Sin and Punishment   作:アイダカズキ

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The Beast of America
Where Did You Sleep Last Night?


【〈のらくらの国〉消滅から数週間後──ペンシルバニア州・フィラデルフィア中央区近辺のオフィスビル、正午近く】

 ペンシルバニア州最大の都市フィラデルフィアの中でも、中央区近く、デラウェア川を臨むセンタースクエア近辺は高層ビルが多く立ち並ぶ最も近代的で洗練されたオフィス街である。

 その女がロビーに足を踏み入れた瞬間、周囲の視線は自然と彼女に惹きつけられた。

 ロビーを行き交う機能的なビジネススーツ姿の男女の中、その女は実に周囲から浮いていた。軍の放出品らしきカーキ色のズボンに、黒のタンクトップ。ベージュ色の薄手のコートを羽織っていても、逞しい体躯がはっきりと浮き上がっている。特に胸筋と肩部の盛り上がりが凄まじい。コーンロウにした豊かな黒髪と漆黒の肌が、魁夷な印象をさらに強めていた。背にはこれもまた軍の放出品らしき布製のナップザック。

 周囲が見つめる中、女は一直線にカウンターへ歩み寄った。スクエア型のサングラスで目元は覆われていても、鋭い眼光は隠し切れていない。

「このビルの11階、『ハイマン・ランドスケープ開発調査センター』のビル・マクルーハン氏に面会したい。取り次いでいただけますか?」

「少々お待ちください」見かけより穏やかな声と丁寧な口調に、顔を強張らせていた女性社員はやや表情を和らげた。何しろ時たま訪れるIT関係者は、もっと奇抜な服装の者も少なくないのだ。

 インターホンを介してのわずかなやり取りの後、気の毒そうな──少なくとも表面上はそれを装った顔を見せる。「申し訳ありません。そのようなオフィスも人員も、当ビルには存在しないとのことです」

 女は気を悪くしなかった。「困りましたね。ここで間違いないはずなんですが」

「失礼ですが、場所をお間違えでは?」

「まあ、いいでしょう。それならここで待たせてもらうまでの話だ。……ところで、あなたはご存知ですか?」

 まるで世間話でもするかのように、女は唐突に話し出した。「民間企業のオフィスを装ってはいるけど、ここは国家安全保障局(N S A)の、いわゆるセーフハウスなんです。それもただのセーフハウスではなく、全米に散らばる数百、数千に及ぶセーフハウスの監視・管理も行なっている。いわばセーフハウス管理センターといったところですか」

 女の声は大きくも、甲高くも、エキセントリックでもなかったが、それだけにひどく不吉なものを直感させた。

 受付の女性職員はにわかに落ち着きをなくしてきた──女の語る内容以上に、サングラスの奥の目が異様なほど爛々と輝き始めたように見えたからである。まるで藪に潜みながら獲物の隙を狙う雌虎のように。

「私は今からここを焼き尽くします。殺戮は本意ではありませんが、留まる以上は安全を保証できません。速やかな退避をお勧めしますよ。()()()

「これ以上続けられるようでしたら、別室でお話をうかがうことになりますよ」女性社員は笑顔を保つ努力を放棄し、代わりにデスクの下にある警報ボタンを押した。

 即座に警備員詰所から二人組の警備員が歩み寄ってきた。いずれもラグビーのクォーターバックが務まりそうな筋骨隆々とした体格だが、それに加えて腰のホルスターに手をやっている。

「かまいませんよ。向こうから出てきたくなるよう仕向けるまでですから」

 だが女は焦る様子もなく、背負っていたナップザックをカウンターに置いた。鉄塊でも詰まったような重々しい音が上がる。

 紐を解かれ、その中身が露わになった瞬間、誰もが息を呑んだ。

 袋に入っていたのはいくつかのシリンダーを束ね、さらにキッチンタイマーとコードを結びつけた金属の塊だった。タイマーの傍では、赤いランプが不気味に明滅している。それが何を意味するのかはあまりにも明らかだった。

「さあ、もうすぐ正午です。皆さん仕事は切り上げて、早めのランチをとってきてはいかがですか? 可及的速やかに(ハリー)!」

 誰もがランチのことなど頭から吹き飛んだような混乱がロビーで炸裂した。

 

 たちまち無人となったロビーの受付前で、その原因となった女が悠々とエレベーターホールへ進もうとした時──背後から呼びかける声がした。

「ちょっと、あなた」

 甲高い声に女が振り向くと──そこには5歳くらいの少女が、腰に手を当てて立っていた。紺のセーラータイプのワンピースに、豪奢な巻き毛が垂れかかっている。恐れを知らないスカイブルーの瞳が、サングラスの奥の目を直視していた。

「もしかして私に呼びかけたのですか、お嬢さん?」

「そうよ。他に誰がいるの。偽物の爆弾で人を脅かしちゃ駄目って、パパやママに教わらなかったの?」

 女の口元が割れ、綺麗な白い歯並びが覗いた。笑ったのだ。

「どうして偽物とわかったのですか?」

「一目でわかるもの、ぴかぴか光るだけの張りぼてなんて。第一、それを取り扱うあなたの手つき、全然本気じゃなかったわ」 

 女は今度こそはっきりと笑った。「なるほど、素晴らしい名探偵だ。私もまだまだですね。ところで名探偵だからって、託児所を脱走していい理由にはなりませんよ」

 からかわれた少女は顔を赤くした。

「だってあの子たち、退屈なんだもん。話すことと言ったらパパママ自慢か、さもなければ大富豪(ビリオネア)か、大富豪の奥さんになるか、そんなのばっかり。私のパパやママも私を大富豪か、大富豪の奥さんにしたがっているみたいだけど、私はそんなのになりたくない。私は警官になって、悪い大富豪を捕まえるの。ああそれと、あなたみたいに悪い人もね」

「素晴らしい動機だ。でもだったらなおさら、警官を志しているお嬢さんが託児所を脱走するのは感心しませんね」

「私の話はやめて」少女はまた顔を赤くした。「今話しているのはあなたのことよ。えーと」

「ノーラと呼んでください。親しい者は皆、私のことをそう呼びます」

「シェリルよ。ノーラ、話を逸らさないで。あなた()パパやママに叱られるのは嫌でしょ?」

「私を叱ってくれる人は、もういなくなってしまいました」

 少女はこぼれ落ちそうなほど目を見開いた──たとえ親から本当に平手打ちをされても、そんな顔にはならなかっただろう。

「それでこんなことをしたの? 偽物の爆弾で皆を脅して?」

「全てではありませんが、理由の一つではありますね」

「お願い、早まらないで」少女の声がたちまち切実な哀しみを帯びた。「ねえ、ノーラ。パパもママもいないのだったら、私が一緒に警察まで付き添ってあげる。だからこれ以上罪を重ねないで」

「どうしたものでしょう。もう少しで心を動かされそうになりました。悲しいかな、私が戦おうとしている相手は、警察よりずっと手強いのですよ」

 ノーラと名乗る女の声はあくまで穏やかで、静かで、そして乾き切っていた。

「子供から離れろ、このならず者(サグ)が!」

 一旦は逃げたはずの警備員二人が、左右からノーラに襲いかかった。一人は警棒、もう一人は催涙スプレーを手にしている。拳銃を使わなかったのは、ノーラの近くにいる少女を巻き込むのを恐れてか。

 スピードもタイミングも申し分なかった──だが、ノーラの方が遥かに速かった。

 警棒を振り下ろそうとする警備員の腹に強烈な前蹴りが飛ぶ。げっ、と躱わす余裕もない強烈な打撃に警備員の苦鳴が上がる。催涙スプレーを突きつけてくる警備員の腕を絡め取り、スプレーの放出ボタンを押し込む。相棒の催涙ガスをまともに食らってしまった警備員は悲鳴を上げてのたうち回った。

 スプレー缶を奪い取り、警備員の顔面に容赦なく振り下ろす。缶が変形するほどの勢いに、数打で警備員の顔面は血まみれになった。そのままとどめを刺すべく、喉首に容赦なく手刀を振り下ろそうとして、

「やめて!」

 ──我に帰った。恐れを知らない青い瞳が、涙を一杯に溜めてこちらを睨んでいる。

 ノーラは溜め息を吐き、気絶した警備員を放り投げた。「どいてください、シェリル。私はあなたを傷つけたくはありません。ですが、自分のなすべきことを諦めるつもりもありません」

「嫌よ。殺されたってどかないわ!」

 少女の強さは、死というものをよく理解できていない子供のそれだった。が……あえてそれを訂正するつもりにはなれなかった。

「困りましたね」

 ノーラは大真面目に考えた──その様子を見て、少女は呆れながら考えた。もしかしてこの人、私とあまり歳が違わないんじゃないかしら。

「では、こうしましょう。全てが終わったら、あなたの元に戻ってきて、警察に出頭します」

「本当に?」

「はい。それまで不必要な殺戮はしません」

 それは()()()()()()()()()()()という意思表示に他ならないのだが、それを悟るには少女は幼すぎた。「約束できる?」

「はい。約束します。ですからあなたもご両親の元に戻りなさい。たくさん勉強して、よく歯を磨いて、立派な警官になるんですよ」

 シェリルは三度顔を赤くした。「言われなくったって勉強はするし、寝る前にちゃんと歯磨きはしてるわ。警官になる努力だってやめない」

「その言葉を忘れないでください。さあ、もう行きなさい」

「うん」

 バイバイ、と少女は手を振り、体重がないような足取りで走っていった。

 その後ろ姿が見えなくなるまで手を振り続け、ノーラは立ち上がった。

「さて、これで本当に邪魔者はいなくなりましたね」

 今やビルの中に人気はない。だが彼女は既に、その奥に潜む敵意と戦意を感じ取っていた。

 

(11階。ハイマン・ランドスケープ開発調査センター……)

 名前はこの際どうでもいい。重要なのは、そこに目指すものがあるという事実だけだ。

 エレベーターから降りようとしたノーラを──銃撃が出迎えた。

「おや」

 たちまちエレベーターの扉を火花が穿った。その扉の陰から様子を伺おうとした瞬間。

 ノーラの頬を数発の銃弾が貫通した。少なくない血と、肉片の一部がボックス内の壁面に奇怪な模様を描く。

「……ふふ」

 くぐもる笑声を漏らし、彼女は頬をひと撫でしながら、口内に溜まった血を床面にぷっと吐き出した。吐かれた血の中には白い歯と、肉片までもが混じっているが、もうその顔に傷跡は残っていない。

「いい腕ですね。下階の警備員たちとは練度が違う」

 扉の陰からちらりと見えたのは、急拵えのバリケードに隠れて戦闘態勢を取っている完全武装の兵士の一群だった。全員がフルフェイスヘルメット、ボディアーマー着用。構えているライフルも最新型なら、銃に装着されている通信・光学機器その他のアクセサリーも見たことがないようなものばかりだ。

 兵士たちの一人、指揮官らしき男が呼びかけてきた。拡声器など必要なさそうな見事な声量だ。

「エレオノーラ・シェルストックだな?」

「ノーラ、と呼んでもらえませんか? 親しい人間は皆そう呼びますし。それにここだけの話、そのフルネームは女の子っぽすぎて好きではないんです」

「お前の友人の話はしていない。抵抗をやめ、頭を手の後ろで組んで出てこい。既にこの施設からは職員も設備も撤収済みだ──俺たちとお前以外はな」

 ノーラは低く笑った。「犯罪予測で私の行動を先読みしましたか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 たちまち兵士たちの間で、今にも発砲しかねないほどの怒気が膨れ上がる──が、指揮官は首を振ってそれを制した。

「半年前まで、お前はハイスクールの一学生に過ぎなかったはずだ。何がお前をここまでさせる? いや、なぜここまでできる? ただの素人が、国内に点在する我々のセーフハウスを探り当てて潰せるはずもない」

 ノーラはゆっくりとサングラスを外した。兵士たちの間から、声にならない呻き声が上がる。

「それは私よりも、あなたの上司の上司の上司あたりに聞いてみてはいかがですか?」

 緑の中に金色の点が散らばるような、美しい瞳だった──まるで雌虎の瞳。

米特殊作戦軍の悪夢(The Nightmare of USSOCOM)……」

「……俺は一度だけ、()()を見たことがある。忘れるはずもない、その瞳……あいつと同じだ」

 冷静な指揮官でさえ、声色に畏れを隠せてはいなかった。

「お前は何だ? メアリ・バーキンズには係累はいなかったはずだ。遠縁の親戚か、それともクローンか?」

「さて、どうなんでしょうね? 誰も彼もが、私を見ると『血塗れのメアリ(ブラッディメアリ)』について尋ねてきます。正直言って、うんざりします」

「お前が知らないのなら、まあいい。俺もそれほど知りたいわけでもない」

 指揮官の声が冷静さを取り戻す。「大人しく投降すればよし。抵抗すれば、考えられる限りの無惨な死に方をすることになる」

「脅し文句としては陳腐ですね。殺されるとわかって投降すると思いますか?」

「こちらとしては()()()苦痛が少ない方を示したまでだ。本当にどうかまでは責任を持つつもりはない」

 犬のお手本ですね、とノーラはこっそり吐き捨てた。「では、こちらも少し()()することにしましょう」

 掌に隠した小さな装置を握り込む。

 

 ──その頃1階のロビーでは、爆弾処理班によるノーラの置き土産の解体作業が始まっていた。

「本物の爆弾である可能性は低いが、爆弾以外の危険物が内蔵されている可能性まではゼロではない。油断するなよ」

「わかっているって……」

 まず遠隔操作ロボットで液体窒素を吹きつけ、本体を凍結させる。カウンターごとシリンダーの束が氷の塊になってから、ようやく防爆服を着用した隊員たちが動き始めた。噴霧された窒素で周囲の大気は氷点下近くまで下がっていたが、それでも隊員たちの額には緊張のあまり汗が光っている。

「光センサー、動体センサー、振動センサー、いずれも確認できず。本当にただのタイマーとランプの組み合わせらしいな」

「となると、問題はシリンダーの中身だな……解体に入るぞ」

 隊員たちがにじり寄った時──かちり、と何かが噛み合う音がし、キッチンタイマーがアラームを響かせ始めた。

「何だ!? 急に作動したぞ!」

「遠隔操作でスイッチが入ったか。用心しろ!」

 隊員たちは慌てて防盾を構えながら交代する。息を呑んで見守る一同の前でシリンダーが割れ、中から銀色に輝く数十センチほどの球体が転がり出た。

 球体はカウンターの上を転がり、見かけからは想像もできないほど重々しい音を立てて床の上に落ち──床に深い亀裂が生じるほどめり込んで動かなくなった。

 それだけだった。光も音も生じない。

「……ただの金属の塊らしいな。脅かしやがって」

「それにしても変だぞ。あのサイズではこのフロアの天井近くから鉄塊を落としても、あそこまで深くめり込まない。あの球体、タングステンじゃないのか?」

「まさか、あれが〈デーモン・コア〉なんて言うなよな」

 隊員たちが青ざめた顔を見合わせた瞬間、さらなる異変が起きた。

 球体が変形した。音もなく、光もなく、ただ照明の下で煌めきながら飴細工のように細く長く天井へ向けて伸び始める──まるで槍のように。

「何の冗談だ!? タングステンってのはあんなにくねくね伸びる代物なのか!?」

「退避しろ!」

 後退していく隊員たちの目の前で、今や数メートルを越える長大な槍と化した金属塊が凄まじい勢いで天井へ向けて射出される。発生した衝撃波に、カウンター付近の固定されていない置き物は一つ残らず吹き飛ばされた。

 

 その衝撃は、11階上のノーラたちの足元まで揺るがせた。厳戒態勢を取っていた兵士たちですら、一瞬ではあるが動揺する。

「何だ!?」

 苦鳴が上がる。一人ではなく十数人の悲鳴が。

 床を貫通して伸びた無数の槍が、十数人の兵士を串刺しにしていた──まるで百舌の早贄のように。

 思わぬ被害に愕然とする兵士たちが立ち直る前にノーラが動いた。

「…… 戦闘開始(オープンコンバット)

 雌虎が笑うがごとき彼女の呟きを、果たして何人が聞けたのか。

 ノーラの手から何かが一直線に飛んだ。ライフル弾とほぼ変わらない速度で放たれたそれは、下階で警備員から奪った催涙スプレーの缶だった。

「が……!?」

 兵士たちの一人がのけ反る。フルフェイスヘルメットは四散こそしなかったが、凄まじい勢いに缶が深々と突き刺さっていた。

 鋭い呼気。一気に距離を詰め、ノーラは兵士の首を抱え込むようにして投げ技を放った。完全戦闘装備の重量が一回転し、床に叩きつけられる。全員の耳に兵士の首が折れる乾いた音が聞こえた。

「貴様……!」

 無数の銃口が火を吹くより早く。

 ノーラは絶命した兵士の首を抱え込んだまま、その手に握られたアサルトライフルのトリガーを引いた。ほぼ無照準で放たれた銃弾は、それでも数人の兵士をまとめて引き裂いた。

 怒りに任せて無数の銃弾が放たれる──が、それが捉えたのは盾にされた兵士の死体で、ノーラは床に投げ出されたコンバットショットガンに飛びついている。

 重々しい音が立て続けに響く。放たれた12番ゲージの散弾が、たちまち二人の兵士の頭部を踏み潰された果実のように粉砕する。

「…… 閃光手榴弾(フラッシュバン)!」

 投擲された手榴弾が、眩い光と凄まじい轟音を放つ。さしものノーラも動きを止めてしまう。その隙に放たれた銃弾が、今度こそ彼女の全身を貫き──

「馬鹿な…… !?」

「詰めが甘かったですね。兵隊さんたち」

 ノーラの口が耳元近くまで裂けるように笑う。

 銃弾は一発残らず、微かに煌めく半透明の、六角形の小片によって受け止められていた。

 見間違えるはずもない。〈(スケイル)〉──現用兵器では突破不可能な、〈竜《ドラゴン》〉唯一の、そして絶対的な防御手段。

「こいつ、やはり……〈竜〉か!」

 厳しい訓練の末に銃を身体の一部とした男たちが、声もなく子供のように震えている。指揮官の声ですら、恐怖のあまり掠れていた。

 無理もない。この組み合わせに恐怖しないものがいるだろうか──〈竜〉の権能を持って受肉した特殊作戦軍の悪夢、メアリ・バーキンズに極めて近しい存在。

「後退しろ!」

 さすがにプロの兵士たちは立ち直りも早かった。数発の発煙手榴弾が投擲され、ノーラの視界を遮る。散発的に射撃を行いながら、通路の奥へと退いていく。

 ノーラは深追いしなかった。一回、深々と深呼吸する。

「対応が早い。やはりこの統括センター自体が罠でしたか。となると、この奥が最終防衛ラインですね」

 あえて重要拠点を囮として使った──統括センターそのもので形成した火力集中区域(キルゾーン)

 彼女の口が再び耳元まで裂ける。「まあ、いいでしょう。戦力は集中していた方が、()()()()()()()()()

 床のアサルトライフルを拾い上げる。アクセサリーは破損していたが、銃本体に問題はなさそうだ。他にもコンバットショットガン、ハンドガン、それらの予備弾倉、足首に装着するシースナイフなども死体から回収しておく。

「おや、これは……」

 事切れた兵士の腰に装着されていたものに目が留まる──戦闘用の小振りな斧。一振りしてみると、鋭い音を立てて空を切り裂いた。バランスも素晴らしい。

 思わず笑みがこぼれた。「いいですね。こういうのが欲しかった」

 

『ハイマン・ランドスケープ開発調査センター』と金文字で彫られたオフィスの前にたどり着く。

 援護もなしに突入する愚は犯さず、扉を蹴り開けて一呼吸置いてから飛び込む。

「これは……」

 ノーラを出迎えたのは、広大な暗闇だった。照明は消され、窓という窓にシャッターが下ろされ、数百平方メートルはあろうかというオフィスフロアは全体が闇の中にあった。

 背後の扉が勝手に閉じ、同時に銃撃が開始された。全発、〈鱗〉に弾き返されはするが──嫌になるほど精確な狙いだった。しかも銃口に消炎器(フラッシュハイダー)を装着しているのか、銃火の瞬きもほとんど見えない。

「さすがはプロ……やりますね。真昼のオフィス街で、夜間戦闘に持ち込むとは」

 確かにノーラも夜目は効く方だが、高性能の暗視装置を装着した兵士たちに勝てるほどではない。

〈鱗〉があっても一方的に銃撃を浴び続けるのは気持ちのいいものではない。スチール製のデスクに身を隠そうとした瞬間、

 数個分のスチールデスクを貫き、大口径の弾丸が飛来した。

 対物ライフルから放たれた大口径弾だった。20ミリを越える機関砲サイズの弾丸──焼夷徹甲榴弾。

〈鱗〉に阻まれて爆発──眩い爆炎が視界を埋め尽くす。反射的に顔を背けて悟った。これは直接ダメージを与えるための攻撃ではない。むしろ目眩しが狙いだ。

 焼夷徹甲榴弾は次々と飛来した。〈鱗〉に防がれダメージはなくとも、生じる光と轟音により反撃もままならない。これはまずい状況ですね、と舌打ちしかけた時。

「展開」

 指揮官の号令に合わせ。

 ノーラの全身を耐えがたい苦痛が貫いた。体内の血液が煮えたぎるような熱さと痛み。見る限り皮膚に何のダメージもないのに、立っていられない。無意識に膝が折れてしまう。

「……暴徒鎮圧用のマイクロ波照射機(A S D)が効いたな」

 冷静な指揮官でさえ興奮を隠せないでいる。「〈竜〉本体の生命を脅かさない非殺傷兵器なら、〈竜〉の行動は制限できるわけか」

 これは失点ですね──自分を罵る。〈鱗〉を過信したのは〈竜〉ではない、自分だ。

「銃撃を加えつつ全身。液体窒素の用意を」

 本格的にこちらを拘束すべく、暗闇の中で兵士たちが動き出す気配。

 仕方ありませんね──〈竜〉の権能なしでできるのは()()()()()()()、と決断する。

「さすがです、指揮官さん。どうやら私の身体能力でどうにかできるのは、今日はここまでのようです」

 返事こそなかったが、訝しむ気配は伝わってきた。内容が命乞いや罵倒でないならなおさらだ。

「過ちを改めるのに遅きはありません。これから私の能力の一端を見せましょう。私の〈竜〉の権能を」

「……警戒しろ!」

 指揮官の号令より早く。

 音もなく、ノーラの足元に()()()が生じた。暗闇よりも、夜の海よりもさらに黒い、あらゆる光を吸い込むような黒い沼。

 鈍い音が立て続けに二回。そしてくぐもった悲鳴も二人分。

「……!?」

 次の瞬間、兵士たちの全員が自分たちの目よりも先に正気を疑った。

 何の前触れもなく、ノーラが()()()()()。新たに二人──膝立ちでライフルを構え、しかも顔面には兵士たちと同じ暗視ゴーグルが装着されている。

「何だ、それは……」

 また新たな銃声──小銃とは比較にならない轟音。

 ()()()()()()()()()()()。今度のノーラは大口径の対物ライフルを構えている。後方で生じた湿った音は、対物ライフルの狙撃手と観測手が立て続けに頭を吹き飛ばされた音か。

 ノーラが増えていく──再現なく。決して狭くはないオフィスを埋め尽くすように、十人、二十人、そしてそれ以上に。

「お、お前は……自分の分身を増やせるのか!?」

()()()()()()()()()()()()()()()()。誇っていいですよ、指揮官さん──前の二つの支部は、これを披露する間もなく燃え尽きましたから。これが私の〈竜〉……〈ワイルドハント〉と名付けた私の権能です」

〈ワイルドハント〉──全にして個、個にして全。HWとは似て異なる、個人で軍隊を構成する権能。

「さて。今度は皆さんが()()()を痛感する番ですね」

「……ASDの出力を最大に上げろ! 致死レベルだ!」

 それまで何一つ過たなかった指揮官が、ただ一つのミスを冒した。

 出力を増すマイクロ波に対し、〈鱗〉が自動発動──浴びせられたのと全く同出力のマイクロ波を照射。

 マイクロ波放出板が無数の火花を散らして沈黙する。()()()()()()()()()()としての〈鱗〉。

 暗闇の中、無数のノーラが疾駆を開始する。ライフルを、サブマシンガンを、重機関銃を、刃物や鈍器を手に、あるいは何も持たずに。

 必死の形相で兵士たちが発砲する。〈鱗〉までは使えないのか、数人のノーラが倒れた。だが新たなノーラは次から次へと殺到してくる。

「こんな馬鹿な……!」

 分隊支援火器を打ち続けていた兵士の頭が爆ぜる。ライフルによる正確極まりない狙撃だった──銃の腕はオリジナルに少しも劣っていない。

 ついに先頭のノーラがバリケードに取りついた。突進する勢いをそのままに兵士を押し倒し、チェストリグに装着したままの手榴弾のピンを抜く。数人の兵士がまとめて吹き飛び肉塊と化す。

 まるで旧ソ連軍式の突撃戦術だった。銃も持たず突進してくる、夥しい死兵たち。

「来るな、この怪物(フリークス)どもが!」

 必死にコンバットショットガンの銃口を振り向ける兵士の首筋から、鮮血が迸った。

「えっ……」

 倒れ伏した時にはもう絶命している。しゅっ、と鋭い呼気と黒い残像を後方に残し、死神のごとき影が浮き足出す兵士たちの只中に踊り込んだ。

 銃を持ったままの腕が飛び、太腿が半ばまで切断される。血泡を吐く兵士の首筋に深々と斧の刃を食い込ませたノーラが、獰猛に歯を剥き出しながら死体をバリケードの下に蹴り落とす。

「いいですね。やはり私には、銃よりもこちらの方が性に合っています……!」

 誰もが息を呑んだ。爛々と燃える深緑の瞳、全身に返り血を帯びたその凄惨な姿は、

「やはり……こいつはメアリ・バーキンズだ! 地獄から這い上がってきた、特殊作戦軍の悪夢だ!」

 恐怖に顔を引き攣らせて叫ぶ兵士の眉間に、投擲されたシースナイフが突き刺さる。

「銃を落とすな! 奪われた分だけ仲間が死ぬぞ!」

 指揮官の必至の号令は有効ではあったが、決定打にはなり得なかった。

 ──銃声が止むと同時に、照明が着いた。白く清潔だったオフィスは見る影もなく、赤く、黒く汚れていた。兵士たちの死体と、天井まで飛び散る血液で。

 既に無数のノーラは消失し、元の一人に戻っていた。今や室内で生きているのはノーラと、足からの出血を必死で止めようとしている指揮官だけだ。

「動脈が傷ついていますね。早く適切な手当をしないと死にますよ」

「……お前に心配されるまでもない」

 指揮官は血と汗まみれの顔を向ける。「とどめを刺さないのか?」

「さて。私はあなたが思う地獄の悪鬼ではありません。あなたが自分から死のうとするのは勝手ですが、わざわざそれを手伝うほど親切でもありません」

「……ふふ」

 何もかもが嫌になったと言わんばかりに、指揮官は両手両足を投げ出した。「俺を殺そうと殺すまいと、結果は変わらん。お前がこれから相手にしようとしているのは国家だ。獣のように追い詰められて、結局は惨めに死ぬ……」

 抜く瞬間も見せず手が閃く。ホルスターから抜き放たれたハンドガン。「お前を逃がそうとして無意味に死んだ、お前の母親のようにな!」

 ──戦闘の終わりを告げるにはあまりに呆気ない、乾いた銃声。

 床に落ちた薬莢の音が響くほど、周囲は静かになっていた。

 指揮官は眉間から血を流して事切れている──もはやぴくりとも動かない。

 今度こそ他に誰もいなくなったオフィスの中央で、ノーラはぽつりと呟く。

「ごめんなさい、シェリル。もうあなたとの約束を破ってしまいました。……約束を守るって、なんて難しいんでしょうね」

 

 上階のオフィスはただのオフィスに過ぎなかった。統括センターの本体ともいうべきメインフレームは、エレベーターシャフトを直接降りた地下深くの階に存在していた。

 想像していたような妨害はなかった。メインフレームにまで直接侵入されるようなら、どのような防御手段も無駄という考えだろうか。

 どうでもよかった。

 ノーラはアクセス用の小型端末を操作し、一心に目的のファイルを探し続けた。──あった。特に暗号化も何もされていない、一群のファイル。

 彼女はしばらくの間、ただ黙読を続けた。血と臓物の海に顔を突っ込むように。

「……はは。ははは。ははははは」

 やがて、彼女は笑い出した。涙を流しながら。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 ノーラは手にした拳銃の弾丸を端末に叩き込んだ。端末が火花を散らすのにも目をくれず、残りの弾丸を全てメインフレームに叩き込む。何百万ドルもの業務用大型メインフレームが、わずか数秒で鉄屑と化した。

 笑って、笑って、涙を流し続けて。

 急に彼女は笑うのをやめた。疲れたように──何もかもに愛想を尽かしたように。

「…… 〈慈しみの女神たち〉作戦(オペレーション・エウメニデス)。〈聖母の嘆き〉作戦(オペレーション・スターバトマーテル)のグレードアップ版。その正体は──狙った敵対勢力・国家内部に〈ヴィヴィアン・ガールズ〉を人工的に発生させる不正規作戦。それはかつての米特殊作戦軍の最高傑作にして、最悪の悪夢──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ノーラはしばし目を閉じ、考える。ここに到達するまでに誰を、そして何を失くしたのかを。

「……行きましょう」

 やがて彼女は目を開け、歩き出した。

 自分になすべきことはまだあると信じて。

 

「皆さん、押さないで! 落ち着いて避難してください!」

 ビルの周辺では逃げ出してきた人々の誘導が続いていた。中には両親に左右から抱き抱えられているあの少女、シェリルの姿もある。

 昼前に起きた騒動であるのが災いし、何も知らずランチを摂りに通りへ出てきた人が多すぎて避難作業は遅々として進んでいない。

「しかし、一体何が起きているってんです?」

 同僚と交代してきた若い警官がぼやく。「あのビルの中からひっきりなしに軍用銃の発砲音が響いてくるって鑑識班が言うんですよ。戦争でも始まったんですかね?」

 笑わずに年配の警官が応じる。「案外、本当にそうなのかも知れんぞ。どうもあのビル……()()()()()()()らしいんだ」

「どこぞの工作員だかテロリストが殴り込んできたんでもなければ、こうも大騒ぎにはならんでしょう?」

「さあな……だがそれは、()()が出張ってきたのと無関係じゃなさそうだ」

 面白くなさそうな顔で警官二人は、反対側の通りに鎮座している巨大な金属塊を見る。

 GM製の大型軍用強化外骨格(エクソスケルトン)〈アトラス〉。堅牢性とメンテナンスの容易さ、目的に応じたオプションパーツの換装による多用途への対応──言うまでもなくれっきとした軍用兵器である。全長4メートルというサイズは市街戦対応を謳われてはいるものの、それはあくまで「かろうじて」という意味でしかない。

「アラバマで暮らしてるうちの婆ちゃんが見たら『いつからこの国はこんなファシスト国家になったのか』って言い出して止まらなくなりますよ」

「あんまりでかい声で言わん方がいいぞ」やや陰鬱な声で年配の警官が呟く。「うちの署長はあの新しい()()()()にえらくご執心だからな」

「だからって、いい気分はしませんや」

 若い警官の俗っぽいが賛同しやすい意見に、年配の警官も異を唱えなかった。確かに無骨で威圧的な〈アトラス〉の外見は、親しみやすさとも住民感情への配慮とも無縁だった。避難する人々の態度も、できるだけそちらを見ないようにするか、足早に怖々と通り過ぎていくかのどちらかである。

「……あれが〈竜〉に対抗するためって名目には、まあ頷けなくもないですがね」

「一つ笑い話を教えてやろうか。あんなもんじゃ〈竜〉への対抗策としては、話にならん下策なんだそうだ」

「はあ?」

「考えてもみろ。ロンドンや新香港に現れたような〈竜〉相手に、機関砲やミサイル程度でどうにかなると思うか? かといってあんなもの、暴徒鎮圧には過ぎた代物だ。つまり、やたら金がかかる上に融通の効かない()()()()以外の何でもないってことだよ」

 ベテランほど市警察の現状に思うところがあるのかも知れない。その鬱屈を感じて若い警官がかける言葉を見つけられないでいた時。

 爆弾処理班が退去して以降、シャッターで固く閉ざされていたはずの玄関付近で大音響が生じた。通りの反対側にまで粉塵が飛び、避難民や野次馬たちが悲鳴を上げて身を屈める。

「……何だぁ!?」

 

「指揮官さん。あなたの洞察はほぼ当たっていましたが、ただ一つだけ外れていたことがあります。私の〈ワイルドハント〉の権能は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 一時間前まではどこもかしこも顔が映るほど綺麗に磨かれていたロビーは、今や空爆でも受けたような有り様となっていた。その只中を一人、ノーラは歩いていく。足元に広がる黒い沼から、無数の「自分」を生み出しながら。

「どうもこの権能は、別の宇宙──無限の平行世界(パラレルワールド)から別の自分を連れてくる能力のようなんですよ。つまり……」

 新たなノーラが生まれ、先に生み出されたノーラの後を歩いていく。数が増えるにつれ、そのシルエットは次第に人とは似ても似つかない、歪んだ異様なものとなっていく。

「……つまり、遠く遠く離れた別の宇宙には、こんな姿の私もいるかも知れない、ということです」

 無数の「自分」に囲まれるノーラの姿もまた、徐々に歪んでいく。

 

「……何だ、あれは!?」

 誰もが()()を見た──警官たちも、〈アトラス〉のパイロットも、通りを避難する人々も。

 それは地上に現存するどの生物とも似ていなかった。機械ではないが、生物でもあり得ない──無理に形容するなら、流線型の滑らかな甲冑を纏い、四足獣じみた四肢を持ち、さらに蠍に似た長大で末端の膨れ上がった尻尾を持つ半人半獣(ケンタウロス)とでも表現するべきか。

 誰もが声を殺して、息を殺して、その怪物を見上げるしかなかった。腕の一振りで、尻尾の一振りで、周囲の人間を肉塊にしかねないサイズとパワーをそいつが持っていることは明らかだったからだ。

 警官たちでさえホルスターに手をやったまま動けないでいる中──ただ一人動いた者がいた。操縦席(コクピット)の中で出番を待ってうずうずしていた、例の〈アトラス〉のパイロットである。

「出やがったな、化け物(フリークス)が!」

 パイロットは若く、自信に満ちていた──それも、あまり褒められない類の自信に。彼の欲求は手持ちの火力を眼前の怪物に叩き込むことにあり、それにより生じる周囲の被害は二の次だった。本来ならば巨大戦闘兵器のパイロットには実に不向きな性格である。

「動くんじゃないぞ、今すぐプレッツェルみたいに粉々にしてやるからよ……!」

 ディスプレイの中で照準を合わせ、機関砲の発射ボタンを押し込もうとした瞬間。

 視界の中で怪物が動いた──それも、予想以上の速さで。

 停められた車の列を一跨ぎにし、通りを飛び越え。

 それ自体が砲弾のごとき右ストレートが、〈アトラス〉の顔面に叩き込まれた。

「ぶ……!?」

 衝撃の凄まじさに悲鳴が悲鳴にならなかった。どうにか気絶を免れたのは、衝撃吸収機構が作動したからでしかない。

 ディスプレイの半分以上が暗闇と化していた。メインカメラが今の一撃で潰されたのだ。もう搭載兵器の狙いをつけるどころの騒ぎではない。それでもどうにか機体のばランスを立て直そうとした時、新たな衝撃に見舞われた。

「なっ……!?」

 警報とダメージ表示──右腕損傷。怪物に機体の右腕を根本からもぎ取られたのだ。しかも衝撃は三度、四度と続く。かろうじて生き残っていたサブカメラまでもが破壊された。怪物はもぎ取った〈アトラス〉の右腕で、〈アトラス〉の機体を殴りつけているのだ。

「こ、こいつ!? やめろ、やめてくれ……!」

 怒りは容易に恐怖へ取って代わられた。今度こそ完全な暗闇と化したコクピットの中で、パイロットは子供のような悲鳴を上げた。しかも先ほどから、強固なはずのコクピットが少しずつ歪んできているではないか。

「うわああああ!」

『……パイロット。ただちに飛び降りなさい』

 その時、声がした。若い女性の、静かで穏やかで乾き切った声。

『コクピットを潰します。これが最後の警告です』

 もう恥も外聞もなかった。彼は脱出用レバーを引き、機体から転がり出た。

 断末魔のような金属の悲鳴。振り返ると、怪物が愛機のコクピットに、機体からもぎ取った右腕を根本まで抜けよとばかりに深々と突き刺したところだった。まるで墓標のように、〈アトラス〉の胸部から右腕がにょっきりと生えているのはなかなかシュールな眺めだった。当然、ぴくりとも動かない。

 安堵のあまりへたり込む彼には目もくれず、怪物は静かに踵を返し──躊躇いもなくデラウェア川へと飛び込んだ。

 誰もが呆然と見送るしかなかった。〈アトラス〉でさえ容易く破壊した相手に、人間サイズの拳銃や散弾銃が何の役に立つというのか?

 ──両親に抱き抱えられるようにして連れ出されたシェリルは、群衆の中に見覚えのある背中を見つけたように思った。だが……目を瞬いた時には、それはもう跡形もなく消え去っていた。

「どうしたの、シェリル?」

「……何でもない」

 

 この事件は政府関係者──取り分け治安関係者にとっての手痛い教訓となった。

 一つは〈竜〉の火力が当初の想定より桁違いであったこと。巨額の税金を投じて購入した〈竜〉に対抗する兵器の数々が、何の役にも立たなかったのだ。フィラデルフィア市警察の権威は地に落ち、最終的には警察署長の辞任にまで発展する騒ぎとなった。

 もう一つは犯罪予測システムによる〈竜〉対策が無意味であったこと。確かに襲撃される箇所やその日時までをほぼ正確に予測できてはいたのだが、にも関わらず〈竜〉の襲撃を許したばかりか、あっさりと突破されてしまったのだ。たとえ必殺の罠を用意しても、それを食い破られてしまったのでは意味がない。軍・警察関係者は以降の〈竜〉対策をほぼゼロから見直さざるを得なくなった。

 だがそれらの悩みも、NSA職員たちに比べれば、まだまだ些細なものであったのかも知れない。

 なぜならシャッターを破りビル内に突入した緊急展開部隊(H R T)を迎えたのは、兵士たちの死体の山と、そして──壁に血の色の塗料でこう大書された文面だったからだ。

 

『国土安全保障局は〈慈しみの女神たち〉作戦(オペレーション・エウメニデス)に関する全ての情報を無条件で全報道機関に対し公開してください。この要求が聞き入れられなかった場合、一日一つの割合であなたたちの()を燃やします』




お待たせいたしました。新章スタートです。
彼女──エレオノーラ・シェルストックはいずれ龍一たちと血で血を洗う死闘を繰り広げることになります。それを皆さんにお見せできる日が僕自身待ち遠しくて仕方ありません。お楽しみに!
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