高校二年生、六月。梅雨の時期だっていうのに、朝寝坊したせいで傘を持ってくるのを忘れた俺をあざ笑うかのように降りしきる雨を廊下の窓から眺め、どうしようかと頭を掻く。友だちは全員俺の状況を面白がって笑って帰りやがるクズばっかだったし、両親は仕事でまだ家に帰っていない。姉ちゃんに迎えに来てもらうかと連絡したら、「めんどくさいから玄関にタオルだけ置いといてあげる」と非情な一言。雨で帰れず困っている弟に対し、玄関にタオルを置いておくことが優しさだと勘違いしているアホであった。
「あ、いた」
「……彩芽」
仕方ねぇからずぶ濡れになって帰るか、と窓の方へ向いていた体を階段の方へ向けると、ちょうどそいつが一階からあがってきたところだった。
彩芽は俺と目が合ったことに気づくと、緩んでいた頬をぱちんと叩いて引き締め直し、貼り付けたクールな表情でその手に持っていた傘を見せつけてきた。
「ん」
「ん?」
「ん!」
「ジブリから出てきたのかお前。なんだよ」
「傘。雅さんから『うちの弟が傘忘れたらしくってさー』って連絡きたから、一緒に帰ってあげよっかなーって」
傘は一本? と聞くと、俺から目を逸らして頷いた。マジかよ……。
俺は、彩芽が嫌い、とまではいかないけどあまり快くは思っていない。小学生の頃、二人でいるときに周りから夫婦だなんだとよくあるからかわれ方をしたときに、「ありえない! ふざけんな! なんで私がこんなやつと!」って言われて、俺も「ありえない! ふざけんな! なんで俺がこんなやつと!」って言って、それから顔を合わせる度何かにつけて喧嘩ばかりしている。
「友だちと一緒に帰らなくてよかったのか?」
「いいの。それに、修也と一緒にいる口実がほしかったし」
ほら。と彩芽は両腕を広げ、俺を見つめてきた。いわゆる『ぎゅーの姿勢』と言われているやつ。いわゆるっつったけどこれに正式名称なんてものはない。
「廊下で?」
「いいから、早く」
頬を赤くする彩芽に小さく息を吐いて歩み寄り、小さな体を抱きしめた。
瞬間。俺の内側に元々宿していた彩芽に対する嫌悪感が湧き出てくる。それは彩芽も一緒のようで、一瞬で顔を青ざめさせて俺の顔めがけて平手を放ってきた。それを寸でのところで受け止めて、地を蹴り後ろへ跳ぶ。
「オエーッ! キモい!! マジで信じらんない!」
「こっちのセリフだ! なんで廊下でテメェとハグなんかしねぇとなんねぇんだよ!」
「元はと言えば修也のせいでしょ!?」
「俺のせいじゃねぇよ! 父さんのせいだろうが!」
──あれは、遡ること三か月前。二年生になる前の春休みのことだった。
姉ちゃんから「ジジイみたいでウケる」と言われた日課の散歩を終えて家に帰ると、顔も見たくない彩芽が我が舞坂家のリビングにいた。正面には父さんがいて、彩芽は気まずそうにしていた表情を、俺を見た瞬間「げ」とゴミを見るような目に変えた。
「おう、おかえり」
「ただいま」
「おじさん。なんでこいつがいるんですか」
「俺のセリフだろうが。なんでいんだよ」
「俺が呼んだんだ。まぁ座れ」
もう親に反抗する歳でもないからと、俺は彩芽の隣に座った。彩芽のことは嫌いだけど、父さんの隣に座ったら彩芽の顔を正面から見ることになる。そっちの方がよっぽど嫌だ。
彩芽は俺が隣に座った瞬間にそっと席を離し、それにムカついた俺も彩芽から椅子を遠ざけてそこに座る。その様子にため息を吐いたのは、俺たちの正面にいる父さんだった。
「早く座れ」
「座ってんだろうが」
「あぁ、仲が悪すぎて座ってないのかと思った」
「おじさん。じゃれ合いはいいから本題」
「カワイクねぇなぁ。顔だけでつられるうちの男子が哀れだぜ」
「何? 僻み? 自分がモテないからって」
心底見下したように鼻で笑う彩芽。やっぱり俺は間違っていない。こんなやつにつられたら哀れだって思うだろ。ここまで言葉と表情で人をバカにできるやつが、いい女なわけがない。
「言葉のまんまだよ。ドブみてぇな性格してんのに、顔はいいってだけで空しいモテ方してるなぁって」
「待てお前ら」
「なんだよ父さん。そもそも俺がこいつ嫌いって知ってんだろ? 何家あげてんだよ」
「俺実は魔法使いなんだ」
「彩芽。恥を忍んで頼む。一緒にいい病院を探してくれ」
「こればっかりは同情するから、いいよ」
「俺は本気だ」
「だからいい病院探すんだろうが」
まさか父さんがここまで頭がおかしいとは思っていなかった。自分の息子とその幼馴染の前で「俺実は魔法使いなんだ」って病名のある精神状態じゃないと言えない。あの彩芽が俺に気遣わし気な視線を送っていることからそのとんでもなさが窺える。
そんな父さんは病院を探している俺たちを見て、両手でハートを作った。その中に俺たちの姿を収め、「どっきゅん!」と叫んだ。
「あんたの息子を名乗るのは今日限りだ」
「待って修也! 確かに今のおじさんめちゃくちゃキツイけど、何かお仕事で嫌なことがあったのかもしれないし、話聞いてあげよ?」
「どうやら、今かけられた魔法が何か気になっているようだな」
「俺たちのどこを見てそう思ったんだよ」
「っていうか百歩譲って魔法使いだとしても、断りもなく魔法かけないでくれません?」
彩芽の方に椅子を寄せて、いい病院が見つかったかと聞くと「先に警察の方がいいかも」と深刻そうに呟いた。確かに、ここまで頭がおかしいなら俺たちが知らないだけで何かしらの前科があるかもしれない。身内だからといって前科を許しちゃいけないからな。
ただ、警察っていうワードを聞いても父さんはびくともしないから、その心配はなさそうだ。彩芽も小さい頃から知っているおじさんに前科がないことを知れて一安心したようで、「変なこと言ってごめんね?」と微笑んだ。
……。
「なぁ彩芽」
「ねぇ修也」
「なんかおかしくね?」
「うん。私も思ってた」
彩芽に対して抱いていた嫌悪感。それが薄れているのを感じる。いや、薄れていっている? それは彩芽も同じようで、だからこそさっき俺に微笑んだ。彩芽が俺に微笑むなんて、それこそ小学生になる前の頃の記憶しかない。
「……もしかして」
「本当に、魔法?」
「ふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふ。気づいたか」
「笑いが長すぎんだろ。相場はふっふっふだろうが」
「そう。俺がお前たちにかけた魔法は、エロ漫画の導入みたいな魔法だ」
「思春期の男女になんてもんかけてくれてるんですか?」
信じられないが、少し信じてしまいそうになる。だって、長い間抱き続けていた彩芽への嫌悪感が薄れていって、なんか、こう、彩芽が可愛く見えてきてしまっている。彩芽に女性を意識してしまう。
それは彩芽も同じなのか、ぽーっと俺を見て目が合うと、頬を赤くして慌てて目を逸らした。
「俺がかけた魔法は、『ぎゅってしないと好きになってしまう魔法』だ!」
「そ、それが本当だとして、人の気持ち操るような魔法なんて最低です!」
「そだねー」
「何あっさりしてんだこのクソ親父!」
「小さい頃のくだらないすれ違いで今までずっと仲悪かっただろ? 俺としては、また仲のいいところを見てみたかったんだ」
「それなら仲良くなる魔法でよかったじゃねぇか!」
「それはまぁ、好きになる方が面白いじゃん」
「もういいです! お父さんとお母さんに言いますから!」
「ちなみにこの魔法のことを口外すると、死ぬ」
「死ぬ!?」
マジでなんて魔法かけてくれてんだこの野郎! いたずらだとしても人が死ぬような魔法をかけるか!? 息子だぞ俺! いや、俺だけならまだしも彩芽にかけんのは絶対ダメだろ!
それに、そんなつもりじゃなくてもぽろっと漏れた場合はどうなるんだ……? 一生話さないようにするなんて、気を付けていてもうっかり漏れることなんてあるだろ。
「自分の意思で伝えようとして口外した場合に限る」
「人の心読んでんじゃねぇよ」
「これ、解く方法ないんですか!?」
「俺が死ぬか、俺が解くか」
「じゃあ解けや」
「やだぷー」
彩芽と連携し、父さんを床に転がして二人で父さんの上に座る。もちろん直にではなく、父さんの上に椅子を置いてその椅子にだ。こんな汚らしいジジイの上に彩芽を直で座らせるわけにはいかねぇからな。
魔法使いだと豪語した父さんは、俺たちにボコボコにされている間は一切魔法を使わず、むしろ「二人が共同作業を……!」と感動していたから大層気持ちが悪かった。
「ま、まぁ、安心しろ。この魔法は好意がないと効果がない。お前たちが本当に嫌い合っているなら、俺も諦めるさ」
「……」
「……」
彩芽と目を合わせる。彩芽の頬が赤くなった。俺も、似たような顔になっている気がする。不自然に顔へ熱が集まって、くらくらする気さえした。
「……帰る!」
彩芽は勢いよく立ち上がって、俺たちを一瞥もせず家から出て行った。あいつの姿が視界から消えるなんて、今までなら喜ばしいことだったはずなのに。今は妙な寂しさを感じてしまっていた。
……そういえば、好きになるって時間経過でどんどん好きになっていくのか? それともこの時点がマックスなのか?
「どんどん好きになるよ」
「母さんにいい人でも紹介するか……」
「何を考えてるんだお前!!」
「俺が父さんに聞きてぇんだよ!!」
そんな頭の悪い出来事があり、『ぎゅってしないと好きになる』魔法……いや、呪いをかけられた俺と彩芽は、定期的にこっそり二人になって抱き合うなんていう、めちゃくちゃ気持ち悪いことをしていた。
確かに、関係性は変わった。今も彩芽が渡してくれた傘に二人で入って、家まで帰っている。こんなこと、前までの俺たちなら想像しただけで嘔吐して、一週間休むくらい体調を崩していたことだろう。
「おっ」
女の子を濡らすわけにはいかないと傘を彩芽の方へ寄せていたら、彩芽に腕を取って引き寄せられた。
「おい、正面からのハグじゃねぇと効果ねぇぞ」
「知ってるよ」
いや、知ってるならやめてほしい。そういうことされたら好きが加速する。クソ、嫌なはずなのに嫌じゃない。っていうかこいつマジで顔いいな。なんでそんなに肌ぷるぷるなんだ? この雨の世界の中でも潤いで一位なんじゃねぇかこいつ、ふざけやがって。
「なに」
「いや」
俺の視線に気づいた彩芽にじとっと睨まれ、口をもごもごさせながら視線を逸らす。彩芽の視線が俺の唇に注がれている気がするけど、気のせいだと思うことにした。
「……修也。ぎゅーしよ」
「は? 可愛い」
「や、ちっ、違う! このままじゃ好きになっちゃいそうだから、リセットするの!」
「いや、悪い。わかってるけど、本音が出た」
「ばーか」
俺の胸を小突いて、べっと可愛らしく舌を出す彩芽に微笑んで、そっと腕を回す。片手が傘で埋まっているのが残念だけど、華奢な彩芽を抱き寄せるには片腕で十分だった。あぁ、ダメだ。本来の俺はぎゅってした方がいいって思ってるのに、どこかぎゅってするのを残念に思ってしまっている自分がいる。マジで厄介な魔法をかけやがったな、あのクソ親父。
そう、本当に厄介な魔法だ。こんなことをやっていたら、いつか誰かにバレるのは当たり前で。
「……あんたら、いつの間にそんな感じになってたの?」
「「あ」」
聞き覚えのある、それこそ俺が生まれた時からずっと聞いてきた声が聞こえた。彩芽と一緒に声の主を見れば、そこには傘を差し、もう一本の傘を持っている姉ちゃんがいた。
「……」
「……」
「……風呂沸かしてた私、ファインプレー?」
「「違う!!」」
その後。好意がリセットされたことも手伝って、姉ちゃんに与えた勘違いを誤魔化すように罵倒を交わし合いながら帰宅した。
これは、頭のおかしい魔法使いの父さんによって、俺と彩芽が振り回される。そんなお話。