プロローグ それぞれの始まりと終わり
「新田さん。礼峰学園を受けてみるつもりはない?」
「えっ……」
進路相談の時間。真琴は先生のその提案が理解できず、ついそう聞き返してしまった。「礼峰って、あのお嬢様学校ですよね? ちょっと敷居が高すぎませんか?」
礼峰学園がどんなところか、知らないどころではない。高塔百合子、瀬川夏姫、いずれも真琴に縁深い人々の出身校だ。自分がそこに通って何をするのか、どれだけ頭を捻ってもまるで浮かんでこない。そもそも雲上人の通う場所だろう、という思いがある。
ましてや一人称を頑なに「僕」で通しているような自分にとっては……とまでは口にしなくても、先生には予め予想できていた反応だったらしい。「推薦枠にもう一人だけ空きがあるの。これは私見だけど、あなたの成績なら充分に見込みはあると思う」
「何だか……ピンと来ませんね」
そう呟く自分の声も何だか他人みたいだな、と思う。この半年で、真琴の周囲ではいろいろとありすぎた。高塔百合子と、瀬川夏姫の行方不明。相良龍一の国際指名手配。全世界の軍事基地を潰すために跳梁する〈四騎士〉。そして犯罪予測システムと、あの人造の兵士たち──HWの実戦配備。
それに比べれば受験に関するあれこれなんてちっぽけな話だ、そうは思っていたが、そう思っているのも自分だけだったらしい。
「新田さん……この半年、本当に大変だったと思うわ」先生が姿勢を正した。どうやら本格的な説得モードに入るらしい。「でも、世の中がどんなに大変だろうと、あなたはこれから先のことを考えなければならない。あなたの将来に関することなのよ」
全くもって非の打ち所がない正論には違いない。だがその正論は、真琴の心の表面を滑るばかりだ。
いつも何となくつるんでいる悪友たち、可乃子はさっさと商業高校への進学を決めてしまった。「実家」とは距離を取る、という本人なりの意思表示らしい。佳澄は何だか他に夢中になるものが見つかったみたいで(一度のめり込むと飽きるまでとことんやる、彼女の生態を知る者なら別に不思議ではない)最近ではろくに話しかけてもこない。
皆がそれなりに進路を決めてしまった中、真琴だけが宙ぶらりんだ。
「お母様も進学を希望しているんでしょう? 礼峰だったら申し分ないし、きっと喜ぶんじゃないかしら」
「……どうでしょうね」
「え?」
少し前の真琴だったら、その言葉に形だけでも奮い立ったかも知れない。だが今は、頭の中の囁き声が消えないのだ。お前は母親のためだけに将来を決めるのか、と。
母との距離が近くなったわけでも遠くなったわけでもない。母の出社が早いのも、帰りが遅いのも相変わらずだ。ただ、真琴には母を母たらしめたもの、それが日々の忙しさの中で徐々にすり減っているように思えてならなかった。
礼峰学園に決めた、と言っても今の母なら「そう。よかったわね」で済ませるのではないか。
「来週の水曜日に学園見学をセッティングしてあるの。とにかく、雰囲気を掴んでみるだけでもどうかしら?」
「……わかりましたよ」
説得されたというより、話を終わらせたくて真琴はそう言った。自分を思いやる人の気持ちにも、自分はこうやって返すだけなのか、と思いながら。
放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、佳澄はクラスメイトへの挨拶もそこそこに、買い食い一つせず真っ直ぐ帰った。ここ数ヶ月でルーチンとなりつつある、彼女の行動である。
「ゆずるー、
赤煉瓦屋根の、だいぶくたびれた一戸建てが佳澄の実家である。「このご時世に一軒家なんていいじゃん!」とアパートやマンション住まいの級友たちは羨ましがるが──佳澄に言わせれば、実はあまりありがたくはない。本来の持ち主であった母方の祖父母が相次いで世を去ってから、まるでその後を追うように家の老朽化が進み始めた。隙間風が寒いし、雪でも降れば瓦が落ちて危ないし、エアコンは冷房暖房問わず具合の悪そうな異音を立てるし、風呂釜はしょっちゅう調子が悪くなるし、維持費だって馬鹿にならない。佳澄は密かに、母の苦労はこの家を受け継いだ時から始まったのではないかと思っている。
「カスミよ、帰ったか! ユズルもそなたの帰りを心待ちにしておったぞ!」
窓ガラスがびりびり震えるほどの大音声で佳澄を出迎えたのは──天井が低い日本家屋にはずいぶんと不釣り合いな、堂々たる体格の美丈夫だった。
緩やかに波打つ髪は黒髪。わずかに褐色がかった皮膚と、光の加減によっては金色にも見える琥珀色の瞳。
何しろ胸筋が太くて分厚いので、半袖Tシャツの胸に描かれた熊のイラストは左右へ引き伸ばされてカバと化しており、ジーパンは大腿筋の圧力でぴちぴちに張り詰めてほとんど半ズボンと化している。が、本人は「肌触りの良い衣であるな。気に入った」と言っているので、佳澄も気にしないことにした(何しろこの女所帯に、男物の上下があっただけでも奇跡に近いのだ)。
今でこそこんな格好だが、きちんとした服を着せたら大変な騒ぎになるだろう。
とにかく、映画の中でもそうそうは見かけないような美丈夫なのである。その美丈夫に、猫のように脇腹を持たれて「高い高い」されながら不機嫌な顔をこちらに向けているのは、今年で6歳になる佳澄の妹のゆずるだ。
「王子、さっきから何してるの? もうゆずる降ろしてもいいよ、腕疲れない?」
あの太い二の腕ならゆずるを持っていても小揺るぎもしないだろうとは思うが。
「案ずることはない。余の腕は、そのような柔な鍛え方をしておらぬ。何より、ユズルは降りたがっておらぬのでな」
「……そうなの?」
抱えられたままのゆずると目を合わせると、妹は不機嫌な顔のままこっくりと頷いた。ゆずるが不機嫌に見えるのは不機嫌だからでも、相手が佳澄だからでもない。妹はいつもそうなのだ。
「ねえ、王子」
ふと、佳澄は思いついたことを聞くつもりになった。
「何か?」
「王子って、本当に夢の国から来たの?」
「いかにも。そなたに出会った時言ったであろう、余は夢の国の王子である、と」
「夢の国って……どんなところなの? 王子様がいるんだから、王様やお妃様がいて、すごくでっかい宮殿もあるの?」
「あるとも。そなたが想像したものは全てある。想像以上のものもな」
「それで、その夢の国が……」
佳澄は窓の外の〈割れ目〉を見る。暮れなずむ空を真っ直ぐに切り裂く、異界の星空は市内のどこからでも見られる。どころか、嫌でも見られるくらいだ(市の発表によれば、市外への転居希望者はこの半年で去年の十数倍に達したらしい)。
「あの〈割れ目〉の向こうにあるって?」
「そういうことになるな」無表情でご機嫌なゆずるを抱えたまま、青年は重々しく頷く。
「……じゃ、あれをくぐれば、私もその夢の国に行けるのかな?」
「断言はできぬ。一方通行やも知れぬからな。余とて、どうやってこちらに来たのかと問われれば正直、思い出せぬ。気がつけば余はここにいた──どれほど思い起こしても、思い出せるのはそれのみよ」
青年は眉根を寄せた。憂いを帯びた視線が嫌味でなく様になる。「それに、そのようなことをする必要はないやも知れぬぞ。夢の国は、そなたも毎晩訪れているのだからな」
「私が!?」
驚きすぎて、佳澄は青年の顔をまじまじと見上げてしまった。「で、でも私、全然覚えていないよ?」
「覚えておらぬだけだ。そなただけではない。人は毎夜、天にも届く壮麗極まりない大伽藍と地の底の阿鼻叫喚を同時に夢見るが、起きた時にはその大半を忘れておるのだ」
「へ、へえ……」
もったいないような気はするが、悪夢の中の阿鼻叫喚を起きた時までリアルに覚えていてはたまったものではないから、それはむしろ救いなのかも知れない。
「そうだ……王子って、名前あるの?」
「うむ?」
「だって『王子』って地位じゃん」地位、と言っていいのかはわからないが。何せこの
「ふむ……」青年だけでなく、抱えられているゆずるまで思案顔になっている。「困ったことはないな。夢の国に王は一人、王子もまた一人であった」
「名前が必要なかった……ってこと?」
「そうではあるが、そうか、この世界に来たのならそれでは困るな。ふむ、では、『アイネイア』という名ではどうか?」
「え? ……カッコいい名前だけど、それってゆずるに読み聞かせしていた絵本の王子様でしょ?」
「いかにも、船に乗り仲間を率い、艱難辛苦の末に己の望みを叶える物語の王子だ。仮初めの名ではあるが、余にふさわしくはないか?」
本人は満足そうに微笑み、腕の中のゆずるまでふん、と鼻から息を吐いている。
(……こいつが『王子』ってのは、はったりでも何でもないのかも知れないな)
佳澄は密かに思う。まあ、実際の素性がどうあれ、育ちも気も良さそうな兄ちゃんではある。私が結構失礼なこと言っても全然怒らないし。
それに、こうして向き合っていても、何らかの悪意や下心は欠片も感じられない。少しでもあったら、それこそ女所帯の敷居は跨がせられなかっただろう。
「アイネイア、か……そうだね、結構いい名前かも」
「そうであろう。咄嗟の思いつきにしては悪くない名ではある。殊にカスミ、其方がそう言うのであれば申し分ない」
ははは、と快活に笑う青年を見て佳澄は一つ思いつく。もしかしたらあの真琴にとって、相良龍一とはこのような存在だったのかも知れない、と。
何だか顔が紅潮してきて、佳澄は俯いてしまう。
「そうだ、王子、じゃなかった……アイネイア、今日もカレーでいい? 昨日はカレーライスだったから、今日はライスカレーにするけど」
「よくないはずなどあるか。存分に作るがよい。余は、カスミの作る料理なら何でも好きであるぞ」
だが、ゆずるは不満そうだ。「カレーあきた」
「ダメ。今日はカレーで決まってんの。しょうがないでしょ、これでもバリエーション考えるのに苦労してんだから」
「うー」
「わかったわかった。今日は野菜多めカレーにするよ。まったく、野菜がこんなに高くなるなんて思わなかったな……」
ぶつくさ言いながら、佳澄はエプロンをつけて台所へ向かう。
青年がふと顔を上げると、抱えられたままのゆずるが手をばたつかせていた。
「あいねいあ?」
「うむ? ……うむ、余はアイネイア。夢の国ただ一人の王子である」
夢の国の王子──アイネイア、と名乗る青年は目を細める。そこにない何かを見るように。
「そうだ……今となっては、夢の国ただ一人の王であり王子である」
──〈割れ目〉が未真名市上空、かつての〈のらくらの国〉の真上に出現してから早くも半年。
異界の亀裂から垣間見える星空は今日も美しく──そして頭痛と眩暈を訴え、肉体的・精神的失調を抱える人々の数は日に日に急増している。未真名市内から市外へ転居する人の数は、既に去年の十数倍を越えた。
「藍くん、お待たせー。時間通りだね、いいことだよ!」
「お、おう……時間通りっつうか、約束の時間の30分前に来るのはさすがに早すぎねえか……?」
全力で走ってきたせいか、ただでさえ血色の良い頬をさらに赤くしてやってきた愛花を見て、藍はだいぶ呆れている。
「約束の時間の前ならいいじゃない! 私が今日をどれだけ楽しみにしていたかわかる? ワクワクして、前日の夜は眠れなかったんだから!」
「小学生の遠足かよ……」
ほれ、と藍は愛花にグレープフルーツジュースを手渡し、自分も缶コーヒーのプルタブを引き上げる。「飲めよ。一息入れてからにしようぜ」
「払うよ、私の方が年上なんだから」
「いいって。その走りにくそうな長いスカートで全力疾走してきた奴に奢られたくねえよ。すれ違う人が皆ドン引きしてたぞ?」
おっしゃる通りです……としょんぼりしながら愛花は缶を受け取る。
『データでは藍より愛花の方が5歳年上のはずだけど藍の方が精神的には10歳ほど年上に見えるのはなぜかしら?』
愛花の腕時計、正確にはそれを模した携帯端末から〈セルー〉の音声が流れる。 〈セルー〉の本体は大きすぎて動けないので彼女自らが設計・出力した特注品だ。
「〈セルー〉ったらひどいなあ。それじゃ藍くんより私の方が幼いみたいじゃない」
『そう言ったつもりなんだけど』
「ひど……」
人工知能にダメ出しされてやがる、と藍は半目になっている。
「にしても、待ち合わせの場所、本当にここでよかったのか?」
「うーん……わかりやすいからいいかな、と思ったんだけど。私たちが会ったあのゲームセンター、まだ休業中だし……」
2人、〈セルー〉を勘定に入れると3人が集ったのは、愛花が〈百八星〉と死闘を繰り広げてから大して日を経ていない高砂サービスエリア、その展望台だ。眺めもよく雑談をするには格好の場所ではあるが、
『いいんじゃないここにいる全員の
「うん、向こうのカフェテラスに2人、駐車場に2人。手ぐらい振ってみようか?」
『やめておきなさいあなたに見抜かれたなんて知ったら彼らが世を儚んで自殺しかねないわ』
「あれって……たぶんあの赤星って人の部下だよな」
確かにいいボディガードだよな、と藍は肩をすくめる。「んじゃ、始めるか」
「待ってました! 名付けて第一回……『愛花ちゃんのこの超絶すごいスーパーパワーを世のため人のために使うにはどうしたらいいか』会議、開催〜!」
わーぱちぱちぱち、と口で言って万歳しているのは、もちろん愛花だけである。
「まずは……いちおう本人に聞いてみるか。その力をどう使いたいんだ?」
「えっとね、それはもちろん、正義のスーパーヒーロー!」
「却下」
「何で!?」
本気で驚く愛花に藍の方が驚いている。「『何で』って疑問がどうして出てくるんだよ。今日び正義のスーパーヒーローなんて喜ばれるもんかよ。よくて笑われるだけだろ」
「……藍くんは、私が正義のスーパーヒーローになるのは嫌なの?」
「あんたがその力を正しく使う分には文句は言わねーよ。でもあんたがその正義のスーパーヒーロー活動とやらをおっぱじめて、それが世間から単純に褒められると思ってんなら、そりゃ大間違いだぜ」
「どうして?」
「『どうして』って疑問がどうして出てくるんだよ。警察だって
「警察やミリセクの人だって、自分の仕事が楽になるんなら喜ぶんじゃないの?」
少年は口の中のコーヒーを噴き出しそうな顔になった。
「おめでてーな! 何のコネも根回しもなしにスーパーヒーローやるってのは、そいつらの商売を真っ向から邪魔するってことなんだよ! 自分のメシの種を横からかっさらわれて、喜ぶ奴なんてそうそういねえんだよ!」
「そ、それは……それこそ軍の、そう、赤星さんとかに話をつけておいて……」
『その赤星の申し出を自分で突っぱねておいて何言ってるのそれってあなたが赤星の部下になるのとどう違うの?』
「あ」
やっと気づいたか、と藍が天を仰ぐ。「……まあ、それに気づいただけでも一歩前進か」
「わかった。正義のスーパーヒーローは棚上げにしとく」この世の終わりのような顔で愛花は渋々言う。「でも、じゃあ、それ以外にどうすればいいと思う?」
『真面目に考え出すと深刻な問題ね』
「腕からビーム出す力なんて、結構潰しが効かねえぞ……」
「うーんと……アイドルとか?」
「どこの世界に腕からビーム出すアイドルがいるんだよ!」
「じ、じゃあ政治家とか」
「だからどこの世界に腕からビーム出す政治家がいるんだって!」
会話がループし始めたわ、と〈セルー〉が呟く。
『藍がいてくれるだけで愛花の知能レベルが上がるの純粋にありがたいわ……と』
「と?」
〈セルー〉の音声が不自然に途切れた。「彼女」にしては珍しい。
「どうしたの〈セルー〉? 風邪でも引いたの?」
「人工知能が風邪引くかよ、って突っ込むのも面倒くせえな……」
『何かを感じ取っただけよ』
「何かって何?」
『「何か」としか言いようがないわね強いて言えばノイズだけど自己判断プログラムでは異常は検出されなかった』
「ふうん」
愛花は眉間に皺を寄せて考えてみたが、〈セルー〉にわからないのだから自分にわかるはずもない。
「……あ、そうだ思いついた! 奇術師ってのはどう? マジシャン!」
「アイドルや政治家よりはアリ寄りだけど、腕からビーム出して何の手品するんだって問題はあるぞ……」
「た、建物を真っ二つにする手品とか……シャレにならないよね」
「わかってるならどうして言ったんだよ!?」
ああでもないこうでもないと騒いでいる2人の会話を聞きつつ〈セルー〉は思考を巡らせる。
『──電子空間内で活動する私のエージェントが複数の
考えうる可能性としては
いずれにしても厄介だ、そう思った瞬間から〈セルー〉は既に光の速さで戦いの準備を開始している。彼女の
『──〈犯罪者たちの王〉からの