんが羨ましい」と呟かれた蚊の鳴くような声を、僕は聞き逃さなかった。

「ちょっと話がそれちゃったわね。そんな快活で魅力的な人間だった姉さんとは反対に、雛美さんは周りを寄せ付けない雰囲気を持った女性よ。美人だけど、プライドが高そうで同性からは敬遠されていたみたい」

 僕達にとって、いよいよ本題の雛美さんについてだ。僕のお母さんとは、無二の親友だったようだけれど、そんな人が一体なぜ、紗姫を殺そうとしたのだろうか。

「そんな雛美さんも、巳影姉さんにはすぐに心を許したのね。姉さんは、異能関係なしに人の心を掴むのが上手い人だった。一ノ宮の人間であるにもかかわらず、それまで誰とでも広く浅く仲が良かった姉さんは、特に雛美さんと仲良くなったの」

 朱沢の地を守る青宮院の人間と、悪いモノが朱沢の地に入らないよう、引き寄せる役目を持つ一ノ宮の人間の存在。両者の目的は、この地を守護することであり、守護者同士で惹かれ合うのは、その目的を円滑にするための因子が、両家に組み込まれているからだろうか、という考えが頭によぎった。

「姉さん以外には、付き合いがなかった雛美さんだけど、妹さん…紗姫ちゃんのお母さんとは仲が良かったみたいね。雛美は自分のことよりも、妹のことを話すほうが口がよく回る、って姉さん笑っていたわ。本当に姉妹仲が良かったのね……」

「ま、私達も負けないけど」と巳継さんが呟く。

「高校生にもなると、皆怖いもの知らずになるのよね。姉さんは好奇心旺盛だったし、その頃の雛美さんも姉さんを止めずに、自分もついていってたみたいね。この地に伝わる伝説を調べるために、本家の蔵に夜な夜な忍び込んで、朱沢村の頃から伝わる書物を読み漁っていたの」

 巳継さんが悪戯っぽく歯を見せ、またもや心臓が強く鼓動を打った。横目で僕の様子を伺っていたのか、紗姫が僕の頬を軽く抓ってきた。あるさんは「それもまた青春ですなぁ」と眼鏡を光らせ、ミネミネは無言で話の続きを促している。

 しかし、それまで思い出を懐かしむように話していた巳継さんの様子が、ここにきて急変した。廃墟でのあの冷たい雰囲気を漂わせていたあの女性に、この一瞬で戻ってしまったかのようだ。頬を抓っていた紗姫の指が僕の肩に着地し、そのまましがみついてくる。

「姉さんと雛美さんは見つけてしまったのよ。一ノ宮家はおろか、中条家も知らないであろう、この地の秘密をね」

 巳継さんは何かに取り憑かれたように言葉を続ける。

「一ノ宮も中条も、鎮めの儀のために贄を出し続けてきたけれど、何故この地を治める青宮院からは、今まで一人も贄を出してこなかったのかは、教えられていなかった。二人が知ったのは、青宮院から贄を出してはいけない理由だった」

「贄を出すということは、その家における血筋の一部を絶やすということ。代々…いや、約二百年前に起きた天明の大飢饉以降、子供が二人までしか出来なくなった青宮院家では、どちらか一人を贄に出しただけで、血が途絶える可能性は高くなる。子供ではなく、母親を贄に出す選択もあるけれど、当主を女性が務める青宮院では、そう簡単に決断することは出来ない。知ってのとおり、鎮めの儀には男性を使えないしね」

 巳継さんはここで一呼吸おき、紗姫と僕を交互に見た。

「なぜ青宮院が、家の存続にここまで拘るのか気になるでしょう?」

 薄ら笑いを浮かべる巳継さんに、僕達は無言で頷く。

「青宮院が左獄山に強力な結界を張っているけれど、あれはあくまで気休めにすぎないのよ。左獄山に集まる怪異が降りてこないように機能はするけれど、あの蛇神にはなんの意味もない。贄を出しているだけでは、あの蛇は完全には鎮まらない。青宮院の血が護り続けているのは、あの蛇の楔となっている、とある巫女の想いなの」

 あの廃墟で巳継さんが語っていた、鎮めの儀についての話を思い出した。贄は蛇に差し出されるのではなく、蛇を慰撫する巫女に捧げられるのだと。

 

 ここで、巳継さんに先程とは違う変化が表れた。廃墟で対面した時のあの底知れぬ迫力は消え失せており、何かに怯えるように震え、顔色も青ざめてきた。

 次に話す内容の恐ろしさのせいか、巳継さんの言葉は中々紡がれない。薄くて淡いピンク色の彼女の唇はわななき、やや乱れた髪に隠れた肩が小刻みに震えていた。

 それでも巳継さんの左腕は、膨らんだお腹に置かれていた。まるで、無意識にお腹の中の赤子をかばおうとするように────、我が子を死に絡め取られまいと、必死で身を固くする母親の姿を僕は見た。

 ───巳影母さんも、きっとそうだったんだ。必死で僕を守るために、逃げもせずその身を贄として捧げてくれた。

 母親の面影と重なる叔母は、あまりにも健気で儚かった。だからこそ、彼女の抱える不安と恐怖を和らげようと、震える膝に投げ出された右手を、僕は両手で優しく包み込んだ。

 そんな僕の対応に心から安堵したのか、巳継さんはこちらに微笑んだ。

「ありがとう……静太君、傍にいてくれて」

「────いえっ」

 彼女の笑顔が、遠い過去に忘れてきた、巳影母さんの笑顔と重なり、あまりにも眩しくて僕は目を逸らした。

 落ち着いた様子を見せる巳継叔母さんが、話を再開した。

 

「青宮院の血が途絶える……いえ、正統後継者に次代が生まれる可能性がなくなると、蛇を抑える巫女の想いは消え去る。蛇を穿つ楔は抜かれ、左獄山から完全な状態の蛇神が降りてくる。ここ最近起きていた蛇神が原因の不審死が、本物の災害として朱沢全体に広がる。あとは皆さんの想像通り、廃墟で見た通りの蛇神が、人々の命を喰い荒らす。それだけじゃなく、死人の魂をこの地に縛りつけるっていうんだから、全く迷惑な神よね」

 巳継叔母さんは呆れたようにため息をついた。

「これが、雛美さんが紗姫ちゃんを殺そうとした理由。この夏、朱沢の地は青宮院の正統後継者である青宮院紗姫の死をきっかけに、左獄山から蛇神は完全に解き放たれる。この地の人間は、皆蛇に命を喰われ、その魂はこの地に縛られ続けることになる。大切な妹の娘で、実の我が子のように可愛い紗姫ちゃんを、そんな目に遭わせるわけにはいかないでしょう?彼女は、紗姫ちゃんが蛇神の呪いによって死に、この地に縛られて欲しくないと願った。だからこそ、紗姫ちゃんにとって一番大切な者の手で、せめて安らかな眠りが貴女に齎されるように、そう黒い少女に願ったと私は考えてるの」

 話し終えた巳継叔母さんは、大きく深呼吸して息を整えた。家政婦から冷水ポットに入った麦茶をコップに注いでもらい、彼女がそれを喉を鳴らして飲み干す姿を、僕達は呆気にとられたまま見つめた。

 

 

「雛美さんは、紗姫が呪いで死ぬくらいなら僕の手で殺させようと、黒い少女に願った……」

 まだ理解が頭に追いついていない……巳継叔母さんの推理通りなら、お父さんの葬式での僕に対する態度にも、一応は納得がいく。ただ、そんな秘密を抱えていながら、雛美さんは紗姫に対してあのように接することが出来るのだろうか?

 僕が考える傍ら、紗姫が反撃だと言わんばかりに口を開いた。

「私が死ぬという結末はどうしようもないから、せめて天国には行かせたいと思って、雛美伯母さんが黒い少女と契約……ねぇ?本気でそう思ってるの?」

「そうよ。貴女は自分では分からないかもしれないけど、この地の龍脈の恩恵を一番受けているわ。それが正統後継者の何よりの証であり、その証を持つ者に次代が生まれないことが確定すると……」

「私が聞きたいのはそんなことじゃないの。」

 紗姫が巳継叔母さんの言葉を遮った。 

「アンタも黒い少女を知ってるから、当然分かってるでしょ。アイツは契約者の願いを、そのままの形では叶えてくれない。歪んだ形で願いを叶える捻くれ者よ。」

 紗姫の言い分に僕とミネミネは頷く。巳継叔母さんもそのとおりだと言うように、首を縦に小さく振った。

「そして多分…黒い少女は、あの蛇と同じように、今回初めて出てきたわけじゃないはず。蛇のほうが何度も祟りとして現れるから、そっちの言い伝えは一ノ宮にも中条にも伝えられてるんだろうけど、過去にはアイツも現れているはずなのよ。」

 チラッと僕に目を向けた紗姫が、申し訳なさそうな顔をする。僕は頷いて続きを促した。巳継叔母さんは宙を見上げ、一瞬間をおいてから言う。

「それはなぜ?」

「アンタが自分で言ってたじゃない。贄は蛇神ではなく、蛇神を慰める巫女に捧げられると。黒い少女って、どう考えてもその巫女でしょ。私の親戚にあたる人も言ってたけど、少なくとも九年前〜三十年ほど前には、御山の祟りとして蛇神の存在しか認知されていない。」

 青宮院彰さんの話だな、と僕は思った。

「この朱沢の地において、願いを叶えてその代償に命を奪う、こんな言い伝えは存在していない。でもね、どれくらい前かも分からない歴史を持つ神相手に、まさかぽっと出の存在がどうにかできると思う?」

 できるわけないと思う。何せ、神そのものには独自のルールがあり、それに対応するのが陰陽師、だとミネミネが言っていた気がする。ただし、古き神のルールは、古すぎて解析もされていないし記録も残っていないため、陰陽師はどうしようもない。

であれば、その古き神のルールを知る者は、それと同じくらいの古い歴史を持つ存在、ということになる。

「静太のお父さんの命と引き換えに、アイツは神である蛇を鎮めた。鎮めの儀には女性が必要だというけれど、アイツは男性の命でもそれを可能にした。格でいえば、蛇より間違いなく上ね。そんな存在が、今回の件でだけ現れることなんてありえる? 蛇 と同じか、それより古い歴史を持ちそうな存在がね。」

 紗姫は大きく深呼吸し、息を整えた。

「私の考えはこう!黒い少女は、過去に一度はこの地に現れている。あれだけ影響を及ぼす存在を、青宮院が記録していないわけがない。であれば、アイツが願いを叶えた結果も、当然記録しているはずよ。その記録を雛美伯母さんが知っていれば、私に安らかな死を与えたいからといって、黒い少女に願うわけがない!現に、静太が蛇寄せの符を私に貼っていたら、私はあの蛇に喰われるわけでしょ?そんなの、絶対に天国に行ける感じしない。」

 まさに紗姫のいうとおりだ。青宮院の当主である雛美さんが、黒い少女について無知であるはずがない。そうであるからこそ、雛美さんには黒い少女を使うという選択はできないはずだ。

 紗姫の主張に圧倒され、巳継叔母さんは驚きつつも関心したようだった。

「あはは…まさか青宮院のお嬢ちゃんがホームズ役とはね。朱沢町のホームズとワトソン、いい組み合わせじゃない?静太君。」

「紗姫は大のミステリー好きですから…」

 自分の推理が雛美さんの潔白を証明出来たことに、紗姫はご機嫌なようだった。家政婦からコップにお茶を注いでもらい、一息に飲み干して口を拭う。流石紗姫殿!とあるさんも紗姫を褒め称え、テーブルに置かれているお菓子を差し出した。

 紗姫はミステリーを楽しむ時、ホワイダニット・フーダニット・ハウダニットを重要視しているという。この三つを明らかにすれば、事件の真相が分かるんだとか。巳継叔母さんが主張するホワイダニットは否定された。僕達に想像もつかない動機がなければ、雛美さんは黒い少女と契約していないことが確定する。

 そこまで考えたところで、僕はハウダニットに注目した。黒い少女に願いを叶えてもらうこと、それは誰にでも出来ることなのだろうかと……

 願いを叶えるかどうか、ではないのか。どうやって黒い少女を呼び出すかどうか、を考えるべきだ。

 タケシやパイセンのお母さん、巳継叔母さんやお父さんには黒い少女を呼ぶことができた。でも、あの山荘で僕は呼ぶことができなかった。この違いは?

 想いの強さに関しては、まさか僕の紗姫を助けたいという想いが、タケシが紗姫を憎む想いに負けるわけがない。想いの強さではない。僕と皆の違い……

 

───────時間、か?

 

 

 それまで無言だったミネミネが唐突に口を開く。

「そういえば、少年が青宮院現当主を疑っていた、という理由はなんだ?」

「あ、私の考えを話すのに熱くなっちゃって、聞きそびれちゃったね。ごめんねぇ静太君。」

「いえ…」

 お菓子を食べ終わった紗姫が、巳継叔母さんの隣に座り、彼女を挟んで僕の顔を覗き込む。その顔は、私の推理を崩せるもんなら崩してみろと、得意気だ。

 ほぼ結論ともいえる紗姫の推理を、僕がどうにかできるわけないと思いつつ、僕は自分の考えを話し始めた。

 

 

「雛美さんが慈愛の心をもって、紗姫を死なせようとしたという巳継さんの推理と、僕の推理は逆なんです。僕は、雛美さんが紗姫を憎んでいたんじゃないかと考えました。」

 皆が驚いた顔をして僕の顔を見る。的外れの推理を披露するのは、流石に恥ずかしい。

 続けてと紗姫に囁かれ、僕は口を開いた。

「青宮院の本家と分家は仲が悪いのかもと、紗姫から聞かされていました。紗姫のおじさんは、青宮院に婿入りしたので、本家と分家にある問題は、姉妹間にあると思ったんです。」

 口が乾いてきたので、コップに半分ほど残った麦茶を飲み干した。家政婦が追加を注いでくれた。お礼を言って一口飲んでから、話を続ける。

「その姉妹間の問題は、多分雛美さんに子供がいないのと、紗姫のおばさんの身体が弱いことと関係がある。僕は、おばさんが激しい運動をしているところを、見たことがない。紗姫が生まれる前は、少なくとも今よりは元気だったと考えます。本家と分家にの仲に亀裂が入ったのは、恐らく九年前に僕のお母さんが贄となった時……」

 僕の話に耳を傾ける巳継叔母さんは、心配そうな顔をしていた。

「巳継叔母さんが中条家から死人が出たと言ってましたけど、青宮院家からも死者が出たんじゃないかと考えました。老人と若者と子供の中では、青宮院だと何の力も持たなそうな子供から死ぬ。九年前、蛇神に襲われた雛美さんの子供が死に、紗姫のおばさんは御山の祟りの影響で身体を壊した……」

 ふんふんと健気に僕の推理に反応してくれる紗姫を見て、話す力が湧いてきた。

「本家の跡継ぎになる子供は死んでしまった。けれど、青宮院家にはおばさんが生んだ紗姫がいた。でもおばさんは、紗姫を御山の祟りに関わらせたくなかったから、本家を飛び出して紗姫のおじさんと屋敷に住むようになったんじゃないかな……」

 徐々に声が小さくなる僕を、励ますように巳継叔母さんが頭を撫でてくれた。皆の前でお母さんに甘やかされているようで、ものすごく恥ずかしい。

「私には確かに従兄妹がいないし、雛美伯母さんに関する静太の考えは、あながち間違ってないかもね。」

 紗姫に肯定されて嬉しくなった。しかし、その気持ちをぶった斬るように、紗姫が言葉を続ける。

「姉妹間の問題はこれで終わり?雛美伯母さんとママの関係が悪くなった理由と、おばさんが私を憎む理由の説明がないわよ。」

 紗姫に痛いところを指摘され、僕は天を仰いだ。姉妹関係悪化の説明は、僕の中では纏まっていないから、雛美さんが紗姫を憎む理由だけ説明する。

「巳継叔母さんの話を聞いたから、纏まった推理なんだけど…雛美さんは青宮院の正統後継者じゃなかったんじゃないかな?紗姫のおばさんが正統後継者だったから、雛美さんの子供が死んでも、蛇神を封じる血の楔は抜けなかった。だって、次代は雛美さんの子供じゃなくて、まだ赤ん坊の紗姫だったんだから。」

 そう考えると、紗姫がミネミネの術を無効化出来ることも、いずれ青宮院当主足りうる人間だから、ということで説明がつく。というか、紗姫が山荘で正統後継者になったんだから、青宮院の次代は紗姫だったと、もっと早くに気づけることだった。

「紗姫のおばさんは正統後継者だったけれど、多分長女の責任で雛美さんが当主候補になった。紗姫が生まれ、一年経って御山の祟りが起こる。雛美さんの子供は死に、次代を紗姫に定めた本家から、紗姫を守るために、おばさんとおじさんは紗姫を連れて屋敷に住む。子供を亡くし、青宮院当主の役目だけを押し付けられた雛美さんは、おばさんと紗姫を恨む…」

 駄目だ、本家とおばさんの関係は悪くなり、本家が紗姫に優しい理由は説明出来るけど、雛美さんが紗姫を恨む理由は僕に説明出来ない!

 巳継叔母さんと紗姫と僕の三竦みの推理合戦は、紗姫の圧勝で幕を閉じた。

 

 

 

 長時間話して疲れたのか、巳継叔母さんは部屋で少し仮眠するとのことだった。お昼過ぎに来たのに、もう夕暮れになっているのだから、時間を忘れて話し合いに熱中していたのだと驚いた。

「んもう、せっかく面白い推理の部分はあったのに、ツメが甘いわね静太は。」

 家政婦に出してもらったショートケーキを、一瞬で平らげた紗姫が僕に椅子ごと詰め寄る。

「静太殿、男という生き物は、敗北を通して一回りも二回りも大きくなる生き物でござるよ。これを糧に、また紗姫殿に挑むでござる。」

「うん。」

 その“また”が、あと何回あるだろうかと、僕は少し不安になった。

 僕の正面に座るミネミネが、ほらサービスだと自分のイチゴを僕のケーキの上に乗せてくれた。

「少年の推理は散々なものであったが、的を射てるところもあるぞ。姫が本家で大切にされているのは、姫の母親が正統後継者であり、姫は次代であったということで間違いない。」

 僕にものをやる権利を持つのは、自分だけだと言わんばかりに、紗姫が僕にイチゴちょうだいとねだるので、一つずつ紗姫にあーんしてあげた。ありがと、と微笑んだ紗姫は、僕の口元についた生クリームを指で拭い、平気な顔で口に含んで「ごちそうさまでした。」と家政婦に礼を言った。トイレを借りに家政婦さんの案内に続く紗姫を目で追うと、「静太殿。」と声をかけられた。

 ミネミネの横に座るあるさんが、歴戦の戦士のような眼差しを僕に向け、右手を自分の左胸に当てていた。

「静太殿、なんとしても紗姫殿を守らねばなりませんぞ。」

「うん、勿論だよ。」

 

 

 紗姫がトイレから戻ってきたから、お腹大丈夫?と聞くと、

「食べすぎのことを静太は気にしてるんでしょうけど、何の問題もないわよ。」

「静太殿、流石に女性にそれを聞くのはマナー違反でござるよ。」

 あるさんのマナー談義が始まりそうなのを、紗姫が両手を鳴らして打ち切る。それからミネミネの方を見た。

「陰陽師、アンタ幽霊屋敷で説明してたけど、ここの龍脈は、現当主と正統後継者が存在して初めて、青宮院本家に直接力を貸す、そう言ってたわよね。」

「姫の言うとおりだ。姫が山荘にて継承者になるまで、青宮院は龍脈の力を直接借りられずにいた。」

「本家が龍脈の力を直接使えてなかったのは、何年前からよ?」

「ん……ちょっと待ってくれ」

ミネミネが鞄を漁ってファイルを取り出し、中身を確認する。

「九年前だ。御山の祟りについては、私は先日知ったばかりだから、原因はこちらに明記されていないが、となると……」

 あるさんも察したのか、三人の視線が僕に集まった。

「やるじゃない静太。九年前の時点では正統後継者だったママは、おそらく祟りに巻き込まれて生き残ったけど、後継者の資格を失ってしまった。身体が弱くなったのも、その件に巻き込まれたから。」

「その時青宮院家には、亡き先代当主と後継者の素質を持つ姫しか、龍脈の恩恵を青宮院に直接繋げる役割を持つ人間はいなかった。」

「巳継さんが言ってた楔の問題も、私がいたから問題ないわね。一応、青宮院の血が続く可能性は残されていたから。」

 何故か僕から目を逸らして紗姫が言う。なんであれ、僕の推理が真相に迫るために役立ったのなら誇らしい。

 

 

 そろそろ夕飯の時間だし、紗姫は家政婦に巳継叔母さんの連絡先を教えてもらい、僕達は一ノ宮邸をあとにした。

 

 

 帰り際、起きてきた巳継叔母さんが、車に乗り込もうとする僕を呼び止めた。彼女は僕の左手を両手で包み込む。

「ありがとう、静太君。私を叔母と呼んでくれて……いつでも遊びに来ていいんだからね?なんなら紗姫ちゃんも連れて泊まってもいいのよ。」

「はい。全てを終わらせたら、絶対にまた来ます。」

 車が走り去るまで、両手を胸に当てて僕たちを見送る彼女の姿を、僕は忘れられそうにない。腰まで伸びた絹のような美しい蒼髪は、夕日に染められて燃えるように輝き、彼女だけが幻想の住人であるかのようだった。

 

 

 

 

第三節  変化

 

 

 

「明日はいよいよ本家へ突撃ね。いい? 静太。今日の推理を整理して、それを雛美伯母さんに真正面から叩きつけるわよ」

「紗姫、その表現は物騒だよ」

 紗姫と僕はベッドの上で寝転がりながら、彼女のタブレットを使って今日の推理をまとめていた。

 

 

 あの後、僕と紗姫はあるさんのアパート前で降ろしてもらい、自転車に乗って帰ろうとした。ミネミネもそのまま帰るかと思いきや、あるさんと本家に一度乗り込むのだと言い、自動車で本家へと向かった。紗姫が「この時間に女子高生を乗せたオタクとか、中々危ない光景ね」と鼻で笑っているのを小突いて、僕と紗姫はお母さんが待つ家に帰ったのだった。

 家に入り、珍しくお母さんが料理をしている姿を見て、僕達は驚きつつも内心ハラハラした。普段は本格的に料理をしないお母さんが作ったのは、なんと中辛のカレーライスだった。具材は子供の一口大で食べやすく、市販のルーは期待を裏切らない。米の硬さも丁度良く、まごころがこもった、とても美味しいカレーだった。僕と紗姫が感謝の言葉を伝えると、感極まったのか嬉しそうな顔をして泣いてしまった。

 

 

 お父さんがいなくなったことで、お母さんは僕の母親として一回り成長したのだと思う。そのことについて、難しい顔をしてタブレットを弄る紗姫に尋ねると、

「静太が実の子供じゃなくても、おばさんは静太のことを今まで大切にしてたでしょ。おじさんが死んでしまって、今までのように我儘は言ってられない。母親としての自覚が芽生えたのは、普通に喜ばしいことよね」

 紗姫に同意してもらえて僕も嬉しく思った。今のお母さんを見たら、きっとお父さんも安心してくれるだろう。

 

 紗姫が一緒にお風呂に入ろうということで、僕は浴室まで引っ張られていった。身体を洗ってから大きくない湯船に二人で浸かる。紗姫の髪を洗う時は、今まで以上に丁寧に丁寧に洗ってあげた。髪は神に通ずる、という言い伝えがある。僕にとって、世界一美しい紗姫の髪の毛なら、黒い少女から紗姫を守ってくれないだろうか、と密かに願った。

 

 お風呂から上がり、それを見計らっていたお母さんが、テーブルにジュースを出してくれた。他愛のない会話をしながら喉を潤し、僕と紗姫は部屋に戻った。お母さんから、夜ふかしはしないようにと釘を刺されているため、少ししたら寝ようかと話していたところ、突然紗姫のスマホが鳴った。ミネミネからの連絡だった。

 

「はいもしもし。」

「もしもし、こんばんは。明日の予定についてだが…」

 紗姫がスピーカー機能を使って、僕にも聞こえるようにしてくれた。ミネミネとあるさんが、明日の九時に僕の家まで迎えに来てくれるという。

「本家の人達はどうだった?僕たちの話を聞いてくれそうな感じかな?」

「心配することはない。先程、私とあるさんが本家を訪ね、明日再度訪問する約束を取り付けてきた。力を貸してもらえるよ。」

 流石ミネミネとあるさんだった。僕らのような子供ではすぐに出来ないことを簡単にやってのける。

 紗姫が自分の髪の毛の先を弄りながら、疑問を口にした。

「でもよくアンタとあの変態でどうにかなったわね。」

「あるさんは変態で陰キャでニートだけど、一応真面目な人ではあるから。」

「私達の交渉が上手くいったのは、今本家にいる、とある老人が仲介してくれたのも大きい。当主殿も、彼の言うことを素直に聞いていたし、よほど信頼のおける人物なのだろう。」

 そういえば、本家のほうで揉め事が起こっていると聞いていたが、ミネミネの話を聞く限り、その人が原因であるようには思えない。ここ最近で解決したのだろうか?

「何にせよ、明日には色んなことが分かるはず。その中に、黒い少女への対抗策があればいいんだけど…」

 期待が込められている紗姫の言葉の裏には、僅かな不安があった。

「……明るい未来ある子供を、祟りや呪いなんかで死なせはしないさ。私だけじゃない。本家は当然として、彼も協力してくれるんだ。」

「彼って?まさか本物の灯火さん?」

「いや……その件については明日分かる。」

 おやすみ、とミネミネに電話を切られてしまった。その協力してくれるかもしれない人物に、何か思うところがあるのだろうか?

「私達が会ったのは偽物だったけれど、本物と根っこがそう変わらないなら、全面的に協力してくれるかは怪しいところね。」

 紗姫が灯火に対する印象を口にした。恐らく本物も僕達とは相性が悪いだろうし、なんとなく彼ではないだろうと思った。

 

 歯を磨いてからお母さんに寝る挨拶をし、シングルベッドに僕と紗姫が身を寄せ合った。向かい合って寝る形だから、先に寝てしまった紗姫の甘い寝息が顔を擽る。あの時廃墟で、紗姫が世界で一番大切なものだと認識してから、もう二度と、“君”と離れ離れにはなりたくないと感じた。

 

 もう二度と、か……

 なんで一度離れた記憶があるのだろうと、頭に薄っすらと疑問を浮かべながら、眠気に耐えきれず瞼を閉じた。

 

 

 

 

第四節 死の予感

 

 

 龍は二柱に割かれ、巫女は氷獄に堕ち、

生命の息吹は失われ、村は暗黒に染まった。

 

 刃は砕け、玉は意味を成さず、死の最奥にて蛇は待つ。

 ただ一つ私にできること……それは、運命を差し出すこと─────。

 

 

「……」

 目を開けると自室の天井がぼやけて見えた。見た夢の内容は覚えていないけれど、悲しみとやりきれなさ、罪悪感までもが僕の中で暗澹と渦巻いている。きっとろくな夢じゃないだろう。

「静太、おはよう」

 いつから起きていたのか、僕の目元に溜まっていた水を指で拭いながら、紗姫が僕の顔をじっと見つめていた。その表情があまりにも儚げだったから、思わず勢いよく起き上がって「紗姫」と詰め寄りかけてしまう。そんな僕の唇を、紗姫は濡れた指を当てて制した。彼女は僕の様子の理由について、その後も聞いてくることはなかった。

 

 お母さんにトーストと崩れた目玉焼きを焼いてもらい、紗姫と僕でサラダとインスタントスープの準備をした。お母さんと紗姫の何気ない会話を聞きながら、マーマイトが塗られたトーストを口に入れる。

 紗姫もそろそろ、自分の家族と朝食を食べたいだろうと、ふと思った。おばさんは、一応ではあるが徐々に回復してきているらしい。僕のお父さんの葬式で、久しぶりに会ったおじさんが、どうかおばさんが元気になるまで、紗姫と一緒にいて欲しい、と頭を下げられてしまった。この夏休みを越えたら、紗姫の両親や紗姫と一緒に、今度はお母さんも呼んでまたあの屋敷で、食事しながら楽しく会話することが、今の僕のささやかな願いだ。

 

 

 八時五十分になって、あるさんとミネミネが車で迎えに来た。お母さんに見送られ、僕達は青宮院本家へ出発した。車の中で、僕は紗姫に朝のことを尋ねてみた。

「ねぇ紗姫、紗姫ももしかして、昨晩怖い夢をみたの?」

「……」

 黙りこくってしまった。僕から視線を逸らし、雲一つない晴天を、窓越しに眺めている。ミネミネはファイルに綴じられた資料を眺め、あるさんは僕と紗姫の様子を気にしている。

 聞くのを諦めて、紗姫に謝ろうとした瞬間、「見た。」と紗姫が囁いた。辛さを押し殺した蚊の鳴くような声を、紗姫からは殆ど聞いたことがないため、僕は驚いて紗姫の顔を見つめた。

「…どんな夢だった?」

「私が蛇に喰われて、静太と陰陽師以外、皆死んじゃった夢。」

 窓の外を眺めるその横顔が、今にも消えそうな危うさを孕んでいたから、慰めようと紗姫の頭を撫でてあげた。確かに、紗姫が死んで僕が生き残ってしまえば、僕は一生後悔を背負うことになるだろう。紗姫が見たのと同じ夢を、僕も見たに違いない。

僕達の様子に気づいたミネミネが、後部座席に目をやる。彼女の燃えるような瞳を見て、気持ちが引き締まる気がした。

「少年も姫と同じ夢を見たのであれば、それはただの夢ではない。」

「どういうことよ…」

 紗姫はミネミネのほうに視線を向け、弱々しい声で尋ねる。

「少年の父親のおかげで、御山の祟りである蛇は鎮められた。しかし、姫と少年の夢には蛇が現れた。これが意味することは何か。」

 あの時、僕のお父さんが黒い少女に願ったから、蛇の脅威から僕達は逃れることが出来た。鎮められた蛇は、少なくともこの夏には祟りとして発生しないと思っているけれど……

 そんな僕の考えを見透かしたように、ミネミネが言葉を口にした。

「蛇は古来より、再生と死の象徴とされている。日本だけでなく、世界的に神として崇められているのだから、信仰の対象としては最大規模だろう。神としての力は、人間の信仰、人間の想いであるから、蛇が神として顕現したときの力は、凄まじいものがある。」

 ミネミネが幽霊屋敷で話してくれた、想いの力の話を思い出す。

「でもその蛇は黒いやつの力で鎮められたわよ。暫くは復活しないでしょ?」

「姫、少年が中条の蔵で偽の灯火と話したとき、黒い少女について話したこと、その内容を覚えているか?」

「黒い少女は命を集めるシステム云々でしょ?」

「何のために命を集める?」

「そりゃあ蛇神の巫女なんだから、当然あの蛇のため……あぁ、クソが。」

 一度俯いて歯軋りをした紗姫が、怒りと悲しみを滲ませた表情で僕の顔を見つめる。紗姫の蒼眼に映った僕は、酷く気まずい顔をしていた。

「黒い少女が集めた命は、あの蛇神に捧げられる。巳継さんの話を真実とするなら、蛇の巫女の想いが蛇復活の楔となっている。黒い少女が集めた命を蛇に捧げ続けていると、楔があるから完全復活はしないまでも、御山の祟りのレベルにまでは復活するかもしれない…」

「黒い少女が願いを叶え続ければ、蛇はまた私達の前に現れるかもしれないのね。となると、夏休み最後のほうまで決着を先延ばしにするのは、かえって勝率が低くなるのか……」

「だが、なんの手段も持たずに黒い少女と対決するわけにはいかない。是非とも本家の力を貸してもらおうじゃないか。大切な正統後継者のために。」

 ミネミネが紗姫に微笑む様子には、どこか余裕な感じがして、僕は驚いた。今の時点でも、ミネミネにはどうにかする手段があるのだろうか?

 自らが直面する問題について考える紗姫から、先程の弱々しさが薄れていたので、ひとまず僕はホッとした。

 

 暫く車に揺られながら、すぐ近くに流れる清流川を眺める。この川が、朱沢町の自然の命綱であるから、この川がないとこの地に人間は住めない。

 ふと、先日皆で行ったキャンプのことを思い出した。昔は食べ物がなくて、人間を山に捨てていた。左獄山には、人が贄として捧げられた歴史がある。左獄山には、贄を自らの供物とする神がいた。神に贄を捧げるのは、この地に住む人間が飢えないようにするため?でも清流川があれば、田畑は潤うから食糧問題は発生しないはずだ。となると、神の恵みでこの清流川は機能するようになったのだろうか?

 なんとなく、朱沢町の生命線である清流川こそが、全ての問題を解決するための鍵を握っているような気がした。

僕があれこれ頭で考えていると、紗姫に肩を軽く叩かれる。

「着いたわよ。」

 紗姫の声音には、少し緊張が含まれていた。車から降りて、初めて青宮院本家を目にする。朱沢町の中心にそびえ立つ龍深山を背景に、大きな屋敷が広がっていた。門のところには左右に一つずつ、五芒星が描かれた提灯が下げられていた。

 

 

 

第五節 青宮院

 

 

 

 開かれた門から中に入ると、敷地外からも見えていた、門より少し高い鳥居がすぐ目の前にある。二本の柱に目を凝らすと、一匹ずつ龍が刻まれているのが分かった。向かって左に手水舎が目に入り、ここにもスタンドに取り付けられた五芒星の提灯があった。

「五芒星は陰陽道の基本概念である陰陽五行説における、木・火・土・金・水の五大元素の働きの相克を示したものだ。魔除けの呪符として古来から使われていたし、かの安倍晴明もこの紋を用いていた。巫女を輩出してきた青宮院家に五芒星がよく見られるのも、悪いモノを降ろした際に、巫女への負担を少しでも減らそうという意図があってのことだろう。」

「ふーん。」 

 ミネミネの丁寧な解説に、紗姫が関心の無さそうに相槌を打つ。僕はというと、本物の陰陽師の生の解説が聞けて、かなり興奮しているのだが。

 確かに、本家の敷地内は神々しい雰囲気がある感じがする。ここには悪いモノが入ってこれないような、安心感さえ覚える。感覚的には、中条家で唯一瘴気で包まれていたかったあの池にいる時の感じだ。

「僕、青宮院本家に来たのは初めてだけど、まさか龍深神社の敷地内だけでこんなに広いとは思わなかったよ。」

 龍深神社境内でこの広さなら、本家の屋敷もまた相当な広さに違いない。

「想像を裏切るようで悪いけど、屋敷のほうは大して広くないわよ。お年寄りに配慮してか一階建てだし。」

「これだけ広い土地があれば、わざわざ上に向かって家を建てる必要もないでござるからなぁ。」

 そんなものかと渋々納得すると、僕達は手水舎で身を清めることにした。ミネミネは当然として、以前来たときに教えられたのか、紗姫もてきぱきと作法に則って身を清めた。

 僕も紗姫の見様見真似でやってみようと思ったが、どこかで間違えそうだと思ったので、一から教えてもらおうとしたところ、あるさんに呼び止められた。

「あるさん?」

 肩に手を置かれ、その手の持ち主を見ると眼鏡を光らせたあるさんが微笑を浮かべていた。

「水臭いでござるよ、静太殿。ここでバシッと一発で決めて、紗姫殿のポイントを稼ぐでござる。拙者がゆっくりやってみせるから、それを真似するでござるよ。」

「あるさんは作法知ってるんだね。」

「ふっ……」

 右手に柄杓を持ち、左手右手の順で水をかけて清め、左手に水をかけてその水で口をゆすぎ、再度左手を清めた。最後に水を入れた柄杓を立て、柄を水流してから片付けた。なんてことはない。

「上出来よ、静太。」

 後ろを振り返ると、僕達の様子を眺めていた紗姫が満面の笑みを浮かべている。僕はあるさんと目を合わせ、心の中で固い握手を交わした。

「では、楼門の向こうへ参ろうか。御仁を待たせているからね。」

 

 

 楼門を通る際、ミネミネが僕に耳打ちをしてきた。

「実はだな、あるさんは先程の手水舎での作法が、昨日は出来ていなかったんだ。これから会う老人に丁寧に教えられてね…」

 なるほど、と思った。教えられて間もない知識を、他人に大っぴらにひけらかすのは、あるさんがオタク故の行動なのかもしれない。それを踏まえても、先程の手水舎でのあるさんは、なかなか様になっていて格好良かったし、ちゃんとアパートに戻ってからも自分で調べたのだろう。あるさんのとことん突き詰めるところは、僕も見習いたい。

 

 

 楼門を通り、目の前には龍深神社の拝殿があった。その石段の一段目に座りながら、書物を読んでいる老人の姿を見たとき、僕は驚きの余り声を出してしまった。

「ラジオ体操に来ていたお爺さんだ!」

 僕の言葉を聞いた紗姫は目を見開き、老人のほうを見据えた。豊かな白髪と着物の袖から見える細い腕は枯れ木のような腕が印象的で、何か不自然な歳のとり方をした人間であるように思われた。

「おや?この御仁のことは、静太殿は知っていたでござったか?」

「いいや、知らないはずですよ。こうして言葉を交わすのも初めてですし。そうか、君はあの朝に私を見かけていたんだね。」

 老人は苦笑しながら髪をかきあげた。外見の割には、その声に老いを余り感じない。この何とも言えないアンバランスさを抱えたこの人は、一体何者なのだろう。

「穹下殿、軽く自己紹介をお願いします。」

「そうですね。私は穹下大晴といいます。この青宮院に縁ある者、そちらのお嬢さんとはうんと遠い親戚ですね。訳あって、この夏から本家にお邪魔しています。」

 本当に軽い自己紹介で、重要な情報はこの人が青宮院の人間だということくらいで、僕は呆気にとられた。気になったのは、紗姫を見つめるその眼差しが、とても優しくて温かみのあるものだったことだ。年齢的にも、孫がいて紗姫がその子にそっくりなのかもしれない。

「穹下殿はね、先日まで青宮院本家が抱えていた、とある問題を一人で解決してくれたのだよ。いや…その問題というのが私のような下っ端陰陽師が所属する、神社総庁が関わっているのだが……」

 ミネミネは自分に降り注ぐ紗姫からの視線から逃げるように、目を泳がせている。そんなミネミネに助け舟を出すように、宇本さんが口を挟んだ。

「紗姫ちゃん。この朱沢の地はね、流れている龍脈の質が良いおかげで、陰陽師にとって何かと都合が良いんだ。神社総庁にとっては、その龍脈が非常に魅力的だから、本部をここに移したいんだよ。その交渉で青宮院と揉めていた、ってわけさ。」

「いや、でもまさかあの灯火殿を丸め込んで手を引かせるとは、恐れ入りますよ穹下殿。これで我々も、姫の問題に力を出し惜しみせず取り組めるというものです。」

「いえいえ、それもこの地の龍脈の力があってこそです。」

 二人が笑い合っているのを傍目に、僕は頭をフル回転させていた。穹下さんは、ミネミネが所属する神社総庁について知っている。龍脈についても詳しいとなると、あの偽灯火が言っていたように、符術が龍脈の恩恵を受けて効果が上がることも知っているはずだ。僕と紗姫が初めて符術を目の当たりにしたのは、タケシの家での禁足域から脱出した時だ。あのときミネミネにかけられた術と同じものを、本物の灯火さんにかけたと仮定すれば、穹下さんはミネミネと同じ符術を使う陰陽師ということになる。だが、その符術を練り上げた神社総庁に所属はしていない。していたとしたら、本物の灯火さんにしたことは、間違いなく問題になるからだ。

 ここまで短時間で考えがまとまるとは、我ながら大したものだと感心した。貴方は、今は神社総庁に所属していない陰陽師かと指摘する前に、紗姫が穹下さんに詰め寄った。

 

「私、まだ貴方に名前を言ってないわよね?最初はそちらのお嬢さん、と呼んだのに、なんで次は私の名前を呼んでるのよ?」

「え゛っ」

 僕達は紗姫と穹下さんの顔を交互に見た。それまで余裕な雰囲気を漂わせていた宇本さんは、動揺を顔から隠せずたじろいでいる。

「ラジオ体操の時、静太に姿を見られているのも気になるわね。私達はこの夏、二回しか行ってないけど、その二回ともこの人は来てたの?静太」

「うん。僕達のことを見つめていて、僕というよりはその後ろに女子たちで固まってた紗姫を見てたと思うよ」

 言い終える前に、穹下さんから紗姫を隠すように、彼の前に立ち塞がった。それに倣うように、あるさんも僕の隣に立つ。僕とあるさんでは肉壁にしかならないけど、ミネミネがなんとかしてくれるはずだ。

「まてまて待ってくれ!君たちはあらぬ誤解をしているんだ!私は断じてロリコンではない!!」

 ミネミネも眉を顰めており、この場で穹下さんを弁護してくれる人間は、本人以外にはいない。九十九パーセント有罪といったところであるが、昨日のミネミネの様子だと、この人が僕達に力を貸してくれるのだろうし、なんとか許してあげたい。

 

「まったく、その御仁をそんなに困らせるものではありませんよ」

 凛とした張りのある声が、辺りに響き渡った。目線を上げると、藍色の着物に身を包んだ、眼を見張るような美貌の青宮院家当主が、拝殿の入り口から僕たちを見下ろしていた。

 

 

 

 

六節 青宮院 其の弐

 

 

 

「紗姫ちゃん達を本家の屋敷に案内するために、拝殿前まで迎えに行くと言うのだから、のんびり待っていたんですけど、一向にくる気配がないんですもの。様子を見に来て見れば、紗姫ちゃんに詰問されて慌てふためく老人が一人。神社総庁の人々とあとから合流してきた宮司を、軽くいなした実力者の立ち振る舞いとは、遠くかけ離れていて目を疑いましたよ」

 現在、本家当主を務める青宮院雛美さんは、その威厳を崩さずに僕達に笑いかけた。彼女のハリのある声が、古い歴史を感じさせる龍深神社の広々とした拝殿内では、非常に心地よく響く。

 雛美さん曰く、自分に子供はいないが妹の子供である姪っ子の紗姫は、目に入れても痛くないほど可愛い女の子であると、穹下さんは教えてもらったとのことだ。そこまで言うのなら是非とも見てみたい、と穹下さんが雛美さんに願い出たという話だった。紗姫は夏休みになると欠かさずラジオ体操に参加するから、そこで見ることができると教えてもらったらしい。「私のように、綺麗な髪をしていて勝ち気そうな女の子よ」という発言から、やはり雛美さんも、自分と紗姫が良く似ていることを自覚しているのだろう。

 実際、病気がちな紗姫のおばさんより、この雛美さんのほうが母親のようだと感じる。勿論、紗姫とおばさんはよく似ているのだが、おばさんと雛美さんが姉妹であるように、雛美さんと紗姫もよく似ているのだ。おばさんには欠けてしまっているような、勝ち気な感じを雛美さんは持っている。

 そして、巳継叔母さんが言うように、この雛美さんが僕の実の母親である巳影母さんの親友なのだ。雛美さんなら、九年前に自らを贄とすることを決意した、巳影母さんの最期について詳しく聞けるかもしれない。

 

 拝殿の中は、一般的な造りとそう変わらないとは思うが、興味深いものが祭壇に置かれていた。互いの尾に首を巻きつける、二匹の龍の像である。その様子から連想したのが、陰陽魚とウロボロスだ。

「龍深神社が祀る龍深の大神って、二匹の龍なんですか!?」

 驚きと興奮のあまり、思わず大きな声が出た。この町の出身でありながら、今まで知らなかったのは少し恥ずかしいことかもしれない。それは僕だけではなく、あるさんも眼鏡を光らせて顎をさすっている。ミネミネは僕達の中で誰よりも像に近づいて凝視していた。

「まぁ知らなかったのも無理ないわよ。私だって今年の春に本家に来るまで知らなかったし」

「まぁ拝殿内は一般公開していませんし、基本的には青宮院の人間しかこの龍深の大神の像を目にする機会はありません。今は拝殿の向こうにある屋敷へ向かうのに直接拝殿を通りますが、屋敷へ客を迎え入れる時には拝殿前に向かって左にある道を使ってもらいます」

「なるほど……それにしても、大神というから凄い神様が一人だけだと思っていたけど、まさか龍そのもので二匹だとは思いませんでした」

「いえ、これは二匹の龍ではなく、一柱の龍神が二つの側面を持つことを示した像だと言い伝えられています。かつて、朱沢の地に君臨していた一柱の龍神は、あることが原因で二つに分かれ、それらは民を救う陽の神と民を間引く陰の神に分かれたとされています」

 民を間引く神?そんな……それじゃあ御山の祟りであるあの蛇神って────。

 僕が考えていることを見抜いていると言うように、ミネミネが僕のほうを振り返り、雛美さんの言葉を続ける。

「幽霊屋敷でも話しただろう。神は人間にとって良いモノばかりではない。まぁ、この地には陽の大神がいるだけ、バランスが取れているからまだマシなほうではあるのだろうが……」

「龍深神社には本殿がありません。御神体を龍深山そのものとし、山には陽の大神が住まわれているとされています。龍深山を起点として町全体に結界を張り巡らせ、陰の大神が住まわれているとされる、左獄山に引きせられる悪いモノが町に降りてこないようにしているのです。」

「ほんっと、この夏の経験がなかったら信じられない話ね」

 この町でそんな神々の攻防が繰り広げられていた事実に、不謹慎ながらも僕は興奮していた。

 それまで沈黙を貫いていたあるさんが、ここで口を挟んだ。

「しかしでござるよ、まさか本物の龍そのものが、この地に住んでいた人間たちを治めていたわけではござらんはずですぞ。拙者、これでも早稲田で民俗学を専攻していたでござるが、日本に伝わる神々や伝説というのは、過去の歴史を現代に伝えるための記号変換でござる。素戔嗚命と八岐の大蛇の話なんか分かりやすいでござる。櫛名田姫を助けるために、素戔嗚命が八岐の大蛇を討伐して、尾から天叢雲剣を手に入れるでござるが、これらはとある一件の記号でござる。蛇は川に変換されるのは有名で、八岐の大蛇退治は治水工事の言い換えだとされているでござる。もう一つの仮説は、大和朝廷が邪馬台国を滅ぼした説の記号変換でござる。邪馬台国は製鉄民族であった説があるでござるが、製鉄のために山々を渡り歩き、荒れ地を増やしていく人々は、まさに荒れ狂う大蛇のようでござる。そんな大蛇を滅ぼした素戔嗚命は、大和朝廷そのものでござる。天照大神の弟である素戔嗚命の関係から、天照大神は卑弥呼であり、邪馬台国から大和朝廷の日本における主権の譲渡の話があるでござるが、ここは割愛。ともあれ、素戔嗚命が八岐の大蛇を滅ぼして天叢雲剣を手に入れたのも、大和朝廷が邪馬台国の原動力である製鉄民族を滅ぼして、技術を奪い、新たな製鉄技術を勝ち取った象徴として、天叢雲剣を記号とした製鉄、あるいは大和朝廷の武力が剣に例えられるのでござるよ」

「長い!長すぎる!!」

 紗姫がもういいと言わんばかりに、あるさんの背中を思いっきり叩く。あるさんはというとやはり嬉しそうだ。

「すまないでござる。拙者、一度火がつくとこの分野に関しては口が止まらなくてござるな……」

「要するに、神様そのものはあくまで伝説で、実体は持たないということだよね?ミネミネ」

「まぁそうではあるのだが、幽霊屋敷でも話しただろう。記号であれ伝説であれ、その神に捧げられるのは信仰であり、人間の祈りだ。祈りに込められた想いは、目には見えない力となる。神そのものは伝説にあるような姿形ではなくとも、人間の想いはその伝説にある神々の力に届くんだよ。もっとも、並大抵の想いではそうはならないのだが……」

 空想の神々はいなくとも、その力に迫れる人間の想いの力が凄すぎる。

 

「このことを知るまでは、蛇神が古い神だから対処するための方法が分からない、ってのが陰陽師の話だったけど、龍深の大神の陰の側面であるなら、話は変わってくるんじゃないの」

 紗姫の言うとおりだ。今の僕達はあの蛇の正体が龍深の大神の片割れだという、情報を武器として持っているから、再びあの蛇神と相見えてもなんとかなるのではないか。

「どうなの。ミネミネ、雛美さん」

「……」

「それが、龍深の大神がかつて一柱の龍神であったという言い伝えが随分古いものなので、その龍神の名や記録はこの家にはもう残っていないんです…」

 そうは問屋が卸してくれないらしい。雛美さんに詰め寄っていた僕と紗姫は、がっくりと膝をついて息を吐いた。

 僕達は拝殿をあとにし、屋敷へと向かった。先程、雛美さんに助けられた穹下さんは、少し早めの昼食作りのために、その後すぐに屋敷へ行ってしまった。午後から色々とやることがあるため、食事は早めに済ませておきたいという雛美さんの意向だ。

 

 拝殿から真っ直ぐに三十メートルほど歩いて僕達の目に広がっていたのは、紗姫の住む屋敷ほどではないが、十分に広い立派な一階建ての屋敷だった。本家の屋敷は中々独特な造りをしていた。西側と東側に母屋があり、北側に離れがあって、それぞれの建物には廊下を通じて行き来することができる。西・東・北の建物は、順に白鳥の間・鷲の間・琴の間という。

 白鳥の間には大広間や本家の人間の寝室や厨房があり、ここが青宮院本家の主な生活拠点なわけだ。鷲の間にも白鳥の間ほどではないが大広間や、本家の大浴場が備わっている。ここがいわゆるゲストハウスなのだろう。琴の間には、青宮院当主の私室と朱沢の過去の記録が秘蔵されているという蔵があり、北へ抜けると龍深山を祀る祭壇と山へ通ずる道がある。

 

 

 

 白鳥の間の大広間にて、僕と紗姫は大の字で寝そべっていた。まさか本家の屋敷でこうも自由に過ごせるとは……

 

 

「実は昨日のうちに、本家で暮らす叔母夫婦は、娘夫婦の家へ送らせていただきました。お二人共紗姫ちゃんに会いたいと子供のように駄々をこねるので、穹下さんのお力をちょこっとだけ借りて、事なきを得ましたけれどね」

 お手軽に人を操作出来る術のなんと恐ろしいことか。一歩間違えれば犯罪に悪用されかねない。白鳥の間を案内する雛美さんの、その顔を僕はまじまじと見つめた。

「い、いや、もしものことがあれば叔母夫婦を巻き込むことになりかねませんし、それは私としても避けたい。言っていうことを聞いてくれるような感じではありませんでしたし、不可抗力というか……」

 大人を咎める子供の視線を受け止め、青宮院家の女性当主は慌てふためく。当主モードじゃないときの雛美さんは、僕が知ってる紗姫のおばさんよりも人懐っこい感じがする。眉を下げて目を細めるところとかは、流石姉妹というかそっくりではある。

「わ、私は穹下さんを手伝ってきますので、皆様はとりあえず白鳥の間でごゆっくりしていてください。」

 駆け出していく雛美さんの後ろ姿を見つめていたところ、紗姫に小突かれた。

「あんまり私の伯母さんをいじめないでよね、静太」

「いじめてなんかないよ」

「静太殿の眼差しは言葉以上に伝えたいことを雛美殿に訴えていたでござるよ」

「違いないな。ははは」

 何だか悪者にされたことに納得がいかないが、とりあえず大広間に腰を下ろし、ミネミネは飲み物を取りに厨房へ、あるさんはトイレへ行った。

 

 

 というわけで、ミネミネやあるさんを待っている間、僕と紗姫は白鳥の間の畳に寝そべっている。

「でもさ、大叔母さん夫婦がいないほうが、こうしてなんの気をつかうこともなく過ごせるなら、雛美さんにはむしろ感謝するべきなのかもね」

「せっかく本家に来たのだから私は会いたかったけれど、まぁ今となっては本家にいないほうが安全なのも確かね。静太の言うとおり、私も気が楽ではあるし」

 扇風機を贅沢に二個使用して、強風で涼む僕達は至福の時間を過ごしていた。鼻いっぱいに広がる畳の匂いには、実家のような安心感さえ覚える。この畳の匂いに懐かしさを感じるのは何故だろうか?

 

 あるさんがトイレから帰ってきた。手元を見ると、ソーダ味・コーラ味・梨味のガリガリ君を持っている。

「午後からまた暑くなりそうでござるなぁ。二人共、どれがいいでござるか」

「僕はソーダ味で」

「ちゃんと手を洗ったんでしょうね。私はコーラ味をもらうわよ」

「勿論洗ったでござるよ。静太殿と紗姫殿に汚いアイスは食べさせられないでござるから」

 紗姫と背中を合わせて畳に座り、頬張ったアイスは今年食べた中でも一番おいしかった。「青春ですなぁ」とあるさんも目を細めてアイスの袋を開けた。三人でこうしてアイスを齧りながら談笑したのも、あのキャンプ以来だった。色々な事が立て続けに起こりすぎて、もう随分前の事のように感じた。

 

 

「拙者はアケチにお昼ごはんをあげに一旦帰るでござるが、夕方また来るからその時は迎え入れて欲しいでござる」

「うん、分かったよ」

「一人でこの屋敷まで来れるでしょ……」

「コミュ障の拙者には、ちとばかし一人ではキツいでござる」

 既に厨房のほうへ声はかけたというので、あるさんはそのまま白鳥の間の玄関から出て、拝殿の脇道を通って帰っていった。

 

 アイスを食べ終わって紗姫と畳に寝そべっていると、凄くいい匂いが漂ってきた。僕のお腹の虫が鳴り出し、紗姫も口元からよだれが垂れそうな、だらしない顔をしている。

「二人共生き返れー。お昼はカレーライスだぞ」とミネミネが囃し立てる。僕たちは死んでない。

「厨房は涼しいけれどやっぱりこっちは暑いなぁ」

 ミネミネがカレーが入った鍋を、穹下さんが和風サラダが入った大きなボウルを抱えて大広間に入って来た。僕と紗姫は飛び上がり、広間の中心にあるテーブルの前で正座をする。雛美さんは炊飯器と食器の入った籠を腕にぶら下げており、僕と紗姫は雛美さんから籠を受け取ってテーブルにスプーンや皿や箸を並べた。

「午後からまた暑くなりますから、しっかりと食べて体力をつけてくださいね。では、いただきます」

「いただきまーす」と皆で声を揃える。なんだか家族の団欒のように思われて、胸のあたりが自然と温かくなった。

 カレーライスは野菜沢山のチキンカレーだった。穹下さんが長時間煮込んだ野菜は、ホロホロに溶けて甘みが中辛のルーと程よくマッチしていて美味しい。お肉も一口大で食べやすく、一瞬で食べてしまっておかわりを求めたところ、隣からもおかわりを求める声が聞こえた。この夏で大食漢になった紗姫も既に食べ終わったのだ。

 結局、僕と紗姫はそれぞれカレーライスを三杯おかわりした。ひよこ豆が入った和風サラダも、夏にあったサッパリとした味が美味しかった。やっぱり、ひよこ豆は調理次第ではいくらでも料理として化けるな、としみじみ思った。

 

 洗い物も終わり、穹下さんが淹れてくれたお茶を飲んで一服したあと、僕達は改めて大広間に腰を落ち着けた。

「雛美伯母さん、聞きたいことがあるの」

 緊張を含む紗姫の言葉に、雛美さんは力強く頷いた。海のような深い青色を宿すその瞳には、過酷な運命と向き合わなければならない僕達を、母のように包み込んでくれるような優しさがあった。

 

 

 

 

第七節 龍深の巫女

 

 

 

 青宮院紗姫は、自身に温かな眼差しを向ける青宮院雛美を見据えた。春から先代の青宮院桜花に代わり、本家の当主を引き継いだ実の伯母だ。物心ついてから雛美と顔を合わせたのは、春先に祖母の桜花の葬式が初めてだった。その時は、実の娘であるように可愛がられたし、本家を敬遠している両親とは違い、紗姫自身は雛美と会えるから本家がむしろ好きだった。紗姫にお米を使った占いを教えてくれたのも雛美だった。

 

 

 私を娘のように愛してくれているからこそ、巳継さんの言うように、雛美伯母さんは私を黒い少女の力によって殺そうとしたのかしら。現時点では、黒い少女の力は私達にはどうにもできない。あの蛇神を退けるくらいだから、陰陽師の予想通り本当に神か、神に通ずる化け物よね。それらが相手じゃ、今の青宮院ではどうしようもない。

 だからこそ、私が死後は苦しまない方法を取ったというの……?蛇神が完全復活して、死んだ人間の魂をこの地に縛り付ける前に、静太の手で私をあの時の蛇神に差し出すことで?

 

 

 理解は出来る。しかし、青宮院の女性が他に手がないからといって、敵前逃亡のような選択をするだろうか────?

 否、そんなことはありえない。瘴気を受けて入院している、身体が弱いママのことを思い出す。雛美伯母さんのような威厳を持つ女性ではないけれど、芯の強い人間であることは幼い頃から感じていた。なにせ、欠点はホラーオタクなのと少し髭が濃いくらいしかないパパが、ママと一緒にいる時は絶対に彼女を下げるようなことはしない。静太の家がそうであったように、私の家もかかあ天下なのだ。鏡の件でママがパパを叱る時は、隠されたママの荒々しさを初めて目にした。

 そのママの娘が私であり、私の伯母が雛美さんなのだ。プライドが高いことと気が強いことは自覚しているし、これが青宮院の女性の血によるものなら、雛美伯母さんも私と同じ気質の人間だ。であるならば、黒い少女に頼るような逃げの選択肢を選ぶはずがない。運命から逃げずに戦うことを選ぶ女性が続いてきたからこそ、青宮院本家の当主を代々女性が務めてきたのではないのか。巫女としての気質だけでなく、当主に相応しい胆力を持っていたのは女性だったからではないのか。

 

 

 大広間の外からは、本家の敷地内に生えているカラマツの木にとまっているであろう、蝉の鳴き声が響いてくる。このクソ暑い中、自らの存在を誇示するかのように、蝉は鳴き続ける。成虫になってからの蝉の寿命は短い。

 なるほど。何故ここまで蝉の鳴き声が気になるのか、それは今の私と蝉が似ているからか。この蝉の鳴き声だって、この夏で聞き納めになるかもしれない自分の運命に思いを馳せつつ、私は口を開いた。

 

 

 

「雛美伯母さんは…黒い少女を呼び出したことがある?もし呼び出したのであれば、誰かを使って願いを叶えてもらったことがある?」

 姪のその言葉に、青宮院家当主は大いに驚いた。僅かな沈黙が流れ、意を決した彼女はただ事実だけを口にする。

「紗姫ちゃん、私は黒い少女に会ったことはありますよ。」

 紗姫の横にいた静太とミネミネは、まさかの返答に大きく目を見開いた。そんな馬鹿な……それでは彼女の推理通り、この女性が紗姫を呪ったというのか?

「会ったことはあるのね。いや、雛美伯母さんならあり得るとは思うの。貴女は……」

 青宮院雛美には子供がいない。見目麗しく、どこか身体に不調がある様子でもないし、少し強気なところはあるがむしろ男性が好む性格だろう。彼女には、己のパートナーとなるべき相手がいてもなんらおかしくはないのである。それでいながら独り身であるのは、相応の事情があるに違いないのだ。

「雛美伯母さんには、いたんでしょ?自分の命を差し出してもいいくらい、大切な人が。」 

 凛とした佇まいの伯母を見つめる。私の言葉に反応し、肩が小刻みに震えているのが分かった。

「そうですね、確かにいましたよ。私と将来を誓いあった人が……九年前に。」

 彼女の言葉には、哀しみとやりきれなさが込められていた。全身を震わせ唇を噛み締めるその様子は、あまりにも痛々しかった。

「そして貴女は、その人を九年前の御山の祟りで亡くした。けれど、その人へ募らせた想いは、今もなおその胸に抱き続けている。」

 

 紗姫がチラッと僕のほうを横目で見た。雛美さんの反応に目頭が熱くなりかけていたが、紗姫の視線に力強く頷いた。

 雛美伯母さんは大切な人を亡くし、今も想い続けている。昨晩、紗姫と一緒に黒い少女について考え、一つの仮説を立てた。

ミネミネが幽霊屋敷で話してくれた、人間の想いの力、それが超常的な力にアクセスする手段であるなら、まず間違いなくこの仮説は当たっていると思う。

 

 

「雛美伯母さんがその想いを募らせてきたからこそ、貴女はこの町に踏み留まっていたし、黒い少女に願いを叶えてもらうようなことはしなかった。この推理には、雛美さんが人を使って願いを叶えてもらうような人間ではないことと、幻想で満足するような人間でない、やられたままでは死んでも死にきれない、という私の主観のもとで貴女を判断した前提があるけど、当たっているかしら。」

 ペラペラと話す紗姫に呆気を取られていた雛美さんは、小さく笑って目元を拭った。僕とミネミネは顔を合わせ、一息ついて胸を撫でおろした。

「ふふっ……そこまで私のことを手に取るように分かるなんて、紗姫ちゃんはまるで探偵のようね。」

まぁ、雛美伯母さんと私が似ているからこそ、自分だったらどうするか、チェス盤的思考で考えた結果、構築された推理だから穴だらけなのであるが。チェス盤的思考は

、ノイズが一つ発生しただけで簡単に破綻してしまう。雛美伯母さんが、私の思った通りの人間だとしても、何かの意思か力によって、通常ではありえない行動をとったとき、私の推理は根本から崩壊する。

「紗姫ちゃんの言うとおりね。私は黒い少女に会ったけれど、願いは叶えてもらっていない。願いの代償に命を奪われることは分かっていたし、私は御山の蛇神をどうにかするまで死ねないから。あの人のためにも、巳影のためにも……」

 

 

 実の母親の名前が出て、僕は身を乗り出して反応した。

「雛美さんは、僕の……巳影母さんと仲が良かったんですよね。」

 話に食いつく僕を見て、雛美さんは柔らかく微笑んだ。そして、過去を懐かしむように視線を宙に移し、ゆっくりと語る。

「ええ。何をするにしてもずっと一緒。巳影は私の半身と呼べるくらい、私達は二人で一人だった。琴の間にある蔵に夜な夜な二人で忍び込んで、今は亡き先代当主に見つからないように書物を読み漁ったのも、良い思い出ね。巳影と一緒だったから、あんなに大胆なことが出来たのよ。」

 少し話を聞いただけでも、巳影母さんと雛美さんが本当に仲が良かったことがよく分かる。双子のような関係は、なんだか僕と紗姫のようで、尚更彼女達の仲の良さが実感出来るのかもしれない。

 

 もっと巳影母さんについて聞きたかったが、それよりも大切なことを確認しようと口を開きかけたが、紗姫が早速聞き出す。

「雛美さんは黒い少女に願っていなかった。これは一つ目の質問で分かったことね。二つ目は、龍深の巫女についてよ。」

 私はあの山荘にて、仮であるが龍深の巫女の継承者となった。先代の龍深の巫女は、当主にはならなかったが私のママだ。龍深の巫女は、青宮院家の正統後継者である。巳継さんとの話で、一応そう決め打ちしたが実際のところを現当主の雛美伯母さんに確認しておきたい。雛美さんは私の眼差しに頷き、言葉を紡いだ。

「龍深の巫女は、この青宮院家の正統後継者です。龍深山に住まわれる龍深の大神を降ろし、この地に豊かな自然の恵みをもたらす存在、と伝えられています。基本的に子供が二人しか生まれなくなった青宮院では、そのどちらかが龍深の巫女の資質を持って生まれるとされています。ちなみに、私自身は龍深の巫女ではなく、正統後継者たる資質は私の妹が持っていました。」

「雛美さんがそうであるように、青宮院家の当主は、必ずしも巫女である必要はないんですよね。」

「ええ。当主と巫女が両方揃っている時、この地の龍脈は青宮院の方向へ流れを変えます。巫女の役割は、龍脈へ接続し、その力をこの地の隅々にまで行き届かせることです。龍脈の力は、生命の息吹ともいえる自然の力であり、その力を持ってして朱沢の地では飢饉を乗り越えてきたとされています。」

 陰陽師から聞いた話を補強する雛美伯母さんの説明は、この夏を経験した私には納得出来るものだった。

 それにしても、龍脈がこの地にそこまで影響を及ぼしていたとはね……

陰陽師をチラッと横目で見ると、彼女と目があった。

「君たちには黙っていたが、この地の龍脈の幹ともいえるべきものは、清流川だよ。清流川は諏訪湖を水源とした天竜川から分かたれて、朱沢町の北から南に流れる川だ。」

 その清流川を軸として、龍脈は毛細血管のように朱沢町の全域に行き届いているのだという。龍深の巫女の役割は、その龍脈を管理して、不備がないようにすることである。それだけなら別に龍深の巫女がいなくてもこの地は問題ないのではないか?

この疑問を雛美伯母さんに伝えると、彼女はこう答えた。

「ええ、この地の龍脈が他の土地のものより質がいいのもあって、何もなければ人々が平和な生活を営むには問題ありません。しかし、左獄山がある朱沢町は話が別です。この地の龍脈は、龍深の巫女との繋がりがなければ、次第にその力は弱まります。そうなると、過去に青宮院が施した左獄山の結界は、龍脈の力を使って張り巡らされたものであるため、悪いモノを抑えきれず壊れます。結界を失った朱沢町では、一晩を待たずに左獄山に封じ込められた瘴気で汚染され、到底人が住める土地ではなくなるでしょう。」

 巳継さんとのやり取りで分かっていたとはいえ、彼女の言葉に私と静太は震え上がらざるをえなかった。

「それって左獄山の蛇神のことですよね。」

「龍神の大神の片割れである蛇神、それ以外にも左獄山には、古から人間の負の感情が蓄積し、瘴気となって封じ込められているのです。その瘴気が降りてこないように張られたのが青宮院の結界です。……結界ごときでは、あの蛇神は抑えられませんから。」

 

 

 キャンプの時に星海さんから教えられた、左獄山に人が捧げられていたという話。それが何に捧げられていたかについて、既に僕達は答えを持っている。しかし、念の為雛美さんに確認しておくべきだろう。

「その瘴気の蓄積というのは、あの蛇神の贄として捧げられた女性たちが原因ですか。」

 僕の言葉に雛美さんは、そうともいえるしそうでないともいえるような、そんな曖昧な反応をした。

 外はますます気温が上がり、皆額に汗を浮かべている。扇風機の風を生み出す音と、蝉の鳴き声がぶつかり合い、否応なしに僕達に長野県の過酷な夏の厳しさを痛感させた。

 そんな辛さはなんてことない。紗姫を失ったら……僕にはもう二度と、こんな暑い夏は訪れない。お盆に乗ったコップに麦茶を注ぎ足し、喉を鳴らして飲み干す紗姫を愛おしく見つめながら、僕はそう思った。

 

 雛美さんもまた、そんな紗姫を見つめてから僕の質問に答えた。

「確かに蛇神に捧げられた贄の女性達もまた、瘴気を生み出した要因の一つではあるでしょう。しかし、それではあの瘴気の量や濃さの説明がつかないのです。蛇神に毎年一人ずつ、贄が捧げられたのであれば、積み重ねられた想いはあれほどの瘴気にもなるでしょう。しかし、御山の祟りは頻繁に発生するものではありません。」

 なるほど、瘴気がどれほどのものかは分からないけれど、雛美さんが言うほどの瘴気は蛇神の贄として選ばれた女性たちだけでは生み出せない。となると……

「かつて左獄山には、蛇神の贄以外にも多くの人間が捧げられていたということですか。」

「多くの人間、というわけではないんです。生み出された瘴気は、贄とされた人間の資質からも影響を受ける。当時の状況からして、荒れ狂う蛇神を鎮められるのは、蛇神が最も憎み欲しがった彼女以外いなかったのでしょう。左獄山に巣食う蛇神を慰撫するために、朱沢の地を代表して一人の少女が贄となりました。彼女が贄として捧げられたからこそ蛇神は鎮まり、目覚めた時も一ノ宮か中条から女性を一人捧げればいい状況に落ち着きました。」

 その時、一人で大広間の隅に座って話を聞いていた宇本さんと目があった。怒っているような哀しんでいるような、複雑な感情が彼の顔に刻まれているのが、僕には見て取れた。それまで表情を変えず話に耳を傾けていた彼が、露骨に反応したのが気になった。

 

 

「そして、今もなお続く贄を捧げる仕来り、これは蛇神へ贄を捧げるというのではなく、蛇神を鎮めるために贄となった女性に対するものなのです。」

 その時、私は何故か酷く悲しい想いに囚われた。この地の人間を救いたいという願いと、どうしても離れたくない人がいて、その人が堪らなく愛おしいとする想い、それら二つが胸の内でぶつかり合って前者が勝った。悲しみを感じたのは、後戻りすることは出来なくなったという後悔からだろう。

「そ、その女性は何者なの……?」

 私の様子に気づいたのか、静太が心配そうに背中を擦ってくれた。雛美伯母さんは陰陽師と目を合わせ、頷いてからその名を口にした。

「その少女の名前は青宮院葵。およそ二百年前の青宮院家当主であり、歴代で最も龍深の龍神に近かった龍深の巫女です。そしてほぼ間違いなく、紗姫ちゃん達が出逢ったという黒い少女は───────」

 

 

 私達は知ることになる。私に降り掛かった死の運命は、過去に遡り、とある少女が辿った数奇な末路から始まっていたことを。そしてその災厄は、積み重ねられた想いのせいで、雁字搦めにされた絶対に抜け出せない死であることを────────

 

 

 

 

第八節  蛇神の巫女

 

 

 

「紗姫ちゃんが静太君を助けるために、契約した黒い少女とは、ほぼ間違いなく青宮院葵でしょう。」

 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で清らかで真っ白な想いと、醜くてどす黒い想いが混じり合い、灰色の靄がかかった、掴みどころがない状態になった。自分の情緒がどこにいってしまったのか分からない。

 

 

 不意に、とある記憶が私の頭の中に流れ込んだ。ここは山の中?空は曇天で薄暗い。いや……違う。

 空には雲一つないのに、この山の上空だけ闇が濃くなっているように、特に暗いのだ。遠くに見える月の光も、この寂しい山肌に届くことはない。まるでこの山だけが、現世から切り離された空間であるかのようだ。

 周囲の状況を確認し終わる前に、私の意識は記憶の中の彼女と溶け合う。彼女の内側から、この世界を認識する奇妙な感覚だ。

 

 死の臭いを漂わせる、この暗澹とした左獄山の頂上付近で、青宮院葵はその場に佇んでいた。死霊が蔓延るこの山を登ったにも拘らず、彼女の身には傷も霊障も一つとない。龍深の陽の大神の加護を、人一倍受ける彼女には、この地において何者であっても傷つけられない。

 

 しかし、例外は存在する。かつては一つの龍神であり、陽と陰の二神に分かれた龍深の大神であれば、それは可能である。

 青宮院葵は、目を閉じたまま大きく呼吸する。この先に待つ存在に、恐怖する自分を奮い立たせるように。

 

 

 この山の神である蛇神を鎮めるために、私はこの身を捧げる。一年前に始まった大飢饉を口火に、蛇神は御山の祟りとして、村の人間の命を食い散らした。悪いコトは重なるというが、それまで鎮まっていた蛇神が覚醒するのは、最悪の出来事だった。

大飢饉が始まったのは、干ばつによる水不足が原因だった。しかし、朱沢村には大地を潤し、龍脈そのものである清流川が流れている。この地方一帯が受けた被害に比べれば、大した影響は受けなかった。天竜川の水が完全に干上がらない限り、清流川はその役割を果たし続けられる。

 しかし、蛇神が大飢饉に共鳴するかのように、突如村人を間引き始めた。晩に体温が下がり始め、朝には死んでいた、という事が月に二度ほど起きるようになった。

 大飢饉のニ年目には、夏に大風雨・洪水が発生した。水問題に関しては、朱沢村において不足することはまずないのだが、過剰な水量は大凶作を齎し、村は食糧不足の危機に陥った。

 蛇神はそもそも、龍深の大神の片割れであるのだから、村の生命線である清流川を司る水神でもある。大飢饉一年目の時点で、清流川を枯らすことができたのかもしれないが、そうしなかったのは贄を求めていたからなのだろう。確かなことは分からない。

 

 三年前、龍深山の主である大神と、左獄山の主である蛇神の力の均衡は、青宮院家が穢れを背負ったことで崩れてしまった。去年、蛇神が村人を間引き始めてから、一度は三種の神器による儀で鎮めたものの、やはり私のやり方では不完全だったようで、結局この身を捧げるのだから世話がない。

……蒼太には、欠けてしまった神器の一つが埋め込まれた、あれを御守りとして託したけれど、はてさてどうなることやら。山を登る直前まで、私と離れようとしなかった兄の、怒りと悲しみで歪んだ顔を思い出す。彼は、最後まで私が贄になることに反対していた。

「ふふっ。」

 既に今生の別れは済ませたというのに、やはり自身の半身ともいえる愛しい兄は、どこまでも私を生にしがみつかせる存在のようだ。自分が青宮院の人間でなかったのなら、村から兄を連れて出ていってやれるのだが……如何せん、この災厄に対処出来る存在は私だけなのだ。

 

 逃げるという選択肢は、存在しない。あまりにも多くの命が、私の身に委ねられている。偏屈爺や頑固婆もそこそこいる村ではあるが、私は皆のことが好きだ。皆、心の底が暖かくて、気持ちのいい性格の人間ばかりだ。だからこそ、十四で大人になってすぐの私でも、皆の支えがあって当主を務められたのだ。

 

 この朱沢村の人々を、守りたい。

 

 たとえ、一番大事な人と永遠に別れることになっても─────────

 

 

 そして、私は辿り着く。今か今かと、憎き人間が来るのを待ち続ける、龍深の陰の大神のもとへ……

 

 

 

「紗姫?さーき!!」

 どうやらぼーっとしていたようで、静太が私の肩を掴んで揺らした。すると、私の中の靄は晴れていき、意識が次第にはっきりとしてきた。私の顔を心配そうに覗き込む皆の顔が見えた。部屋の隅にいた宇本さんも近くにいた。

「紗姫、大丈夫?体調悪くなった?」

「問題ないわ、平気よ…」

 何か、凄く大切な記憶を思い出した気がする。もはや何も覚えていないのだけれど、何故私は……このあやふやな記憶を自分のものだと認識しているのだろう?

「この暑さだし、かれこれ一時間近く話していたのか。少し疲れたのだろう。このへんで一度、休憩するのはどうでしょうか。」

 陰陽師が雛美伯母さんと宇本さんに視線を送り、二人もそれに同意するように頷く。

「そうしましょう。では、私と宇本さんの二人で、時間は経ってしまいましたが食後のデザートを作ってきます。」

 そう言って雛美伯母さんと宇本さんは立ち上がり、白鳥の間を出た。去り際に、宇本さんが「静太君、紗姫ちゃんを宜しく。」と声をかけていった。

 

 

 ミネミネはトイレに行き、僕は紗姫を扇風機の近くまで連れて行った。あの夜のように、また紗姫の背後にまわって脇を抱え、引きずるように引っ張っていこうかと思ったが、そこまでする必要はないと言われ、肩を貸すだけにした。

 扇風機の前で大の字になって寝そべり、気持ちよさそうに涼む紗姫を見て、なんとも微笑ましい気持ちになる。

「まぁ予想していたけど、ミネミネが昨日のうちに紗姫が置かれている状況について、雛美さんに話していたみたいだね。」

「そうね。あの幽霊屋敷のところから…最初から全部話すつもりでいたけど、雛美伯母さんの視線であぁ全部分かってるな、って思ったから、答えが欲しいことから質問したわ。」

 僕は頷き、紗姫と同じように畳に寝そべって目を閉じた。巳継叔母さんの言っていたことは、恐らく大体正しいのだろう。それもそのはず、彼女もそれを知ったのは、亡き巳影母さんが実際に雛美さんと共有していた情報なのだ。琴の間にある蔵に入っていた書物に、どれだけの信憑性があるかは分からないが、千年前ならともかく二百年前のことなら、それほど真実と食い違うことは書かれていないように思う。

 

 扇風機で涼んでいる間にうたた寝をしていたようで、僕達はデザートを運んできたミネミネに起こされた。

「雛美殿と宇本殿があんみつを作ってくれたぞ。私は先に味見をしてみたが、これが中々美味でな……」

 ミネミネの手元を見ると、お椀が二つ盆の上に乗せられていた。僕達の分は先に持ってきてくれたのだった。

 お椀の中を見ると、こし餡が乗っている寒天を中心に、みかんが半分に綺麗に添えられ、左半分には黒蜜がかかった白団子が並べられている。紗姫はというと、僕の隣で目を輝かせ涎が垂れそうになっている。食べるのが待ち切れないと、僕と紗姫の声が重なる。

「「食べていいの?」」

「どうぞ召し上がれ。」

「「いただきまーす!」」

 僕は寒天と白団子を一度に、紗姫は寒天とミカンを合わせて食べた。口いっぱいに和の甘さが広がり、至福の一時が流れた。夏休みが始まる直前に、お母さんと一緒に食べたチョコレートケーキとは比べ物にならないくらい美味しい。

 僕と紗姫があんみつを満喫していると、自分たちの分を持ってきた雛美さんと宇本さんが戻ってきた。

「どうでしょう?ありあわせの材料で作ったのですが。」

「とっても美味しいです。」

 あんみつ自体、滅多に食べたことがないのだが、僕の記憶の中にこんな美味しいデザートは存在しない。間違いなく、この世で一番美味しい甘味だ。

「こんなに美味しいなら、夏休みの課題はチーズ作りじゃなくてあんみつ作りについてにすれば良かったかも。こしあんとつぶあんのどっちが寒天に合うのか、フルーツはどの組み合わせが一番美味しくなるのか。」

「二人共満足しているようで何よりだ。」

 僕たちの反応に、雛美さんと宇本さんが微笑む。本当に、紗姫と一緒にまた食べたくなるデザートだ。そのためには、何としてでも紗姫と一緒にこの夏を越えなければならない。

 

 

 甘い一時を過ごし、僕達は改めて今回の災厄について話し合いを始めた。先程よりは、全体的にいくらかゆったりとした雰囲気だ。紗姫も肩の力が程よく抜けてるようで、正座しつつも鬼気迫るような感じは消えていた。

「えーっと、とりあえず雛美伯母さんは青宮院葵って人が、黒い少女だと考えているのね。まずはその人について教えてください。」

 承知したと言わんばかりに力強く雛美さんが頷く。

「青宮院葵は、一七八〇年に十四歳で当主になり、その三年後にこの世を去りました。歴代当主の中で最も若く、それでいながら一番龍脈の力の扱いに長けていたため、彼女がこの地に授けた恩恵は計り知れないでしょう。清流川を根幹とした龍脈の力を、自然の恵みとしてこの地の至るところまで。龍深の巫女として、彼女ほどの素質を持った人間は、恐らく他にいないでしょう。」

 そう言いつつ、雛美さんが紗姫を見て目を細めた。

「そんなに凄い人が、何故蛇の贄にならなければいけなかったんですか。」

 葵さんと紗姫の置かれている状況がなんとなく似ている気がして、思わず僕の口から質問が飛び出していた。雛美さんは僕に視線を向けて説明を続ける。

「蛇神……あれは自身が最も欲するものを、贄として求めました。その根底にあるのは、憎しみという想い。いくら悪しき部分だとしても、神とて負の感情から逃れられないというのは、何とも哀しい話です。」

 自我を持つ存在であるかぎり、感情の柵からは解放されないということだろうか。

「話が逸れました。蛇神が青宮院葵を贄として求めたのは、彼女が一度蛇神を封じ込めたことがあるからです。ただ、彼女一人の力ではやはり完全にはいかなかったのでしょう。封じ込めた一年後に、再び復活した蛇神の力で更に酷くなった飢饉をどうにかするためにも、彼女はその身を捧げたのです」

 

 

 あの中条家の蔵で、偽灯火と話をしたときに、何となく想像していた黒い少女の正体について、これでほぼ確定したわけだ。

 蛇神の巫女として、命を集めるシステムである黒い少女。その目的は、掻き集めた人間の命で鎮められた蛇神の復活……

 そこで疑問に思う。贄でさえ女性ばかりを求めるという話なのに、蛇神が完全復活するのに誰これ構わずに、人間の命で復活するものだろうか。

 もしかすると、黒い少女は……

「そうか。それなら楔の問題も解決されて、蛇神は復活することができる」

「静太?」

 紗姫や皆が、一斉に僕の顔を見つめる。

 簡単なことだったんだ。蛇神は黒い少女を自身の巫女とした。自身の巫女であるにも拘らず、彼女の力によって、廃墟で蛇神は退けられた。これが意味することは……

「紗姫は言っていたよね、巳継叔母さんの家で。黒い少女は蛇神よりも格上だって」

「ええ」

「僕たちは、黒い少女が蛇神の巫女として命を集めるシステムだと仮定している。けれど、何故そうなのかについては分からなかった」

「そうだな」

 ミネミネも同意する。ここから一気に本題に入る。

「巳継叔母さんは、青宮院本家が紗姫の死を願った、と考えていたけどこれは否定された。雛美さんには、紗姫を死なせる動機がない。となれば、紗姫を……龍深の巫女を憎む存在は、ただ一つだけだ」

 宇本さんも、僕の言葉に力強く頷いていた。他の皆は分からないが、彼だけは既に真相に至っているということか。

「紗姫の死は、蛇神の楔を抜くことと同義だ。そして、紗姫の死を望む人間は存在しない。僕たちは、原因を人間に求めていたから分からなかったんだ」

 僕の話を聴き入る雛美さんと目が合う。彼女は合点がいったと言わんばかりに、声を上げて微笑んだ。

「凄いです!静太くん!!確かに、私たち人間は、あらゆる物事の原因を生きている存在に求めがちです。到底人間には不可能なことでも、実際は人為的なものであることがよくあります」

「ありがとうございます。今回の件は、前提として可能か不可能かは関係なく、人間ならそもそも、その選択をしないんです」

 そう、紗姫を殺すことは朱沢町の消滅と同じことだ。例えば、神社総庁が龍脈を手に入れたいから、龍深の巫女の紗姫が邪魔だとする。紗姫をあちらへ引き入れるのなら、まだ分かるけど殺すのは違う。何故なら、そうすると蛇神は完全に解き放たれ、神社総庁は龍脈を手に入れられないからだ。龍脈を司る水神の一柱でもある蛇神を、改めて鎮めるか殺す必要があるだろう。そんな二度手間なことを、あの灯火たちがするとは思えない。

「黒い少女に、誰かを使って紗姫を殺させようとしたのは、他ならない蛇神だ。黒い少女との契約が残っているから、紗姫を呪いで殺すことはできない。ならば、物理的に殺すことを望んで、自分は御山の祟りとして、人々の魂を食い漁ってるんだと思う。人々の魂に宿る想いを、巫女に差し出すことで願いを叶えてもらう」

 つまり、蛇神も命を集めるシステムだったというわけだ。紗姫はというと、僕の推理を聴いて拍手してくれた。

「やるじゃない! 静太!!見直したわよ」

 紗姫が太陽のような笑顔を僕に向けた。白鳥の間に降り注ぐ陽光すら霞む、日輪の如く眩しい紗姫の笑顔───その微笑みに、僕はいつだって助けられてきた。

 今度は僕が、紗姫を助けてみせる。例え何もかもが失われても、紗姫だけは必ず守ってみせる。

 

 

 

 一つ重大な事実が明らかになり、少し休憩を挟んで話を再開した。

「葵さんが一度あの蛇を封じ込めた方法が気になるのだけど。まだ知りたいことがあるわ。葵さんって、黒い少女として以前にも一度出たことあるでしょ。雛美伯母さんも会う前に情報として知っていたようだし」

「ええ。天明の大飢饉が完全に治まった三年後、彼女が身を捧げた左獄山から、瘴気と共に黒い少女として降りてきたと伝えられています。彼女に願いを叶えてもらい、命を落とした人間は十人には満たないですが、対策として青宮院が左獄山に結界を貼り、山の頂上に彼女を鎮めるための祠が建てられました」

 

祠……

 

 お父さんは巳影母さんに呼ばれたから、左獄山に僕を連れていったと言っていた。

 そして、あの山で誰かに呼ばれたのはお父さんだけじゃない。

 

 ─────僕だ。

 

 巳影母さんと出逢ったあの場に辿り着く前に、僕は彼女に呼ばれていた。よく知っている誰かだと、そう思い込んで親しい人間に会うように。彼女の声に、その想いに全くの疑いを持たず、あの祠へ行ったのだ。そこで、僕は……

 

 

 気づくと僕は涙を流していた。あの祠の封印を解き放った時、彼女の想いが僕の中に流れ込んできた。

 蛇神を鎮められるのは、彼女だけだった。大飢饉から村を救えるのも、彼女だけだった。愛する人を救えるのも、彼女だけだったのだ。黒い少女に……青宮院葵には、選択の余地がなかったのだ。それでも、当主としての誇りを胸に刻んだまま、彼女は蛇神に命を差し出したのだ。

 ただ、蛇神の巫女を続けるには、彼女は自我を持ちすぎた。僅か三年ばかりで……いや、三年もよく保ったというべきなのだろう。およそ、人と変わらない自我を保ちながら、蛇神の側で瘴気に蝕まれ続ける。天明の大飢饉は、蛇神の力が鎮められたにもかかわらず、すぐには治まらなかったため、山には贄が捧げられ続ける。その贄の想いを、彼女は受け止め続けたのだ。

 

 そういった状態が続き、彼女は徐々に狂っていった。村人が自分を求め続ける、生前の在り方を再現するために、黒い少女として山を降りたのだ。人々の想いに応えるために。

 

 

「少年、どうしたんだ。どこか痛むのか。」

 ミネミネが慌てた様子で僕に駆け寄り、頭を撫でてくれた。紗姫もハンカチで僕の目元を拭いてくれる。ただ、紗姫は心配しているというより、僕が何に対して悲しんでいるのか考えているようで、真剣な眼差しで僕を見つめていた。

「静太、何を思い出したの。」

 僕は一つ大きく深呼吸して、言った。

「僕だったんだ。左獄山の頂上で、祠の封印を解いて、黒い少女が再び山を降りてこられるようになったのは、僕のせいだったんだ。」

 僕の言葉に、一同が目を見開く。いや、ただ一人、宇本さんだけが目を閉じて押し黙っていた。呆れて物も言えない、ということだろうか。

「封印を解き放った時、黒い少女の、葵さんの想いを感じたんだ。彼女は人の自我を残したまま、今も蛇神の巫女として縛られ続けている。生前だって、村を救えるのは彼女だけだった。でも、彼女だって生きたかったんだ。ほんの少し、当主としての想いが強かったから、あの選択をしただけであって。」

後悔はなかったのだろう。守りたかったものは、確かに守られたのだから。彼女が身を捧げなければ、村は歴史の途上で消え去り、僕達だって今ここにはいなかった。

ただ……ほんの少し、蛇神の巫女の役割が辛かったのだ。それも、彼女の力不足によるものではなくて。彼女が神を降ろすのに、これ以上ない最適な人材だったせいで、人間としての自我は消えなかったのだ。

 

「葵さんが、願いを叶えようとこの地の人間の前に姿を現すのは、その人間の蓄積された想いが、出現のトリガーになっているんだと思う。衝動的なものではなく、ずっと持ち続けてきた想い……」

 衝動的な想いというのは、そもそも言葉として正しくないのだと思う。僕が山荘で黒い少女の出現を願ったのは、あのときの状況を打破するための願望だった。

 想いというのは、もっと緻密で、受け継がれ、繋がれていくもの。断続的なものではなく、連続的なものであり、そこには時の流れが存在する。過去から現在、未来へと受け継がれるもの、それが想いなのだと僕は考えている。

 そして、その想いは龍脈の力にアクセスすることが可能である。生前の在り方を再現し、この地の人間の想いに応えるために姿を現す青宮院葵、その想いを糧に龍脈にアクセスし、不可能を歪んだ形で可能にするその在り方は、酷く歪んでいるように思える。

けれど……いや、きっと。

 

「葵さんが黒い少女として出現するのは、蛇神の巫女としてなんかじゃない。彼女は、ただこの地の人間の想いに応えたくて、それに反応して現れているだけなんだと思うんだ。願いの代償に命が奪われてしまうのは、蛇神の巫女故だとは思う。けれど、そこに彼女が命を欲する意思は含まれていない。彼女自身は、人間の想いを対価に、龍脈の力を使って願いを叶えようとする。黒い少女という存在は呪いなんかじゃなくて、青宮院葵という女性の祈りだったんだ。」

 

 

 僕はいつの間にか立ち上がって、この胸に詰まった想いを言葉として吐き出していた。左腕に、生暖かい水が滴った。紗姫が僕の左手をみぞおち辺りに抱え、泣きながら微笑んでいた。

 僕は紗姫と視線を交わして頷き、雛美さんに向き直る。

「雛美さん。僕は、青宮院葵さんを左獄山から解放したいです。彼女を黒い少女としてではなく、青宮院葵として天に還す。それこそが、紗姫を救うための確かな方法だと思います。」

「私も静太に賛成です。龍深の巫女として、やれることはなんでもやります。葵さんが蛇神を鎮めた方法、それを完璧な状態でやれば、彼女を蛇神から解放し、蛇神そのものも完全に封印出来るんじゃないですか。」

 僕達の言葉に、雛美さんは薄っすらと涙を浮かべたまま、僕と紗姫の肩を両腕で抱きしめた。太陽は既に地平線の彼方に沈みつつあり、屋敷の西に位置する白鳥の間には、かろうじて西日が差し込んでいる。  段々と涼しくなってきてはいたけれど、こうも密着すると少し暑かった。けれど、この温もりは巳影母さんに感じたものと似ていて、とても安心する心地がした。

 

 雛美さんは僕達から身を離し、側にいた宇本さんと視線を交わし、頷きあった。僕達のほうを向き直るやいなや、目を輝かせて言う。

「それでは、あの蛇神に対抗するための手段、もとい三種の神器について教えましょう。勿論、青宮院に伝わる神器です。紗姫ちゃんには龍深の巫女の正式な継承を、ミネミネさんには符術の聖獣魂還を宇本さんからミッチリ指導していただきますからね。」

 雛美さんの言葉に、僕と紗姫とミネミネの反応は三者三様だった。紗姫は指を気にしながら顔を顰め、ミネミネは困惑した表情を浮かべていた。僕はというと、やはりなんの力もない僕では出来ることはないか、と気落ちしていた。

 それでも、僕は紗姫を守ると誓った。そして、葵さんも蛇神の巫女の役割から解放してみせる。僕に出来ることは殆どないかもしれないけれど、その出来ることを全力でやろうと、改めて決意した。

 あるさんから、夕方に再度訪問する際の迎えの連絡が来ていたので、僕と紗姫とミネミネは、拝殿のほうへ出ていった。

 

 まるで、僕の決意に応えるかのように、ポケットに入れていた石が、蒼い輝きを放っていたのには気づかずに────────

 

 

 

 

第九節 黄昏の中で

 

 

 

 屋敷の玄関を出て、空を仰ぎ見る。藍色に染まった朱沢町の空は、西日によって生み出された黄昏と混じり、その境目は紫色の幻想的な景色を生み出していた。

「凄い……」

 景色に圧倒されて溜息が混じった感嘆する声が、僕の喉から漏れた。

「あら、マジックアワーね。」

 紗姫の言葉に僕とミネミネは首を傾げる。そんなことも知らんのかとジト目で紗姫に見つめられたが、知らないものは知らないのだ。

「日が沈んでからの薄明の時間帯で、その数十分間だけ、沈みかけてる太陽の光を受けて夜空が金色に輝いて見える状態になるのよ。まぁ、この町は盆地にあるし。差し込む西日の光が少なくなるから、こっちの空までは金色にはならないけれど、丁度境目までは光が届くから、それで明るい紫色の空になってるのよ。」

 僕とミネミネは紗姫の解説に聴き入りながら、目の前に広がる光景に心を奪われていた。

「いや、姫は本当に博識だな。」

「私も初めて見たとき疑問に思って調べただけだから……ってか、静太はともかく、高校生のアンタは知っててもおかしくないでしょ。」

 そうだろうか?とミネミネが目を瞑って天を仰いだ。

「じゃ、とりあえずあるさんを迎えに行こうよ。」

「ほら、行くわよ陰陽師。」

 

 拝殿の脇道を通り、拝殿前に辿り着くと、石段に腰掛けて空を見上げているあるさんがいた。僕達が近づいて声をかけると、立ち上がって手を上げる。足元には、何故か僕のリュックと紗姫のエナメルバッグがあった。

「あるさん、この荷物どうしたの?」

 僕の質問にあるさんは目を瞬かせる。

「おや?雛美殿、あるいはミネミネ殿から聞いておらんでござったか。二人とも、今日から本家に泊まり込みになるから、夕方に静太殿の母上と紗姫殿の父上から着替えを預かり、届けに来いとのことでござったが……」

 あるさんの発言に、僕と紗姫は顔を合わせ、ミネミネを振り返って彼女のほっぺを引っ張った。

「いたたたっ!あんまり強く引っ張らないでくれぇ!!」

「アンタね、そういう大事なことはこっちに着いてからでも教えなさいよ!」

「そうだよ、ミネミネ。でも、なんで雛美さんも教えてくれなかったんだろ。」

僕と紗姫に引っ張られた頬を擦りつつ、涙目のミネミネが応えた。

「正直、今日だけでここまで話がすんなり進むとは思っていなかったんだろう。姫はもう、黒い少女に立ち向かうしか生き残る術はないのだが、君たちはまだ子供だ。その選択をするのには、少し時間がかかると彼女は思っていたんだろう。なにせ、数百年の歴史を持つ家が、代々崇めてきた神の半身とそれの巫女が相手なんだ。その巫女だって、かつての青宮院の人間であるのだから、気圧されてしまうのではないかと考えたのだろう。」

 なるほど、確かに相手にするものが強大すぎて子供の僕達ではすぐには決断できない、そう考えられてもおかしくないのだろう。

 ただ、僕も紗姫も、普通の子供と違ってネジが一本外れているところはある。多分、棘下の件で普通の子供から変質してしまったのだと思う。それはもしかしたら、勇気ではなくただの蛮勇なのかもしれない。けれど、今回に限っては紗姫に時間は残されていないから、戦う決断をするのは早ければ早いほどいい。

 僕の父さんによって鎮められた蛇神を、黒い少女もとい葵さんが命を掻き集めて復活させ、事態が悪化する前に彼女を清め祓う。僕にはそれを見届けることしか出来ないのだけれど。

 

「ふうん、まぁいいわ。それよりアンタ、私の着替えに手を付けてないでしょうね。」

 紗姫がじろりとあるさんを睨む。あるさんは右手の拳を左胸に当て、背筋を伸ばして答える。

「拙者、この命に替えても、断りもなしに紗姫殿の衣類を漁ることなどしないと断言するでござる。」

「紗姫が許可したら漁るんだ…」

「うわキッモ……」

 紗姫に仕える騎士の如きあるさんの忠誠は、呆気なく亡きものにされてしまった。

 

「それでは、雛美殿と宇本殿にも宜しくでござる。」

 僕達に着替えを届けてくれたあるさんは、参道を通って龍深神社から去った。

「それじゃ、アイツが言ってたように今はパパが家にいるみたいだし、連絡してくるわ。」

 そう言って紗姫は拝殿の向かって右にある絵馬掛けがあるほうへ歩いて行き、側にあるベンチに腰掛けてスマホを取り出した。今のうちに聞いてみようか……

「ねぇミネミネ。今回の件で、僕にできることはもうないのかな。紗姫が龍深の巫女を真に継承すれば、龍深の大神の力を借りることが出来るようになるでしょ。そうなれば、蛇神や黒い少女への対抗手段は手に入るし、ミネミネも宇本さんも雛美さんもいて、戦力としては申し分ないでしょ。そこに僕がいる必要はあるのかな。」

 勿論、自分だけが安全地帯に逃げ込みたいわけではない。ただ、相手が棘下のように、普通の人間の常識で戦える範囲はとっくに超えていた。むしろ、瘴気を溜め込みやすい体質の自分では、どこかで足手まといになるのではないか。一度は紗姫を救うために出来ることはなんでもやると誓ったが、実際僕には何が出来るのだろうと疑問に思う。

 そんな迷いを含んだ僕の言葉を聞き、ミネミネは目を閉じて腕を組んだ。困らせるような事を聞いたかな、と僕が思うやいなや、ミネミネが目を開けてこちらを見据える。緋色に燃える彼女の瞳は、黄昏時の中でも温かな輝きを放っていた。

「姫の傍にいる。少年に出来ることはそれだけだろうが、それだけでいいんだ。」

 そう言ってミネミネは口元を緩める。僕が言葉の真意を理解できないでいると、彼女は言葉を続けた。

「人ならざるモノを相手にしていると、どうしても自分も人間の領域から逸脱してしまったように感じることがある。人の理を超えた力の使用は、向こう側へ踏み出してしまうための切符みたいなものなのだろう。切られた切符は、使用者と向こう側、怪異との縁を強くしてしまう。この縁というのが、自ら破棄出来るものでもなくてね。」

 フッと息をつくミネミネを見て、陰陽師であることが苦しいのかなと感じた。先程とは打って変わって、少し俯いたミネミネの表情は、辺りが薄暗くなってきたせいか曖昧だ。

 正義の為にやっているのではない、生きていく為にやっている、と幽霊屋敷で言っていたことを思い出した。

「一度この道に踏み入れると、まぁ抜け出すことは出来ない。ただ、そんな私達でもありふれた日常、普通の生活に身を置いておくことは────帰るべき場所があるということは、人間であり続けるための、唯一の錨なんだよ。」

「錨って船の?」

「そうだ。怪異側へ引っ張られないように、留まるための錨。その錨の役割を、姫にとっての錨を君なら担えると私は思うよ。」

 そう言ってミネミネは微笑む。紗姫が帰るべき場所に、僕がなる。自分の役割が明らかになると、俄然この夏に対する気持ちが強くなった。

「紗姫の傍にいればいいんだね。」

「ああ。それだけで、龍深の巫女となって蛇神に対面したときの姫には、帰るべき場所の存在という、土壇場での支えが生まれる。姫にとって錨となるその想いは、蛇神や黒い少女を祓い清めるための力となるはずだ。」

 ミネミネの言葉に僕は頷いた。

「ありがとう、ミネミネ。」

 続けてとある疑問をミネミネに投げかけようと思ったのだけれど、僕はそれを口にしなかった。お礼を言われてミネミネが見せた微笑みの中に、寂しさが混じっていたのを見逃さなかったからだ。

 

 通話を終えた紗姫がこちらに歩いて来た。安堵した表情を見るに、おばさんの具合は悪くないことが窺える。

「明日にはママが退院出来るって。意識が戻ってからも体調を崩す傾向は見られないから、もう大丈夫だろうってさ。」

「良かった、おばさんが無事で僕も安心した。」

「うん。」

「姫の父上は事情をどこまで把握しているのだろうか。」

「なんにも知らないわ。あくまで家にパパとママがいないから預かるていで、雛美伯母さんは一度家に戻ったパパに、私の着替えを用意させたみたいだし。」

 実際、今紗姫が置かれている状況は、おじさんやおばさんにとって受け入れがたいものだろう。それを説明するとなると、少々ややこしくなるし、紗姫には時間がないのだから面倒事は後回しということだろうか。

 そうだ、紗姫の未来がこの夏の先にも続くことが約束されさえすれば、後のことはどれだけ大変でも構わない。雛美さんが事情を説明する際には、僕も彼女に付き添おうと思った。

 

「それはそうと、なんでアンタだけ最初から着替えを持ってきていたのよ。」

 屋敷に戻る道すがら、紗姫が口を尖らせて言う。ミネミネは頭を掻きながら、苦笑する。

「実は、今日の姫の選択関係なしに、私は本家に拠点を一時的に移す予定だったんだ。昨日、ここを訪れた時に雛美殿と話した際、快く受け入れてくれたものだからな。」 

「ゴミ屋敷から無事脱出だね、ミネミネ。」

「こら、あんまり酷いことを言うな。」

「事実じゃない。」

 笑いあいながら、僕達は濃紫の空の下を駆けていった。

 

 

 

 時刻は午後九時、僕は鷲の間の大広間の畳に寝そべっていた。既に布団は三つ敷かれているが、入浴後の身体で畳の感触を楽しむために、僕は身体を畳に任せていた。そんな僕を、テーブルの上で宿題に取り組んでいる紗姫が冷めた目で見てくる。

「静太、夏休みの宿題溜まってきてるでしょ。早めにやっておかないと、後で泣くはめになるわよ。」

「晩御飯美味しかったね、紗姫。昼はガッツリとカレーライスだったけれど、夜は焼き魚に煮物、和えた野菜に玄米ご飯…僕のお母さんには作れそうにないや。雛美さんと宇本さん凄いね。」

「はぁ……」

 呆れた紗姫がため息をついて僕の近くに来た。シャーペンの上の部分で僕のお腹をつつく。

「私達が勝つ未来は決まっているんだから、夏休みの宿題はやっておかないと後で後悔するのは静太なのよ。それに、今のうちにやっておけば、残った休みの分いっぱい楽しい想いが出来るじゃない。」

 そうだ、僕達の夏休みはまだ二週間近くはある。紗姫の問題を解決するのに十日かかるとしても、三日は遊びまくるには今のうちに面倒事は片付けておくのが得策だ。

「分かったよ、紗姫。」

「それでよし。」

 僕のやる気に紗姫が満面の笑みを浮かべる。夕飯を終えてから、わざわざ僕と紗姫の宿題を持ってくるのに駆り出されたあるさんに感謝しながら、僕は宿題に取り組み始めた。

 

 

 

 静太がやる気を出してくれたようで、私はひとまずホッとした。宿題に取り組みながら、雛美さんが教えてくれた、青宮院家に伝わる三種の神器についての話を振り返る。

 

 かつて此の地に、怨敵を追って流れ着いた青宮院家。その家の者達は、女性を頭としており、彼女の力をもってして、信仰無き此の地に神を生み出した。村の人間の祈りの対象を、龍脈を基盤とした清流川を司る龍神と定め、この龍神に想いを集約させて龍脈に接続する。純度の高い想いの力は、生命の息吹ともいえる龍脈を制御し、此の地に豊かな自然の恵みをもたらした。

これは、あくまで青宮院家が此の地に受け入れてもらうための行為である。青宮院家の真の目的は、朱沢の地に逃げ込んだ厄災の調伏であり、そのための剣と鏡と玉が存在するのだという。悪しきモノ・業を背負った忌まわしい存在に対して効果を発揮するというが、なんと剣は刀身がなく、玉はそもそも残っていないのだという。完全な状態で現存しているのが、鏡だけだというから、何とも心許ない。

 

 とはいえ……

 算数の教材を仕上げて、一度床に寝そべって伸びをする。鷲の間の蛍光灯をぼんやりと眺め、目を瞑った。

 三種の神器の中で、鏡さえあれば祓い清めること自体は可能だという。確かに、鏡は魔除けの道具として有名だ。剣と玉に比べて、一番有効なものではあるのだろう。

 ただ、こういう時は三種全てが揃って、初めて神器はその効果を発揮するのではないか。

 それを雛美伯母さんに指摘したところ、決戦のその日に玉の代用品を用意するのだという。玉は雛美伯母さんと宇本さんが新たに創ったとのことだ。それを青宮院に伝わっていた玉の代用とするために、雛美伯母さんが既に龍深山の祭壇に捧げ、龍深の大神の加護を込めるのにまだ時間がかかるという。なんだか、凄く準備万端な気がして、違和感があるけれども……

そして、剣。刀身もないのにどうするのかと思ったが、別に実体があるものを斬り伏せるわけではないのだから、刀身は必要ないと聞かされて驚いた。剣はあくまで、玉から鏡へ集められた力を、鏡より効率よく伝えるためのものらしい。そしてその刀身は、神器が全て揃った時に現れるというから、何の心配もする必要はない、と言われたけれど実際はどうなんだろうか。

 玉は力を増幅させ、鏡と剣はその力を対象に伝えるもの。玉が増幅させる力とは、龍深の大神の加護の力。そして、その加護の力が一番強い場所とは……

「まさか、またあの山へ……しかも、今度は更に上を目指すなんてね。」

私にとって、いや、私と静太にとって忌まわしい記憶が身に刻まれた場所。

左獄山の頂上、朱沢の聖域にて私の運命は決まる。

 

 

 

 

第十節 峰々彩夏

 

 

 

 同時刻。

 

 宵も深まり、やや風が出てきた。彼女の額から流れる汗は、頬を伝って地面に落ちる。月の光に照らされたその表情は、どこか穏やかだった。

 峰々彩夏は、琴の間の奥にある、龍深山の入口に通ずる路面の上で、胡座をかき瞑想に耽っていた。彼女の周りには、淡い青色に輝く線が、毛細血管のように張り巡らされている。その様子を、青宮院雛美と宇本大晴が、琴の間の縁側に腰掛けて見守っていた。

 

 

 二時間前────

 

「宇本殿、雛美殿、お二人に話があるのですが。」

 夕食を終えて、紗姫と静太を鷲の間に案内した後、後片付けに取り掛かる二人を手伝いながら、ミネミネは雛美と宇本に聞いた。

「夕方に仰った黒い少女への対抗策、聖獣魂還の件なのですが…」

 緊張を含んだミネミネの言葉に、宇本は頷き、雛美は温かな笑みを浮かべる。

「黒い少女、もとい青宮院葵は龍深の巫女だった。此の地において、龍深の巫女、あるいはその資質を持つ者は、自身に降りかかるあらゆる呪いや術を、無効化することが出来る。それこそ、自らそれを受け入れようとしない限りね。彼女たちをどうにかできるのは、加護を与えている龍深の大神だけだ。ここまではいいね?」

 宇本の確認にミネミネは頷いた。この夏、姫に燃やされた札はなんと多いことか。安くない呪符の消費量に頭を抱える。

洗い物に手を動かしながら、雛美が続けた。

「とはいえ、龍深の大神も全能ではありません。此の地において十全ではありますが……あらゆる宿業を背負った龍深の陰の大神、蛇神のほうには明確な対抗手段があります。死、そのものに近い穢れた存在に対して、最も有効な術、それが符術の極点解放・聖獣魂還です。」

 雛美の言葉にミネミネは目を見開く。

 一応、私が到達すべき符術の極点解放は、神社総庁での秘匿なのだが……宇本殿が説明したわけか。

 ミネミネの考えを見通した宇本が、更に続けた。

「まぁ確かに、あれは神社総庁の力の結晶であり、外で公にすることは許されてはいないね。ただ、今回事を上手く運ぶためには、どうしても雛美さんには説明しておかなければならなかったんだ。あれは、どうしても霊力の消費量が多いから、並大抵の陰陽師には扱えない。」

「……貴方と違って、今も神社総庁に属する身としては、本来なら許してはいないところですが、今回の件ではそういうわけにもいきません。確かに、死を齎す存在には、あれは有効ですし邪なるモノを寄せ付けない。扱えればこの上なく力強いことですが、そうではない代物なのです。そもそも、使える人間が限定的すぎる。」

 ミネミネは言い切ると、唇を噛んで顔を顰めた。こうは言ったが、自分には極点解放をする資格はある。しかも、恐らく唯一、二体の聖獣を使うことが出来る。何故なら────────

 

 

「ねぇ、お父さん。お母さんとお兄ちゃんは、もう目を覚まさないの?」

 棺に眠る母と兄の顔を覗きながら、幼い彩夏は、喪服に身を包んだ父親の手を強く握りしめた。彼のその手は熱く、小刻みに震えていた。

「彩夏……二人はもう、ここにはいないんだ。」

 彩夏は首を傾げ、父親の顔を見やる。目に溜まるものを必死に流さんと堪えるその顔は、今も鮮明に記憶に残っている。その顔を見ていると、自分の頬に熱いものが伝っていったのを感じた。

「じゃあ、二人は何処に行ってしまったの?」

震える声で、彩夏は父親に尋ねた。父親は少し間をおいて、静かに答えた。

「空へ。」

 

 

 私の家族は、両親揃って陰陽師だった。それに倣うように、一回り年の離れた優しい兄も、誇れる両親のように人々を救いたいと願い、陰陽師になった。自分の目標を嬉々と語る兄の顔は、私には眩しく、とても誇らしいものに思えた。

 修行を積んだ兄が、学生でありながら陰陽師として活動をし始めたのが、彼が十九歳の時だった。地元の大学に進学し、漸く大学生活にも慣れたということで、夏に母親と仕事に向かった。

 二人は無事、事を経て帰路についた。今、バス停で待っているという兄が、はしゃぎながら今回の事を語っていた。帰ったら詳しく話してやる、と私に言い聞かせ、それを私も楽しみにしていた。

 

……二人は帰って来なかった。

 

 バスの事故。運転手が手元を狂わせ、山道のガードレールを突き破り、谷底へ落ちていった。

 運転手は、別に持病を持っているわけでもなく、当日手元を狂わせるような何かが起こるはずはなかった。私が気になったのは、彼の女性癖が悪かった点だ。妻子との関係は良くなかった。事故が発生した同日同時刻、運転手の妻は脳卒中を発症し、翌日死亡した。

 大切な人が二人も亡くなったというのに、恨むべき相手は、もういない。葬儀を終えて、日々募る憎しみと怒りを、何処にぶつければいいのか、私には分からなかった。父も、辛さを紛らわせるように働き詰めになった。

 

 

 母と兄が亡くなって四十九日を迎えた朝、まだ薄暗い中目を覚ました私は、何かに呼ばれるように家の神社の参道を歩いた。辺りは霧が立ち込めていて、季節も秋に移り変わったせいか、少し肌寒い。

 ふと目を凝らすと、数メートル離れた鳥居の前に、二つの人影が佇んでいるのが見えた。顔を確認しようと、震える足を前に進める。二人の顔がはっきりと分かった瞬間、私は息を呑んだ。

「お母さん…お兄ちゃん……」

 なんで、と言葉は出てこなかった。嬉しい、という感情もこの状況には追いついてこなかった。そこにはただ、心からの安堵があるだけだった。二人は最初から、ここにいたのだと……

 そんな私の反応を見て、母は困ったような笑みを浮かべ、兄は本当に申し訳無さそうな表情をした。

「四十九日迷ったけれど、やはり今の彩夏を残して逝けないわ。今は、触れ合うことすらできないけれど…」

「すまない彩夏。寂しい想いをさせてしまって。本当は、父さんにもこうして会いたいけれど、今の兄ちゃんと母さんがこうして見えるのは、お前だけなんだ…」

 一瞬、二人が何を言っているのか分からなかった。ここでこうして、お互いの姿を見合って言葉を交わせるというのに、何がおかしいのだろう。私は二人に近づき、手を握ろうとした。空気を掴む感触だけが残った。

 そんな私の反応を見て、母が涙を流した。涙が地面に落ちる前に、フッと消えてしまった事実は、私の認識を改めさせた。二人は……目の前でこうして話せるというのに、生きているのではなく死んでいるのだと────────

 

「彩夏、今は無理だけれど…貴女はまた、私達に会って触れ合えるわ。そのために、お母さんとお兄ちゃんはね、貴女の傍で見守ることにしたの。」

「そんなこと、出来るの?」

 私の質問に、ここで会ってから初めて兄が笑顔を見せた。

「そうだな。彩夏があと十年、いや十五年くらい頑張れば、会えると思うよ。その時は、兄ちゃんも母さんもこの姿ではないと思うけどな。」

 歯を見せて笑う兄の顔に、心からの安心感を覚えた。私が生きていれば、いつか二人に会える。

「でも、どうすればいいの?」

「……陰陽師として、困っている人々を救いなさい。徳を積みなさい。今の私に言えるのは、それだけ。でも……必ず会えると約束する。」

 母は小指を立て、私と指切りをするように手元を私に近づけた。母の感触のない指に、私も指を立てて約束した。そんな私達の様子を、兄は心から満足しているように眺めていた。

 母と兄を喪ってしまった人生であるけれど、私が生きていく意味を、この二人が与えてくれたのだ。

 

 霧が晴れ、曙光が辺りを眩く照らす。その光に目がくらんだ私は、きつく瞼閉じて、ゆっくりと目を開く。 

 

 そこには、私以外誰もいなかった。

 

 

 

 自身の守護霊を、邪なるモノを祓う聖獣として召喚する聖獣魂還、その存在を知ったのは、陰陽師として修行の最中にある時だった。この時初めて、二人が言っていた言葉の意味を、真に理解できた。

 陰陽師として、私に救える人間がいるのなら救おう。善徳を積もう。

 

 だが、それは正義のためではない。

 

 幽霊屋敷にて、少年は私に尋ねた。陰陽師になった理由を─────

 私はただ、再び母と兄に会いたかったのだ。会って…生前の二人にしたのと同じように、言葉を交わして、触れ合って、生きている者ができる当たり前のことをしたかったのだ。その願いを叶えるために、今まで陰陽師を続けてこれたのだ。

 私が陰陽師になった理由は、エゴに過ぎない。そこには、気高い志なんてものは存在しない。

 

 それでも、この想いだけは譲れない──────

 

 

 

「何故、あなた方お二人は、私が極点解放の資格を持っているとご存知なのですか。」

 その疑問をぶつけると、二人は痛いところを突かれたという風に、表情を歪めた。やはり、何か隠しているところがある。

 宇本は一息つき、洗い物を終えると私に向き直り、答えを口にした。

「なんてことはありません。ここに蔓延っていた神社総庁の連中を追い払う際、幻惑して情報を引き出したまでです。私の第三符極点解放は、こちらの方向性に秀でた力を使えるので、情報は簡単に引き出せますよ。」

 驚きの言葉が彼の口から飛び出した。なるほど、姫にレジストされた第三符でも、この男が使う極点解放なら、彼女にも通用するのかも……

「貴方も使えるのですね。」

「ええ、まぁ。」

 宇本の返事から嘘は感じられない。極点解放を使ったのは事実だろう。そこで私の情報を引き出したかは、話が別だが。

「まあいいです。それより、どうやってこの短期間で極点解放を身につけるというのです。」

 一番の問題はそれなのだ。私の霊力では、極点解放をするには物足りなすぎる。術の行使に必要な霊力の絶対量が不足している。

 私の言葉に、雛美殿が微笑んだ。

「霊力の絶対量の不足は、一時的にですが対処できる問題です。此の地の龍脈を、今晩貴女に接続します。そこから霊力を制御し、極点解放を上手くできるかはミネミネさんの力量次第になります。」

 

 その答えに、私は心が昂るのを感じた。断る理由など、存在するはずもなかった。

 

 

 

 

幕間  ベガとアルタイル

 

 

 

 あの日、彼は全てを失った。彼女と共に過ごした最後の夏。己の無力さと愚かさを痛感し、守るべきものを何一つ守れなかった哀れな犬。

 あの時あの瞬間、彼に力があれば…どの選択をすれば彼女を守れたのだろうか。

 悪鬼に取り憑かれたように修行を積み、代償を支払って力を手にし、十年を経て漸く辿り着く。

 

 朱峰地方を俯瞰する霊峰、左獄山。その山頂から、青年は郷愁の地を眺めていた。

 

 

 

 二日前、峰々神社境内にて───

 

 

「静太、本気なのか?」

峰々彩夏は眉間に皺を寄せ、顔をしかめて青年に問う。かつてのポニーテールではなく、その長い髪は綺麗に下ろされていた。

「本気だよ峰々。俺はもう一度左獄山に行く。」

空静太はきっぱりと言った。

 

あの夏の少年に無かったものは、この十年で彼が全て身につけた。一ノ宮の血の影響もあるだろう。あれからたった十年で、当時の峰々を凌駕する陰陽師に、彼はなった。

 

当時の彼を知る人間が一目見ても、本人だと判断するのは難しいほど、あの夏で全てを失った少年は、精悍な顔つきになっていた。

 

「あの件からもう十年か。陰陽師になりたい、と言い出したのには驚かされたが……やはりまだ諦めていなかったのだな…」

峰々は、夜空を眺めながらため息混じりに呟く。虚空を見上げている彼女の首元に、彼の視線が向けられる。彼女の胸元から続く歪な傷跡が、ほっそりとした首にはよく目立った。

 

失われた少女、解き放たれた災厄、呪われた地。

あの夏で全てを失った少年を、峰々は引き取って育て上げた。彼女と過ごした十年間は、空静太の半生を癒やした、かけがえのない時間となっていた。血の繋がりが無くとも、峰々は静太にとって家族同然の存在となっていた。

 

それでも…

 

「ゴメンね峰々。十年という時間じゃ、俺は救われなかった。俺は自分自身を救うためにも、あの左獄山で時戻しを行う。そして全て取り戻す。」

 

時戻しの術、青宮院本家に伝わる奥義。禁足域が死の現象を繰り返すという性質を利用し、術者を禁足域になる前の状態に送り込み、無理やり過去に干渉する禁術。左獄山に巣食う怪異が朱沢の地を荒らし、取り返しのつかない事態になった時、それに対処するために青宮院家が作った術である。 

 

「あの聖域で見つけた書物にあった術か。確かに今の状態の左獄山なら機能するだろう。しかし…」

峰々が賛同できないのも当然である。朱沢町は、およそ人間が踏み入るのを禁じられた場所と成り果てていた。

 

 

あの夏、紗姫を含め三人は、左獄山の聖域に辿り着いた。そこで紗姫は、蛇神を鎮めるための儀ではなく、蛇神とそれを慰撫する巫女である、黒い少女を鎮める儀を行った。

しかし、不完全な方法での儀式では、左獄山の神の二柱には通用しなかった。

不完全な方法というのは、少し語弊があるだろう。鎮めの儀には二通りのやり方がある。青宮院に伝わる神器を三つ揃えた状態で祓う、あるいは神器の一つである鏡のみを使用して祓う。共通するのは、対象と向き合う術者は青宮院の当主、または正統後継者であり、三人は後者の方法をとった。あの時、神器は青宮院本家に剣と鏡の二つが残されていたが、完全な状態で保存されていたのは鏡のみであり、剣は刀区から折れていて、上身がない状態だった。

 

 

紗姫が鏡を用いて聖域の龍脈を制御し、ミネミネは無理を通して第七符を極点解放し、蛇神を抑え込んで紗姫を支援する。ただ二人の成功を祈ることしか出来なかった静太は、いてもいなくても良い存在だった。

初めて左獄山に迷い込んだ際、祠に入って黒い少女の封印を解き放ったのは彼で、全ての元凶と言っても過言ではなかった。にも拘らず、生き残ってしまった。

左獄山にあった全ての怨念は、黒い少女と蛇神を核とし、紗姫の魂を喰らい、朱沢町を禁足域にしてしまった。聖域にいた静太と峰々の二人だけが生き残り、静太の母親もあるさんもアケチも、川乃先輩も中条も星海さんも…巳継叔母さんも青宮院本家の人達も、皆……

 

「今の朱沢町がとんでもなく危険なのは百も承知だよ、峰々。それでも…俺の時間は、あの夏から一秒も進んでないんだよ。」

「……」

峰々は黙ったまま、じっと静太を見つめた。彼女の右手は力強く握りしめられたまま震えており、その表情からは、憐れみと悲しみが読み取れた。

それもそうだろう。静太にとって、確かにこの十年は幸福な時間だったのだ。峰々がいなければ、彼はとっくに壊れていた。

 

あの瘴気で覆われた左獄山を、命からがら下山し、抜け殻のようになっていた静太を、峰々は自分の家に連れて帰った。彼に話しかけても反応はなく、一ヶ月間は心を閉ざしてしまっていた。峰々の家である峰々神社には、たまに帰って来る父親を除けば、峰々一人だった。母親と兄が既に他界していると知ったのは、静太が神社で世話になり始めてから、しばらく経ってのことである。

そういった経緯で、静太は峰々に本当に世話になった。幽霊屋敷での有様からして、家事全般は苦手だというから、気力を取り戻した彼が、峰々家の家事全般を担当するようになった。痛々しいあの件を経験してから、静太が陰陽師になりたいと頭を下げた時、峰々は驚きながらも承諾したのだった。彼女に時間があるとき、彼は納得するまで付きっきりで指導してもらった。静太が高校を卒業した後は、峰々の仕事に同行することを許され、日本中を飛び回った。今日の空静太があるのは、峰々彩夏と歩んできた十年があってこそだ。

 

「……私は、姫から君の命をなんとしてでも守り通せと云われた。みすみす君を死なせるわけにはいかないんだよ。」

峰々は参道に出ろと言い出し、静太はそれに従う。

───空気が重い。

峰々が発する威厳は、この十年で培われていったものだ。あの夏の彼女のように、紗姫にいいように使われていた甘さは薄れていた。

静太がふと空を見上げると、あの時のような満天の星空が広がっていた。こと座で一際輝きを放つベガを蒼眼に映すと、あの時誤った選択をしかけた自分が、紗姫から叱咤を受けた記憶が蘇る。

 

「もう二度と、わたしの許可なしで死のうとしたら駄目だから─────」

あの時紗姫に噛まれた静太の左肩には、まるで聖痕のように、歯形がくっきりと残っている。

 

 

「いい?陰陽師。私が……もし私達があの黒いやつをどうにも出来なくて、私が死んじゃったら……」

あの夏、青宮院本家から左獄山に向かう前に、紗姫は峰々に願い出た。

「アンタは、全てを懸けて静太を守って。静太がおじいちゃんになるまで、その生き様をアンタが見届けて。」

峰々はそれを承諾した。紗姫や朱沢町に住む人間を、彼を除いて誰一人救えなかった己に出来ること。

 

 

参道にて、静太は峰々と真正面で向き合い、互いに睨み合う。緋色に輝く彼女の瞳には、何としてでも彼を止めんとする、絶対の意思が燃えていた。

無言のまま峰々は符を構え、静太もそれに倣う。

「(あの子は姫に引っ張られたままだ。捻じ伏せたとして、私に正せるのか…?)」

「(まともにやって勝てる相手じゃないが、まともにやらないと後悔する…!)」

 

相対する二人の陰陽師。力量の差は素人目にも明らかで、術の応酬では青年が一方的に押されていた。そして─────

 

 

「(少しは成長したつもりでいるが、ここまでの差とは……)」

あっという間に峰々の術で拘束され、静太は身体の自由を奪われた。

「全く……変わらないな、無茶をするところは。」

峰々が術の拘束を解かないまま、静太に近付いてくる。彼女に襟を掴まれ、静太は思いっきり頬をぶたれた。

「っ!?」

「今の朱沢町は、この私ですら手を焼くほど危険な場所だぞ。私の力を上回ってもいない君が行っても、無様に無駄死にするだけだ。頭を冷やすんだな。」

殴られた衝撃で地面に突っ伏したのと、至極真っ当な正論をぶつけられて、静太は少し泣きそうになっていた。倒れた際に懐から石が飛び出して、目の前を力なく転がる。

やはり峰々と静太では、積み上げたものの差があまりにも大きすぎた。陰陽師としての彼女は、現代の日本で三本の指に入る実力を持つ。

 

だがしかし、喪われた少女の笑顔と彼女との思い出が、空静太にある覚悟を決めさせた。

彼は目の前にある石を────、あの山荘で霊能者の一ノ宮から貰った形見を、手元に手繰り寄せた。

「(峰々は忘れているよ。陰陽師は…術が効かない相手には、てんで役に立たないってことを。)」

強く……ただ強く、なんなら砕かんばかりの力で静太は石を握り締めた。とある祝詞を頭の中で唱えながら。

「(頼む。力を貸してくれ……今度こそ、紗姫を救うために──────)」

突如、静太の手の中の石は、淡い青色の炎を纏う。すると、腕も満足に動かせなかった彼の身体は、次第に自由を取り戻してゆく。その様に峰々は驚愕していた。石から吹き出し、静太の身体をまとわりつく炎から、禍々しさは感じなかった。むしろそれは、見ているだけで安心感を覚えるような、生命の息吹を感じさせる、安らぎの炎だった。

峰々は、再び静太を拘束する術式を組み立てていく。しかし、もはやそんなものは関係がない。▓▓▓に先祖返りしている彼は、今や龍深の巫女に等しい存在である。

そう、かつての青宮院紗姫のように。

 

「馬鹿な。私の術が全く効かなくなることなんて、これまででニ度だけ……まさか!」

彼女の懸念は当たっていた。石の覚醒の代償に、彼の髪は一気に白髪に染まり、顔にはシワが刻み込まれ、身体はひと回りもふた回りも痩せこけた。

「一ノ宮の家は、青宮院の女性を娶ったことがあった。青宮院家は、一ノ宮に嫁入りさせる時、この石を先祖代々受け継いでいくようにしたんだ。そして石は、山荘で会った一ノ宮さんから、俺へと受け継がれた。」

身体に纏っていた炎は、次第に消えていった。しかし、今でも手の中にある石からは、強烈な生命の鼓動と神気を感じる。

「一ノ宮の血を引く男性は、女性と違って異能は使えないけど、青宮院の力を借りることで霊能力を使うことが出来たんだ。まぁ、青宮院を祖先に持つから、別に不思議なことじゃない。」

「君の話では、山荘で会った一ノ宮の男性は、事件発生前に子供を授かっている。彼には、暖かな家庭を築ける未来があったんだ。そんな男が…今の君のような姿になる力を扱うとは思えない。何故…なぜ君は……」

「あの夏、青宮院の本家に行った時、石の力を教えてもらったんだ。青宮院が加護を授けたものとのことだしね。この石は、ある一定のラインを超えた力を借りると、使用者の寿命を削るらしい。何故そんな不完全なものであるかは分からないけれど……制御は簡単だから、意識してそのラインを超えようとしなければ、一ノ宮さんのように仕事にも安全に使える。でも、そのライン超えて、限界まで石の力を借りると、青宮院に先祖返りし、寿命が削られ、使用者の姿は老人のようになる」

「ッッ〜〜!!………馬鹿者が。君がそこまで自分を犠牲にして、姫が喜ぶと思っているのか?」

紗姫は怒るだろう。絶対に。彼女はあの夏、自分が命を懸けて彼を守ったというのに、このような有様を見てしまったら、彼が自然死するまで呪いそうではある。

「……“僕”が時戻しをしなければ、紗姫は勿論、あの時死んでいった人達の霊も慰められない、そうでしょミネミネ。」

何度言っても聞かない静太に、峰々は遂に感情を爆発させ、完成された第七符を極点解放した。

「君は未だに十年前の無力だった自分自身に負け続け、今も尚あの災厄に囚われている。自分に勝てない人間が、どうして他人に勝てる!!?」

峰々が手にしていた二枚の符が青く燃える。一瞬にしてさらに大きく燃え上がると、その蒼炎は、翼を持つ全長ニメートルほどある、二頭の天馬へと変わった。静太へ向けるそれらの眼は憂いを帯びており、今の峰々の想いが宿っているようだった。

その身に聖なる翼を携えた二匹の聖獣が、静太に向かって勢いよく駆け出した。全ての闇を切り裂かんとする、流星のような煌めきを纏うそれらの姿に、静太は一瞬だけ見惚れた。

しかし、すぐさま彼は、握りしめていた石をそれらに翳し、心の中で祝詞を唱えた。

「────朱き地の清き流れ、吾もまた、その大いなる流れの一つなり」

手にある石が蒼炎を帯びたのを確認し、静太は感情を爆発させた。

「それは─────、ミネミネも同じはずだろう!!」

彼が叫ぶと同時に、石から溢れ出した蒼炎は、大地をうねる龍の如く、二頭の天馬に纏わりついた。

雷鳴の如き轟音が周囲に鳴り響く。青宮院に先祖返りした今の静太であれば、峰々の切り札を相殺するのは不可能なことではない。

 

 

「私も同じ、か……フフッ、確かにそうだな。私もあの時に姫を、君の大切な人を守りきれず、今日まで後悔しながら生きてきた。」

峰々は地面に膝をつき、項垂れながら呟いた。余力は残っているが、相手が今の状態の静太であれば、永遠に決着はつかない。彼女は、それがあまりにも不毛であることを悟り、白旗を上げた。

「───姫、すまない。君を守れなかっただけでなく、君の一番大切な人を止めることすら出来なかったよ。私が未熟なばかりに……」

もとより、彼を止めることなど最初から不可能だったのではないか、と峰々は思う。あの厄災から十年、彼が生きるための原動力となっていたのは、もう一度あの夏を経験し紗姫を今度こそ守る、という絶対の意思の力だった。彼のその姿勢は、かつての自分と重なるようで、峰々は寂しく思った。

 

 

言うことを聞かない青年を止めきれず、肩を落とす峰々に、静太は申し訳無さを感じていた。

左獄山から生還した二人は、自分たちだけが生き残ってしまったという事実に、罪の意識を感じながら十年を過ごしてきた。峰々は陰陽師として、それまで以上に修行を積み、人を助けてきた。あの時の失敗を、もう二度と繰り返さないためにも。ただ、あの件はあまりにも死者を出しすぎた。

死んでしまった人間は、どうやっても蘇ることはない。死は絶対的で、不可逆的である。それが、この世の道理だ。

 

峰々の戦意が喪失したことを確認し、静太が神社を去ろうとした時、

「待て静太、君が行くというなら私も行くよ。」

峰々は顔を上げ、傷ついたような笑みを浮かべる。彼女から、思いもよらない言葉をかけられた静太は、目を丸くした。

峰々が着いてきてくれるなら、彼にとって百人力だ。ただ、禁足域となってしまった朱沢町は、十年前の峰々と静太が、死にもの狂いでやっと脱出できた地獄そのものだ。あれから十年後の今、町に充満した瘴気は更に濃くなっている。紗姫や今の静太くらいの耐性がなければ、あの瘴気には到底耐えられないだろう。

「ありがとうミネミネ…ミネミネがいてくれれば怖いものなんてないよ。」

静太は微笑みながら、峰々に近付き、立ち上がらせようと手を貸した。峰々も微かに笑いながら静太の手を取る。

その刹那、青白い光が峰々を覆う。

「な……んで………」

静太が自分に何をしたのか瞬時に理解し、峰々は彼の行く末を予感した。遠のく意識のまま目を潤わせ、震える腕で静太にしがみついた。

「ミネミネ、今までありがとう。貴女は、僕の大切な人だから。長生きしてね。」

自身の腕の中で崩れ落ちる峰々を、静太はしっかりと支えた。生きている人間の……彼にとってこの時代で最後となる、峰々彩夏の確かな温もりをしっかりと感じた。

神社の中に運び、峰々の私室に彼女を連れて行く。部屋の布団に寝かせ、手紙を枕元にそっと置いた。

「(ミネミネ…時戻しの術で過去に行けるのは術者一人だけだ。貴女を連れて行くことはできない。それを分かったうえでついてこようとしたんだから……)」

 

自分に残された、たった一人の大切な人を、絶対に死なせるわけにはいかない。

 

 

布団で眠る師の首元を、静太はそっとなぞる。胸から首元に伸びる傷跡。それこそが、何者でもなかった彼が、大切な人が傷つく時にどれほど無力であるかを、まだ少年だった頃の彼自身に理解させた、罪の証なのである。

 

「……っ…さよならっ!」

 

 

碧き鷲は、琴の音を鳴らすために、天翔ける。彼を導き、守り続けてきた白き鳥は、その飛翔を目にすることなく、羽を休めるのだった。

 

 

 

 

「君は将来、良い男になるかもしれないが、女性を泣かせたら承知しないぞ。」

「セイくん…セイくん……お父さんが…」

 

新幹線の中でハッと目が覚める。二人の女性に嘆かれている夢を見た。どうやら始発に乗ってから二時間ほど寝てしまっていたようだ。あれだけの術を行使して、大して休みもせず来たんだから当然か。

…峰々を泣かせてしまったことは、かなり俺にダメージを負わせたらしい。星海さん、大切な女性を泣かせてしまいました。こういうところは父親譲りです。美樹お母さん……ごめん。

 

長野駅に着き、バスとタクシーを乗り継ぎ、途中から徒歩で朱沢町の前まで来た。青宮院に先祖返りして老人のようになったけど、どうやら体力はそのままらしい。

あの事件以来、朱沢町は日本でグンマに並ぶ魔境と言われている。瘴気は朱沢町全域を覆い、神社総庁も実力ある陰陽師を多く派遣したが、誰一人として禁足域に耐えられる者はいなかった。YouTuberなんかも面白半分で数人ほど撮影に行ったが、陰陽師と違いなんの力もない彼らは、一瞬で瘴気に蝕まれ死んでしまう。

 

そんな呪いの地に踏み込むわけだが、今の俺にはその瘴気も関係ない。倒れた道祖神を踏み越え、左獄山へ向かっていく。

かつて、朱沢町の自然を潤わせていた清流川の跡に沿って、周囲を警戒しながら歩き続ける。この川は、諏訪湖を水源とする天竜川と繋がっている。天竜川が朱沢町に到達して、清流川となるのは、町の北西に位置する一ノ宮邸近くの水路からである。そこから左獄山の脇を流れ、町の中心部にある龍深山の近くを通り、北から南に流れる川である。

 

 

川に沿って、左獄山への歩みを進める。瘴気の濃さは、やはり前以上だが、あの惨劇で死んだ人々が、怪異となって襲いかかってくる気配はない。空静太以外に、辺りに音を響かせるものは存在しない。

 

現世から切り離された空間であり、生者の介入を許さない呪われた地。たった一人で音を鳴らして進む今の自分は、もしかして悪夢を見ているだけではないかと、甘い考えが頭によぎる。音のない世界なんて、まるで現実的じゃない。実は、あの夏に俺達は蛇神と黒い少女に打ち勝って、消耗した俺が気を失って悪夢を見ているだけかもしれない。

左獄山から生還して以来、何度もした妄想は、ズボンのポケットから、コツコツと固い何かを叩くような音によって、断ち切られた。

もう少しで自分を見失うところだった。こんな甘さは、峰々との修行の中でとっくに消し去ったはずなのに。青宮院に先祖返りして、瘴気の影響を受けなくなったのは肉体だけで、精神汚染は避けられないものらしい。それにしても…

 

 

何故、人に害をもたらすこれほどの呪いが、朱沢町限定で発生しているのか。俺には、何の根拠もない確信があった。本来なら、日本全土とまではいかないだろうが、県全域まで拡がってもおかしくないレベルの呪いだ。

 

 

想いの行き着く先。

あの夏、俺達はそんな話をした。青宮院本家は滅び、最早龍深の大神の加護も、結界を管理する人間も存在しないはずの朱沢町。それでも尚、呪いが朱沢町の外に漏れ出していないのは…

 

 

「紗姫……」

最も大切だった者の名を呟き、空静太は目を潤ませ、息を切らしながら足を早めた。

青宮院紗姫の魂は、確かに蛇神に喰われた。肉体は抜け殻となり、あの時の俺と峰々は、紗姫の身体を連れ帰ることも出来なかった。十年も経ったら、既に朽ち果てているだろう。それでも、彼女の想いは消えず、龍深の巫女としての役割を果たすために、左獄山から解き放たれた呪いを封じ込め続け、今も尚、その想いはこの地に縛られている。

「そんなの、辛すぎるよ……紗姫」

これ以上紗姫を苦しませたくない。時を戻して彼女がこの運命を辿るのを回避し、今の紗姫の想いを解放する。そのためだけに、この十年生きてきた。

 

「ハァ……ハァ………」

左獄山に入る。あの場に近付くにつれて、踏み出す足が重くなる。あの日紗姫を失い、何もできなかった自分は、どれほど強くなれたのだろう。紗姫を守れるだけの力は、今なら確かに、この手にあるのだろうか。

それを証明する最初で最後のチャンスだ。あの夏と同じように、それでいながら、今度は怪異に立ち向かえる力を持った空静太は、遂に左獄山の聖域に辿り着く。

 

 

「……」

青宮院を完全に降ろした時から、自分の中にあるもう一つの意思を、微かに感じてはいた。だが、今はもう…はっきりとそれを感じることができる。

 

 

「紗姫とボクって、喧嘩したことあったかな?」

僕らは小さい頃から、兄妹のように育ってきた。僕らはいつも一緒だった。

 

 

紗姫が何故、黒い少女が意図せず作り出した山荘に導かれたり、そもそもタケシの一回目の呪いが効かなかったりしたのか、ようやく分かった。何の修行も積まずに、あれほどの霊能力と術耐性、そして霊媒体質。

 

あの夏、タケシを降ろした時とは別に、抜け殻のような状態の紗姫は、彼女を降ろした状態だったんだ。僕の手を引っ張って山荘に辿り着いたのも、その時の紗姫ではない、別の意思が働いているようだった。

 

 

 

黒い少女……あらゆる願いを歪めた状態で叶える、神ともいうべき存在。そうだ。君は皆の願いを聞き、自分にできる範囲で叶え、龍深の大神の子だと持て囃された。そして、あの大飢饉を乗り越えるために、朱沢村を守るために……人柱になった。

 

私の大切な妹、いつも意見が合わず喧嘩し、皆のためにその身をすり減らすお人好しの女。君がその身を山に差し出しても、御山の祟りが収まっただけで、大飢饉自体は続いた。そして、それを嘆いた村人は、山に捧げる生贄を選び続けた。贄となった人々の無念は、君の魂を穢し、人々を救いたいという君の想いは、左獄山という大地に縛られ、君は……願いを叶えた代償に命を奪う存在になってしまった。

 

黒い少女の正体は、青宮院紗姫の先祖にして前世、青宮院葵だ。かつては龍深の巫女であり、十年前は蛇神の巫女であった。

青宮院家初代当主の生まれ変わりとされており、三種の神器を用いて、覚醒した蛇神を鎮めた、朱沢村の救世主だ。優れた双子の妹とは違い、平凡な才の私は、彼女の身の回りの世話をしていた。

 

 

 

俺と同じように平凡で、俺の前世である青宮院蒼太。妹の一番側にいながら、彼もまた…大切な人を守れなかった。その無念は天に昇ることなく朱沢の地に宿り、今……俺の中にある。

 

「(タケシの呪いが効かなかったのは、龍深の巫女の資質を持ち、呪いや術に対して耐性がある紗姫には、本人による契約以外では無効だから。紗姫のあの抜け殻のような状態は、自身の端末として使える紗姫に降りたことによるものだ。山荘に辿り着けたのは、自身が原因で発生した場所に行くのは容易く、パイセンのお母さんの願いを叶えるために、それを解決する手段として、自分の手足のように動かせる紗姫は最適だったから。でも葵さんは、契約による願いを叶えたかっただけだから、あのような状態はそれっきりだった)」

 

 

もういい。生前のあり方のせいで、歪んだ形で願いを叶える機構となってしまった彼女は、いい加減眠るべきだ。それも封印なんてあんまりなやり方では駄目だ。

 

全ての柵から解放し、碧天へと羽ばたかせる。

それこそが、大切な人を守れなかった罪人の、為すべきことなのだから──────

 

 

 

 

 

左獄山の聖域、鎮めの儀の場の奥にある、幻の湖に彼は近づく。時戻しの術を実行するために、あの書に書かれていた内容を反芻する。

 

蒼き血を継ぎし者、夏の夜空に三つの星が強く輝く時、術者の血と自身の大切なものを聖域の鏡に浮かべ、祝詞を唱えよ。

 

「…ギッ……!!」

静太は右の親指を強く噛み、流れた血と紗姫がつけていたシュシュを水面に浮かべた。あの時、魂の抜け殻となった紗姫の、冷たい手首から取って持ち去った、唯一の形見である。

満天の星空を映す湖は全体的に明るくなり、神気を帯びたように見えた。

 

 

「(三つの星は、ベガ・デネブ・アルタイルだ……紗姫、あの時は無理だったけど、今の僕なら紗姫の彦星になってみせるよ。)」

あの遠く輝く星々のようにはなれず、未だこの地に縛られている紗姫に、彼は強く誓った。彼女の想いの先は、大地ではなく天にあるべきだ。

 

「掛けまくも畏き、龍深の大神の大前に空静太、かしこみかしこみもうす。」

 一度目を閉じて心を落ち着かせ、波一つ立てない水面のような状態を作る。

「現身の身にも来し方の身にも、償ふべき咎ありと、龍深の大神 時を戻したまへと白すことを聞食せと、かしこみかしこみもうす。」

 

 祝詞を唱え終わった瞬間、湖水が龍のようにとぐろを巻き、彼を包み込んで藍色に輝いた。

 

「せっかくここまで来たんだから、もっと感覚を研ぎ澄ませて私を感じ取りなさいよ……」

 彦星は織姫の存在を感じ取れず、彼女を救えなかった罪を償うために、遂にあの夏へ旅立った。

「後悔のないようにね、静太」

 魂がこの地に縛られた少女は、名残惜しそうに微笑みながら、愛する少年がいた場所に暫く佇んでいた。

 

 

「静太の全ては私のものなの!!」

 彼女の叫びの記憶が、閉じていた静太の意識を覚醒させた。重くなっていた瞼を開く。失われたはずの懐かしい風景が、眼前に広がっていた。夏の緑の匂いを大きく吸い込むと、身も心も少年に戻ったかのようになり、自然と笑みがこぼれた。

 

 

 ────そうだ。この夏こそ俺が想い焦がれ、ずっと手を伸ばし続けてきたものだ。どこまでも突き抜けるような青空は、怪談をするには場違いなコンディション。大きなソフトクリームのような入道雲があるところまで、何もかも一緒だ。

 にわかには信じられないが、遂に戻ってきたんだ。

 

 今俺がいる場所は、左獄山の聖域ではなく山頂入口だった。もっとも、あそこは紗姫の勅命があって開かれた場所だから、彼女無しに行けないのは当たり前か。

 

「紗姫……確かに俺の全ては紗姫のものだよ。だからこそ俺は……“僕”は、全てを懸けて今度こそ君を救う。」

 今はのどかな雰囲気を漂わせている朱沢町を眺めながら、僕はこの地に誓った。

 ───まずは、夏休み最後の日まで過ごす拠点が必要だ。三週間も野宿するわけにはいかないし、あそこでお世話になるとしよう。明日から夏休みが始まるから、自然と会うことができるラジオ体操に行って、紗姫を一目見ておきたい。

 今後の計画を頭の中で整理し、僕は山頂を後にした。

 

 

 

 

第十一節 天の祭壇

 

 

 

 其処は絶えず祈りが捧げられた聖域。

 最果てにある蛇の片割れ、朱沢の大地を俯瞰してきた龍が棲む霊峰。

 

 蒼き流れに穢れが混じることで、狂いし龍神は二柱の神となった。青宮院は善性の神を和魂として崇め、悪性の神を荒魂として最果てにて鎮めてきた。

 約二百年前に起こりし悲劇は、青宮院に▓▓の宿業を背負わせ、龍神を引き裂き、少年少女の未来を壊すことになった。

 

 そんな悲しい運命を断ち切るための、始まりの地、龍深山。龍深の巫女の正式な継承を行うために、紗姫と静太と雛美はその山頂に来ていた。

 朱沢町の中心部に聳え立つ龍深山には、古来から青宮院の人間にのみ、入山が許されている。龍深の大神の御神体を、龍深山そのものとしており、縁なき部外者の立ち入りは大神の怒りを買い、災いが齎されると言い伝えられているからだ。

 

 

 ならば何故、僕の入山が認められたのかというと───── 

 

「それは勿論、静太君が一ノ宮家の血筋の人間だからですよ。青宮院はかつて、一ノ宮家に一人だけ嫁がせたことがあるのです。」

 とんでもない事実を、雛美さんはさらっと口にするものだから、僕と紗姫は理解するのに一呼吸おいたものだ。僕と顔を見合わせた時の紗姫の表情ときたら、嬉しいような悲しいような、なんとも言い難い複雑な感じだった。

「とはいえ、それは青宮院葵の兄、蒼太の娘が生きていた頃の話ですから、約二百年前のことです。三親等外にまで血縁は薄くなっていますよ。」

 そう言って雛美さんは紗姫に微笑んだ。紗姫はというと、なんか安堵の息をついているし、二人の間にある暗黙の了解が、僕にはよく分からなかった。

 それにしても、あの青宮院の血がこの身体に流れていることを知り、僕は興奮状態にあった。いざという時は、僕に秘められた青宮院の力が覚醒して、蛇神から紗姫を守ることができるかもしれない。

 

 そんな昂ぶる気持ちを抱えたまま、何かに後押しされるように、僕は龍深山を登り続けた。爛々と照りつけてくる太陽と、鼻いっぱいに香る深緑の木々は、いかにも夏の風物詩といった感じだった。例年なら、この強烈さには少し参ってしまうところだ。

 けれど、僕らの運命の分岐点となるこの夏においては、自然の力が背中を支えてくれてるようで、とても頼もしく感じた。

 

 そうだ、きっとこの朱沢の大地が僕の背中を押してくれてるんだと思う。

 

 

 青々とした木々ばかりの視界が一気に開け、僕らは山頂に辿り着いた。

「ここが…龍深山の聖域なんだ。」

 山頂入口には龍深神社のものと同じように、二匹の龍がそれぞれ柱に刻まれた鳥居が立っていた。ただ、こちらの鳥居には粛然とした、有無を言わせぬ神々しさをひしひしと感じる。雛美さんに視線を移すと、僕の反応に微笑みながら頷く。

「そうですね。ここが青宮院家が守ってきた、朱沢の大地の心臓部です。そして、鳥居から先は人間が想像した神域、という説があるように、この鳥居こそがその神域の象徴である神、龍深の大神とも言えるでしょう。」

「なるほどね…確かにこっちの鳥居からは何か温かなモノを感じるわ。生気に満ち溢れているというか。」

そう言って紗姫は、少し日焼けした健康的な腕を鳥居の柱に絡めて、その感触を確かめていた。紗姫のいかにも超常とした発言に、納得しつつも一つ疑問が頭によぎった。程度は違えど、僕も紗姫と同じような感覚を覚えたからだ。

もっとも、僕が青宮院の血を引いている人間だから、でも説明がつくのかもしれない。それまで不思議な感覚を覚えたことがないから、この場合は些か都合が良すぎる気がするが……

 

「さて、とりあえずお昼にしましょうか。紗姫ちゃんは仮とはいえ、巫女の恩恵でそこまで疲れてないでしょうけど、静太君は疲れたでしょう?ふたりともお腹は減ってるだろうし。」 

確かに、かれこれ一時間半近く山を登ったから、僕の脚は棒のように張っていた……と思いきやそんなでもなかった。とはいえ、お腹はかなり空いていたので、雛美さんのご厚意に甘えることにした。

「はあぁぁ……私はお腹が空きすぎて動きたくなーい。静太、私の分も準備してちょーだい。」

紗姫が鳥居に寄りかかって、水筒に口をつける。僕は紗姫に近づいて、被っていたキャップを彼女に深く被せた。

「うん。分かったよ紗姫。」

「静太君は本当に紗姫ちゃんに甘いのね。」

くすくすと笑う雛美さんに見つめられ、僕は頭を掻いた。視線を感じたから目線を上げると、帽子を被り直した紗姫が、機嫌良さそうにこちらを見つめていた。

 

雛美さんと協力して、鳥居の外でブルーシートを地面に広げた。彼女が背負ってきた保冷バッグの中から、おかずが入ったタッパーを取り出していく。

雛美さんと宇本さんが二人で作ったのだろうと一瞬思ったが、恐らくそうではないだろう。早朝から宇本さんは、ミネミネに付きっきりだった。僕らが朝食を取るよりもずっと前に、食事を済ませて術の撃ち合いをしているようだったし……戻ったらミネミネに色々と聞いてみよう。

雛美さんが、エビフライや肉じゃがを紙皿に手際良く取り分けている間に、僕は紗姫を呼びに行った。いつの間にか、紗姫は鳥居を離れてその向こう側、山頂奥の祭壇の傍に佇んでいた。

 

 ちょうど僕の家と紗姫の家の距離、約二十メートル先にいる少女の姿は、どこか憂いに満ちていた。小走りで紗姫の下へ駆けていくと、彼女がこちらを振り向いた。やはり、どこか表情に翳りが見える。

「どうしたのさ、紗姫。なんだか元気がなさそうだよ。」

努めて明るい調子で声を掛ける僕に、紗姫はぎこちない笑みを浮かべた。

「何だかね…この祭壇が私を呼んでいるような気がしたのよ。助けてあげて欲しいって。」

 そう言って、目の前の龍深の巫女は再び祭壇に目を向けた。

 僕も彼女につられて祭壇を見上げた。特段、派手な装飾はないけれど、本家の屋敷の構造を象徴するように、三つの小さな御社が建っていた。

「雛美さんから教えてもらったの。黒い少女を鎮め、天に還すための儀を執り行うのに必要な三種の神器。それらを納めているのが、この祭壇だって」

「ここに例の神器があるんだ……」

 神器が今どのような状態にあるかは、僕も雛美さんから話を聞いている。完全な状態で現存しているのは鏡だけで、剣は刀身がなく玉に至っては紛失している。

となると……持ち手しかない剣では大した大きさにはならないだろうから、祭壇の最上段にある一番大きな御社の中にあるのが、おそらくは鏡なのだろう。高さニメートルほどある祭壇で、本能に訴えかけるような何かを、そこから一番よく感じる。

「でも紗姫が悲しそうなのは、神器のせいじゃないよね。やっぱり、この柱から何かを感じているからじゃないの」

 そう言って僕は、祭壇の中段部分にある柱に視線を移した。これが祭壇であるから、おそらくは青宮院の人々の御霊を祀っているはずだ。

「そうね……多分、呼んでいるのはご先祖様たちだと思う。けど、心苦しくなってるのは、それとはまた別なのよ」

 どうにも歯切れが悪い紗姫の言葉に、僕は首を傾げた。紗姫は祭壇ではなく、祭壇の周りの地面を悲しげに見つめていた。

 何とも息苦しい雰囲気を破るように、僕たちを呼びに来た雛美さんが笑顔で言う。

「二人共、すっかりお腹が空いてしまったみたいね!しっかりお昼食べて元気だしましょう!」

 

「ねぇ雛美伯母さん。」

 齧ったおにぎりを神妙な顔で見つめながら、紗姫が口を開いた。

「紗姫ちゃん、どうしましたか?」

 背筋を伸ばして行儀良く食べていた雛美さんが、食事の手を止めた。

「あの祭壇には……いや、祭壇の周りには今は何もないけれど、それまでは何かあったの?」

 ───なるほど。紗姫が心を奪われていたのは、祭壇の周りにかつてあったものだったんだ。でもそれは何故、紗姫を悲しませるようなものなのだろう。

 合点がいったと言わんばかりに、雛美さんが頷いて答えた。

「ええ。あの祭壇の周りには、勿忘草という藍色の花が咲いていたんですよ」

「ワスレナグサね…!」

「毎年春になると、あの祭壇周りは美しい藍色で彩られるんです。とっても綺麗だから、本当は二人にも見てほしいんですけれど……勿忘草は春に咲く一年草だから、夏まで保たないんです。八月を迎える頃には、すっかり枯れてしまうから掃除して綺麗にしています」

 そう言って雛美さんは祭壇のほうを見やる。紗姫とは違い、彼女は特に勿忘草に想いを馳せているわけではないようだ。

「そういえば、あの祭壇の中段に柱が建っていますけど、やっぱりあの祭壇は青宮院のお墓なんですか?」

 食事を再開した雛美さんに、僕が疑問を投げかけると、彼女は先程のように律儀に食事を止め、微笑んで答えてくれた。

「青宮院のお墓というわけではないんです。本家のお墓は、青宮院が所有する霊園にありますから。あの祭壇には、龍深の巫女であった者たちの、遺灰が祀られているんですよ」

「そうか……だから。」

 驚きつつも僕は納得した。仮とはいえ、紗姫もまた龍深の巫女だ。同じ波長を持つ者同士、彼女には歴代の巫女の想いを感じ取ることができたりするのだろう。

「龍深の巫女といえば、一つおかしな点があるんです。約二百年前に、青宮院葵が歴代最年少で当主継承し、龍深の巫女となったことです」

「何がおかしいと思ったの?」

 食欲が負の感情を凌駕したのか、先程から箸が進んで食事に夢中になっていた紗姫が、ここで口を開いた。紗姫の顔を見て、雛美さんが難しい顔をして答えた。

「それがですね……やはり十四歳で巫女と当主の両方を引き受けるのは、あまりにも異色の事態なんです。」

「若すぎるからってことですか?」

「そうですね。それもそうなんですけど、十代で巫女を継承するのは前例がありますし、彼女よりさらに若い紗姫ちゃんもいます。ただ、当主も継承するのは他に例がありせん」

 ───確かに。今の時代の中学生の年齢で村の中心人物となって名家を背負う、というのは凄い話だと思う。

「雛美伯母さんはそれについて、どう考えているの?」

「そうですね……青宮院葵は確かに、歴代で最も力のある巫女でしょうが、当主を務めるにはあまりにも幼すぎました。彼女が当主をも継承したのは、やむを得ない事情があったのではないかと思います」

「その事情ってなんだろう」

 頭を捻っても、本家の内情に疎い僕では、到底考えつきそうにもなかった。本来、踏むべき過程を踏めなかったとかだろうか?

「私は、青宮院葵とその母親の間にもう一人だけ、当主と巫女を担うべき人物がいたのではないか、そう考えています。あの時代には、どうも空白が存在しているように思えてならないのです。」

 雛美さんの言葉に、僕は頷くことしかできなかった。

 

 

 

同刻、琴の間裏庭にて────

 

「ぜぇ、はぁ……ぜぇ……はぁ」

「流石、総庁の陰陽師といったところだね。飲み込みが早くて助かるよ」

 宇本の調子良さげな口調に、ミネミネは悪態をつきそうになったが堪えた。むかつきよりも、この男の底知れなさへの驚愕のほうが大きい。彼女の聖獣魂還によって繰り出される獣を、自身の聖獣で全て捌いたというのに、息一つ乱すことはなかった。

 休憩を挟みながら、術を身体に馴染ませるのに六時間近く要した。術を行使し続けたミネミネは、もはや精も根も尽きかけていたが、ようやく二体の聖獣を自在に扱えるようになった。

「それじゃあ、僕らもお昼にしようか。雛美さんのご厚意に甘えてね」

 彼女に作ってもらった弁当を取りに、宇本は白鳥の間へ行った。

 彼がこの場を去ったことを確認し、ミネミネは太陽が照りつける地面に仰向けで倒れ込む。水筒の水を顔に浴び、鼻と口から大きく酸素を取り込んだ。刹那、昨夜に接続した龍脈回路が、彼女の全身に浮かび青く輝いた。

「全く……これを自在に扱える存在は、本当に蒼き龍なんだとつくづく思うよ」

 そう呟き、ミネミネは目を閉じた。適正がない者には、とことん使用者の体力が奪われる。それでも、最短で彼女の望みを叶えるのに、これ以上ない手段が龍脈接続だった。

 ───これなら、姫と少年を守れるよね?母さん、兄さん。

 ミネミネは穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと深い呼吸を繰り返していった。

 

 

 

半刻後、龍深山頂上にて────

 

「龍脈、接続。大神よ───聖域を覚醒さすること許したまへ」

 聖域の中心部にて、雛美さんは地面に右手をついた。彼女の祈りは、朱沢の龍に届き、その大神の力は蒼き光と共に聖域を照らし出す。大地の血管のようなものが規則性を持って、彼女を中心に迷路を作るように周囲に伸びていった。

「これが……龍脈なんだ」

 アニメや漫画に出てきそうな、現実とはかけ離れた光景に、思わず感嘆の息が漏れた。

 大地に恵みを齎す生命の奔流が、形となってこうして目の前に広がっている。そのあまりの美しさと力強さに、僕は気づくと涙を零していた。

「じゃあ、行ってくるわね。泣き虫の静太」

 小悪魔的な笑いをこちらに向けて、鳥居の向こう側へ一歩踏み出す彼女を、僕は思わず引き止めそうになる。そんな自分の反応に驚いた。紗姫が遠い存在になってしまうのを、無意識的に恐れているのか……僕は。

 龍の巫女を継承する少女を温かく迎え入れるように、紗姫が聖域に足を踏み入れると、輝きはより一層強まっていった。

 

 

「じゃあ始めましょう。紗姫ちゃん」

「ええ。いつでもどうぞ」

 聖域として覚醒して山頂の中心部にて、紗姫は身を屈めた。既に仮継承は終えているから、改めて血を捧げずに済むのを、紗姫は喜ばしく思っていた。

「接続権、移行」

 雛美が紗姫の背後にて、継承の最後の準備を終える。その言葉を聞くやいなや、紗姫は目を閉じ、世界の向こう側に赤い橋をかけるイメージを、頭の中で創った。

 

「……」

 黄泉の入口のような、白い靄がかかった場所に、青宮院紗姫は立っていた。二度目の景色に、特に感慨はない。

 自分があの時のように橋の上にいることを確認し、紗姫は前へ進んだ。橋のその先には、靄が晴れた黒い夜の森が広がっている。

 橋を渡りきった紗姫は、月明かりに照らされた拓けた場所まで歩を進めた。無事、目的地までイメージを描くことができ、安堵の息をつく。

「さぁ、始めましょう」

 瞼を開き、身を屈めて右手を地面につける。彼女の右腕を通じて、蒼き力の奔流が巫女の全身へと行き渡る。

「掛けまくも畏き、龍深の大神の大前に青宮院紗姫、かしこみかしこみもうす」

 紗姫の言葉に応えるように、地面が藍色に強く輝き、巫女は光の中に包まれる。

「これよりは龍深の大神を崇め、尊び仕え奉らん巫女となりもうす」

 祝詞を言い終え、瞼を閉じた紗姫が闇の中で見たのは、慈愛に満ちた眼差しで彼女を見つめる、輝く蒼き龍の姿だった。

 

 

「青宮院雛美がこれを承認、見届けました」

 紗姫を取り巻く青い光が、今日一番強くなったかと思えば、雛美さんが再び口を開いた。

 ───無事に継承できたんだね。紗姫。 心のなかで何かチクリとした感じがする。これで紗姫は、青宮院という大きな力の一部に組み込まれてしまった。あれだけ自由奔放で、将来はこの町を出ていくんだろうなと思っていた紗姫が、この地に縛られてしまうことが決まったことに、僕は少し寂しく思った。

 

 でも……それがあの家に産まれてしまった女性の、避けられない運命なのかもしれない。

 

「是を以て、青宮院紗姫は龍深の巫女なり。大神の高き貴き御恩頼を以て、龍深の土地に立栄えしめ給へと、かしこみかしこみもうす」

 ここに、正統な龍深の巫女が新たに誕生した。

 聖域が放つ光は、徐々に弱まっていく。何者でもなかった少女は、地をしっかりと踏みしめて立ち上がる。こちらを振り向いた巫女の瞳には、純然たる意志の炎が、碧々と燃え上がっていた。

「さ、紗姫」

 僕が言葉をかけるには、あまりに畏れ多い雰囲気を纏う彼女に萎縮し、乾いた口から情けない声が出た。

「紗姫ちゃん、気分はどうかしら?」

 僕に続いて、雛美さんも心配そうに声をかけた。

 紗姫は凛とした佇まいのまま、僕らに柔らかく微笑む。

「大丈夫よ。違和感も何もないわ。やっとあるべきところに収まったって感じ」

「そうなんだ」

 やはり、以前の紗姫より大人びた印象を受けた。雛美さんはウンウンと頷いている。

「それより……」

 一度言葉を切って、紗姫は背後を一瞥した。そしてこちらに向き直り、口を開いた。

 

 

「今晩、決着をつけましょう。黒い少女であり、朱沢の地における最大の功労者、青宮院葵とね─────」

 

 確固たる意志がこもった巫女の言葉に、少年と当主は思わず顔を見合わせる。永きに渡る、龍と蛇の因縁の決着は、この少女の手に委ねられた。

 

 

 

 

第十二節 最後の巫女、青宮院紗姫

 

 

 

 青宮院家当主が祝詞を唱え終えると、巫女の周囲に張り巡らされた龍脈の線が、彼女を中心により一層輝いた。巫女を包み込んだ光は、彼女と世界の繋がりを切り離す。

 

 青宮院紗姫が目を開けると、そこには、誰もが一度は空想したことがある姿の龍が、こちらを見据えて鎮座していた。身体は廃墟で対峙した大蛇に似ており、背に八十一もの鱗、四足に各五本の指、頭には二本の枝分かれした角がある。顔が長く耳を持ち、口のあたりに長いひげがあり、喉下に逆さ鱗を有していた。

 

 この御龍こそが、龍深の陽の大神だと、巫女は理解した。

 

 大神と紗姫は、碧き流れの中にいた。そこは山の頂上ではなく、無数の龍脈の線が存在する、幻想的な空間だった。龍脈の線は、紗姫が踏みしめている地面だけでなく、自分の肩や膝の高さのものも存在し、それらは全て彼女の背後から前方に向かって、真っすぐに伸びている。淡い蒼色の輝きを放つ龍脈は、空間を美しく照らし、人間が踏み入ることを許さない、荘厳な雰囲気を創っていた。

 

「これもまた、龍脈なの?」

 巫女が龍へかけた最初の言葉は、そんな一言だった。この空間への巫女の反応を静観していた龍は、何も答えない。

 紗姫が口を尖らせると、龍は身をうねらせながら振り返った。

「ついてきなさい」

 こちらを見向きもせずとも、巫女には龍の声が頭の中に響いた。神だからこそ言葉を発する必要はないのか、そんなことを考えながら紗姫は龍の後に続いた。

 

 歩を進める度に、想いの断片が巫女の中に取り込まれる。そこで紗姫は気付く。この無数の龍脈の線は、生命力の源泉であるだけでなく、朱沢町に蓄積された想いの記憶なのだと。紗姫が最初に立っていた地点から前へ進む度に、過去の時代の記憶も進んだ時代のものへと変化が見られた。それは家屋だったり地形だったり、人々の暮らしのあり方だったり様々だった。

 あらゆる時代、あらゆる場所に、人間の想いは龍脈を通して大地に残っている。

 

 いつだったか、陰陽師が言っていたことを思い出す。人間の想いは、重力の縛りからは逃れられないのだと。

 逃れられないのではない。人々の生命の痕跡は、残るべくして残るのではないか。何もかも消え去っても、人間が経た時間は、こうして“想い”として土地に残る。

「でも、この想いが何の役に立つってのよ……」

 

 

 暫く龍の後に続いていた紗姫は、周囲の龍脈の数が一段と少なくなっていることに気付く。

「あのぉ……」と巫女が龍に質問しようと聞く前に、龍は答えた。

「ここです。ここがこの地の特異点」

 巫女を見やる龍の眼が、憂いを帯びていた。ここに自分が知るべき何かがあるのだと、紗姫は直感した。

 

 周囲にある龍脈が、それまでのものと違うことに、紗姫は気がついた。龍脈の線に黒い糸のようなものが絡まっている。禍々しいとまではいかないが、清らかな印象を抱かせる龍脈に、不純物が混じっていると不穏な感じになる。

「青宮院紗姫、あなたが学ぶべきものはこの時代にあります。目を閉じ、龍脈の蛇口を捻るイメージを作りなさい」

 龍の指示に頷くと、巫女は言われるままに山荘でやったのと同じように、龍脈を解放した。

 

「……これは。」

 目を閉じた紗姫の瞼裏に、その時代の光景が流れ込んできた。青宮院葵が当主を務める少し前の時代、青宮院家に一大事が起きたこと。それにより、当時の当主兼巫女であった彼女の母が、その資格をいっぺんに失ってしまったこと。何か禁忌に触れたことで、それまで滞りなく続いてきた青宮院の流れに、綻びが生じたのだ。全てを立て直すために、若くして青宮院葵が全てを背負うことになった。

 彼女が、神器を使ってどのように蛇神を鎮めたのか。なぜ、彼女は蛇神を完全には鎮められなかったのか。当時の彼女の想いが、現代の龍深の巫女となった紗姫に継承された。

 鎮めるのではない……それでは問題を先送りにしているだけだ。根本的に解決するためには、荒御霊となった龍深の陰の大神の、邪悪な部分を根絶せねばならない。恐らく、青宮院葵には、それを実行するだけの人材が足りていなかった。彼女しか、神器を扱える者はいなかったのだ。

 

 私には、今の青宮院は……神器を扱える者の数が足りている。ただ、彼は……

 

 キュッと口を結ぶと、紗姫は大きく息を吸い込んで吐き、目をゆっくりと開いた。

「理解しましたか?」

 龍は巫女に尋ねた。願わくば、青宮院の穢れにも気付くようにと、そんな祈りを込めた声色で、巫女の頭の中に語りかける。

紗姫は知った。あの青宮院葵が、蛇神を鎮めることしかできなかったその理由を─────。

「ええ、問題ないわ。青宮院葵ができなかった事は、私達にならできる。今回は、全ての準備が整っている」

 そう言って、巫女は龍に力強く頷く。

「そうですか……あなたには、この事態が引き起こされる原因となった、宿業を断ち切ることを望むのは、酷な事であるのかもしれませんね」

「えっ」

 巫女は龍が言ったことの意味に困惑し、その真意を問おうとするが、辺りは一段と輝いて、龍の姿は見えなくなった。

 静寂に包まれた世界に、紗姫は一人立ちすくむ。龍は私に、何か真相を突き止めて欲しかったようだが、それが何であるか見当がつかなかった。

「黒い少女が現れるようになった原因は……贄となった青宮院葵が蛇神の復活のために、人々の願いを叶えるシステムとして機能し、願いの代償として命を集める蛇神の巫女になったから……よね」

 本家で話したことを思い出す。彼女の記憶が流れ込んできた以上、これが真相だと思われるのだが……龍が私に知って欲しいことは、また別のことなのだろうか。

「……なぜ、龍深の大神が二柱に分かれたのか?」

 完全なる龍神であったならば、今回の事態は起きなかった?

「……っ!」

 この空間に張り巡らされた龍脈の輝きが、より一層強くなる。世界は光に包まれ、紗姫を龍深山の頂上へ戻す力が働く。

 

 

「青宮院雛美がこれを承認、見届けました」

 正式に龍深の巫女となった青宮院紗姫は、山の頂上に立っていた。

 龍が私に気づいて欲しかったことは、正直分からなかった。巫女である私が自分で気付くことが重要なのだろう。でなければ、あそこで真実を私に伝えたはずだ。

 瞼を閉じ、自分たちがやるべきことを反芻する。青宮院葵に鎮められた後、復活して猛威を振るった蛇神は、日を追う毎に強大な存在となっていった。あれは時間が経つ毎にその力を強める存在だ。であれば、 問題を解決するには、早ければ早いほど良いのだ。

 今、やるべきことは全て分かっている。龍深の巫女としてこの事態を解決し、私たちの夏休みを取り戻すのだ。

「さ、紗姫……」

 私にとって、何よりも護らなければならないあなたが、私の身を案じて声をかける。静太に続いて、雛美伯母さんも不安そうにしていた。

 求められる役割は、蛇神を呪縛から解き放ち、正しき神に戻すこと。そのために、私は宿業を断つ蒼き刃を振るう。

 

「大丈夫よ」

 全ては万全だと言わんばかりに、私は二人に向かって堂々と言い切った。

 ────青宮院葵、今日まで誰よりも朱沢町のために身を費やしてきた貴女を、天に還すわ。

 

 

 

 

第十三節 左獄山

 

 

 

 かつて、命からがらあの窮地から救ってくれた女性とは別の、今のあなたの寝顔を見つめる。白鳥の間に陽光が差し込まないように襖を閉め、改めて目の前の女性に向き直った。

「ミネミネ……俺、遂にここまできたよ」

 自分の成果を褒めて欲しい、そんな子供のような願いが籠もった声音で、目の前で眠る女性に呟いた。

 

 全ての準備は整っている。鎮めの儀を執り行い、黒い少女もとい青宮院葵を解放し、陰の大神を呪縛から解き放つ。

 手筈は完璧なはずだ。神器のうち、欠けている剣はそもそも物質としての刃は必要ないから、特に不備はない。問題の玉だが、現存する中で最高の力を持つ勾玉を選び、龍深山にて大神の加護のもと、霊力を込め続けた。失われた玉の代替としては、神器と遜色ない仕上がりになっているはずだ。

 

 湧き上がる不安を押し殺しながら、三人の帰りを待つ。三度目かの堂々巡りが終わる前に、子供と大人の女性の声が、縁側の外から微かに聞こえた。琴の間の方角からだ。

「帰ってきたか。」

 正式に巫女の継承を終えた紗姫を見るのは、実は初めてになる。自分たちの時は、本物の灯火と青宮院のお偉いさん方が一悶着あったせいで、入山することが叶わなかった。

 廊下を小走りに進み、紗姫がどのような変化を遂げたか期待に胸を膨らませる。

───────驚いた。

 

 琴の間の縁側に座り、今にもサンダルを脱がんとする龍深の巫女の背中が、あまりにも大きく感じた。思わず膝をついて、彼女に頭を垂れたくなるほど、今の紗姫には確かな威光があった。

 彼女がこちらを振り向いた。見上げる者と見下ろす人、前者が下の立場と見られるこの構図は、本人たちにしか実際の力関係は分からない。自分の経験値がそうさせるのか、それとも正式な龍深の巫女になったからなのか、理由は分からない。だが……なるほど。

 

 猫のように大きく綺麗な蒼眼、それがあの夏の少女である証だった。今、目の前にいる少女のそれは……違う。

 なんとまぁ、超然とした眼差しをしているのだ。今の彼女より上の立場の人間が、果たして存在するのか。そんな印象を抱かせるほど、紗姫の雰囲気は別物になっていた。あの碧き瞳は、どんなに深い闇の中でも決して輝きを失うことのない、力強い光を持っている。

 俺が青宮院に先祖返りしているのもあるだろう。彼女が何者になったのか、本能で察知する。あの眼は……龍深の大神のものと同じだ。

 

 龍の巫女と見つめ合っている瞬間は、永遠の刻が流れているように感じた。こちらは何度も表情を変えたような気がするが、彼女は微動だにしない。だが、しっかりと俺を見据えているのは分かった。

 

 ─────君は笑った。

 あの夏のように、小悪魔のそれではない。労うような、慰めるような……慈愛に満ちた微笑みを見せた。

 全て、見抜いたのか。

 

 

 まだ日が高いうちに、本家の屋敷に着いた。宇本さんが琴の間にて、わざわざ僕たちを出迎えてくれた。ミネミネは疲れ果てて眠っているとのことだ。

「龍深の巫女の意に従い、今晩決着をつけましょう。」

蛇神の力が時間経過によって膨れ上がるのを恐れ、手に負えなくなる前に対処する。この計画に宇本さんは二つ返事で頷いた。

 

「いよいよだ……」

「静太、緊張してる?」

 琴の間と鷲の間を繫ぐ庭で、不安と恐怖を吐き出してしまおうと、大きな石に腰掛けて目を瞑っていた僕の後ろから、君の声が耳を擽った。

「紗姫。」

 僕に寄り添うように、彼女もまた石に座ってこちらを見つめる。長くて綺麗な睫毛は、以前よりも艶やかな感じがした。これが……本当の青宮院紗姫なのだろう。

 そんな僕の考えを読み取ってか、口を尖らせて紗姫は言った。

「私、別に今までどおりよ。そりゃあちょっとは大人びたかもしれないけれど、静太と一緒に夏を過ごしてきた女の子よ。今までも……これからも、四季を通じてあなたと共に歩んでいける、青宮院紗姫よ。」

 目の前にいる少女の言葉は、僕の胸に強く響いた。この夏を越えての未来、春夏秋冬を約束してくれるような、そんな希望に満ちた彼女の言の葉は、僕の中にあった恐れを包み込んだ。あとはもう、未来をつかみとるだけだ。

 彼女の言葉に頷き、碧き二つの宝石を見つめる。

「ありがとう、紗姫。」

「どういたしまして。」

 そう言って、君は笑った。

 

 

「いよいよね……」

 場所は左獄山の麓、棘下の車が今も残る駐車場に私たち五人は来た。陰陽師の体力を完全に回復させるのに、宇本が与えた霊薬の副作用で、車中の彼女は痛みで泣いていた。まあ、泣いても笑ってもこれが最後だし、少しは我慢して当然よね。

「調子はどうだい?」

 宇本さんが峰々彩夏に手を貸す。不敵な笑みを浮かべた彼女が、その手をとった。

「全てが終わったら、一発殴らせてもらいましょう。」

「はは……」

 仲のいいことで、師弟関係が結ばれたようね。

「どうやって頂上まで行くの?なんか、山のほうは凄く気味が悪そうで、とてもじゃないけど歩きは無理なんじゃないかな。」

 静太が歯を震わせながら、左獄山を指差した。確かに、魑魅魍魎が活発化しているのが、離れて距離のある麓からでも肌で感じ取れる。

 不安そうにする静太の肩に、雛美伯母さんが優しく手を置いた。

「勿論、足を使うのですよ静太君。もっとも、人の足ではありませんけどね。」

 彼女がそう言うやいなや、峰々彩夏と宇本さんが符を取り出して術を唱えた。

 

 話に聞いていたこれが……退魔の獣である聖獣か。宇本さんが召喚した、全長二メートルはあるであろう虎と、ひよっこ陰陽師が召喚した、翼を持つ馬……天馬が二頭だ。こちらも大柄な体躯をしている。

 静太はというと、先ほどの怯えていた素振りは微塵も感じさせないほど、目を輝かせていた。男の子は好きよね、こういうの。

 

 天馬には、峰々彩夏・雛美伯母さんと私

が乗り、静太は宇本さんと一緒に虎に跨った。

 ───なるほど。麓ですら息苦しさを感じていたというのに、聖獣の護りを得てみればなんと快適なことか。夜の左獄山には怨霊や化け物が蔓延るというのに、全て無視して突き進んでいく。その場にいるだけで体調に影響を及ぼしかねないあの御山の瘴気を、その聖なる力で完全に遮断してしまっている。そして何より、大地を駆けるのが抜群に疾かった。馬と虎だからだろうか。

 

「雛美伯母さん」

 私を前に乗せて、後ろから支えてくれる彼女に最後の確認をする。

「なあに?紗姫ちゃん」

「龍深の大神は───タケミナカタノカミの伝承をもとに創られた神様、なのよね」

「そうですね。蔵で紗姫ちゃんが見つけた書物の内容と、水源を諏訪湖とする天竜川と繋がる清流川、それらの情報を照らし合わせることで分かった事実です」

 龍深山を降りてからその後、私たちは琴の間の蔵を漁って少しでも蛇神の情報を集めた。神器がいくらこの地では十全であっても、一発勝負なのだから失敗は許されない。青宮院がこの地に移ってから千年近くというし、そんな昔に人々の想いを龍脈に接続する力として使うために、信仰対象として定めた神の設定など、とうに忘れ去られたと諦めていたのだが……見つかった。

 建御名方神は、『古事記』における神話の「国譲り」にて、天照大神の要求に対して、最後まで抗った軍神である。高天原最強と謳われた、武神タケミカヅチに果敢に挑み、遂には敗れた。諏訪湖に逃れた後は、諏訪大明神として、水や風、農業を司る龍神として、人々の信仰を集めたとのことだ。

 そして、この地に流れてきた青宮院が、龍脈の力に接続するのに必要な、人間の想いの力、信仰を捧げる対象として、建御名方神を選んだのは、何ら不思議なことではない。諏訪湖を水源とする天竜川が、清流川と繋がっていること、諏訪湖の唯一の出入り口が、天竜川の釜口水門であることの判明は、特定する最後のピースだった。

 武甕槌神に腕を取られ、蛇の属性を付与された建御名方神は、諏訪湖から普通には出られない。移動手段として、川を使う必要があった。そして、山の神の側面が、左獄山にたどり着き、龍深の大神として君臨した、大方こんなところだろう。

 

「建御名方神には弱点がある。武甕槌神に引き千切られて敗因となった両腕、だから私も腕を斬れば鎮められるのよね」

 私の確認にすぐ頷くものだと思っていたが、雛美伯母さんの返事はなかった。

「え、違うの?」視線を後ろに向ける。彼女は目を閉じて口を一文字に結んでいた。

「ねぇ、伯母さん」私の催促に彼女はゆっくりと目を開く。まだ迷っているようだったが、やがて口を開いた。

「紗姫ちゃん、今の陰の大神は、建御名方神が二柱に別れた状態です。ここまではいいですね」

「ええ。龍神としての建御名方神は、陽と陰の二つの側面が別々に顕現している状態よね」

「そうです。どちらも神ですが、不完全な状態です。そして、陰のほうは建御名方神が反転した状態にありますから、本来の弱点を突くのは禁忌に触れかねないと思われます」

 雛美伯母さんの考えは納得のいくものだ。伝承通りにとどめを刺すと、藪から蛇を出してしまうことになる可能性があるのだ。

「じゃあどうすればいいの」

「首を斬りなさい。御首は全ての神の弱点です。勿論、もっとも困難な鎮め方になるでしょうが……それなら間違いないはずです」

 彼女の言葉に頷き、私はしっかりと前を見据えた。私たちが話している間にも、峰々彩夏が召喚した天馬は、宙を駆けるように山道を登っていく。召喚した当の本人は最後尾で、私たちの後ろには宇本さんと静太が乗る虎がついて来ていた。

 鬱蒼とした木々を抜け、荒れ果てた山道を軽やかに駆け上がり、御山の八合目あたりまで来た。

 景色が一気に開けた。すると、月明かりに照らされた、五芒星が刻まれている不思議な大岩が、私たちの目に入った。

「この岩はなに?」雛美伯母さんに尋ねるも、どうやら彼女にも見当がつかないようだ。

「……」

 宇本さんは虎から降りて、実際に五芒星を触ったり、食い入るように見つめていたが、やがて諦めたように首を振った。 

「あ、でも花が枯れたあとの残骸みたいなのが残ってるよ。」静太が気付く。彼の言葉に雛美伯母さんが近くまで駆け寄った。

「これは……」

「どうです雛美さん」静太が口を開いた。

「静太くん、あなたにはこれが枯れた花に見えるのですね」神妙な声で彼女は尋ねた。

「そうですよ」静太が頷く。

 私も気になって、静太が目を向けるほうへ視線を移すも、そこには雑草が生い茂っているばかりだった。

 静太、あなたには何が見えているの?

「宇本殿には見えるか?」陰陽師が彼に尋ねると、やはり彼は肯定するように小さく頷いた。

「ちなみに、どんな感じの?」私が尋ねると、二人は声を揃えて言った。  

「藍色だったであろう花」

 勿忘草、その花の名が頭を過ぎった時、とある女性の面影が───“わたしたち兄妹”に手を差し伸べてくれる姿が、一瞬目に映って……消えた。

 ────────白い女性、あなたは誰?

 何か重大な事に関する疑問が残ってしまったが、私たちは今やるべきことを優先して大岩を後にした。

 

 

 

第十四節 龍虎と蛇

 

 

 

 

 龍は二柱に割かれ、巫女は氷獄に堕ち、

生命の息吹は失われ、村は暗黒に染まった。

 

 刃は砕け、玉は意味を成さず、死の最奥にて蛇は待つ。

 

 唯一つ、私にできること……それは、運命を差し出すこと───────。

 

 

「っ……」

 あの花が咲いていた場所を離れてから、あの夢の光景が再び脳裏に浮かんだ。酷い動悸が起こって、乗り心地が良かった聖獣も、今では荒波の上のボロ船のように感じる。身体と魂が乖離しそうな不安定な状態に陥っていた。

「辛いか?」穹下さんが言った。

「はい……これは頂上に近付いているせいですか?」僕の後ろで身体を支えてくれる彼に尋ねる。後ろを向くと気持ち悪さで吐きそうなので、目を閉じて前を向いたまま聞いた。

「瘴気のせいではないと思う。何故なら、同じ聖獣に乗ってるミネミネや雛美さんは無事のようだ。君と紗姫ちゃんだけさ」

「紗姫も!?」思わず大きな声が出た。

「あぁ。今回の件に因縁が深い者が、体調に支障をきたしているようだね」

 穹下さんがそう言うや否や、僕の耳に温い液体がかかった。流石に気になって確認すると、それは大粒の汗だった。後ろを振り向くと、青白い顔をしつつも苦しそうに息を整える男が、僕の身体をしっかりと支えていた。

「大丈夫ですか!?」

「気にするな。そら、もう着くぞ」

 僕の言葉などお構いなしに、穹下さんは聖獣の速度を上げた。鬱屈とした森を抜け、黒く蠢く何かがこびりついている畦道を一気に駆け出し、聖なる虎は流星の如く突き進んでいった。

 視界が開ける。山頂にて僕たちが目にしたのは────。

 

 

「ぅ゙ッ……おぇぇぇ」

 御山の頂きにて私たちが目にしたのは、

この世界にあってはならない“モノ”だった。

 “それ”を目にした瞬間、胃の中のむかつきが一段と酷くなった。涙と嘔吐が止まらず、思わず地面に蹲ってしまう。およそ経験したことのない気持ち悪さと嫌悪感で、左獄山に取り込まれそうだと錯覚するほどだった。

「いかん!早く静太と紗姫を聖域へ!」

 焦った穹下さんの声が、どこか遠くから聞こえてくる。聴覚どころか視覚も……五感がこの身体から損なわれていくような───。

「そうか……これがあなたの、葵さんの苦しみなのね?」

 黒い少女に対しての憐憫の情がより強くなる。本家の屋敷でフラッシュバックした光景による影響とは、比べ物にならないほど今の私を蝕む宿業は耐え難いものであった。

 夏の暑さなど過去に忘れてしまったように寒く、寂しく感じる。

 ────これが死?と意識が完全に遠のきかけた時、清浄な空気が私を包んだ。

「……ん、───ちゃん! 紗姫ちゃん!!」

 伯母さんが目を真っ赤にして呼びかけながら、赤子を抱くように私を抱きしめている。彼女の温かな抱擁によって、失いつつあった五感がこの身体に戻ってくる。全身の血潮に熱が宿り、御山と一体化しつつあった魂は、改めてこの肉体へと還った。

「さ、紗姫……」

 少しだけ顔を青くした少年が、私の手を握りながら呼びかけた。静太からするツンとした吐瀉物の臭いですら、彼の生を実感できて愛しく感じる。

 少年の背後には、彼と同じ目をした老人が、死人かと見間違えるような青白い顔をしている。けれど彼の私に対する眼差しには、心からの安堵と、私の生を護らんとする絶対の意思が込められている。

 唯一人のために命を燃やし続けてきたからこそ、彼は今ここにいる。

 ───ほんと、私の事には何よりも必死になってくれるんだから。

「ありがとう、静太……」

 熱が込められている目を閉じて呟く。この魂から零れたのは、二人への感謝の言葉だけではなかった。

 

 

 幼い少年少女を見つめる。二人にはこの先を───あの凄惨な道を歩ませるのではなく、僕たちが紡げなかった未来へと進ませる。

 今回こそ青宮院紗姫を必ず助ける、僕の生きる理由はそれ以上でもそれ以下でもない。そのためだけにここまで来たのだ。

 

 二人を取り巻く雛美さんとミネミネから目を離し、後ろで蒼く輝いている湖を見やる。あの時……僕が彼女のシュシュを浮かべ、時戻しのために祝詞と血を捧げた聖なる鏡だ。宙に輝く夏の大三角形を映し、占星術を応用した術式が聖域の龍脈に組み込まれている。それにより、左獄山にて唯一瘴気を寄せ付けない、清浄なる領域となっている。

 この場所において、空静太と青宮院紗姫───二人の宿業は意味を成さない。今回の事態の核となっている葵と彼女の兄である蒼太……それぞれの生まれ変わりであり、だからこそ穢れの影響が葵から紗姫と静太に齎される、そう僕は自分たちの身に降り掛かった体調の変化を分析していた。

 ───“穢れ”は背負った個人のみに留まらず、因果という糸を通じて未来にすら伝染する。なんと恐ろしく、虚しい仕組みとなっているのだろうか。これもまた、人間の想いが重力によって地上に縛られ、不自由であるからこそ起こったことだと言えるのではないか……

 

「穹下さん、はじめましょう」

 少女の言葉を皮切りに、霞がかった思考が一気に冴え渡る。目の前に来た少女は、その双眸に蒼い炎を灯してこちらを見据える。

 そうだ……どうしようもない困難に直面した時、僕の隣にはいつだって紗姫がいた。この魂の片割れである唯一無二であり、僕の想いの先はいつだって彼女にある。

「あぁ、始めようか。鎮めの儀を」

 

 聖域は左獄山頂上を北東へ進んだところにあった。山の頂上がどうだったかは、先程の発作によってしっかりと把握しているわけではないが、僕が黒い少女の封印を解いてしまった時と同じように、社が一つだけ寂しそうに鎮座しているだけのはずだ。

 この地において災いとなっている存在に対し、封じ込めるのに最適な場所が鬼門の方角と対応してるのは、偶然ではないのだろう。

 夜空には星海が広がっている。その中でも琴と白鳥と鷲は、一際強く煌めいている。宙の光に呼応するように、聖域の龍脈は三箇所に集中して輝いていた。

 獣道から聖域まで続く木々は静謐としていて、左獄山の鬱蒼とした雰囲気は微塵も感じられない。この破邪の領域だけが、山から切り取られた別世界であるかのように感じる。

 

 鎮めの儀を遂行するために、剣・鏡・玉を紗姫・雛美さん・穹下さんがそれぞれ手に取る。緊張の色を浮かべる者もいれば、その瞳に執念の炎を燃やす者もいた。龍の巫女はというと、龍深山の頂上にて見せたような超然とした神気を纏っている。

「これならきっと……いける!」と僕の胸の内は昂っていた。紗姫を助けるために奔走してきたこの夏の頑張りが、青宮院の宿業を断ち切るという形で結実しようとしている。それを可能にする青宮院の人間が、一応僕も含めると四人もいる。

 ベガ・デネブ・アルタイルによって生まれる、夏の大三角形を対応させた星海の術式────その基点となる三つの星の代わりとなるのが、神器を携えた青宮院の人間だ。三角形を作るように、それぞれが星の位置関係に対応した地点に立つ。三人の距離間はおよそ二十メートルといったところだろうか。

 あの時ミネミネに誓ったように、僕は紗姫の後方で待機していた。紗姫の誰よりも傍にいて、黒い少女もとい青宮院葵さんと蛇神に呑み込まれないよう、紗姫を此岸に繋ぐ錨となる。

 コツコツ、とズボンの中で音がした。何かと思いポケットからそれを取り出した。僕の意思に呼応したのか、一ノ宮さんから貰った石が光っていた。

 結局、この石には邪気を祓うような効果も、穹下さんやミネミネが召喚するような聖獣を呼ぶ力もないことを、此処に来るまでに何度も試して分かった。今も、龍脈の光と同じように淡い青色を発しているだけだ。

「静太」紗姫が静かに言った。

「紗姫?」真っ直ぐ先を見据える紗姫に問いかけると、僕が世界一綺麗だと思う髪を靡かせ、こちらに向き直る。

「私……楽しかったから。色々あったけど、この夏休みは今まで一番楽しかったの」

 巫女ではなく一人の女の子の、そのちょっぴり寂しそうなはにかんだ顔を、僕はこの先も一生忘れることはない。紗姫がくれたもの、紗姫と分かち合った全てを、僕はこの想いに刻んで抱えていく。だから僕も───彼女に全てを伝える。

「僕も楽しかった。これまでで一番……長くて楽しい夏だった」

「うん」

「紗姫とならもっと楽しい時間を作っていける。夏だけじゃない、秋も冬も春も」

「うん……」少しだけ紗姫の声が、水っぽい小さなものになった。

「言ったよね、あの星空の下で。僕のものは紗姫のものだって」

「言った」紗姫はちょっとだけ顔を赤らめる。それに対し、彼女の蒼い双星を見つめて言った。

「なら紗姫のものだって僕のものだ」彼女がくれた言葉が頭を過ぎり、最後の言葉を紡ぐ。

「だから─────死なないで、生きて」 

 僕の願いに彼女は何も言わず、ただ笑って頷いた。紗姫を現世に繋ぎ止める想いの楔になる───なんの力も持たない僕ができる唯一の役目であり、最後の望みだ。

 紗姫の足元の龍脈は蒼い炎を吹き上げ、その身体を包んだ。彼女が握る刃なき剣の柄に、青宮院が祀る神が宿ったような……そんな神威を感じた。

「……来たわ」

 風が凪いだような調子で巫女が告げる。長いようで短かった夏の終着点……僕たちの冒険の終わりを告げる者が、今この世界の入口に立っていた。

 

 

「なんだ……?あの瘴気の濃さは」

 以前相まみえた時とは比べ物にならない禍々しさに、私は戦慄せざるを得なかった。第七符を握る両の手は震え、膝が情けなく笑ってしまっている。

 蛇神の巫女としての彼女はそのままに、纏う雰囲気が神の“それ”から荒御魂のものに変質している。彼女が鳥居の結界を手の甲で打つと、いとも簡単に柱石が崩れ落ちた。

「母さん、兄さん……私に力を貸してくれ」

 私の役目は、黒い少女を鎮めの儀の結界の中心部分に陽動することだ。大三角形の中心部にて姫が刃を振るえるよう、牽制しながら聖獣で抑えなければならない。雛美さんも穹下さんも神器を扱うため、援護は皆無である。

 それでも、今の私には聖域の龍脈という無限リソースがある。私の身体が死なない程度で、龍脈の力を吸い上げて霊力に変換することができる。

「第七符極点解放────いくぞ!!」

 地を踏みしめた足裏から龍脈の回路が伸びて、私の全身に広がっていく。青宮院以外の者がこの地における龍脈の力を行使するには、自身の心臓をポンプとし、強烈な力の奔流に耐える必要がある。そして、そのための修行を彼につけてもらった今、私には己の望みを叶える力がある。

 ありったけの霊力を二枚の符に注ぎ込むと、それらは碧々と燃え上がった。青い焔から天馬が二頭現れ、こちらにゆっくりと歩を進める神に一瞥を投げた。

 母のほうの天馬に跨り、彼女に向かって全速力で駆ける。聖獣の走る速度は一瞬で光速に達し、神を穿つ二本の閃光となった。

 刹那、黒い少女の目元が見えた。約二百年もの間、蛇神を慰撫し続けた巫女の───青宮院の当主の瞳は空洞で、光届かぬ深淵を象っていた。

 

 耳元で爆発音が鳴ったかと思いきや、私の身体は鳥居のほうに投げ出された。全身を強く打ったせいで呼吸ができなくなる。

「な、何が起きた……」回復の符を胸元から取り出し、呼吸ができるように器官の損傷を癒やす。幸いどこも折れていないようだった。

 何故なら、召喚した聖獣が衝撃の大半を吸収してくれたからである。肉片となった一匹の聖獣に気がついたのは、額の血で視野の狭まりが無くなってからだった。おびただしい量の血が崩れた鳥居に付いており、私は目を見開いた。

「馬鹿な、そんなはずは」

 目の前の闇が色濃く渦巻き、私を絶望という奈落に引き摺り込んでいく。人の心はとうに棄て去り、修羅の道へと突き進んできたにもかかわらず、私にはこの悲しみを抑えられようもなかった。二度目の兄の喪失に耐えることなど、私にはどうしてもできない─────。

「彩夏」

 弱い己が作り出した殻がヒビ割れ、温かな光が私を照らす。そして、名前を呼んでくれる声と共に、温かく力強い抱擁が私を包んだ。生まれた時に最初に知った匂い・感触・音……母のものだった。

 実体を持たないはずの母は、今こうして私の目を見てくれている。この場限りの奇跡だということを分かっているからこそ、私は母がこれから言うであろう事を認めたくなかった。

「彩夏、もう一度私に霊力を使いなさい。出し惜しみなしよ」そう言って穏やかに母は微笑む。

「わ、わたしは……」

「例え肉体を失っても、私たちなら大丈夫よ。愛する者への想いは不滅なんだから」

 そう言って笑顔を見せる母の言葉を、私が蔑ろにすることなどできるはずがなかった。 

「さあ! 彩夏!!」

「───うん」 

 私も笑って……顔をくしゃくしゃにして最後の力を振り絞り、母を天馬へと変える。四枚の翼を携えた聖獣が、再び黒い少女へと向かっていった。

 

 

 目の前で起こったことが信じられなかった。僕ですら感じることができる、ミネミネのあの術の力はもの凄かったはずだ。けれど今の黒い少女には、向かってきた虫を払うにすぎないものだったようだ。

 だが、ミネミネの二度目の術は効いたらしく、衝突によって膝をついていた。聖獣のほうもすぐには消えず、黒い少女の腕を噛んで引きずり、彼女を龍脈の中心部に放った。

「今です、穹下さん!」雛美さんの合図の声が辺りに響いた。穹下さんが胸の前に構える石が輝き、石から一本の光の線が雛美さんのほうへ伸びてゆく。雛美さんがそれを両面鏡で受け止めると、鏡も同様に輝きを増した。破邪の役割を認識した鏡は、紗姫と穹下さんのほうへ光のベールのようなものを放った。黒い少女を三角形の中に包むような、優しい光の海が形成されていくようであった。

 穹下さんが石で受け止めた光は紗姫のほうへと反射し、光のカーテンにて黒い少女を抱きしめる。それでも、彼女の邪気は収まる気配を見せず、憎悪と苦悶の声を発しながら蹲っていた。

「終わらせます、ご先祖様」と龍の巫女が静かに告げる。

「星は満ち、地を照らし、祈りの先は大いなる流れとなりて、朱沢の地を潤さん」

 巫女が祝詞を唱え、刃なき剣を頭上に掲げる。すると、彼女を取り巻く蒼い炎が刃の部分に集まり、碧い刀身となった。

「……っ」

「紗姫、紗姫!」目を見開いて震える紗姫に対し、喉から声が飛び出した。神器に呑まれかけている。

「静太、私に着いてきて」

「うん」

 紗姫の後を歩きながら、黒い少女に近づいていく。大丈夫、僕たちはやれること全てをやってきた。

 黒い少女が顔を上げた。顔には黒い靄がかかっていて、相変わらず表情を窺うことはできない。苦痛により呻いていることから、顔を歪めているであろうことは想像に難くない。

 僕たちとの距離が一メートルといったところで、黒い少女は膝立ちになって両腕を紗姫に差し出した。

「その手には……乗らないから」

 そう、紗姫は既に斬るべき箇所が分かっている。僕が少し離れたことを確認すると、霊刀を上段に構えた。

「私は青宮院紗姫……あなたの生まれ変わりにして、今代の龍深の巫女」

 龍の巫女は息を吐ききって、目を閉じた。そして、静かに目を開き告げる。

「青宮院葵、あなたの魂を空に還しましょう」

 巫女が青宮院の宿業を祓わんと、今清めの剣にて一閃する──────!

「……なっ」

 紗姫が驚きの声を上げた。僕も目を凝らして刃の切っ先を見ると、黒い少女の首を斬るに至っていない。

「紗姫?」

「嘘でしょ、身体が動かない?」僕の耳に不安でどうしようもない少女の声が届く。

 紗姫に駆け寄り、術式のベガの位置まで連れていこうと、彼女の両脇の下から腕を通して引きずっていこうとした。だが、紗姫の身体は石像のように動かない。完全な金縛り状態になっているようだった。

「穹下さん! 雛美さん!! どうしよう、紗姫が!!」声を張り上げて助けを求めるも、二人からの反応はなかった。龍脈は輝き続けているし、黒い靄が出ているわけでもないのに……

「願いはなぁに?」

 擽るような声で僕たちに問いかける。この期に及んで願えるものなんて───。

「そうか、あなたが青宮院葵だから?」

 もしそうならあまりにも反則だ。紗姫の身体を操れるのは、この場において彼女しかいない。蛇神の巫女が青宮院葵であるからこそ、あの刃は通らなかったんだ。龍深の巫女である今の紗姫に取り憑けるのは、紗姫の▓▓である彼女しかいない……今、僕は何と考えた?

「紗姫────!?」

 紗姫は、この夏何度も僕が目にした抜け殻のような状態になっていた。目に光はなく人形のようである。

「おしまい」

 黒い少女の声に混じった、残酷で穢らわしい響きが耳を貫いた。声の主に目をやると、御山の頂上にあった光景が目の前にあった。

 黒い少女の首に、蛇のようなものが伸びている。見たものがあり得なさすぎて混乱するが、間違いない。人間の首にもう一つ轆轤首が生えている。首も含め顔は白く、鼻はのっぺりとしていて醜かった。眼窩は落ち窪んでいて、底なしの闇が覗いている。

「ぁ……」

 僕は恐怖で動けないし、紗姫も蛇神の支配下にある葵さんの力によって自由を奪われた。

 龍深の巫女が無表情のまま、霊刀を下段に構える。黒い少女が紗姫に抱きつこうと、白い両腕を更に伸ばす。止められない。

 ────どこで間違えた?

 僕の疑問は解きほぐされることなく、巫女が黒い少女の両腕を斬り上げる瞬間を、ただ呆然と見ているしかできなかった。

 蛇神から歓喜の声が飛び出した。神の咆哮は地を震わせ水面を裂き、役目を終えた霊刀の刃と共に、僕たちの希望を打ち砕く。宙を舞う彼女の屍肉は、後方の湖へと音もなく落ちた。

 蛇神は身体をうねらせたかと思いきや、自分のものと同じ六つの首を口から吐き出した。それらは瘴気を纏った牙を剥きながら、僕たちに向かって一斉に襲いかかってくる。

「静太ぁぁ!!!」

 恐怖のあまり立ち尽くしていた僕を、紗姫が必死の形相で湖のほうへ突き飛ばした。信じられないほど強い力で押され、我に返った時にはもう、この身体は沈みかけていた。

 最後に見た女の子の顔は、目に涙を浮かべながらも笑顔だった。自らの最期まで僕の身を案じてくれる、六つの首に飲み込まれる紗姫は……

─────もう、何も考えたくない。

 昏い湖底へと墜ちてゆく。一瞬、虎の咆哮が聞こえたような気がしたし、水面が龍脈の輝きで照らされたような気がしたが、僕にはもうどうでも良い。紗姫がいなくなった世界なんて、もう終わっているのだから。深淵に誘われるままに、後はもう沈んでいくだけ……

「ここで諦めるのですか? 空静太。あなたはまだ、為すべきことを為していないというのに」

 声のしたほうに目をやる。視線の先には、微笑を浮かべながら揺蕩う女性の姿があった。紗姫のように勝ち気な雰囲気を持つ彼女もまた、この手に輝く石と同じ───龍の輝きを放っていた。

 

 

 

第十五節 君の想いの先

 

 

 ───静太、ごめんね……

 私によって弾き飛ばされ、湖に落ちてゆく愛する男の子を想いながら、私は運命を受け入れようとしていた。結局どれほど足掻こうと、これはもう変えられない。

 前世より続く私の宿命────蛇神を鎮めるための贄となるのは、最早どうしようもない。あらゆる手を尽くしても尚、望んだ結末には届かなかったのだから。

 虚無の彼方へと誘う六もの死神が、確実に私を喰らおうと四方八方から突っ込んでくる。あの瘴気の牙で噛まれたら終わりだ。

 私は龍深の巫女だ。葵さんのように自分の運命から逃げない。命尽きる最期まで、気高く前を向き続ける。

 私を穿つ意志が眼前に迫った時────虎が咆哮した。聖虎に乗った男が、私を死に絡め取られまいと蛇神の前に立ちはだかっている。

「紗姫……憶えてるかい?」息も絶え絶えの老人、もとい青年が私の名前を呼んでくれる。彼は聖獣にて六つの蛇の猛攻を退けた。それが蛇神の癪に障ったのか、今度は黒い少女から生えている蛇神も含め、七つの呪いが怒りを露わにしながら襲いかかってくる。

「“もう二度と、わたしの許可なしで死のうとしたら駄目だから”、同感だよ」そう言って彼は一瞬笑みを浮かべ、即座に真剣な一瞥を神に向ける。その横顔も佇まいも纏う雰囲気も、棘下から私を救ってくれた少年のものだった。

「憶えてる」私の答えに満足したのか、彼は力強く頷いて石を握った手を蛇たちに、玉を地面に置いて左手を翳しながら唱える。

「朱き地の清き流れ、吾もまた、その大いなる流れの一つなり」

 そう彼が唱えるや否や、石からは龍のような蒼炎が湧き上がり、玉を通じて龍脈の線が彼の身体に引かれていった。龍脈の力を外から借りるのでなく、自分の身体を龍脈の一部として同化させている。そんな事を龍深の巫女以外の人間がやると、肉の器が耐えきれない。過ぎた栄養が毒となってしまうのと同じだ。

「静太!!!」

 私がそう叫ぶと、穹下大晴は────空静太は満ち足りた顔をこちらに向けた。

「もう二度と、僕の許可なしで君を死なせない。紗姫のものは僕のものだ」

 そう言って彼は、足で踏んでいた第三符を極点解放した。彼の聖獣である虎が再び顕現し、すぐさま炎となって龍の蒼炎と混じり合う。

 聖なる焔が蛇神共と接触した時、私の視界は正邪の輝きによって包まれ、何も見えなくなった。

              

 

「僕にまだ……できることが?」

 水中なのに言葉が問題なく発せられる。呼吸するのも問題ない。この空間は目の前の女性によって作り出されたものだと、瞬時に理解して彼女に問う。

「でも紗姫が……それとも、贄となってしまった紗姫を救う方法があるのでしょうか」

 僕の問いに彼女は首を振る。膝から力が抜け、地面なき水中にて崩れ落ちて奈落まで沈みそうになる。

「ならどうしろというのですか」

「青宮院紗姫はまだ命を取られておりません。穹下大晴によって護られていますが、長くは保たないでしょう」

「穹下さんが!」───良かった、まだ紗姫は生きている。

「僕がすべきことは何でしょうか」

「その答えを、あなたは既に握っているのですよ」そう言ってこちらに微笑む女性と、あの星空の下で聖痕をくれた紗姫の顔が重なる。

 彼女の言葉を素直に受け取るのなら、この夏の経験を経て僕が知り得た知識が鍵となっている。さらに稚拙に捉えるのなら、この手に握られている石こそが、運命を切り開くための最後の欠片ということになる。

 難しい顔をしながら僕が首を捻っていると、彼女が僕の目の前に現れて目線を合わせてきた。腰まである絹のように美しい髪、強気そうな眉、そして猫のような凛々しくて大きな目────青宮院紗姫と瓜二つの顔が、僕の目と鼻の先にある。紗姫が成長したらこんな女性になるのだろうと思うと、胸が強く鼓動を打った。

「あなたは……」

「おっと、私の真名をこの場で呼ぶのは手順を踏んでからです」と彼女が僕の口に指を当てる。口への感触はひんやりとしていて、彼女が何なのか全てを確信する。

「その手順とは?」

「空静太の力を覚醒させるのに、私が一役担う。けれど、覚醒したところで効力が伴うには、あなたが私を理解している必要がある。それを確認するため質問に答えていただきましょう」

 彼女はそう言うと、僕から丁度一人分の距離を取り、両手を胸に当てた。彼女から放たれる眩い光が水中に満ちると、幻影の神殿が現れてこの場を神域へと変えた。

「分かりました。全てに答えます」この審判の場の雰囲気に圧倒されながらも、目の前の女性をしっかりと見据える。

「よろしい、では第一の問いです。姫を呪いしはじまりの子供、何故にかの姫は呪いを退けたのか。姫は当時龍にあらず」

 ───なるほど、こういった調子で幾つか問われるのか。僕たちがこの夏直面してきた謎を、今この場で明らかにせよと彼女は求めている。

「紗姫は巫女として覚醒する前から、ミネミネの術を無効化することができていた。呪いに対する抵抗力は、あの時点で抜きん出ていたんだ」

「神に等しい黒い少女の呪いを、ただの人間が撥ね退けることができるとでも?」

 先程の優しい微笑みは幻であったかと思われるほど、目の前の女性は威厳たっぷりに僕を笑う。最初から間違えたようだ。

 ────思い出せ、紗姫を狙う呪いが無効化された時の状況を。僕は一回目のタケシによる呪いの状況を知らないから、二回目の僕を狙った時の状況と照らし合わせて、想像力で真実に辿り着いてみせる。

 ミネミネから貰った破邪の札は、僕が初めて髑髏と対面した時に一瞬で灰になっていた。恐らく、あの数十万もする札は黒い少女にとって、紙切れ同然なのだろう。ならば、あの時僕たちを呪いから護ってくれたのは、何か別のものということになる。

 巫女になる前の紗姫だけでは不十分であるが、強力な呪いを退けたもの────、紗姫に対する一度目の呪いを弾いた条件を踏まえると、自ずと答えは見えてきた。紗姫の屋敷だ。

 古来から、邪なるものを退けるのは家に他ならない。だからこそ、怪異は家の中の住人に招き入れるようにあれこれ画策する。家という強固な護りを崩すには、内部からの許しが必要となってくるからだ。

 だが、家という条件だけでは、タケシの家の例や黒い少女が関わる他の事件もあることから、呪いから身を護るという点において不十分だ。あの屋敷だからこそ、住人は聖なる護りによって保護される。

 紗姫と屋敷と青宮院、これら三つの要素から絞り出した欠片を繋ぎ合わせたことで、今まで気にかけなかったものが見えた。

 ────紗姫のお母さん、青宮院菊芭さんだ。呪いに対して強い抵抗力を持つ紗姫の母親である彼女なら、家の護りを強固なものにすることが出来るのではないだろうか。

 紗姫の話を思い出す。紗姫のお父さんが鏡を割ってしまった時の話────、菊芭さんがこれまで見たことのない顔で怒ったことを。鏡は御神体として扱われることも、邪気を払う道具としても使われることから、割られた鏡はあの家を護る大切なものだったのだと推測する。

 この仮説通りであれば、欠けてしまった護りの要を補うのに、青宮院の血族である菊芭さんが尽力していたのではないか。黒い少女が齎すような強力な呪いに対する結界は、彼女の力を以て張り続けられていたのではないか。

 もしそうなら、一度目のタケシによる呪い襲撃後と、僕も居合わせた二度目の襲撃後に、菊芭さんだけが倒れた理由を説明できる。僕のは瘴気を当てられたという説明をミネミネがしていたし、何も関係ないはずの菊芭さんが倒れるのは、あの家を護ろうと力を使ったとしかあり得ない。

 僕の考えていることが分かっているのか、彼女は目を細めて満足そうに笑う。

「姫を護りしは母の力、青宮院菊芭の結界である」そう言い切ると、光に揺らめく女性は頷いた。

「よろしい、では第二の問いです。紅き廻廊に迷いし少年と姫、何故に姫は少年を連れ進みたるか」

 ────この問いは、間違いなく山荘のことを言っている。この夏に僕と紗姫が迷い込んだのは、あのループする禁足域に他ならない。 

「姫は蛇神の巫女の意志に導かれ、少年の手を取る」

 紗姫の霊媒体質の異質さは理解しているつもりだ。そして、あの時いったい誰を降ろしていたのかは、僕にはもう分かっている。

「……よろしい、では三つ目の問いです。巫女に願いし果てた男、何故に巫女を呼びうるか」

 この夏、黒い少女に願いを叶えてもらって死んだ男性は、いったい何人いるのだろう。その中で特定の男性を挙げるのなら、僕が知っている男性でなければ問いかけが成立しない。そして、黒い少女を呼ぶ条件を明かす例として挙げられるのは、一人しかいない。お父さんだ。

「贄を救いし男は、蛇に選ばれし愛する者を想い続ける。黒い少女を呼ぶのに必要なのは、人間の積み重ねられた想いだ。何故なら、その想いに応え願いを叶えようとするのが、黒い少女の生前からの在り方であり、青宮院葵の本質であるからだ」

 あの山荘で、突発的な僕の願いには黒い少女は応えてくれなかった。彼女を呼ぶ条件は、時間をかけて積み上げられた人の想いなんだ。タケシは紗姫と仲が悪くなってから、彼女をずっと憎んでいたし、お父さんは巳影母さんのことを、喪ってからも九年間想い続けていた。だから、それらの想いの先に黒い少女が顕現できる────想いの力が龍脈に繋がり、青宮院である彼女が巫女としての力を使うことで、命と代償に多くの願いが叶えられてきた。

 三つの問いに答えた僕に、目の前の女性が近づいてきた。冷たい腕で頭を優しく抱かれる。彼女の双肩に背負わされてきた使命と、朱沢の人々の祈りをその身一つで叶えてきた誇り……そして、年相応の女の子の心の奥底に押し込められた、ささやかな幸せへの願いが、僕の中に流れ込んできた。

 思わず泣きそうになり、たまらなくなって彼女を見上げる。およそ人としての幸せを満足に享受することなく、その短い生を終えた女の子の────人間としてではなく龍としての役目を担った巫女の双眸が、この身体の底にあるものを呼び覚ます。

「最後の問いです。私は誰か?」

 これまでの質問は、彼女でなければ知り得ないことであった。そしてそれは、紗姫と一緒にいたのは誰かということの答え合わせにもなる。

「あなたは─────青宮院葵」

 覚醒の儀は、これにて果たされた。この手に握られていた石から、生き物のように胎動する炎が吹き出した。僕と葵さんを取り巻くように燃え上がる炎は、一つの流れとなって地上へと僕らを押し上げる。

「葵さん!」僕は興奮して彼女に呼び掛ける。

「ね? 全ての事象は繋がっているの。君の失敗も彼の失敗も、青宮院の業も……」

 想いの枷から解き放たれた青宮院葵は、遂に天へと駆け上がる時が来たのだ。

 

 

 無限の光が煌めく宙に向かって、大鷲が羽ばたいている。その翼は既にボロボロで、とても目的地まで辿り着けそうにはなかった。

 彼に寄り添うように、一羽の白鳥が並んで飛ぶ。暫く並んで羽を並べていたが、鷲の翼が光ったかと思うと、一気に加速して白鳥を置き去りにしてしまった。

 白鳥に飛び方を教えてもらったのだろう。一筋の流星のように、その命を燃やしながら星海を渡り、鷲は漸く最果てに至る。

 私の目の前にいるのは、そんな覚悟を胸に抱いて最後までそれを貫き通した、一人の男の子だった。

 

「静太……」

 意識が覚醒し、目の前の痩せ細った老人を見つめる。彼の左脚は既に腐り落ちたのか、膝から下がなかった。右側に身体を傾けながら両膝立ちになって、蛇神の絶え間ない猛攻を結界にて防ぐ姿に、この胸に込み上げてくるものをなんとか抑えた。彼の右腕が掲げている石を起点に、炎の結界が私たちを護ってくれている。

 しかし、静太の限界は既に近いようで、結界に綻びが生じかけている。雛美伯母さんや彩夏に助けを求めようにも、私たちの半径数メートルは闇より濃い瘴気で満たされていて、今の彼女らに近づくのは不可能だろう。

 幸いなことに、私の身体はまだ動く。砂利を握りしめ、歯を食いしばって仰向けの怠い身体をなんとか起こす。静太の援護をしようと手を翳すも、違和感があった。今まであった全能感───龍深の巫女としての力が失われていることに気付く。

「違うさ」静太がか細い声で呟く。彼と目が合うと、弱々しいその姿の痛ましさに私の心の堤防が壊れ、涙が津波のように押し寄せた。

「どういうことよ」

「紗姫が眠っている間に、僕の石のほうが壊れてしまってね。龍脈の力を吸い続けるのに耐えきれなかったんだろう。だから、かつて君がつけてくれた聖痕を通り道として、君の今の霊力を使わせてもらったんだ」

 そう言って力なく笑う彼の左肩には、私がかつてつけた噛み跡が残っている。驚いたのは、その跡が龍脈と同じ光を発していることだった。

「あの蛇神に龍脈を使うことが封じられた。先程君が剣を振るう前に、一気に龍脈を炎としてその身に宿したことで、君は一時的に龍脈の力を貯蔵している状態にあった。君がつけた聖痕を媒介にして、貯金を崩しながら耐えてるって感じさ」

「ばかぁ……」

 彼の胸に顔を当てて、力なく抱き締めた。限界などとうの昔に超えているだろうに、この人は私のために尽くすことを止めない。

 呪いだと感じた。巫女として覚醒したことにより獲得した、千里眼にて彼の過去を見た。あまりの残酷な結末によって、彼は青宮院紗姫の死という十字架の呪いを背負ったのだ。

 今のままでは、たとえ楽になっても彼は一生浮かばれない。青宮院紗姫が救われたという世界が無ければ、彼の生から意味が失われる。それはきっと、死よりも残酷で恐ろしいことなのだ。

「ぐっ……ぁあがぁぁぁ!!!」

 静太の左肩から下が、私たちの運命を嘲笑うかのように腐り落ちた。炎の結界が一気に弱まる。

「まだ……だぁぁぁ!!!」

 静太の目から血が流れる。止められるのは私だけなのに、彼の気迫に押されて何もできない。せめてもと、石を掲げる彼の右手に私の両手を添えた。

「……ありがとう、紗姫」

 最後の力を振り絞ったのか、少しだけ炎が強くなる。それを物ともせずに、蛇神は私たちの眼前に迫り、終焉を告げようとする。結界が破られ、私たちの世界は完全な闇に溶ける──────。

 その刹那、一筋の星が目の前を駆けていった。破滅の運命を切り裂かんとする絶対の意志が、私に手を差し伸べる。

「一度たりとも、僕の許可なしに君を死なせない。僕のものが紗姫のものなら、紗姫は僕のものなんだから」

 彼に肩を貸しながら目の前の希望を手に取り、私たちは再び立ち上がった。

 

 

「つまり、紗姫に巫女として本来の役目を務めさせれば良いんだね」

「はい。鎮めの儀において、巫女が振るうべきなのは刃ではありません。青宮院の怨敵を調伏した際も、振るわれたのはその力だけだったのです」

 地上を目指す最中、僕がやるべきことを葵さんは教えてくれた。龍深の巫女が鎮めの儀において遂行しなければならないのは、剣に祈りを捧げることであった。

「でもどうして、そんな大切なことが正確に伝わっていなかったんだろ。葵さんの時だって、一人で玉諸共剣で斬り伏せるなんて力技……いくら儀式をやるのに人数が足りないとはいえ、分かっていたらきっと違う方法を取ったでしょう?」

 僕の疑問に葵さんは力強く頷く。

「そうですね。私の力は、儀式を遂行するのに三人分以上ありましたから、正確な方法でやり遂げられていれば、此度の事態は起きなかったでしょうね」

「何があったんだろう……」

「それこそが、私たちの宿敵が青宮院に背負わせた業なのかもしれませんね」

 荒れ狂う氾濫した大河が、治水工事にていくつもの川に分断される。暴れ川の平定によって、その地に住む人々の暮らしに安寧が齎される。

 けれど、それは悠久のものではなかった。分断された川は、長い時間をかけてやがて一つとなり、再び暴れ川として猛威を振るう。全ての事象が繋がっているのなら、葵さんが完全な鎮めの儀をできなかったのには、因果的な問題であり必然だったんだ……

「良いですか。先ほど教えた祝詞を唱えて石の力を解放し、青宮院としての役目を果たしなさい」

 葵さんが僕の頭を優しく撫でてくれる。生前は彼もまた、こうやって妹に頭を撫でてもらっていたのかなと、ふと思った。僕と紗姫の関係みたいだ。

「はい!」

 実態を伴った炎の龍に乗ったまま、湖から飛び出した。彼女は既に隣にはいない。美しくも気高い雰囲気を持つ聖竜が、七つの頭を持つ蛇に向かって突っ込んでいった。

 

「ミネミネー! 穹下さんをお願い!」

 地面に輝く大三角形の術式の、遥か向こう側に飛ばされた蛇神を見やり、大声で助けを呼んだ。追撃で龍が蛇神を抑え込んでいるが、長くは保たないだろう。

 ミネミネは雛美さんに肩を貸してもらいながら、僕たちのほうにやって来た。懐から三枚の札を取り出し、術をかけると札が青く燃え上がった。

「回復符を使った。暫くは保つだろうが……」と顔を顰めながら穹下さんをミネミネが見つめる。顔色が死人のそれに近い彼は、もはや危篤状態なのだろう。

「静太、どうすれば良いの」紗姫が必死な声で問う。

「紗姫がやるべきことはただ一つ、剣を振るうのではなく祈りを捧げることだけだ。最初から、首を斬ること自体が間違っていたんだよ」

 神を鎮めるために首を刎ねるなど、人の身には過ぎたことだった。それを望み、青宮院が滅ぶよう仕向けた怨敵こそ、事の発端といえるのかもしれない。

「────分かったわ。でも穹下さんにはアルタイルの役目を担わせるのは無理があるの」

 今にも泣きそうな紗姫を宥めるように、目を閉じていた彼はか細い声で呟く。

「静太……頼めるか」

「勿論、後は僕に任せて」僕がそう言うと、穹下さんは微かに笑った。そして、右手に握っているヒビの入った石を、僕に手渡した。

 彼がこの時代に来たのも、葵さんが剣を振るったのも、僕が一ノ宮の人間であることにも、全てに意味があった。

「静太くん! 来ますよ!!」

 雛美さんの声で僕たちは視線を交わし、一斉に自分たちがやるべきことに取り掛かった。

 

 僕は二つの石を両手にそれぞれ握りしめ、アルタイルの地点まで駆けてゆく。紗姫は剣の柄を握ってベガの地点に立ち、雛美さんとミネミネは穹下さんに肩を貸しながら、デネブの地点まで急いだ。

 一刻の猶予もない。怒り狂った蛇神が、身体をうねらせながら紗姫をめがけて突っ込んでくる。雛美さんの準備が間に合っていない。僕は大三角形の中心部まで走り、紗姫と蛇神の間に立ち塞がった。

「静太!?」

 紗姫が悲痛な声を上げる。僕の周りに結界を瞬時に展開するも、蛇神の咆哮にてかき消された。巫女はこの地において絶対的な存在だけれど、祀る神に対しては無力なんだ。

 ならば、一ノ宮の血を持つ僕が立ち向かえば良い。この地において、異能の面では青宮院と並ぶ一ノ宮の人間ならば、少しなら時間を稼げるはずだ。

 二つの石を胸の前に構えて、強く重ねた。青い火花が散って、何かが噛み合った感触が手から全身へと伝わっていく。石の中に埋め込まれたものが、一つとなる。

 僕の手の中から現れたのは、青宮院の神器の一つである、失われた玉だった。葵さんが二つに切り裂き、一度は完全に蛇神を封じ込めるのに使われた、半分が欠けてしまった玉だ。一ノ宮家を護るものとして石に埋め込まれた半分の玉は、代々受け継がれて僕のもとに辿り着いた。

 そして、穹下さんもとい別世界線の僕の石と合わせることで、再び完全な神器として覚醒した。鎮めの儀において起点となるこの神器こそ、龍深の大神を呼び覚ますものなのだと、僕は本能的に理解した。

「朱き地の清き流れ、吾もまた、その大いなる流れの一つなり」

 祝詞を唱えると、玉そのものが輝く炎となって、目の前の呪いの化身を焼き尽くそうとそれに纏わりついた。聞くに堪えない絶叫が、聖域に強く響き渡った。

 雛美さんが鏡を手に取るのを確認する。僕は炎に戻るよう念じて、一心不乱にアルタイルの地点まで走った。

「紗姫─────!!! あとはお願い!」

 息も絶え絶えでアルタイルの地点で叫ぶ。手元に戻ってきた石を掲げ、蒼く燃える炎のベールが、雛美さんの方へ伸びていった。

 

 

 雛美伯母さんが鏡で受け止め、静太と私のほうへ光のカーテンを行き渡らせる。私が掲げる刃なき剣の柄には、先程と同じように神気が満ちている。

 静太からの光を受け、再び剣が完成した。私がやるべきことは、巫女として祈りを捧げることだけ。神を鎮める刃など、はじめから要らなかったのだ。

「星は満ち、地を照らし、祈りの先は大いなる流れとなりて、朱沢の地を潤さん」

 玉の光は満ちて、鏡がその光を受けて龍脈を覚醒させ、全ての力はこの剣に集約される。剣こそ力の象徴であり、巫女の役目はその力に祈りを捧げて、大地に生命を賜わす神を目覚めさせることだった。

 この手から離れた剣の柄が、その切っ先を蛇神に向ける。そして、光によって作られた刃がひび割れ、眩い光が漏れ出す。

 ────刃が自ら砕け散った次の瞬間、周囲は神光で照らし出され、蛇神は跡形もなく消え去った。

 

 

 

 

最終節 魂は夏還る

 

 

 

 ───誰かが俺の頭を撫でている。紗姫だろうか?

「静太」と優しく囁く声は、遠い昔の温かな記憶を呼び覚ますようだった。

 鼻を擽るような甘い匂いは、不思議とこの胸を安寧で満たしてくれる。“僕”が忘れていた温もり────母親の愛を感じた。

 重い瞼を開くと、巳継叔母さんに良く似た女性がいた。

「巳影……お母さん」

「静太」と僕の反応に応えてくれる。

「頑張ったね。本当に、良く頑張ったよ」

 僕のお母さんは、巳継叔母さんよりも大人っぽい上品な目元を濡らして、僕の瞳を見つめていた。一ノ宮邸で見せてもらった写真のお母さんよりも、本物はもっと綺麗で縋りたくなる雰囲気を持っていた。

「僕、ここまでずっと……紗姫のために走り続けてきたんだ」

「うん」

「紗姫は……救われたのかな」

「紗姫ちゃんは助かったよ。私の自慢の息子、二人の空静太のおかげでね」とお母さんが顔をくしゃくしゃにして喜んでくれる。

「私はずっと見てたよ、静太があの時彼女を救えなくて、陰陽師として修行を積んでいた時も」と何やら凄いことを教えられた。

「私が贄として蛇神に捧げられたからかな? 朱沢と縁がある者、強い因果の輪の中にいる静太の頑張りを、いつも近くで感じることができていたの」

「そうだったんだ」とぼんやりとした頭で答える。なんだかずっと、頭に靄がかかったようで眠い気がする。嬉しさで胸がはち切れそうなのに、それをするだけの気力が尽きていた。

 それでも、巳影お母さんと触れ合えてるこの時間を、僕はこの魂に刻み続けている。二十年もの間届くことのなかったもの、修羅道を歩む僕には相応しくないと感じていたもの─────そして、もう二度と手に入ることはないだろうと諦めていた愛を、今この瞬間に得られたことを決して忘れない。

「静太、聴きなさい」と赤子をあやすようにお母さんが語りかける。

「うん」

「死者に縛られたままでは駄目。お父さんのように過去に生きていては、いつか自分を滅ぼしてしまう」

 お母さんの言葉に耳を傾け続ける。

「今の静太のことをちゃんと愛してくれている人がいる。あなたは十分すぎるほど紗姫ちゃんのために尽くして、その果てに彼女を救ったのよ」

「……うん」

 死んだ者は蘇らない。僕が喪ったあの紗姫は、もう二度と触れることも叶わない。

「だから彼女のためにも、死者に引っ張られずに前へ進みなさい。何よりも自分自身のために、あなたの生を全うしなさい」

 母さんの力強い言葉に、“俺”は身が引き締まる思いをした。こんな自分でも、新しい生き方を見出すことができるのだろうかと、若干の不安を抱きながらも……

「大丈夫、静太は一人じゃない。私もお父さんも……美樹お母さんも巳継も、あるさんもアケチも菊芭さんも晋三さんも」と母さんが歌うような口調で語る。

「そして紗姫ちゃんも、みんなが静太を見守っているから」そう言って母さんは、俺の瞼を優しく閉じた。強い睡魔に襲われ、意識が飛びそうになる。

「静太のおかげで、皆が神上がったの。地に縛られていた魂は、天へと昇ることができたの」

 温かな大粒の雫が顔に零れ落ちた。それはとても心地よくて、“僕”のこれまでの人生が誇らしくなるような感じがした。

「─────ありがとう」

 瞼裏にも視える母の笑顔をこの魂に焼き付けて、俺は意識を失った。

 

 

 私の目の前に君臨していたのは、龍深の龍神だった。剣を媒介に陽の大神を召喚したことで、陽と陰が一つになり完全な龍神として顕現したのだ。

「紗姫ー!」と静太が泣きながらこちらに走ってきた。

「やった! 僕たち、運命に打ち勝ったんだよ!」年相応にはしゃぐ静太が可愛らしい。彼を力いっぱい抱きしめて、私たちは喜びを分かち合った。

「これでこれからも、ずっとずっと……一緒にいられるわね」愛しい静太と額を合わせ、彼の瞳を覗き込んで微笑む。何故か少し顔を赤らめ、珍しく年相応の男の子の反応をする少年がいじらしかった。

「紗姫、なんか変わったね? 正式に龍深の巫女になった時とはまた別に、性格が柔らかくなった気がする」と静太が丸い目をして不思議がる。

 確かに、心持ちが先程とはまるで違う。私が私でありながら、何か自分に限りなく近い存在をこの身に降ろしているような……

 私たちのやり取りを眺めていた龍神が、この場にいる者たちの胸の中に語りかけてくる。

「この左獄山の聖域は、朱沢のあらゆる時間軸と繋がっている。今代の巫女が私たちを龍神として束ねたことで、この地から神上がった魂がこちらに干渉できるようになった」と胸に響く声は重厚であったけれど、私を視る眼はとても優しく、慈愛に満ちている。

「故に、その数奇なる縁を辿ってこの時間へ至った、そなたに限りなく近しい者の断片が……今その身に宿っているのだ」

 龍神の言葉に合点がいった。私であって、私と同じ運命を歩めなかった彼女───そもそも私と同じような生を、その手に掴むことすら叶わなかった女の子がいた。それでもあの子は、“彼”に想いを伝えて満足して神上がった。その“青宮院紗姫”の想いの欠片が、私の一部となったのだ。

 この青宮院紗姫という存在が、天へと駆け上がった彼女にとって救いとなる────そう祈りながら果ての宙に輝くベガに祈った。

「静太……」と両手を彼の頬に添える。

「うん」

 静太は私のことを本能的に理解してくれたのか、照れ隠しをする様子は微塵も見られない。

「大好き。今までも……あの時も、そしてこれからも」そう告げる私のほうが、顔に熱を帯びてしまう。

「僕も紗姫のことが好きだ。紗姫の一番傍に、ずっと寄り添い続けるよ」

 そう言って彼は微笑んだ。恥ずかしがらずに私が欲しい言葉を言ってのける静太は、やっぱり男の子なんだなぁと思う。

「ははは、若さだな」

 穹下さんが彩夏と雛美伯母さんに肩を借り、身体を重そうにしながら私たちのもとへ来た。慌てて彼に駆け寄り、満身創痍の身体の状態を確認する。

「傷が全部塞がっている。腐り落ちた部分も綺麗に─────良かった……」

「ミネミネの回復符、こんなに効き目があるなんて凄いや! 現代医療が泣いているよ」とオカルト怪談馬鹿が横で煩くしている。

「静太、はしゃぎすぎ」と言って彼の頭をはたき、もう一人の運命と向き直る。

「穹下さん……いえ、空静太」

 自然と彼の名が口から零れる。青宮院紗姫を助けるために時空すら超えて、その命を私に捧げ続けてくれた彼に対して、私ができることはただ一つだった。彼の痩せ細った……けれど何よりも温かく誇らしい胸に顔を埋めた。

「私たちを助けてくれて、ありがとう」

 彼にそう告げると、肩に優しいものが零れ落ちて、私の腕を伝っていった。

 次第に私の睫毛も熱く濡れた。私たちは遂に、逃れ得ぬ運命に打ち克ったのだ。

 

 

 その後、もう一人の僕は龍深の龍神の力を以て、元の時代へと帰った。青宮院と蛇神の宿業が断ち切られたことで、彼の時代の朱沢町に蔓延る瘴気も無くなるとの話だ。

 死んだ者は蘇らない、それがこの世の道理だ。その時代の紗姫は、彼と共に生きていくことはできない。

 それでも、呪いの地に縛られていた魂が、今回の件で天に還ることが叶った。救われたものは、確かにあったんだ────。

 回復符を使った直後でも瀕死だった彼に、どうやってそこまで回復したのか聞いてみた。

 巳影お母さんが死の淵から引っ張り上げてくれたのだという。そしていつまでも僕たちを見守っていることを知り、とても嬉しく思った。

 ────たとえ離れ離れであっても、巳影お母さんは僕を愛し続けている。この身に生を受けてからずっと、母なる愛によって守られていたんだ。

 穹下さんと僕たちは笑顔で別れた。湖から吹き出した光の奔流に消える彼の笑顔には、少年のような幼さが残っていた。

 

 それから十日後、僕たちは夏休み最終日を迎えた。美樹母さんと遊びに来ている巳継叔母さんは朝が弱いから、僕と紗姫は二人で簡単な朝食を摂っていた。

「ねぇ紗姫」とマーマイトを塗ったトーストに齧り付く女の子を見た。生気に満ちた眩しい笑顔を浮かべながら、僕の中ではこの世で最も不味いものを彼女は平らげている。

「ふぁに?」

「今年の夏は、僕は一番長かったと思う」牛乳を口に含んだ紗姫が、僕の言葉に頷いて同意を示す。

「色んな人と出会って、僕の知らないところで沢山の別れがあって、それが僕たちの夏の冒険に全部繋がっていて」

「そうね」と紗姫が目を閉じた。

「全ての事象が因果関係で繋がっているのなら……この夏はこれから先にある冒険の、はじまりの一頁なのかなってふと考える時があるんだ」

 別れ際にミネミネが言った言葉が蘇る。「君たちとはまた会うだろう」、これは僕と紗姫がまた何かに巻き込まれることを予言しているのではないだろうか。

「静太は日常が壊れることが怖いのね」

「うん」

「でも静太、この夏は今までで一番イキイキとしていたのよ。気づいてた?」

 僕は返す言葉を失ってしまった。非日常と紗姫の生死を巡った一連の出来事を、心のどこかで楽しんでいたんだ。僕は自分が思っている以上に人でなしなのだろう。

 茫然自失としていた僕の耳元で、小悪魔のように紗姫が囁いた。

「だからね、地獄に行くことになってもずっと一緒よ。せーたぁ?」

 紗姫の天使のような笑顔に、僕も笑って応えた。

 ────毒を食らわば皿まで、地獄だろうが煉獄だろうが紗姫を離さない。そう誓ったのは紛れもない、空静太自身なのだから。

 その意志の強さを誇示するかのように、マーマイトが塗りたくられたトーストを、僕は必死になって齧り付いた。

 

 

 ───誰かが俺の頭を撫でている。頬を絹のようなものが擽っている。巳影お母さんだろうか?

 意識が微睡んでいる中、「静太」と耳元で囁かれた声は、“僕”が最も取り戻したいと願い続けた彼女のものだった。

「……紗姫」

「静太、おはよう」と紗姫が目を細めた。

 全てが終わり辿り着いた聖域は、暁の空の下で静寂に包まれていた。何人たりとも踏み入れない、僕と紗姫だけが至った最果ての地のようだった。

 十年前と変わらぬ姿のまま、僕に膝枕をしてくれる女の子の頬に触れてみる。震える右手の指先からは、生者の持つ血の巡りを感じる。

「この身体はね、仮初の肉体なの。静太が私の魂を解き放ってくれたから、巫女の務めを果たしたご褒美として龍神様がくれたのよ」

 目を閉じて歌うような口調で、けれど少しだけ申し訳なさそうに紗姫が言った。

 ───分かっていた。既に起きてしまったことを、改変することは神にもできない。紗姫の死を……無かったことにはできない。

 僕の気持ちを汲んでか、紗姫が慈愛の色を浮かべた瞳でこちらの顔を覗き込んだ。その眼に宿る生命力や意志からは、やはり死者のものだとは到底信じられない。それは分かっているというのに……

「私は魂だけの存在となっても、青宮院紗姫なの。静太にとっての私は変わらない。だから……」そう言って紗姫は青空を見上げ、顔を上げたまま語る。

「だから、静太はまた私に逢えるのよ。いつの日か静太が天に昇った時、必ずそこに私はいるから」 

「紗姫、僕は───」と言いかけると、僕の唇に彼女の指が添えられた。

「まずは今回のご褒美ね。二回目は再会したらあげる」

 紗姫が僕に覆い被さって口付けをした。彼女の顔が目と鼻の先にある事の懐かしさを感じたのは一瞬で、僕の中から何か悪いものが吸われていく感じがする。身体にグッと力が入った。

 名残惜しそうに紗姫の唇が離れた。恐る恐る目を開けると、彼女の面影を残した、白無垢を纏った大人の女性の姿があった。

「静太、どう? 私きれいかな」

 僕の答えは決まっていた。たとえこの女性が少女の姿をしていたとしても、未来永劫それは変わることがない。

「紗姫は─────世界で一番綺麗な僕のお嫁さんだよ」

 その僕の言葉を受け止めた女性が、笑みを浮かべて広大な穹を見上げた。彼女の目元では、涙珠が作り出されては零れる現象が繰り返されていた。

 やがて我慢できなくなったのか、再び僕に覆い被さってくる。この世で最も美しい紅涙が、一つ……また一つと絶え間なく僕の顔に降り注がれる。

 そのまま彼女は僕の顔の造形を手で確かめながら、暫く無言のまま、その大きな瞳に青年を映していた。

「やっぱり静太は、幾つになっても変わらないね」と突然そんなことを言う。

「褒めてるのそれ?」と僕が少し不満そうに言うと、彼女は生前と変わらぬ笑顔を見せる。

「そうよ。静太が空静太であるために必要なもの、その魂の色と形は何一つ変わっていない」

「僕、陰陽師として修羅の道を歩んできたんだけど」

「うん。それでもあなたの根源は変わらなかった。青宮院紗姫にとっての空静太のままだった」彼女はそう言うと、かつて自分が噛んだ僕の左肩に手を翳した。

 すると、聖痕が輝いて僕たちを極光で包んだ。これも青宮院と龍脈の力によるものなのか、失われていた左肘と左膝から先の感覚が蘇った。

「これって……」

「あの時の静太と変わらない“あなた”にだから使えたのよ」と彼女が姿勢を崩しながら歯を見せる。僕は反射的に起き上がって、花嫁を両腕で抱き抱えていた。視界が潤んで、目の前にある微笑みがぼやけて映る。

「静太のものは私のものだから。いつか私のもとへ来たら、その時は返してね」

「約束するよ。此岸の向こう側────彼岸の果てに、必ず紗姫を見つけてみせる」

 僕がそう誓いを立てると、紗姫は安堵した表情を浮かべた。そのまま声にならない言葉を口にすると、ゆっくりと目を閉じて、安らかな眠りに就いた。

 青宮院紗姫の器が、徐々に光の結晶となりて曙光に煌めく。この腕の中にあった確かな重みは、散りゆく欠片となるにつれて薄れていく。

 この夏、僕にとっての織姫の魂は────、漸く穹へと還ることができた。天へと昇るその軌跡は、天翔ける水神のように、どこまでも自由だった。

 

 

 

 

 

添削協力

 

@PP72Tihaya

@10kimeshi

@huyu2022

 

 

参考文献

 

・北森鴻 / 浅野里沙子 著 (2011)

『邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルⅣ』 新潮社

 

・如月禅 (2023)

『たましいは夏かえる』

 

 

 

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