Sin and Punishment   作:アイダカズキ

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夢の国の王子(1)悪意に基づくシステム

「……ねえ、王子」

「うむ? 何か、カスミ」

 夕食の席で、佳澄は思い切ってアイネイアに問いかけてみた。ちなみに晩御飯は予定通り野菜カレーである。

 妹のゆずるは黙々と野菜カレーをスプーンで口に運んでいるが、これは家族から見れば一目瞭然、ご機嫌な証拠だ。

「王子は、その『夢の国』っていうところの王子なんだよね?」

 どちらも佳澄には縁遠い名前である。王子様は言わずもがな「夢の国」だって千葉の方にある日本一有名な遊園地くらいしか思いつくものがない。

「いかにも。余は、夢の国(ドリームランド)の唯一の王子である」

「どうしてこの世界に来たの? 夢の国でなくてもさ、一国の王子様が、それも全くの別世界にやってくるって結構な大事だと思うんだけど。下手すると外交問題だよ?」

「ふむ……」アイネイアは手を止めた。「実はな、余にもよくわからぬのだ」

「はあ?」思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「本当にわからぬのだ」

 アイネイアは黒々とした眉根を寄せる。端正な顔立ちが本物の憂いを帯びる。「実のところ、カスミよ。そなたと出会うまで、余はそれこそ夢の中にいるようにおぼつかぬ状態であった。今改めて思い出そうとしても、あの〈割れ目〉を潜り抜けた時の衝撃か、何一つ思い出せぬ。ただ……微かには覚えておるのだ。余はこの世界で成し遂げねばならぬことがある、とな」

「ふぅん……」

 佳澄はスプーンを手に持ったまま考え込んでしまったが、もちろん彼の代わりに考え込んだところで答えが出るはずもない。

 やや重くなり気味の空気を察したのか、ゆずるが口を開いた。「姉ちゃん、テレビ」

「また? ご飯中にテレビは……まあ、今日も母ちゃんいないからいいか」

 佳澄はテーブルの上のリモコンを手に取る。佳澄もお行儀の良い方ではないし、晩御飯の最中にテレビを観るのは好きだ。それを最近ではあんまりしたくないのは、

「でもつけたってあんまり面白いもんやってないよ。今日もニュースは〈割れ目〉のことと、市の外で起きた犯罪のことばっかり」

「そうか? 余にとってはなかなか興味深き内容ばかりに思えるが」

 ──あまりゆずるにも、この王子様にも、地上の汚いものを見せたくないという思いがあるからだ。

「なんか皮肉だなー……未真名市の中で起こる犯罪はどんどん減ってるのに、今度は〈割れ目〉のせいでどんどん人が減ってるって」

 ふと、佳澄は思いついて尋ねてみた。「王子。『夢の国』にも犯罪はあるの?」

「あるとも。そなたが思うより遥かに多くのものがな。夢の国とて理想郷ではない」

「そっか……」

「ところでカスミよ。ここ数日ほどこの『てれび』とやらが語る世間の物事の中に、幾度も同じ名が出てきたな。サガラリュウイチ、という名だ」

 それはそれで気が重くなる名だ。「ああ、私のダチ──真琴っていうんだけど、友達が知り合いだったんだ。有名人だよ、良くも悪くも」

「聞くところによれば、街を半分ほど吹き飛ばした極悪人とのことだが」

「間違ってはいないかな。真琴に言わせるとそれが全部じゃないみたいだけど。私もちょっとだけ口聞いたことあるけど、割と気のいい兄ちゃんだったよ」

 アイネイアは思慮を巡らせるような顔になった。「ふむ。人には様々な顔があるということか。英雄でもあり悪党でもあり、詩人でもあり女優でもある。余やカスミ、そなたがそうであるように」

「そ、そうかな……って、今は私の話じゃないでしょ!」

 何となく顔が赤くなってしまう。「ゆずる、また口の端から溢れてるよ。ほら拭いて」

 照れ隠しに妹へナプキンを差し出しながらも、佳澄はアイネイアが聞こえるかどうかの声で呟くのを聞き逃していなかった。

「サガラリュウイチ……か」

 

 後になって佳澄は何度も思い出すことになる──あの時の自分は既に気づいていた、この人はいずれ何処かへ去っていく人なのだ、ただそれから目を背けていただけなのだ、と。

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「……えっ? 本日の見学希望者、あなた一人だけなんですか?」

「え、ええ……」

 逢瀬(おうせ)奈津美(なつみ)、と名乗ったいかにも生真面目そうな眼鏡の少女が目を見開くのに対し、真琴は実に歯切れの悪い口調で説明するしかなかった。担任に拝み倒されてしぶしぶ引き受けた今日の見学を、内心では早くも後悔し始めている。「なんだか皆、今日になって急に都合がつかなくなったとか、急にお腹が痛くなったとかで」

「ああ……」

 彼女には何やら思い当たるふしがあったらしい。ややずれた眼鏡を直すような仕草をしてみせた。「ごめんなさい、おかしな声を上げたりして。一人であろうと、見学は見学ですもの。予定通り行いましょう。こちらへどうぞ」

「え、ええ」

 真琴はぎごちなく頷くしかなかった──この礼峰学園見学ツアー、早くも波乱の展開だな、と思いながら。考えてみれば妙な話である。仮にも推薦希望者の見学だというのに、教師は何をやっているのだろう?

 学舎に繋がる長い渡り廊下を2人は歩く。中庭にあるのは水流が見事なアーチを描く流麗なデザインの噴水(何とかという有名なデザイナーの設計らしい)が見える。天気はあいにくの曇天ではあるが、体育館からは元気の良い歓声が聞こえてくる。ここらへんは普通の高校と変わりはないな、と真琴は思う。

「礼峰は全寮制なんですよね?」

「ええ。特例として認められたわずかな例外を除き、皆さん学園内の寮舎から学園へ通っていただいています」

 それじゃ今と大して変わらないな、と真琴はちらりと思った。母の仕事は増しこそすれ一向に減りはせず、最近では数日ほど家を開けることもざらだからだ。いや、寮舎ではルームメイトと生活を共にするわけだからずいぶんと変わるか。気の合う人と一緒になれたらいいんだけど。

「逢瀬さん。新入生の学園案内?」

 涼やかな、涼やかとしか言いようがない声に2人は振り返る──その瞬間、隣の奈津美が背筋をぴんと伸ばすのを真琴は見逃さなかった。

昭島(あきしま)さん……あなたまで(かのう)さんみたいな冗談を言わないでくださいよ。彼女が学園を志望してくれるかどうかは彼女次第です。わかっているでしょうに」

「あら。それこそわからないわよ? 私はかなり有望と見たけど。『待て、そして希望せよ』と言うでしょう?」

 涼やかな声に相応しい、軽薄な者ならこれぞご令嬢と口走りたくなるたおやかな娘は、優美な顔に意外と茶目っ気のある笑みを浮かべてみせた。国家元首でも、彼女に応対されたら悪い気はしないのではないか。

「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。現生徒会長の昭島香里(かおり)です」

「は、初めまして新田真琴です!」

 完全に挨拶する声が裏返った。まさかこの学園の生徒会長が出てくるとは思わなかった。ますます先生方は何をやっているのだろう、という思いが強くなる。

 全く嫌味の感じられない、溢れるような笑みを香里は見せた。「そう()()()()にならないで。推薦入学といっても、新田さんの気が進まなければ無理に決めなくていいのよ。もちろん、入学を決めてくれたらもっと嬉しいけど」

「誘い方が露骨すぎますよ、生徒会長」

「ばれた?」

 香里はぐるりと目を回してみせる。どこかで見た仕草だな、と密かに真琴が思った時である。

「真琴ちゃん! こんなに早く再会できるなんて思わなかった! もしかして君、礼峰学園志望なの!?」

「おああああ!?」

 廊下の向こうから人懐っこすぎるゴールデンレトリバーみたいな勢いで走ってきた愛花に軽々と「たかいたかい」をされて、真琴はお嬢様方の前であられもない悲鳴を上げてしまった。悲鳴を上げながら頭の隅で思い出している──そういえばこの人も礼峰学園だったっけ。お嬢様ってイメージからは程遠いけど。

「叶先輩! 嬉しいけどこの眺めはちょっと恥ずかしすぎるから、早く降ろしてください!」

「何言ってるの? 真琴ちゃんとこんなに早く再会できたんだよ、こんな嬉しいことってある?」

「どうして長年の親友と何年かぶりに再会したみたいな騒ぎになってるんですか!? だいたい僕たち、この前知り合いになったばかりじゃないですか!?」

「叶さんが言っていた『中学生の友達ができた』って、もしかして新田さんのことなんですか?」

「これほど『世間は狭い』という言葉が似合うケースも珍しいわね」

 何とも言えない顔をしている奈津美の隣で、香里は神妙な顔をして頷いている。

「それにしても真琴ちゃん、今日は一人で来たの? 見学ってもうちょっと大勢で来ない?」

「そのはずなんですけど、何だか皆都合が悪くなったみたいで」

「ああ、仮病ね」

 香里があまりにも自然に頷きながら言ったので、もう少しで聞き流すところだった。「ぶっちゃけすぎてません!?」

「今さら言葉を飾ったって仕方がないもの。おかしいと思わなかった? 見学にしては参加者が新田さんただ一人、あからさまなドタキャンにもお咎めなしなんて」

「確かにおかしいです。でも、どうしてなんですか?」

「そもそも入学希望者がガタ減りしてるんだよ」愛花が溜め息を吐かんばかりの口調で言う。「一昔前ならこんなことはなかった。推薦入学の枠なんか設けるまでもなく希望者が殺到してきて、学園側はよりどりみどりだった。でもそんなの本当に過去の話。入学してくだせえお願えしますだ、と頭を下げても人が来ない」

「ああ……」

 合点してしまう。先ほどから感じる、奇妙に寂れた雰囲気はそれだったのか。

「まあ……私のせい、でもあるんだけどね」香里がほろ苦い笑みを浮かべる。ほろ苦い、としか形容しようのない笑い方だ。「昭島、という名前に聞き覚えはある?」

「それは」

 あの昭島電機の昭島でしょう、と言いかけて真琴は思い当たる──昭島電機社長令嬢の誘拐事件を。

 奈津美が小さく呟く。「あれは……昭島さんのせいじゃないでしょう」

「でも無関係でもないわ。自分の子供もああして事件に巻き込まれるかも知れない。親御さんの気持ちもわからなくはないもの」

 苦い沈黙が立ち込め、真琴は急に身の置きどころがなくなって目を泳がせる。

「そもそも別の市へ転居していく人の数は増えこそすれ一向に減っていないんだもの。ましてや子供の親が市内の学園に子供を通わせたがるか、ってこと」

「私のクラスもずいぶん人が減ってしまいました。寂しくなりましたね」

 シビアだなあ、と真琴は考え込んでしまう。お嬢様学校というブランド「だけ」を売りにしていては厳しい時代になったわけか。

「でも、だいぶ不謹慎な物言いになるけど……私はむしろチャンスだと思っているの」

「チャンス、ですか?」

「ええ。出ていく人や生徒についてとやかく言うつもりはない。だけど、ここに腰を据えてやっていこう、と考えている人にとっては、これ以上ない環境だと思っているの。例えば──あの〈割れ目〉ね」

 香里のしなやかな指が、空の〈割れ目〉を指差す。市内のどこからでも見える空間の亀裂、別世界への出入り口を。

「私は学園を卒業したら、あの〈割れ目〉を研究する企業なり機関なりに就職してみたいの。あるいは、そういう人たちを支えるサービス産業などにね。確かに〈割れ目〉が現れて、失われたものは多い──だけど、これから得られるもの、作り出せるものだってきっとあるはずよ」

「……そうか!」

 何かを思いついたように愛花がぽんと手を叩く。「あの〈割れ目〉が空間の裂け目ってことは……もしかしたらあの向こうに全く別の世界があって、まるで違う世界の人や生き物がいるかも知れないってことだ。うわ、凄い! 私、断然その人に会ってみたくなってきた!」

「……」

 そういう視点はなかった──真琴はひたすら感心していた。百合子や夏姫とはベクトルが違うけど、この昭島香里という少女もずいぶんと一筋縄ではいかない人みたいだ。

(この街に腰を据えて、新しい何かをやっていく……)

 何だろう、目の前にかかっていた薄膜が吹き払われたような思いだった。生きる目的、とまで言わなくても、何かその輪郭のようなものは見えてきた気がする。

「おやおや、真琴さんの目の中に炎が見えるわね。もしかしたら、俄然入学する気になってきたのかしら?」

 3人の先輩方が──あろうことか奈津美までもが、悪戯っぽく笑いながらこちらを覗き込んでいるのを見て真琴ははっとなる。「ま、前向きに検討させていただきます!」

「駄目だよ真琴ちゃん、ダメな政治家みたいなこと言っちゃ!」

 朗らかな笑い声が沸き起こり、真琴が一気に赤面した時。

 その朗らかな空気を一瞬で凍りつかせる、耳障りな警報が鳴り始めた──香里の手首から。

「……何!?」

 全員が香里の手首を注視する。腕時計型の携帯端末、その画面が真紅に点灯している。

「犯罪発生率の上昇中……」別人のように顔を青白くした香里が呟く。声を潜めれば、警報がなかったことになるかのように。「でも、どうして学園内で……?」

「な、何なんですかあなたたち!?」

 裏返った奈津美の声に、真琴は振り向く。そして自分たちを包囲する人影を見てしまう。

 特徴のない、どこかつるりとした顔立ちの、異様に似通った中年男性だった。着ている安物のスーツも含め、特筆すべき点はない──不気味なほど似た顔立ちの男たちが、手を伸ばせば触れられる距離に、無言で立っていることを除けば。

 見れば見るほど異様な男たちだ。そもそも大の大人が、好意も悪意も感じられない全くの無表情で立ち尽くしているだけで、真琴のような子供には相当怖い。ここが女学園ともなればなおさらである。

「が、学園内は関係者を除き男性は立入禁止です。御用の方は受付へ回ってください。でなければ──出ていってください!」

 あまり大声を張り上げることになれていないのだろう、奈津美は全身を震わせて声を出している。自分が逃げることなど思いもしないように。

 だから真琴も香里も、男たちの一人が奇妙なほど緩慢な動きで、ふしくれだった指を奈津美に伸ばすのを、凍りついたように見ているしかなかった。

 ただ愛花だけが動いた。目にも止まらぬほどの速さで。

 予備動作も、掛け声一つなく、ただ愛花の突き出した腕が、一回り以上は背の高い成人男性の頭部を掴んで中庭側の洒落たデザインの柱に叩きつけた。漆喰の粉が飛び散るほどの勢いだ。

「叶先輩……!?」

「みんな逃げて! こいつらまともじゃないし、()()()()()()()()()()!」

 そして真琴は見た。見てしまった。愛花に渾身の力で柱に叩きつけられた男の、その顔面の皮膚がずるりと剥けるのを。

 無理やり貼り付けられた人造皮膚がめくれ、白く滑らかなキチン質の素体が露出している──見間違えるはずもない。HWだ。

 偽装タイプ。戦闘能力よりも敵地に侵入しての破壊工作に特化したHWの一系統。

(でも、そんなものがどうして礼峰学園に……!?)

 考えている暇はなかった。既に他のHWが足を踏み出し、立ち尽くす香里に手を伸ばそうとしている。

 無我夢中で身体が動いた。壁際の消火器を掴み、ホースの先端のノズルを向けてレバーを思い切り握り込む。

 香織に手を伸ばしていたHWたちの姿が、もうもうと立ち込めた白煙にかき消された。噴射した当人の真琴が咳き込むほどの勢いだ。

(しまった。これじゃ逃げる方向もわからない……!?)

 自分でやったことでは怒るに怒れない。盛大にくしゃみをしそうになった真琴の手を誰かが引いた。悲鳴を上げて振り払おうとして──それが香里の手であるのに気づく。

 彼女は口を押さえながら、真琴の口元に良い匂いのするハンカチを当ててくれた。愛花や奈津美のことも気がかりだったが、今はそれどころではない。2人は支え合うようにして、全身を粉まみれにしながらどうにか白煙の中から抜け出た。

 騒ぎを聞きつけたのだろう、授業中の教室からいくつもの少女たちの顔が覗く。

「中に入っていて! 顔を出さないで!」

 全身粉まみれになった真琴の叫びと、その背後から追ってくるHWたちのどちらが彼女たちを怯えさせたのかはわからないが、とにかく突き出された顔はすぐに引っ込んだ。薄情だとは思わなかった。れっきとした軍事兵器相手に、教師や生徒が身体を張って何になるんだろう?

 しかし、当てもなく逃げても追い詰められるだけだ。

 逡巡する間すらなく、背後から足音が──それも生身にしては異様に早い足音が迫ってくる。

「昭島先輩、どこへ逃げればいいんですか!?」

「正門へ! 私のボディガードが車を回してくれている……!」

 ボディガードね、と今さら驚くまでもない。考えてみればあの瀬川夏姫にも、いつも影のように付き添っている滝川という青年がいた。

 確かに他に解決策など思いつかない。運動会でもないのに全力で走り続けて、早くも真琴の両足が悲鳴を上げ始めた。むしろ香里の方が、真琴を気にしてまともに走れない形だ。これじゃ足手まといだ──と思い始めた時。

(……背後の足音が止んだ?)

 反射的に振り向く──そして振り向いたことをすぐ後悔した。

 あのHWが足を止め、投球フォームに似た姿勢を取っている。振りかぶっているのは野球のボールではない──あの愛花との死闘で砕けた、握り拳大の柱の破片だ。

「伏せて……!」

 叫びの最後は、空気を切る唸りに掻き消された。

 間近で砲弾が炸裂したような衝撃。真琴だけでなく、香里までもが煽りを食らって吹き飛んだ。床を二、三回転してようやく止まり、肘をしたたかに床で打ってしまう。

 確実に数秒間は気絶していたはずだ。顔を上げて震え上がった──破片が直撃した壁は、まるで巨人が拳で一撃したかのように大きく抉れてクレーターと化している。

 HWの脅威を目の当たりにした思いだった。「人間の数倍増し程度の筋力」といっても、それに耐えられるのは龍一や愛花くらいのものなのだ。HWの膂力を持ってすれば、生身の人間を道具なしで文字通り八つ裂きにできる。こんなものを頭に受けたら瘤どころでは済まない。跡形もなく消し飛んでしまうだろう。

「昭島先輩、大丈夫ですか……!?」

 声をかけて気づいた。大した怪我はないようだが、彼女の様子は明らかにおかしかった──毅然とした態度は消え去り、白い顔をさらに白くして何も言わず全身を震わせている。小さな女の子のように。

「……なのよ?」

「え?」

「同じなのよ……何もかもあの時と」

 ──2回目。

 合点した。彼女にとって、これが最初の誘拐ではないのだ。

「ごめんなさい。足が……足が竦んでしまって」

「謝らないでください!」自分でも驚くような大声が出た。「普通の人は暴力を振るわれたら怖がるんです。悪いのはあなたじゃない、犯罪者です! 立って!」

 香里が弾かれたように顔を上げる──まるで初めて真琴という人間を見たように。

「し、正面玄関はどっちなんですか? 僕じゃわかりません!」

「こっちよ! もう少しで……!」

 もうどちらがどちらを支えているのかわかったものではない。2人はよろめきながら正面玄関を目指した。幸い、再び破片の投擲がされる気配はなかった。足止め以上の意味はなかったのだろう。

 それにしても、と思わずにはいられない。一体どうなってるんだよ? 〈のらくらの国〉が消失して、龍一さんも夏姫さんも未真名市を去って、どうして前より凶悪な犯罪が起きてるんだ?

 

「真琴ちゃん! 昭島さん!」

 白煙の中で咳き込みながら2人の姿を探し求める愛花──その頭部めがけ、白煙を割いて拳が振り下ろされる。

 が、その拳は難なく愛花に受け止められる。まともに当たれば成人男性の頭蓋でさえ陥没しかねない、HWの膂力で繰り出される拳だ。

「もう……ここが学園の中でさえなければ、あの『ぶっといビーム』で薙ぎ払ってやるのに!」

 もちろんそうは行かない。だから愛花は代わりに、気合いと共にHWの頭部を掴んで天井に叩きつけた。まるで天板に叩きつけられた虫のように、大音響を発してHWが瀟洒な装飾の天井にめり込む。

(こいつらの目的が昭島さんなら……私と昭島さんを分断するのが狙いか)

 確かに、愛花が本気で戦えばHWの数体など物の数にも入らないが、香里や真琴を捕えるくらいなら一体で充分だろう。問題は、それがわかっていても香里たちの元へすぐには駆けつけられないということだ。

 案の定、愛花は見てしまった──白煙で眼鏡を曇らせてしまい、その場にうずくまってしまった奈津美を。しかもその背に、HWの一体が拳を振り下ろそうとしている。

「こっ……のお!」

 頭に血が昇った。腕を捻り上げ、一気に押さえ込む──その腕が根元から音もなく外れた。

「は?」

 バランスを崩してつんのめった愛花の眼前──反対側の腕が突き出され、服の布地ごと内側から偽装用の人造皮膚が裂けた。内蔵されていた散弾射出装置が、蜂の巣に似た発射口を露わにする。

(迂闊だった。こいつらがHWなら、手足にこんなギミックなんていくらでも仕込める……!)

 回避は難しくない──だが避ければ背後の奈津美は確実に散弾を全身に浴びることになる。

 奈津美を庇おうと身を翻した愛花の背中に、射出された無数の散弾が超高速で突き刺さった。

 

「も、もうそろそろダメです……!」

「新田さん!?」

 酷使し続けてきた真琴の両足が、ついに耐えきれず悲鳴を上げ始めた。そもそも陸上部でもない真琴は体力にあまり自信がない。恐怖に駆られて必死で逃げてきたが、それも限界に達しつつあった。対して背後の足音は、嫌になるほど着実に距離を詰めてきている。

「お嬢様、頭を下げて!」

 背の高い青年が叫ぶや否や、電撃銃を放つ──射出された電極は狙い違わずHWに命中した。空気が爆ぜる音が響き、全力疾走していたHWがぐにゃりと崩れ落ちる。

「……その電撃銃、出力をかなり弄っていますね? 仮にも軍用兵器を民間仕様のセキュリティ用品で倒せるはずもない」

 青年は真琴の言葉に一瞬驚いた顔になったが、すぐに人差し指を口に当てた。「内緒」のジェスチャーだ。

「助かったわ、久住(くすみ)……すぐに車を出して。用意はできているでしょう?」

「無論です。お二人ともどうかこちらへ」

 真琴たちが車内へ転がり込んだ瞬間、久住と呼ばれた青年の運転する車はタイヤを擦り付けるような勢いで発進した。

「……まだ一安心、と言うには程遠いわね。真琴さん、何か飲む?」

「み、水でいいです……」むしろ水がいい。差し出されたペットボトルを、真琴は夢中で受け取った。大半が口元から溢れてしまったのを、またもや香里がハンカチで拭いてくれた。だいぶ恥ずかしい。

「おっしゃるとおりです。学園内では、あなたがたをお守りできません」

 警察が駆け付けても同じだろうけどね、と真琴は内心で思った。

「何しろお嬢様が同じ犯人に誘拐されかけるなど、誰にとっても予想外でした。よほど上手く立ち回らないと狂言誘拐を疑われかねない」

 ひどい話だ、と思わずにはいられなかった。いったい被害者がそんなふうにして周囲に気を遣わねばならない理由がどこにあるんだろう?

「そもそもこれって誘拐なんですか? 白昼の学園にHWを差し向けて無理やり誰かを拐わせるなんて、それ以上の犯罪じゃないんですか?」

 思わず口に出してしまったが、少なくとも真琴の想像していた誘拐とはまるでかけ離れている。

 久住は視線を前方に据えたまま、真琴の言葉にちらりと笑ってみせた。そう気難しい男でもないのかも知れない。「いい着眼点です。誘拐と呼ぶにはいささか荒っぽすぎる。犯人たちの思惑が何であれ、それは単なる営利誘拐とは違う何かなのかも知れません」

「とんだエスケープになってしまったわ……後で大勢に頭を下げて回らないと」

「いいことです……その前に今の危機を乗り越える必要はありますが」

 その言葉の意味はすぐにわかった。走る車の背後と左右を包囲するように、大型のトレーラーが3台、距離を縮めつつあるのだ。いずれも運転席のウィンドウはスモークスクリーンで、運転手の顔は見えない。

 久住の声は平静を保っていたが、内面の緊張は隠せていない。「申し訳ありません、お二方……もう一度シートベルトをご確認ください」

 

「やべえぞ佳澄! 真琴がやべえことになってる!」

 血相を変えた可乃子が佳澄の家の玄関へ転がり込むようにして訪れたのは、佳澄がそろそろ晩御飯の支度をするかと考え始めた頃のことだった。ちなみにアイネイアはゆずると一緒に、図書館から借りてきた『こども動物図鑑』を夢中になって読んでいる最中だ。

「どうしたんだよカノっち? 別に落ち着きのある奴じゃないけど今日は特に落ち着いてねえな。カルシウムとか足りてないのか?」

 ぶつくさ言いながら玄関に顔を出した佳澄は、そう言えば、と思い出した。よく考えたらこの数週間、真琴とも可乃子ともろくに口聞いてねえな。

「黙って聞いてりゃ誰の何が足りないって!? ……いや、何が足りないんですか?」

「何で急にそこ疑問形にしたんだよ?」

 確かにちょっと薄情だったかも知れない、そう思いながら出迎えた佳澄は、可乃子の様子のおかしさに気づいた。学校から直接ここまで来たのだろう、なぜかスマートフォンを握りしめたままの可乃子は、佳澄の顔を見たまま金魚のように口をぱくぱくさせている。──いや、より正確に言えば、佳澄の背後に立つアイネイアを見ながら、だ。

「カスミよ、もしやこの娘はそなたの学友か?」

「あ……えーと、」

「かっ、佳澄……おっおっ、お前……」

 可乃子の様子は国語の授業の『二の句が告げない』という形容そのままだった。

「しばらく見ねえ間に、連れ込んだイケメンと同居してたのかよ……ショックだ……こんなパープリンがあたしたちより一足先に大人になりやがった……男追いかけるよりトンボ追いかけてそうな奴がよ……」

「イメージ悪すぎねえか!? パープリンて何だよ!?」

「いや……そうだ、それどころじゃないんだ……真琴が大変なんだよ!」

「またか?」

「その反応は薄情すぎねえ? ……だから本当に大変なんだって! これ見ろよ!」

 そう言いながら可乃子が突き出したスマートフォンの画面には──強張った真琴の横顔が映っていた。

「何だこれ……?」

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