食堂へ行く途中、オミニス、と声をかけられた。
夕食の時間ももう終わる頃、生徒もまばらになった時間帯だ。その声は良く通った。
呼び止めたのは、珍しくも5年生から転入してきて、最近俺たちとよく一緒にいるようになった少女である。
「やあ、君も今から食堂か?」
「ホグワーツを探検してたら遅くなっちゃった」
「それは迷子になったと言うんじゃないか?」
「煙突飛行粉を欠かしたことはないんだよねえ」
「なるほど、威張ることではないだろうな」
するっと、横に彼女が立った気配がした。
彼女は気の良い友人であった。才能にあふれ、行動力があって、知識に貪欲で、勇敢で、優しい。
セバスチャンが決闘で初心者の彼女に負けたと聞いたときは本当に驚いた。「あれは、彼が手加減してくれたからだよ」と彼女も言ったが、しかし最近の噂を聞けば、あながちそれだけでもないだろうと思われた。
そもそも、あの決闘馬鹿が手加減というのが疑わしい。
「オミニスは一人で食べることが多いの?」
「読書を始めたセバスチャンを待つほど不確実なものは無いのさ」
後数ページ、もう少しできりが良いから、と延び延びに待たされるのだ。これは彼の悪癖である。声をかければ返事をするが、彼に近くなればなる者ほど、その返事もおざなりになっていく。
かといって他に一緒に食事をしたい相手もいない。
以前は、と言いかけた言葉を俺は飲み込んだ。
入学当初、俺は遠巻きにされていた。
サラザール・スリザリンの子孫で、闇の魔術に手を染めるゴーント家の出身。目も見えない。俺だって他人なら近寄らない。
まあそんなものだろう、と思っていた。
――やあオミニス。手助けはいるか?
――ねえオミニス。伝えた方が良いことはある?
いつからか、俺の周りで同じ子供達の声を良く聞くようになった。
初めは、自分に話しかけられていると気付かなかった。オミニス、オミニスと小鳥のさえずりのような言葉が、自分の名前だと思い至るのには少し時間が必要だった。
同室のセバスチャンと、彼の双子の妹のアン。
セバスチャンと同室になれたことは、俺にとってきっと奇跡だった。
別に日常生活にも学業にも困ることはほとんどなかったが、二人は良く不便はないかと俺に話しかけた。
何故毎度毎度聞くのかと尋ねた俺に、二人は笑って言った。
――目が見えないオミニスに、なんて声をかけたら良いか迷ってる人がいるから。
――何にも困ってないって分かったら、話しかけやすくなる人がいるかもしれないよ。
俺の生まれが変わるわけではない。それでも、俺に対する過剰なまでに遠慮気味な周囲の態度は、少し変わるかも知れないと。
お節介だなと思った。そう言った。
彼らは誇らしそうに、俺が笑っているからそれは褒め言葉だ、と手を取った。
入学して少し。秋の燻したような枯れ葉の匂いが遠くから香る頃。
どこか遠くに感じていた、空に抜けるような周囲の話し声。
この瞳で見る景色のように、白く曇った向こう側に感じていたそれは、俺のとてもとても近くにあった。
(家を出て良かった)
穏やかにセバスチャンが笑いかける。賑やかなアンが楽しそうにはしゃぐ。
(闇の魔術と手を切って良かった)
明るい声の彼らと、友人でいられることが嬉しかった。
それから俺は少しずつ人と話すようになった。
全てのホグワーツ生が、セバスチャンやアンのようだと思ったことはない。彼らは、特にセバスチャンは希有な存在だった。
人と話すようになって知ったことがある。
生徒達は、俺の出自をしっかりと理解したうえで話すとき、何か怯えを抱いているということ。
どんなに表情を取り繕ったって、俺には意味が無い。
怯えだけではない。侮蔑や、嫉妬や、悪意や、不満、恐れ。何か、そんなものを俺の濁った瞳の中に見ている。
少しわかるわ、とアンは言った。彼女は時々、羨ましさを俺の瞳の中に見るという。
わからないな、とセバスチャンは言った。彼は、どんなに俺の瞳を真っ直ぐ見てもそんなもの見えない、という。
そうだろうな、と俺は思った。
「さて、オミニスは磔の呪文を使うつもりはないみたいだけど、どうする?」
明日雨降るらしいけど、どうする?
そんな軽さで話すセバスチャンと転入生に、さて、じゃないだろ!と俺は叫びたくなった。
サラザール・スリザリンの書斎に続く道。
前に進むための謎に何度も痛めつけられつつ辿り着いた先で俺たちは閉じ込められていた。
門前の扉を開ける鍵は簡単だが最悪だった。
俺は覚えている。この忌々しい呪文の結果を。
疑問と絶望と恐怖にガタガタと震える体。大きな音を立てながら崩れ落ち呻き泣く声。
反するように、楽しそうな嬉しそうな、悪魔達の笑い声。瞳の裏で耳の奥で皮膚の表皮の一枚下で反響し続ける、忘れられない感覚。
そんなものを、セバスチャンにも、転入生にも、誰にだって俺が使えるわけない。
なのに。
「磔の呪文は覚えたいけど、君に使うのは嫌だから、セバスチャン、私に使ってよ」
「――わかった。君の友情に感謝する」
嘘だろ。
(やめてくれ)
俺の叫びは届かないのか、授業の前の復習のように転入生に磔の呪文を教えるセバスチャンの声が聞こえた。
「いくぞ」「いいよ」
「クルーシオ!」
その呪文を受け、転入生はくぐもった声を漏らす。
バチバチと、暴力的な魔力が振りまかれているのを肌で感じた。
(どうしてだ)
闇の魔術は、意思が明確でなければ――相手を苦しめようと思う気持ちがなければ――絶対に失敗するはずだ。
(どうしてだ)
セバスチャンが闇の魔術を求めているのは、アンのためのはずなのに。それなのに、ああ、どうして。
あの優しい俺の友人が、誰かを苦しめたいと思っていることが信じられなかった。
「っおい!大丈夫か!?」
「……うん。すごく苦しかったけど、死ぬわけじゃないよ」
心配して声をかけた俺の動揺など何でも無いように、転入生は立ち上がった。
カチャカチャと音をさせて、何かを飲んでいる。
「ウィゲンウェルド薬」
「3本かあ。かなりやばいね!」
匂いで言い当てた俺に、彼女はなんとものんきな声を上げた。
何故そんなに平気そうなのか。
本を見つけた、と言ったセバスチャンと彼女は、先ほどのことなど何もなかったかのように話をしている
俺は、心配した分気が抜けたと同時に困惑に包まれていた。
書斎を出た後、もう二度と使わないでくれ、と言った俺に、セバスチャンは、わかった、と言った。
(本当か?)
俺は友人を信じるしかない。
「苦しめって本当に思ったのか?」
信じるしかないから、信じられなかったことを聞いた。
「僕がかけるしかなかったんだから仕方ないだろ。あの場で言ったとおりだ。友情に感謝する、ありがとう、苦しんでくれって思って唱えたさ」
「転入生は、君の友人だろ!?」
「……そうだな、思えば彼女だから、かけられたんだろうな。よしやろうって、彼女の目が言っていた」
オミニスに向かってなら、あんなに綺麗にかけられなかったと思う。と俺を振り返ってセバスチャンは言う。
相変わらず、その視線は真っ直ぐで、何の後ろめたさも感じない。
闇の魔術を使っても、変わらない。大好きな友の視線だ。
信じたい。そう思った。
目が見えないというのは、不便だ。君がどんな顔をしているか、見ることが出来たら、俺はきっと違う対応をしただろう。
もし、平然とした顔をしていても。
苦しそうな顔をしていても。
悲しそうな顔をしていても。
何かその表情から好きなように感じ取って、もっと腹を立てただろう。
だけど、俺には見えないからこそ見えるものがある。俺の瞳に皆が投影し怯える「彼ら自身の負の部分」だ。
セバスチャンは、まだ真っ直ぐだ。まだ優しい。まだ、まだ、まだ。それが分かってしまったから。
――闇の魔術は、その時が来るまで、無害で有用に見える。
そういえば、転入生も同じ目をしているなと、遠くで小さく鳴り始めた警告音に不安を感じながら俺は思った。
以前は、アンと食べてたの?とあっけらかんとかけられた声に思わず横を見る。
あんなに友人がいたのに、誰もが言うのを憚りここでは聞かなくなった名前。
ホグワーツの生徒は概ね優しい。アンの容態が思ったより悪いと分かると、様子を聞かれることは減った。
「……そうだな。アンと二人で食べたり、寮のテーブルから持ち帰って、セバスチャンと三人で食べていた」
「地下聖堂は素敵な秘密基地だね」
「君は、平然とアンの名を呼ぶんだな」
楽しそう、と笑っていた彼女は、そうだね、と頷いた。
「アンが戻ってきたら良いなって思うから。ここにはアンがいるべきで、だからアンの話もしたい。変かな」
いや、変ではない。と言おうとして、俺の声は喉に張り付いた。
真っ直ぐな彼女の目。優しく、勇敢で、何でも出来る彼女が語る、それは。
善意に満ちた暖かさと、甘さを感じるそれは。
そうであって欲しいと強く願ってしまう力を持っていた。