〈竜〉を相手取った戦闘で、現代兵器は常に分が悪い。
相手が死ぬまで、あらん限りの銃砲弾と爆発物を叩きつける──現代兵器の定石と言える手が、〈鱗〉によって完全に無効化されるからだ。
よって、〈竜〉の防御を貫く手は二つに限定される──〈鱗〉を貫くほどの莫大な火力を用意するか、それとも〈鱗〉自体を無効化するか。
(まさか両方いっぺんにお目にかかるとはな……!)
それも文字通り、脇腹に大穴を開けられるという方法で。
窮地に追い込まれたのは他でもない、自分自身の慢心だ。〈鱗〉と強固な〈竜〉外殻があれば、大抵の攻撃は無効化できるが故の。実際、ちょっとたるんでたんじゃないのか?
──龍一は内心で歯軋りする。しかも厄介極まりないのは、
(この〈鼠の王〉とやらの強みが、〈鱗〉の無効化だけじゃないってことだ……!)
〈鼠の王〉の右腕全体がまた変形する──火炎放射器が剥がれ落ち、まるで脱皮するように別の武器へ取って代わられる。無骨な鉄塊を思わせる、廃棄物解体用の大型ハンマー。
そして左腕は、耳障りな唸りを上げる回転鋸と化す。
(……〈竜〉相手に近接戦用の武器だと?)
訝しく思う。確かに飛び道具で〈竜〉の外殻を貫通するのは容易ではないが、それにしても格闘
不意に視界の〈鼠の王〉が傾いだ──いや違う、俺がバランスを崩したんだ、理解した時には〈鼠の王〉が眼前に迫っていた。
(何だ!?)
足元から伝わる、地下で巨大な生物が蠢いているような異様な感覚。忘れていたが、ここは確固たる大地ではなく大小様々な廃棄物が幾重にも積み重なったゴミの山なのだ。あの作業用ドローンたちは文字通り龍一の足元を「掘り崩した」のだ。
迂闊だった。アレクセイならともかく、機械やドローンの「気配」を読むのは龍一には難しい。
体勢を崩す龍一の頭上から、
──鉄塊そのもののような巨大なハンマーが振り下ろされた。防御すら叶わない一撃。
生身だったら頭が消し飛んでいただろう。悲鳴すら上げられず、龍一は顔面から廃棄物……ミートソースとガラス片とぬいぐるみとポルノ雑誌と食用油が一つになったどろどろした山に叩きつけられた。
起き上がる間もなく、首筋に新たな衝撃。しかもこの感覚はあれだ──〈鼠の王〉左腕の回転鋸。
一刀両断、とは行かなかった。刃は龍一の首を切断することができず、外殻に食い込んだのみで止まる。しかし──鋸の刃が回転を始め、〈竜〉の外殻を派手に火花を散らしながら切断し出すと、さしもの龍一もこれはまずいと思い始めた。
ギャリギャリギャリ、と頭蓋にまで響く音と共に回転鋸はさらに首筋へ食い込んでくる。起き上がろうにも、刃で首を押さえられていては身動きできない。
真正面からの格闘でここまで叩きのめされたのはいつぶりだろう?
やはりこいつは知っている──〈竜〉の権能だけでなく、
このままでは本当に首を断ち切られる。こんな形で〈竜〉の生命維持機能を試したくはない。
逡巡なく、龍一は生身では絶対にやりたくない回避行動を取った。回転鋸の刃が火花を上げる首を強引に捻ったのだ。
『なっ……!?』
トラビスの──〈鼠の王〉の装着者である青年の言葉にならない動揺。
龍一の首にじりじりと食い込んでいた鋸の刃が回転を妨げられて歪み、耳障りな音を立てて停止する。
その隙に龍一は身体を思い切りたわめ、〈鼠の王〉の顔面に両足で蹴りを喰らわせていた。悲鳴すら上げず〈鼠の王〉が吹き飛ぶ。
今だ──起き上がり追撃を加えようとした龍一の全身を銃撃が襲う。
あの改造された作業用ドローンたち。金属パイプとベアリング球を組み合わせた粗悪な密造銃が一斉射撃を加えていた。一丁や二丁ではない、数百数千単位だ。
「鬱陶しい……!」
無論、〈鱗〉がなくともその程度の銃撃で〈竜〉はびくともしない。逆に腕の一振りで、数百単位のドローンが無数の〈鱗〉の散弾で濡れた紙切れのように引き裂かれる。だがその時には〈鼠の王〉は攻撃圏外に退いている。
〈鼠の王〉はまさにドローンを
(……そしてやりにくい! こちらの
それも当然だな、と内心で舌打ちする。何しろ、俺自身の戦闘データに基づいて戦っているんだから。
しかし、ならどうする? どうやって勝つ?
〈柱〉のような大質量による破壊兵器は論外だな、と結論する。あんなものを使っては施設そのものが崩壊しかねない。〈竜〉形態の龍一は助かるだろうが、助かるのは龍一だけだ。
〈鼠の王〉がまた何かを投擲する──今度は毒ガスではなく、
(焼夷手榴弾!?)
おそらくはナパームか。瞬く間に周囲の廃棄物が炎に包まれる。
先ほどの毒ガスのように、これで視界を遮ったつもりか? そうそう同じ手は食わないと思った時。
炎の幕を貫いて何かが飛んできた。まるで蛇のように龍一の右腕に絡みつく。
鎖だ。大型の廃棄物を牽引するための鎖。
(チェーンデスマッチかよ? こんなもので俺の体幹を崩せるとでも)
炎を突き破って〈鼠の王〉が突進してきた。左腕の牽引機で鎖を巻き取り、右腕の巨大なハンマーを振りかざしながら。
あの焼夷手榴弾は接近戦に持ち込むための布石か──逃げるにしても距離が近すぎる。
踏み込め……!
右拳が砕けるのを半ば覚悟しながら、龍一は正拳突きを繰り出した。巨大な質量と、戦車の正面装甲を破砕する貫通力の激突。
トラックどころかタンカー同士が正面衝突したかのような、腹の底に響く轟音が再生センターを揺るがす。
(蓄積した戦闘データによる
認めざるを得ない──人間の作った兵器で〈竜〉形態の龍一と真っ向から殴り合うのは、ロンドンで戦ったあの〈ペルセウス〉以来だ。
やるじゃないか、と思った龍一の全身を悪寒が貫く。外れたことのない龍一の「嫌な予感」だ。
何だ?
その正体を見極めようとした龍一の目は、〈鼠の王〉の左腕に吸い寄せられる──鎖を伸ばしていた牽引機は剥がれ落ち、別の武器に取って代わられている。
電磁加速砲。龍一の脇腹に大穴を開けたあれより一回り小さいが、その分取り回しが効きそうなサイズ。
──龍一の左腕が、根元からちぎれて飛んだ。一瞬遅れて発生した衝撃波で、龍一は木の葉のように後方へ弾き飛ばされる。
(敵を褒めている場合じゃなかったな……!)
〈鱗〉による現用兵器へのほぼ完璧に等しい防御、プラス〈竜〉の外殻による防御。
その両方を一度に無効化されたらどうなるのか。やっぱりちょっと慢心してやしなかったか?
反省は後だ、龍一は粉々になりそうな意識をどうにか繋ぎ止める。どうやってこいつに勝つ?
タイニー・ルーロン州知事は直接の戦闘には巻き込まれず済んだが、その幸運を大して喜んではいなかった。
「ミスター、何かここに武器になるものはないのか!? このままでは彼が殺されてしまう!」
「武器と言いましても、ここはただのリサイクルセンターで……」
おろおろとしているベン爺さんの返事にルーロンは歯噛みする。彼を責めても始まりはしないが、だからと言って納得はできない。
充血した目で周囲を睨み回していた州知事の目が、施設のある一点を捉える。
「……あれだ!」
腕を一本失っても〈竜〉の戦闘能力はいささかも劣らない。切断された傷口の結晶化による止血、そして再生能力のおかげで生命維持に問題はないし、〈鱗〉や〈礫〉を始めとする固有の兵装は健在だからだ。
もっとも、今の龍一にそれを喜ぶ気にはなれない。そもそもここまで〈竜〉形態の龍一を追い詰めた相手は、あのロンドンで戦った〈ペルセウス〉以降皆無だったのだ。
〈礫〉を放つ。たとえ敵の体内だろうと瞬時に、狙った場所へ転送させられる投射兵器。
だがそれもまた〈鼠の王〉を内側から破裂させる前に、〈鱗〉に阻まれ派手な火花を散らして受け止められる。そして肝心の〈鼠の王〉は、足元で蠢くドローンの海に飲み込まれて消えた。
(またか!)
間髪入れずに
射出された金属の鎖数本、そして電柱のように太い杭が、唸りを上げて一瞬前まで龍一の立っていた場所を切り裂いた。
空中へ飛び退いた龍一は、しかし自分の失策を悟る──廃棄物の山が盛り上がり、露出した電磁加速砲の砲口が寸分の狂いなくこちらを狙っている。
空中では身動きが取れない……逡巡する余裕はなかった。
天井を交差するパイプに向けて、残された右腕からテープのように薄く剃刀よりも鋭い〈刃〉を射出。ジャンプの軌道が変わり、空中で身を捻った龍一の傍らを砲弾が掠めた。直撃はどうにか避けた──
続く攻撃は避けられなかった。金属鎖の先の解体用ハンマーが龍一の胸板を直撃した。今度は廃棄物の山に背から叩きつけられる。
こんな状況でなければ笑い出していたかも知れない──空中へ飛び上がった敵への
〈鼠の王〉が接近してくる──まるで波乗りするサーファーのように、無数のドローンたちに足元から持ち上げられながら。
攻撃が来る。今の龍一の死角、失われた左腕の方に回り込みながら、けたたましく唸る回転鋸が突き出される。
(腕一本なくても……!)
それで負けを認めるほど龍一も潔くはない。残った右腕で回転鋸を弾き、さらに踏み込もうと、
ドローンからの射撃。それも斉射ではなく、狙い澄ましたただの一発。肘に受けた衝撃で〈鼠の王〉に向けて突き出された龍一の打撃は止まってしまう。
カウンターで回転する鋸の刃が迫ってきた。間一髪、首を捻ったことで鋸は頭部に傷を負わせた程度にとどまった。が、〈鼠の王〉はなおも攻撃を繰り出す。腕ではなく足。
圧縮空気を噴出して加速された前蹴りが胴体を直撃、微かではあるが外殻に罅割れが走る。
認めるしかなかった。ここまで効率的に、確実に龍一を追い詰め得たのは〈ペルセウス〉でさえ成し得なかった成果だ。
(勝ちを拾うどころか、痛み分けさえ怪しくなってきたぞ! どうする!?)
──救援は意外な形で現れた。
視界を埋め尽くすほどに足元で蠢いていたドローンたちが、次々と宙へと吊り上げられる。まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように……実際、その先にあるのはクレーンの先端に据え付けられた大型の電磁石だった。ドローンたちは必死に節足をばたつかせてもがいているが、もちろんその程度で電磁石から逃げられるはずもない。
『何だ……!?』
外殻と装甲を隔てても伝わってくる〈鼠の王〉の動揺。その隙に龍一は〈鼠の王〉を蹴り飛ばし、距離を取る。
この好機を逃すわけにはいかない──刹那の思考。
(しかし、どうする? 〈鱗〉も〈礫〉も無効化、〈柱〉は使えない……)
いや、ただ一つだけある──思いつきのようなもので、こんな切羽詰まった局面で使いたくはなかったが。
そして万が一にも外すわけにはいかない。回避されれば、またそれを「学習」されてしまうからだ。
一度も見せたことのない技で勝つしかない。龍一は腹を決めた。
(〈鱗〉を防御ではなく攻撃の手段として使ったのと、同じことはできないだろうか?)
あるいは〈刃〉を緊急時の回避方法として使ったように。
意識を集中する。龍一の右手が手刀を形造り、その指先に〈鱗〉が現出する。
(飛ばす……投げつける……どちらも駄目だ。〈鼠の王〉には防がれてしまう。もっと別の……)
龍一の手刀が空を切る……より正確には、手刀をわずか数センチほど、その先端の〈鱗〉もろとも
それで全てが終わりだった。
手刀と〈鱗〉の延長線上にあった全てが、文字通り両断された──積まれた廃棄物の山も、ドローンも、大型のクレーンも、そして〈鼠の王〉の半身も。
生み出された空間の歪みは、縦一文字に再生センターの外壁すら切り裂いて外の光を差し込ませた。
どう、と〈鼠の王〉が倒れた。彼の右足は、付け根から綺麗に切り飛ばされていた。
『何をした……!?』
装着者トラビスの声は、怒りよりも困惑が勝っていた。放った龍一が呆然とする威力だった。
今のうちにとどめを──踏み出そうとした龍一の眼前で、
数発の手榴弾が炸裂した。たちまち周囲が白煙に包まれる。
「……なるほど大した威力だ。君は僕専用の足止め役か」
人と金属の両方が溶けた、異様な臭いの立ち込めるボイラー室。アレクセイとフレデリカは真っ向から対峙する。
「油断していると足元を掬われますよ。知らないわけでもないんでしょう? あなたたちの技術はとっくに闇市場へ流出し、一山いくらで売買されているんですよ。殺し屋の化石さん」
隠しもしないぬめぬめとした嘲笑が、ガスマスク越しにアレクセイに向けられる。
「君の言う通り〈ヒュプノス〉の技術はオープンリソース扱いだが、技術だけが〈ヒュプノス〉の全てじゃない。〈ヒュプノス〉でなくなった僕が、それでも生きているように」
「今の負け惜しみが今際の言葉ですか? ではさようなら」
空中に放り投げられた粘液の塊が、音もなく弾けた。
散弾ならぬ粘液のシャワーが四方に撒き散らされた。壁も、床も、設置された機械も、そして人体も。粘液を浴びたものは例外なく溶けた。アレクセイもアンドルーも、物陰に隠れてやり過ごすのが精一杯だ。
(任意の場所で炸裂させられるのか。まるで
まさに攻防一体の兵器。彼女が自分専用の足止め役として用意されたことをアレクセイは合点する。
「溶けるのが嫌なら、潰してあげましょうか?」
フレデリカが持つノズルの先端で、粘液が凝縮し始めた。まるでストローの先のシャボン玉のように、それが見る見る膨らんでいく。
(……まずい!)
思考より先に身体が動き、それがアレクセイの命を救った。
「粘液のハンマー」が一閃した。自動車同士の正面衝突のような破砕音。アレクセイが隠れていた配管は、まるで紙切れのように潰れていた。
「そんな手品で、よくも俺の部下たちを……!」
アンドルーがSMGによる銃撃を敢行する──が、その全弾が粘液の壁によって阻まれる。
「ならあなたも子分たちのところへ行ったら?」
横薙ぎに振られる粘液のハンマーをアンドルーは回避した──仰向けに床へ倒れることで。正確にはアレクセイの〈糸〉を足首に巻きつけられ、本人の意思と無関係に数メートルほど引きずられたのだが。
悲鳴を上げなかったのはさすがだが、彼は怒りと恥ずかしさで真っ赤になって起き上がった。
「礼は言うが、次はもう少しまともな助け方をしてくれ!」
「ごめん。でも僕としては最善を尽くしたつもりだったんだが」
物陰に隠れた二人と対照的に、今やフレデリカは通路の中央を悠然と歩いてくる。警戒すらしていない。
「時間稼ぎは結構ですけど、あまり姑息な稼ぎ方をするようなら、酸でこの部屋を埋め尽くしますよ? かくれんぼをわざわざ交代するほど、私も人は良くないので」
「……なるほど、確かに大したガジェットだ」
アレクセイもまた隠れるのをやめ、通路の中央に歩み出る。
「だが、〈糸〉を攻撃の手段としか捉えていないのであれば君は
「〈ヒュプノス〉にしては、意外にぺらぺらとよく喋りますね……」
その言葉を最後に、彼女は今度こそノズルをアレクセイに直接向ける。
だがアレクセイは防ぎも避けもせず、ただ指先をわずかに動かした。
──フレデリカの視界を何かが横切る。目を凝らして見えたのは、
(……閃光手榴弾!)
アレクセイは〈糸〉を使って、アンドルーから借りたそれを放り投げたのだ。眩い閃光と大音響に、彼女の動きが一瞬止まる。
彼女は動きを止めたが、彼女の操る粘液は止まらなかった。ノズルから伸びた粘液がたちまち足場を形成し、フレデリカを天井近くまで押し上げる。
「今の小細工が、一発逆転の手段か? 〈ヒュプノス〉!」
今度こそ粘液のハンマーを足元のアレクセイに振り下ろそうとし、
その頭上を走る配管に切れ目が入った。ボイラー冷却用の水がまるでジェット噴射のような勢いで噴き出す。
大量の水が粘液を洗い流した。水流は勢い余ってフレデリカをも襲い、木の葉のように床に叩きつける。
したたかに全身を打ち、痛みに悶絶しかけているフレデリカに対し、アレクセイは余裕。
「
「この……!」
──施設そのものが鳴動した。その場にいた全員が息を詰めるほどの、何か不吉さを帯びた鳴動だった。
「君の相棒は、君ほど上手く行っていないらしいね。助けに行った方がいいんじゃないのか?」
「……!」
フレデリカはアレクセイを睨みつけた──彼をその視線で殺せるものなら殺してやりたいと言わんばかりの、獣じみた怒りの凝視だった。だが結局は無言で、床を蹴り壁を蹴り天井を蹴り、あの等身大の昆虫を思わせる速さで走り去った。
(……行ったか)
アレクセイが構えを解いたのは、彼女が消えて十数秒経過してからだった。
「すまない。全員は助けられなかった」
「いいさ。こんな仕事をしていれば、どいつもある程度は覚悟している。こんな死に方の覚悟ができているかどうかはわからんがな……」
アンドルーは憔悴し切った顔で、部下たちの──部下たちだったものの亡骸を見た。床の上の異様な色彩の水溜まりが彼らだったなどと、親兄弟には話せたものではない。せいぜい「立派な最後でした」と告げるのが精一杯だろう。
「それより、よかったのか? あの女にとどめを刺さなくて。あいつはお前らを罠に嵌めた連中の手先なんだろう?」
「それは間違っていないけど、是が非でも殺したいわけじゃない。何度も言うけど、僕はもう殺し屋を廃業したんだ。それに、奥の手を隠し持っていない保証もないからね」
「そうか」アンドルーは納得したわけではなさそうだったが、アレクセイの顔を見て追求するつもりもなさそうだった。助けられた負い目も手伝ったのだろう。
「急ごう。ボスが心配だ。それに、お前の相棒も戦っているんだろう?」
「逃したか……」
煙が晴れた頃には〈鼠の王〉は跡形もなく消えていた。結局は逃してしまったか、という悔いはある。
しかし今は、あの人にお礼を言わなきゃな……踝まで埋まるゴミの海に顔をしかめて歩き出した龍一が見たのは、クレーンの運転席からよろよろと這い出てきたルーロンだった。
「……州知事?」
血色の良い巨漢の顔が、今や青黒い果実のようになっていた。呼吸困難によるチアノーゼの兆候。
「少しだけ……ガスを……」
笑おうとして、できなかった。喉を掻きむしりながら、州知事の巨体がどうと倒れた。
「誰か……誰でもいいからこのお人を助けてくれ! この人はわしをかばってこうなったんだ! わしの……わしの代わりにガスを吸い込んだんだ!」
ベン爺さんは助けが──アレクセイたちが駆けつけるまで叫び続けていた。
「……どうして彼の強化外骨格を脱がせていないんですか? 今すぐにでも処置をしないと、命に関わりますよ」
家畜運搬車に偽装したトレーラーのコンテナに戻ってくるなり、フレデリカは尖った声を上げてしまった。コンテナの片隅にうずくまる〈鼠の王〉は、見るも無惨な有様だったからだ。左腕は人間の身体構造ではあり得ない方向に捻じ曲がり、右足に至っては付け根からない。血がコンテナの床部に数滴しか垂れていないのがかえって異様に見えた。まるで子供が気まぐれに手足をもいだ挙句、放り投げた玩具の人形だ。
『言ったさ。言ったのに聞かないんだ』社長の声は苦り切っていた。『
『フレデリカさん、社長を怒らないでください。僕は脱げないんじゃない、脱がないんです』
「……どういうこと?」
フレデリカがそう言ったのは、答えを求めてではない。
ただ、自分から酷い事実を認めたくなかっただけだ。
『彼ら彼女らが……教えてくれるんです。この〈鼠の王〉を一瞬でも装着解除したら、もうお前を助けてやれなくなるって』
「それは……」
大袈裟だとは思わなかった。無惨極まりない〈鼠の王〉の外観から、ダメージは装着者にまで及んでいると一目でわかった。通常の強化外骨格なら、装着者はとっくに圧死するか、そうでなくても出血多量で死んでいただろう。
だがこれを、こんなものを、「生命の維持」などと呼べるのだろうか?
『大丈夫です。フレデリカさんもご存知でしょう? 食事も排泄も専用の器具があります。何も困りませんよ』
そもそも、とフレデリカは密かに思う。彼は、トラビスという青年は、これほど滑らかに自信ありげな話し方ができる人だったか?
初めて会った時のことを思い出す。彼は内気すぎてまともに話すどころか、目を合わせられないほどだったが、それはフレデリカにはむしろ好ましく映った。この世界には彼女を憎む者も軽蔑する者も無限にいた。そいつらにどう思われようと痛くも痒くもなかったが、この人が怖がらないような話し方をしようと決意したほどだった。
だが
〈鼠の王〉には過去に蓄えた〈竜〉との戦闘情報を装着者にフィードバックするだけではなく、装着者を〈鼠の王〉に最適化させる機能もあるのではないのか?
軍や企業の使用するAIには幾重にも
だが倫理なき犯罪業界の作り出した〈鼠の王〉に、その安全措置はない。
『それより次のことを考えないといけませんね。学習はしました。もう、同じ手は通じませんよ』
相良龍一を──〈竜〉を殺すまで無限に進化し続ける戦闘機械。
フレデリカは慄然としていた──
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
総合病院の待合室、夏は暑そうで冬は寒そうな座り心地の悪い椅子に、龍一は何時間も座り込んでいた。寝ていなかったし、寝る気にもなれなかった。
ひたすら自分に腹を立てていた──州知事を救えなかったことではなく、ここに至るまでの全てに。母親を探そうとして果たせず、〈島々〉との接触はそもそも自分たちを陥れる罠で、しかもそのしくじりに他人まで巻き込んだ。
何一つ上手くできてないな。
アレクセイは何かしら話しかけてはいたが、実のところその大半は頭に入っていなかった。アンドルーが歩み寄ってこなければ、ずっと座り込んでいたかも知れない。
「終わったぞ」
歩み寄ってきたアンドルーも数日間は寝ていないような顔色をしていた。「結論から言えば、ボスは一命を取り留めた。当分は面会謝絶だがな」
「そうか……よかった」
龍一はそう言いはしたが、自分でも何がよかったのか、と思わずにいられなかった。その口調から察するものがあったのか、アンドルーは深々と溜め息を吐いた。「お前はよくやった。慰めで言っているんじゃない。俺たちだけなら、州知事は助からなかっただろう」
そもそも州知事は龍一たちを誘き出すために利用されたのだ。だがアンドルーもそんなことは百も承知だろうし、指摘できる気分にもなれなかった。
「あなたはこれからどうするんです?」
「どうもこうもない。俺たちは雇われのボディガードだからな。州知事の容体が安定するのを待って、部下たちの家族に訃報を伝えて……まあその後は、さぞかし長い休暇を取れるだろうな」
無念さの滲む口調だった。彼の職業を考えれば敗北宣言同然だろう。
今度は龍一が溜め息を吐く番だった──トゥエルブ・リバーへ来てからの努力の成果が、何もかも水の泡だ。
「やるよ。餞別代わりだ」
アンドルーは龍一の膝に大判の封筒を放った。かなり分厚い。
「あの再生センターに流れていた金の動きだ。出所は聞くなよ。俺たちはただのボディガードだが、お前らは違うんだろう?」
「ありがとう」
「礼なんか言っている暇があったら」
舌打ちした時には、彼はもう踵を返していた。「落とし前をつけてこいよ。どうせ行くつもりなんだろう?」
「……君たち、無事だったのか!」
見覚えのある制服姿が歩み寄ってきたのは、アンドルーを見送って間もなくだった。
「
龍一とアレクセイの顔を見比べた猟区管理官は、深々と溜め息を吐いた。「すまない。こんなことになるとは」
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
「外の様子はどうですか? 管理官さんの顔を見ると、はかばかしくはないようですが」
「〈ヴァルキリー〉と交渉するはずだった州知事がもう少しで殺されるところだったんだ。交渉のテーブルなんて、踏み潰したプレッツェルみたいに粉々だよ」
「紳士の時間は終了……ですか」
「そんなところだな。何しろ核絡みじゃSWATには荷が重い。州兵どころか、軍が出動してもおかしくはないね」
疲れとどうにもならなさで笑い出したくなった。笑うのを我慢したのは、笑い出したら二度と笑いやめることができなくなるかも知れない、と思ったからだ。
笑うことができないのなら、何もかも投げ出して眠りたかった。
だがそうはいかない──今確かなのは、ここにいても龍一のできることは何もない、ということだけだ。
「俺たちはこれから山に登ろうと思っているんです。管理官、あなたに道案内を頼めませんか?」
「なぜ?」
「決まっています」声に怒りが滲むのを抑えられなかった。「このイカれた騒ぎにケリをつけるんです」
対〈鼠の王〉戦、ひとまずの決着です。そう、龍一とトラビスの因縁はもうちょっとだけ続くのですよ…
次の更新はまた別の話となります。本編、なるはやで再開しますのでしばしお待ちを…