街は、いや、小さな集落ですら、恐怖と猜疑心に包まれていた。
不穏な前兆にくすぶってた不幸が爆発したのは、ある早朝ことだった。
"街の広場にて発狂した男が、道行く人に掴みかかり、引っかき、唾を吐き、喚き散らし、高笑いと叫び声を残して気絶した"
城に届いた知らせは殴り書きのような文字で綴られており、送り主の動揺が見て取れた。
発狂した男の言葉は、まさに呪いだった。
『――俺だけでは死にたくない!お前たちも病に冒されろ』
周囲の人々は事態を理解しパニックに陥った。男の首には大きく晴れた腫瘍があった。気絶した男はそのまま意識が戻らず、死んだ。
さっさと荷物をまとめ、家族と使用人を引き連れて、逃げ出した人は僥倖であった。すぐに、荷馬車を引く馬の一頭も見つからなくなった。魔法使いであっても、荷物を抱えての移動は容易ではない。
その事件が引き金で、たくさんの密告が相次いだ。
“印”の現れたものの家のドアは外から打ち付けられ封鎖された。それは始め、隣人が恐怖から行ったことだったが、恐ろしいことに是とされ横行した。その時には健康であったかもしれない家族は、愛した死神と閉じ込められた。それを見張ったのは、共に生きていたはずの、周囲の住民であった。
誰もが家に引きこもり、それでも出需品を求め、食料を求め、人々は外に出なければならなかった。できるだけ足早に、何にも触れないように。しかしやはり、多くの者が感染し、また汚染されたものを家に連れ帰った。
そしてまた、印の家は増えた。
監視された家屋からも逃げ出す者は多かった。人々は暗く狭い家の中で、ただ死を待つことなど出来ないのだ。感染しただけなのに、誹謗中傷の目にさらされた彼らは悲惨であり、一方で誰にも助けを求められないことから自暴自棄になった。
街から逃げ出した者は、近くの集落に助けを求めたが、大量の寄金をせびられ、払えないものは納屋の一つも借りることはできなかった。
または、たった一泊 宿を貸しただけで、二週間後には数件の家で感染者が現れた村落もあった。その家々は結局、もろとも燃やされた。
特に貧しい村から順に不安に蝕まれ、街の者を出すなという悲鳴は彼方此方から上がり、もう止めようがなかった。
いよいよ私は、領主として決定を下さねばならなかった。
街を魔法で封鎖すると告げたとき、生まれ故郷を思ってニーフは泣いた。
15
アミットから手紙が届いた。
あの天文学の授業の後、夏休みの後半にもう一度ハイランド地方を旅してみないかと誘われていたのだ。
その時僕はぼんやりとしていて、曖昧な返事しか返せなかったが、改めてアミットの手紙に目を通し、待ち合わせの場所を記して返事を送った。
鉱山、鉱山、また鉱山。アミットと改めてホグワーツからクラグクロフトまで巡ると、以前から感じていた違和感が大きくなった。
(ゴブリンの根城だけでなく、イシドーラの研究所まで鉱山にあるなんて……)
そういえば、ブラグボールとイシドーラは、いったいどこで出会ったのだろうか。
マルワンウィーム湖近くの塔の洞窟は、セバスチャンと訪れた時とは違い、ゴブリンもトロールも出ず、しんとして青白い静かな光に包まれていた。
想像以上に体力がなかったアミットは、階を登るたびに肩で息をしつつも、顔を上げれば丁寧にその周辺に目配っている。
「休憩する?」
「はあ……ごめん。そうしよう。ああ、疲れた」
そう言うとアミットは、吹き抜けになっている部屋の中央に座り込んで、高い天井をぐっと見上げた。
「広い」と呟いた声に、僕も賛同するように頷く。
ふと、各地のイシドーラの研究施設を探索していた時にセバスチャンと交わした会話を思い出す。
――イシドーラ・モーガナークが、地下聖堂とフェルドクロフトの邸宅の地下室を使っていたのなら、なぜここを使ったのかな。
――しかも、それを、どうして君にしか見えない古代魔術と、ルーン文字を使って隠すんだ?
以前この場所に来た時にも思ったが、ここはイシドーラだけのものだったはずがないほど広く、たくさんの部屋があった。そんなことを休んでいるアミットに伝えると、彼は深く頷いて同意を示した。
「つまり、イシドーラは、一人でここを使ってたわけじゃなかったんだよ」
そう告げたアミットの声は、確信めいていた。
僕は目を閉じて、想像する。
(ここは、まるでホグワーツ城の塔だ)
高い吹き抜けに、数十人の人々が、生真面目に議論を交わす声が響いた気がした。
「イシドーラが研究の主題は古代魔術だったのだろうけれど、あの時代に訪れた喫緊の問題は別にあった」
「――ペスト、だね」
イシドーラの手記をアミットに見せると、彼は悲しげに顔を歪めた。
度々世界を襲う大災害。未だに原因不明の疫病。ペストを知っているかと問われて、知らないと答える者はロンドンには少ない。
ただ、今を生きる人々がその恐怖に怯えているかと言われれば、それはきっと違った。いずれ再び病の波が襲ってくる可能性はあれど、喉元を過ぎた僕らには紙の上の"歴史”でしかないからだ。
しかしアミットは言う。この歴史を理解しなければ、きっと古代魔術の守護者たちの真実は見えてこないのだ、と。
「ペストが流行った時代にはきっと、魔法族も、マグルも、どの種族も関係なく、治療法の確立が最優先されたはずだ」
現在のロンドンの治安がいいとは言わない。急速な発展が落とした影は、街明かりが強くなるのに比例して濃く広がっている。ハイランド地方にだって、アッシュワインダーズという犯罪集団はいて、また、貧しい者の幾人かは密猟に手を染めることもある。
それでも、一年前まで、数週間前まで、ほんの数時間前まで友人だった人間から、良心が消える瞬間を目の当たりにするほど異常なことは滅多に起こらない。
「”死”の次に、疫病が振りまく災厄は、ただの一般人の良心や常識を打ち壊していくことだ」
自分が助かりたいという思いだけでなく、誰かを助けたいという願い、ほんの少し手を差し伸べる慈悲すら、善とは限らない世界。
混沌の最中にいれば、悲劇は一瞬で起こる。蝕まれた人間は一瞬で堕ちるのだ。僕は確かにその一瞬を見た。知らないとはとても言えないその後悔が――当時は、世界中で起こった。
行こうと言ってアミットは立ち上がり、机の上に置いたままにされたいくつかの本の埃を、まるで労う様に払った。
物の扱いが丁寧なことは知っていたが、その行為には過去への敬意が窺える。
アミットと巡る塔の洞窟は、以前とはまるで違って見えた。
16
イシドーラ・モーガナークが、古代魔術にその時代の光を見出したのは間違いだった。
それは、僕らが歴史を俯瞰して捉えるからこそ言えることだと、見せてもらったイシドーラの日記を読んで息をついた。
何か災害が起きたとき、渦中で喘ぐだけでなく、解決策を模索しなければならない人々がいる。
疫病であれば、医療従事者はその最たる存在だろう。ようは専門家である。
そしてもう一方で、直接的な問題の解決に寄与しないが、専門家と連携し時に人々の生死を握る重要な決定を下す者がいる――”為政者”だ。
誰がこの場所をイシドーラに提供したのか、答えはあっさり出た。
イシドーラ・モーガナークの研究施設は鉱山やそのすぐ近くにあった。鉱床を採掘するのに誰の許可がいるかなんて、考えるまでもない。
「ルックウッド城の地下に、最初の保管所があった理由が分かってきたね」
「アミットは、ルックウッド先生が古代魔術で痛みを抜くことを肯定していたと思うの?でも、肖像画はそんなことを言わなかったよ。ルックウッド城で見た記憶では、父親から痛みを抜いたイシドーラを守護者達は咎めてた」
「その時、ルックウッド教授は本当に避難してた?守護者全員で確かにイシドーラを咎めていたのかい?」
「それは……」
僕がペンシーブの記憶について詳しく尋ねたときに彼は、古代魔術を巡って、イシドーラとパーシバル・ラッカムという教授が言い争っていたと語った。彼の言葉が足りなかっただけかもしれないけれど、その時には、その場にいたということ以外他の守護者の名は出なかったのだ。
ただ、守護者の中でも、彼やイシドーラと同じ特別な魔法の才能を持つラッカム教授とイシドーラの対立という記憶が、その後の結末も相まって事実を歪曲して見せているのではないか。
客観的に見て、残っている事象と、他の守護者達の発言は一致しない。
「それに、イシドーラも書き残しているじゃないか。校長はわかってくれてるようだって。最終的には意見を違えたとしても、それだって、いつの時点かなんてわからない。君が僕に語ったとおりであれば、苦痛を抜く魔法を見た時点でイシドーラと決定的に考えが違ったのは、」
「パーシバル・ラッカムだけ、だった……」
「もちろん、彼女がその魔法のことを、どのように伝えていたのかは、また別の問題だけどね」
一週間、激痛にのたうち回りながら死んでいく病が流行った中で、痛みを抜く魔法はどれほどの希望だっただろう。
死にゆく人々に最後の安らぎを与えることが、本当に許されなかったのか。“許さない”ということが、許されたのか。
(生きている人に使わなければ、誰にも悪とは言い切れない)
一線をどこに引くべきか。残された魔法の源をどうするか。イシドーラと、他の古代魔術の守護者達が最初に意見を違えたのは、使用そのものではなくその点だったんじゃないだろうか。
何故なら、当時の校長は、イシドーラの父親の一件の後も、ずっと彼女を闇の魔術に対する防衛術の教師として雇い続けたのだから。
守護者たちは最後の保管所について、「”我々の遺産”を託す」と告げたそうだ。つまり、古代魔術の守護者たちからすれば、ホグワーツの地下にあったものも、ルックウッド城の地下にあったものも、”イシドーラの遺産”なんかじゃなかった。
それは彼らにとって、イシドーラを止めることが出来なかったというだけではなく、一時は同調してしまった結果による負の遺産。だからこそ、守護者達は秘密を託す者を待ち続けた。数百年間、いつ来るともわからない後継者を、ただただ薄暗い地下室の絵画の中で。その様はまるで咎人だ。
一方で、イシドーラの行為に守護者が加担してその力がなされたのなら、その言葉の通り彼らにとっても、後世に残したる大きな遺産でもあったのだろう。
17
セバスチャン、何か変だよ。と、イシドーラの記憶を覗いて興奮する僕に、水を差すように彼は声をかけた。
「何が?やっぱりアンを救う魔法はあったんだよ!」
「記憶じゃなくて、肖像画だよ」
どうしてイシドーラは出てこられなかったんだろうと言いながら三枚絵を眺める彼の隣に立つ。
そんなの決まっている。――誰かが魔法のキャンパスを傷つけたんだ。
「そんなことよりもペンシーブだ」そう促すと、彼は不安そうに頷く。
守護者に習ってアンに痛みを抜く魔法を使ってほしいと頼むと、戸惑いながらも微笑んだ彼に、その時の僕は満足した。
しかしその夜、部屋のベッドの上で本を読みながら僕は思い直した。
(痛みを抜く魔法は、呪いを解く魔法では、ないよな)
アンは助かるだろうか。痛みを消したって、呪いに蝕まれているのに変わりがないのでは、結局アンは衰弱していくことになる。苦痛がない死を迎える、というだけで。
もう一度彼に、他に心当たりがないか相談しようかと考えたが、近頃の彼は随分ゴブリン族のお友達にご執心のようで、荷馬車を取り返したとか、ペットのムーンカーフを救ったとか、悪い行いをしたわけではないけれど、その行為は僕の気持ちを逆なでした。
サラザール・スリザリンの書斎から持ち帰った書物を思う。
やはり他の誰でもない、僕自身が妹を助けなければならないのだ。
三枚絵は、僕たちをとてつもない旅に連れて行ってくれた。
彼の魔法には頼れないかもしれない。それでも、いつも僕と同じようにアンを心配していると言ってくれた彼には感謝しているし、同じ方向を見てくれる存在にとても励まされた。
僕は少しでも、そんな彼の力になれたのだろうか。
(サラザール・スリザリンの書斎へ連れて行ってくれた彼への借りは、返せただろうか)
書斎の入り口の鍵を開けたとき、彼は少しの戸惑いもなく磔の呪いを引き受けてくれ、そしてそれを恨むこともなかった。
いつでも背を押してくれた彼が、古代魔術を巡る陰謀に巻き込まれていることは知っている。それでも、僕にはその手助けをできない。
彼を導くのは、これまた僕の気に入らない古代魔術の守護者たちだからだ。
もしも、借りを返せたのなら、これ以上巻き込むべきではないのだろう。彼も、オミニスも。
闇の遺物の使用には犠牲が必要だとあった。僕は、彼ら二人だけはそれに巻き込みたくない。
そこまで考えて、読みかけの本に栞を挟んでから仰向けに寝転んで深呼吸をし、冷え冷えとした夜の空気を吸った。
眠れない夜の、おまじないみたいなものだ。
目を閉じて、瞳の裏に思い起こすのは、最愛の妹の輝く笑顔と苦痛に歪む顔ばかりだった。
18
ブラグボールの残した日記は二冊ある。
一つはランロクが持っている。感情を抜き取る魔法に関わり、誰から依頼を受け、どのような銀をどう精製し、どういうものを作り、それがどのように発動したのか、後世へと知識を繋ぐための至極客観的な記録。
そしてもう一つは、彼自信の記憶だった。誰と会い、どこへ行ったか。何を思い、何を贈ったか。そんな、たわいもない日常が綴られたものだった。
兄に渡すことが無かった日記には、あの古代魔術に関する模様についても記載があった。そのページには、イシドーラが古代魔術に最も適した力を持つルーンの組み合わせを発見し、それをもとにブラグボールがぴったり合う銀を精製したと、愉快そうに書かれていた。
ブラグボールは、どちらの日記にも、イシドーラ・モーガナーク以外の魔女や魔法使いの名前を書き残していが、彼らとはとても友好的だったとは言えなさそうだった。
『何を納めるか教えてくれたのは、イシドーラだけだ』
『彼女は特別な力を持っている。人々を救うといった。彼女なら、ゴブリンも救ってくれるだろうか』
『名工として誇れる出来栄えだ。ルックウッド城の地下にあるものよりも、ホグワーツ城の地下にあるものの方が美しい』
ルックウッド城の地下でも、ホグワーツ城の地下でも、イシドーラ・モーガナークとブラグボールだけで保管所の造成を実行できたわけがない。だからこそランロクは、他の守護者の名前にまつわる場所に残された力がないか探し続けている。
私の持つブラグボールの日記は、こう締めくくられていた。
『彼女が死んだ。おそらく殺された。奴らは言った、彼女が行っていたことは秘密にしなければならないと。ポートキーを守る箱を作ってくれと。いけしゃあしゃあと。彼女の家に行った。肖像画が燃やされていた。もう二度と会えない。誰が燃やしたのか。ああ、彼女が行っていたことが、無かったことにされてしまう。そうだ、代わりに俺が記録を残さなければ。誰が悪かったのかは、今はきっとわからない。後の奴が考えればいい。ゴブリンの知識としての客観的な記録は子孫に残そう。造ったあれはもう、我々の手に取り返せないだろうから。しかし、この日記は、私達の記憶は、その時が来るまで隠すのだ。一体どこに隠す?――奴らが、箱を隠す場所に』
※ペストの記述はデフォーを参考にしています