イシドーラには、もうこれ以上力を使ってはならないと言いきかせた。
分かってくれると思っていた。あんなに素晴らしい魔法が使える魔女なのだ。
責任感があり、人を思いやることが出来る優しい子だ。
サンは、イシドーラの治療した患者のその後の経過を追っていた。
「何かが、おかしい。聞いている話と違う」そう言って彼は、イシドーラと話をしに行った。
私は嫌な予感がした。ニーフが以前言っていたこと思い出す。――イシドーラは止まっていないかもしれない。
そんなはずはない、約束したのだから。そう思うが、イシドーラの授業の後、カウンセリングを受ける生徒は増えていた。
闇の魔術に対する防衛術という科目では、その授業の中でトラウマを受けることもある。だから、カウンセリング自体はおかしくないが、彼女の生徒達はカウンセリングの後、明らかに雰囲気が変わるのだと聞いた。
廊下を歩く一人の女子生徒に声をかける。イシドーラに心酔していると言ってもいい生徒だ。
ああどうか違ってくれと、すがる思いだった。
――けれども、私の願いは、あっけなく裏切られる。
26
新学期が始まると、なぜかアミットは余所余所しくなった。
何か悪いことをしただろうかと考えるが、思いつくものはない。
僕より長い付き合いのエバレットに、アミットの様子が変じゃないかと尋ねるが、ピンとこないようだった。
「もともと君たち、それぐらいの距離感だったじゃない」
「そうだっけ?」
そんなことを言われても、よくわからない。
敵をばったばったとなぎ倒す大冒険ではなかったかもしれないが、夏休みの間、あんなにたくさんの鉱山と星見台と遺跡を一緒に回ったのだ。僕の中では、休暇の前よりずっと距離は縮まったつもりだった。
考えながら癖でコロコロと杖を手の中で転がしていて、ふとその柄に目が留まった。
「やあ。ねえ、アミット。今度の週末また出かけない?」
「いいけど。どこに?遠くなら許可をもらわなくちゃ」
「コロウ遺跡だから、たぶん日帰りできるよ」
図書館か天文学の塔か。午後の授業が終わった後、高いの塔の方にかけてみた僕の予想通り、アミットは天文学の教室にいた。
夏休みに観測した星見台の資料を整理しているようだ。時間ごとに僕たちが記録したものと、過去の文献を照らし合わせている。周りで数人の生徒が話しながら、課題に使うのだろう資料を本棚で探しているが、アミットは少しも気に留めずに作業に没頭していた。
(そう言えば、新しい羊皮紙はいい匂いがするって言ってたの、アミットだったな)
綺麗な字が書き込まれていく羊皮紙は、やはり僕の持ち物よりちょっと高そうだと、明るい室内でその手元を見て思う。
ちょうどよく一枚書き上げたアミットに声をかけると、彼はきょとんとして首を傾げた。
「コロウ遺跡って、アデレードの叔父さんが閉じ込められていたところでしょ?まだゴブリン達が撤退していないかもしれないし、危ないんじゃないかな」
「ちゃんと僕が守るよ」
「急ぎの用なの?」
アミットの返事に、そうじゃないけど……と困ってしまう。
星が好き。歴史が好き。ゴブリンに興味がある。多分工学的なものも好き。僕には、それぐらいしかアミットの関心を引けるものが分からないのだ。
近場で、遺跡でって考えたら、ちょうどいいかなと思ったんだけど、言われてみれば確かにピクニックで行くところではない。
誘って断られるなんて正直思ってもみなかったから、言い淀んでしまう僕にアミットは苦笑した。
「ごめん。悪いけど僕はセバスチャンじゃないから、危ないところには向いてないんだ。変わりにはなれない」
「そんなこと……」
思ってないよ。そう言おうとして思わず言葉を飲み込んだ。
アミットが羽ペンを置いて、大きな目でじっとこちらを見ている。
(確かに、ロドゴクのことを最初に僕が相談したのは、セバスチャンだった……)
彼なら理解してくれると思って。そして、何でも知ってる彼なら、もしかしてゴブリディグック語だってわかるんじゃないかと思っていた。
でも、ゴブリンに対するセバスチャンの拒否反応は、僕が想像する以上に激しかった。
だから、ロドゴクにゴブリディグック語を話せるものを連れて来いと言われて困った。結局、アミットにあの時僕は何も伝えず、騙すように連れて行った。
(それでも、アミットは、笑って許してくれたんだ)
駄目だ、何か言わなければ。
また彼に微笑ませてしまう。許させてしまう。
そう思うのに。
このひと夏ですら、僕はアミットとセバスチャンとを比べていたのだという事実に気づいてぐるぐると混乱する頭は、うまく言葉を探せないままだった。
27
うわあ、衝撃を受けてるなあと、真っ青になった彼の顔を見て困ってしまった。
別に僕は気にしてないよといつもなら言うところだ。
一線引かれてるとか、話の途中で苦笑いされるとか、僕は慣れているのだから。
でも、彼は何か言おうと一生懸命考えてくれていた。
だから僕も、少し期待してしまう。
(違うよ、なんて言葉を。――たとえ嘘でも)
彼との冒険は驚くほど刺激的で楽しかった。今日だって、また誘ってくれようとして嬉しかった。でも、このままでいいとは思えなかった。
不毛な期待。どちらの答えでも、きっと傷つくのに。
数十秒の後、意を決したのか、彼の真摯な瞳が僕を捕らえた。
「言われるまで、気づかなくて……ごめん」
「……気にしないで」
彼は、嘘はつかなかった。
僕も、気にしてないよとは言えなかった。
沈黙が下りると、少しいたたまれなくなる。
この空気はどうしたらいいのかなと、感情をぶつけ合う経験の少ない僕は、ショックから立ち直れないまま、ぼんやりと置いた羽ペンを取ろうかどうか迷っていた。
ちらりと彼を見て、書き終わった羊皮紙を隣に避ける。
新しい羊皮紙を僕が机に広げると、何故か彼は、何も書かれていないそれをパッと手に取った。
「アミットが言うとおりだ。コロウ遺跡に誘ったのは、ゴブリンがいても大丈夫って、セバスチャンを誘った時のつもりだった」
「うん」
それは今日だけじゃない。そもそも僕は決闘が得意じゃないけど、クラグクロフトの旅でも、彼は平気で僕を連れて無法者の野営地に飛び込んでいた。
その杖の動きをまねて魔法は上手くなった。彼の動きに合わせた柔軟な呪文の選択もできるようになった。寮監である防衛術の教授は、一気に上達した僕の魔法の腕を褒めながら、彼女が目をかけていた生徒を咎めるときと同じように心配した。
彼の杖の動きをまねたはずなのに、結局僕が近づいたのはセバスチャン・サロウだ。
数秒降りた沈黙を破ったのは、彼だった。
「――それでもね、アミット」
彼がこちらを見る。何だろうと首を傾げると、羊皮紙を僕に返しながら言った。
「僕から冒険に誘ったのは、君だけだったんだよ」
それが成り行きだったとしても。
「あの時、力を貸してほしいと頼んで助けてくれたのは、セバスチャンじゃなくて君だった」
そのまっすぐな言葉に、僕は差し出された羊皮紙を受け取りながら止まってしまう。
「だから」と、彼は言葉切り、短く息を吸って眉を下げた。
困ったように、それでも親しみのこもった表情を浮かべた彼から、目が離せなかった。
「ねえ、アミット。週末に、一緒にホグズミードへ、羊皮紙を買いに行かない?」
ずっと振り返って欲しかった笑顔が、僕を見ていた。
28
外を見ようと、気づけば俯いてしまう首を無理やり上げた。
照明のない牢獄は、朝でも夜でも薄暗く、時間の感覚がなくなってしまう。
真っ暗闇が訪れたりはしない。いつだって小さな窓の向こうは灰色の空だった。
どの季節も肌寒い程度の温度しか感じさせないこの場所は、降る雪も降る雨も、不思議と黒く見えた。まるで悪戯に絵の具を混ぜたような、ベトリとした黒い色がちらつき溜まっていく。
ただ時々、そんな雨の中を、この世の光を思い出させるように青白く雷鳴が轟いた。
アンに会いたいということと。
ゴブリンを許せないということと。
何より、何でもいいからここから出たいというということしか、もう僕には残っていなかった。
自分の独房の隣も向かいも初めから狂っていた。いくつか離れたところでは、僕より後に収監されたアッシュワインダーズが喚いている声が聞こえる。毎日、毎日。もしかしたら既にそれは僕の幻聴かもしれない。
ああ。あんな者達と同列なのか。そう考えると、心が憎しみで燃えるように熱くなった。
僕も、もうだいぶ狂っている。
喚き声以外にも、聞こえないものが聞こえ、見えないものが見えるようになった。
背を丸めて蹲ると、まるで頭上からたくさんの知人に侮蔑の目で見降ろされているような視線を感じ、両手で塞いだ耳の奥では心臓の鼓動の代わりに、僕を責めるアンの声がこだました。
無駄な、空虚な、何も起こらず、何も出来ず、それでも決して日常なんてものではなく、ただ失い続ける時間。
強く目を閉じると、「セバスチャン」と今度は隣から、酷く優しく声をかける幻聴が響いて、びくりと背が跳ねた。
「なんで隣に来るんだよ」
「心配なんだ」
「今更だろう」
「そんなことはない、いつも心配している」
堪らなかった。罵ってくれた方がまだよかった。耐えられなくても慣れるから。憎めるから。
僕の隣にいる気配がするのに、触れることは絶対にできない。
落ち着くように息を吐きだし瞳を開けば、当然目の前には独房の不衛生なひび割れた石の床があった。
また稲妻が走る。今度は音もなく光だけが明滅した。灰色の床は白く照らされ、伸びた影は僕のもの一つだけだった。当たり前だ。
「お前を守りたいだけだよ」
「叔父さん……」
僕の隣で語りかけるソロモン叔父さんは、僕自身が殺したのだから。
(永遠に寄り添うつもりなのだろうか。やめてくれ。僕の罪。ああ、取り返しのつかない)
恐る恐る顔を上れば、影のない叔父さんは最後に見た姿のまま、けれど愛を宿した瞳で僕を見つめていた。
29
昨年のOWLの試験結果は上々だった。
今年の期末テストに向けても、かなり入念に準備している。
今までは足りない知識が多すぎて、満遍なく全ての教科を詰め込んできたが、来学期にはどのような道に進むか決め、授業を専攻しなければいけない。
古代魔術の力を守るためにも、闇祓いを目指してはどうかと打診を受けた。
研究熱心で向上心が強いから、他の魔法省職員も向いているだろうと言われた。
多種族に対する偏見が少なくフットワークも軽いから、グリンゴッツの呪い破りも悪くはないそうだ。
変身術の教室に呼び出された僕は、ウィーズリー先生に首を振ってどれも否定した。
まだ確認できていない古代魔術の痕跡がたくさん残っている。僕がすべきはその探求が第一で、これは使命だった。
そして何より、やると決めていたことがあった。
「どうしても治したい人がいるので、癒者を目指そうと思います」
僕の特別な力でアンを救ってあげると、セバスチャンと約束した。いつでも約束を守ってくれた彼に、僕も精一杯応えたい。例え一生をかけても。
専攻するための成績は何とか足りるだろう。僕はこれからも、もっともっと努力する。
恐らく結果の伴わない道だと、内情を知っているウィーズリー先生は諭すように告げたが、止めることはなかった。
「やあ。進みたい方には進めそうかい?」
「やあ、アミット。うん、勉強をたくさん教えてくれて、本当にありがとう」
変身術の中庭のベンチに座り、緊張の糸が切れてぼんやりと空の雲を眺めていると、僕の後に呼び出されていたのだろうアミットが声をかけてきた。
春を前にしてまだ空気はひんやりとしており、ツンと鼻の奥が痛むが、日差しは幾分柔らかくなった。
隣に座ったアミットは、いつも通りゆったりとしている。
この一年、基礎的なことから改めて勉強を教えてくれたのは、アミットだった。
「アミットは?」
「両親の仕事を手伝うよ。でも、なりたいものは歴史学者だ。それはずっと心に留めておく。まずは世界を見て回る、できるだけ広く、深くね」
「世界はこれからどんどんきな臭くなるよ」
「あはは。君に随分教えてもらったよ。僕の想像なんかよりずっと危険がいっぱいだろうって。でも、どんなことでも書き残したいんだ」
書き記した記録が世界に波紋を残すこともある。
それでも、取り上げられることのない微かな人々の思いを、側面を伝えることもある。
物事を俯瞰して見ることが出来るアミットだからこそ、気付き残せるものが沢山あるだろう。
「僕のことも書いてくれるって?」
「もちろん。君のことも、きっと、イシドーラ・モーガナークのことも」
アミットの目には、イシドーラはどのように映っているのだろうか。
彼の瞳はいつだって、誰よりもキラキラして見えた。
(それはきっと、僕とは全く違って……)
僕は、いつか彼が記すだろう歴史書を読ませてもらうことが、今からとても楽しみだった。